「げっ」
校門を出た瞬間、七海は思わず変な声を上げた。
まばゆいくらいの白い陽射しの下、歩道に横付けされた深紅のスポーツセダンに遥が寄りかかっていた。白シャツに紺パンツというシンプルな格好でありながら、スタイルがいいからか腹立たしいほど様になっている。まるで車の広告みたいに。
当然のように、帰宅途中の生徒たちがチラチラと目を向けている。中には頬を染めて色めき立つ女子グループもいるが、気に留める様子はない。注目を集めることには慣れきっているのだ。
「二階堂、悪いけどここで」
「先約ってあの人なのか?」
「……まあね」
二階堂は中学のときのクラスメイトだ。同じ中学出身者は二人だけということもあり、高校に進学してクラスが分かれた今でも仲良くしている。遥のことは中学の三者面談や卒業式などで見ているはずだ。いつだったか、父でも兄でもなく居候先の息子だと話した記憶もある。
じゃ、と軽く片手を上げると、物言いたげな顔をしている二階堂を残して、短いポニーテールを揺らしながら駆けていく。遥はこちらに視線を流してうっすらと笑みを浮かべていた。また何かおかしなことを考えているのかもしれない。七海は眉をひそめて口をとがらせる。
「迎えに来なくていいって言ったじゃん」
「このほうが時間の節約になるだろう?」
今日は七海の十六歳の誕生日で、ちょうど期末試験の最終日ということもあり、一緒にお昼を食べようという話になっていた。ただ、学校まで迎えに行くという申し出は断固拒否した。遥がいるだけでやたらと目立つから嫌なのだ。なのに——嫌がらせのように校門の前で待っているなんて。
「せめて車の中で待っててくれよな」
「さっきの彼、二階堂君だっけ」
「……同中の同級生ってだけだよ」
「向こうはそうでもなさそうだけどね」
遥の視線をたどると、校門前で立ちつくしたままの二階堂が、微妙な面持ちでこちらを見ていた。目が合うと、きまり悪そうにそそくさと立ち去っていく。野球部のがっちりしている背中がやけに縮こまって見えた。
遥の推測は正しい。
実際に中学生のときに一度告白されているのだ。そのとき付き合えないとはっきり断ったが、彼がまだあきらめていないことは何となく感じていた。あきらめたくてもあきらめられない気持ちはよくわかるので、無下にもできない。
「牽制が必要かな」
「ぎゃっ!」
遥が甘ったるい笑みを浮かべて手を伸ばしてきたので、七海はあわてて後ろに飛び退いた。
遠巻きに見ていた生徒たちは、不思議そうな顔をしたり囁き合ったりしている。その中には同じクラスの女子もいるので、下手すればあっというまにおかしな噂が広まりかねない。
中学のときみたいに騒がれるのは勘弁してほしいのに。恨めしげに遥を睨むが、こんなところで抗議をしては余計に目立ってしまう。グッとこらえて無言で車の助手席に乗り込んだ。
「変な噂を立てられたらお互い困るだろ。軽率なことすんなよ」
車内で二人になると、腹立ちまぎれに乱暴な手つきでシートベルトを締めながら文句を言う。
彼の左手薬指には何年も前から指輪がはめられている。女が寄ってくるのが面倒で、牽制のために幼なじみの男友達とペアリングをしているのだ。同性愛者ではないかと取り沙汰されるのも計算の上で。
その状況で七海と噂になればまずいことくらいわかるだろう。ペアリングがただの牽制でしかないと露見するかもしれない。あるいは二股をかけるクズ野郎だと誤解されるかもしれない。
七海としても平穏な高校生活を送りたいので目立つことは避けたい。ただでさえ橘財閥会長の里子ということで注目されているのに、そこの御曹司と噂になれば騒がれることは間違いない。
「なあ、わかってんのか?」
「確かにすこし先走ったな」
