機械仕掛けのカンパネラ

第17話 片思い

「脱走……?!」
 俊輔と言い合いになってから数日後の夜。
 別件で警察庁を訪れていた拓海は、上司の楠から例の男が脱走したという話を聞き、大きく息を飲んだ。まず頭をよぎったのは俊輔のことだ。嫌な予感にドクドクと鼓動が速くなるのを感じる。
「監視役はどうしたんですか」
「監視役二名と警備役三名はみな気絶させられていた。不意を衝かれて声も上げられなかったらしい。相当な手練れだな、あの男は。おかげで脱走に気付くのが遅れてしまった。いま捜索のために招集をかけているところだ」
 楠は執務机で手を組み合わせながら、淡々と答えた。
 拓海も常に冷静でいられるよう心がけてはいるものの、なかなか彼のようにはいかない。現にさきほどから心臓が早鐘のように打ち続けており、じわじわと嫌な汗までにじんできた。
「鍵やセキュリティは?」
「牢の鍵は壊されることなく開けられていた。各種セキュリティはなぜか切られていた。牢の監視カメラは今日の夕方に故障していた。いずれもあの男ひとりではできないことだ。内部に協力者がいたとしか考えられない」
 俊輔にここまでできるだろうか。
 そんな疑問が頭をもたげたものの、必要な情報さえ得られればそう難しくないかもしれない。持ち前の人なつこさで他の職員とも親しくなっていたので、警備について聞き出すことも可能なはずだ。
 本来ならこのような背信行為に及ぶ人間ではないが、浅はかにもこれが正義だと思い込んでいるのなら、そして事の重大さを正しく理解していないのなら、実行することも十分にありうる。
「心当たりがあるのだな?」
「……確信はありませんが」
 そうごまかしたものの、楠にはその心当たりが何なのか見当がついているのだろう。いつも拓海の思考など簡単に見透かしてしまうのだ。だからこそ、もはやこの事案から目をそむけるわけにはいかない。
「私に任せてもらえませんか」
「いいだろう」
 楠は隙のないまなざしで見つめ返した。
「いまさら言わずともわかっているだろうが、この事案は、国家に対する反逆行為と見なされる。たとえ誰であろうと決して許されない。誰であろうとな……君は、私を失望させるなよ」
 それは忠告であり、警告だ。
 わかってはいたが、もう逃げ道がないのだとあらためて思い知らされた。背筋が凍りつくのを感じる。それでも表情を動かすことなく丁寧に一礼すると、無言で執務室をあとにした。

「その件なら聞いたよ」
 俊輔の部屋を訪れ、例の男が脱走したことを告げると、彼は顔色も変えずに平然とそう応じた。いつものようにスリッパを出して拓海を招き入れ、リビングに向かいながら話を続ける。
「一時間ほどまえに電話が来てさ、彼が脱走したから緊急招集って言われたけど、七海をひとりにできないから断ったんだ。それで疑われたのか、すこし前に職員がふたり来てこの部屋を調べていったよ。もちろん誰も匿ってなんかいないけどね」
 彼は饒舌だった。
 おかげでおおよその状況は把握できた。公安は彼だけでなく関係者全員を調べているはずだ。階下にある拓海の部屋もすでに調べられているだろう。脱走した男を確保することが最優先なので、まずは匿っていないかだけを確認したのだ。犯人捜しはおそらく一段落してからになる。そうなれば——。
「ビール飲む?」
「いや、仕事中だ」
 勧められたダイニングテーブルには向かわずに、リビングの中央で足を止めた。そしてゆっくりと体ごと振り向いて、こころなしか表情を硬くした俊輔に、真剣なまなざしを送る。
「おまえが、脱走に手を貸したのか?」
「……だったらどうする?」
 彼はぎこちない微笑を浮かべた。
 瞬間、全身の血が一気に逆流したように感じた。何の相談もなしにこんなことをしでかしたあげく、まるで敵対するように挑発的な態度を取るなんて。俺はおまえの親友じゃなかったのか——。
「アンソニーは世間に公表できない存在なんだろう? だとすれば、僕を逮捕して裁判に掛けるわけにはいかない。せいぜいひっそりとクビにするのが関の山じゃないか?」
「おまえは、何もわかっていない」
 静かに握ったこぶしが震える。
 一般常識の通用しない世界であることは理解していても、実情は知らなかったのだろう。それゆえ見立ては甘い。失職という重大な覚悟を決めたつもりかもしれないが、その程度ではすまないのだ。

 ——彼を解放してあげたいんだ。拓海から頼めない?
 そう持ちかけられた数日前のことが頭をよぎる。いま思えば、あのときにはすでに脱走計画を立てていたのだろう。それでも実行するにはためらいがあり、どうにか回避したくて別の方法にすがってみたのではないか。
 それに気付いてさえいれば、思いとどまらせることは難しくなかったはずだ。裏切り者の末路がどうなるかを教えるだけでいい。信念があったとしても命まで懸けられはしない。彼には幼い娘がいるのだから。
 あのとき、どうしてもっと真剣に彼と向き合わなかったのだろう。どうして議論を尽くさず曖昧なまま放置していたのだろう。おかげで気付けたはずの機会をみすみす逃してしまった。いまとなっては後悔するよりほかにない。

 正面の俊輔は、反抗的なまなざしで拓海を見据えている。
 もはや親友とは思われていないのかもしれない。アンソニーの方が大事なのかもしれない。それどころか敵と見なされているのかもしれない。それでも拓海にとってはただひとりの親友なのだ。
 無表情のまま、俊輔から目をそらすことなく静かに距離を詰める。そして自分と背丈の変わらない身体を左手で抱き寄せると、その肩に顎をのせてもたれかかった。衣服越しに彼のほのかな体温を感じて吐息を落とす。
「拓海?」
 俊輔の声はあきらかに戸惑っていた。
 当然だろう。こんなふうに抱き合うことなんて一度もなかったのだから。それどころかふざけてじゃれ合うようなことさえなかった。せいぜい何かの拍子にぶつかったり触れたりするくらいだ。
 ドクドクドクドク——心臓がいまにも破裂しそうなくらい激しく暴れている。意識的にゆっくりと呼吸をしても鎮まる気配がない。彼にもこの激しい動悸が伝わっているかもしれない。
「どうしたんだ、気分でも悪いのか?」
「もうすこしこのままでいさせてくれ」
「いいけど……」
 自分の右手がかすかに震えているのがわかる。それでも引き下がるわけにはいかない。袖に忍ばせたナイフをひそかに手に取ると、そっと狙いを定めて奥歯を食いしばり——力いっぱい振り下ろす。
「っ……ぐぁ……」
 首筋に突き立てたナイフから、肉と骨の生々しい感触が伝わってきた。確実に動脈を切るようにグッと前後に動かし、一気に引き抜く。傷口から生温かい鮮血がドクドクとあふれ出した。
 言葉にならない苦しげな呻き声は次第に弱まっていく。それとともに体からも徐々に力が抜けていくのがわかり、抱く手に力をこめる。二人の足元にはみるみる血溜まりが広がっていった。
 やがてだらりと動かなくなった彼をそこに横たえると、瞼を閉じさせた。その手で頬に触れる。もうすっかり血の気が失せているようで白く見えるが、まだほんのりとぬくもりが感じられた。
 俺は、おまえが好きだった——。
 融けそうなほど目が熱くなり視界が歪む。やがてこらえきれずにあふれた涙が頬を伝い、俊輔の目元にぽたりと落ちる。しかし、彼はもうピクリとも動かなくなっていた。