遥は曖昧な笑みを浮かべてシンプルな指輪に目を落とす。しかしすぐに気を取り直したように顔を上げると、シートベルトを締め、エンジンを掛けてゆっくりと車を走らせ始めた。
「今日の試験はどうだった?」
ふいに振られたその話題に、七海は思わず苦虫を噛み潰したような顔になった。ズタボロとまではいかないが、頭を抱えたくなるような出来である。遥はハンドルを握ったままこちらを一瞥し、くすりと笑う。
「まあ、今度頑張ればいいよ」
「誰のせいだと思ってんだよ」
「そうだね、ごめん」
ホントに悪いと思ってんのかな——軽く笑いながら謝罪した彼にじとりと視線を流す。自分としては真面目に勉強するつもりでいたのだが、彼に邪魔をされたのだ。試験期間に部屋に来るなんてこれまでなかったのに。
「ねえ、きのう言ってたアレさ、やっぱ冗談だよね?」
「本気だよ」
ちょうど赤信号で止まると、足下の鞄から取り出した白い紙を手渡してきた。二つ折りになっており外側には何も書かれていない。何だろうと怪訝に思いながらぺらりと開くと——。
「婚姻届?! なんで、無理って言ったじゃん!」
「気が変わったらすぐ出せるようにね」
きのうはすぐにうやむやになってしまったので、冗談か思いつきで口にしただけではないかと思ったが、ここまで用意しているなら本当に本気かもしれない。七海はすうっと血の気が引くのを感じた。
「ちょっと待って、僕、まだ高校生だよ?!」
「結婚しても高校に通えるから安心していい」
「そうじゃなくて!」
もちろん高校のことも大事ではあるが、それ以前の問題だ。
「まだ、そんな……考えられないよ」
結婚なんて意識したこともなかったのに、急にそんな話をされても戸惑うばかりで、どうすればいいのかわからない。白紙の婚姻届を胸元に押しつけるようにして突き返す。
遥は苦笑を浮かべながらも素直に引き取り、元の場所に戻した。
「もしかして、まだ武蔵を待ってる?」
「……武蔵は関係ない」
七海はふいと視線をそらした。
多分、武蔵が初恋だった——当時はまだ幼すぎて自覚していなかったが、離ればなれになってから気が付いた。そのことは遥も承知している。そしていまだに気持ちを残していることも、わざわざ告げてはいないが察しているはずだ。
だからといって武蔵が戻ってくることなど期待してない。そう決めている。もし戻ってきたところで、以前のように一緒に暮らすことはできないし、異性として好きになってもらえるとも思えない。
そもそも、七海を引き受けてくれたのも贖罪でしかないのだろう。本音では早く解放されたいと思っていたかもしれない。もし好きな人がいても、七海の面倒を見ていては会うことすらままならないのだ。
溜息をつき、ゆっくりと流れ始めた街の景色を眺めつつ目を細める。
当時、武蔵に好きな人がいたかどうかは知らない。遥なら知っているかもしれないが尋ねる勇気はない。当時はいなくても、故郷に帰ってから恋人ができたかもしれないし、もしかしたら結婚しているかもしれない。
こんなこと考えても仕方ないのに——。
苦しいくらい胸がざわつくのを感じながら、あえて意識しないようにして平静を装う。それでも遥には簡単に見透かされてしまいそうで、駐車場に着くまでずっと窓のほうに顔を向けていた。
「おいしい!」
一口食べるなり、七海は目を丸くして感嘆の声を上げた。
先ほどまでの澱んだ気分が一気に吹き飛んでしまう。我ながら単純だという自覚はおおいにあるし、向かいで笑う遥もそう思っているのだろうが、実際おいしい食事で幸せになれるのだから仕方がない。
今日、遥が連れてきてくれたのはひつまぶしのお店である。いつだったか雑誌の特集を興味津々に見ていたことを覚えていたらしい。忙しいはずなのに何かと気をきかせてくれるのだ。
説明された食べ方に従い、一膳目はそのままで、二膳目は薬味を加え、三膳目はお茶漬けにしていただく。どれもおいしかったが、さくっふわっとしたうなぎの食感、薬味で引き立てられた味わい、その両方が楽しめる二膳目が特に気に入った。
「遥もひつまぶし初めてだよね。どうだった?」
「おいしかったよ。うなぎの焼き加減と味付けが絶妙で食感もいいし、ごはんもふっくらしていてつやと甘みがあるし、お茶漬けのだしも上品でよく合う。うな重と違って変化が楽しめるのもいい」
そう言うと、遥はきれいな所作でお茶を飲んだ。
食べている様子からして、気に入っているのだろうとは思っていたが、予想以上の高評価を聞けてほっとする。せっかく一緒に来たのだから、七海だけでなく彼にも楽しんでもらいたかったのだ。
「いいお店でよかったね」
「ここのひつまぶしは本場の味らしいよ」
「お店によってそんなに違いがあるの?」
「焼き方やたれに特徴があるみたいだね」
「他の店のもおいしいのかなぁ」
「気になるなら、今度どこか行ってみようか」
「うん!」
短いポニーテールをはずませる七海を見て、遥は淡い微笑を浮かべた。再びゆったりとお茶を口に運んで一息つく。
「僕も料理を始めてみようかな」
「え、急にどうしたの?」
「七海を餌付けしようと思って」
「そんな人をペットみたいに……」
「餌付けは野生動物にするんだよ」
「悪かったな、野生で」
七海がむうっと頬を膨らませると、彼は声を上げて笑った。
その表情がふいに武蔵と重なりドキリとする。顔の系統は似ていてもそっくりというほどではないのだが、笑ったときや眉を寄せているときの表情を見ていると、つい武蔵が思い浮かんでしまうのだ。
重症だなぁ。
こんなことを遥に知られるわけにはいかない。彼に失礼だということも十分承知している。それなのにいつまでも武蔵への執着を捨てられない自分に、心の中でひそかに嘆息するしかなかった。
昼食後は、二人で街中をあてもなくぶらぶらと歩いた。
遥はたいてい次の目的地を決めてから行動するため、こういうことはめずらしい。目についた雑貨屋さんを見てまわったり、通りがかりの喫茶店でパフェを食べたり、デパートの地下でケーキを眺めたりする。
途中で欲しいものがあれば買ってあげると言われたが、遠慮した。誕生日プレゼントは家に用意してあると聞いていたし、毎月お小遣いももらっているので、そこまで甘えるわけにはいかない。
ただ、その誕生日プレゼントが何なのか気になって聞き出そうとしたが、なかなかガードが堅くてヒントさえもらえなかった。もったいつけられるとなおさら期待してしまうのに——。
ファッションビルを出ると、空の一部が鮮やかな茜色に染まっていた。
そのときふと隣からバイブの振動音が聞こえてきた。遥は後ろのポケットから携帯電話を取り出して画面に目を落とすと、何事もなかったかのように戻す。しかしながらまだ振動は続いているようだ。
「ケータイ、出なくていいの?」
「馬に蹴られて死ねばいい」
まるで呪詛を吐くかのごとく言うので吹き出した。
いつもは七海と一緒にいてもかかってきた電話には出ているので、遠慮しているわけではないだろう。出たくないほど嫌な相手か、どうでもいい話か、そんなところではないかと思う。
「でも、そろそろ帰る時間だよ」
ビル群を彩る茜色の夕焼けを眺めてそう言うが、返事はなかった。代わりにそっと包み込むように手を握られる。一瞬ギョッとして振り向いたものの、気のせいか物寂しげに見えて振り払えなかった。
「やっぱり帰したくないな」
「帰るの一緒の家じゃん」
「どこか泊まっていこうか」
「あした学校あるんだけど」
「……仕方ないか」
そう言うと、七海の手を引いて歩き出す。
どうしたんだろう——今日は、というかきのうから遥の様子がおかしい。試験前日に七海の部屋へ来たり、婚姻届持参で結婚を迫ったり、帰したくないなどと言ったり、いままでになかったことばかりだ。
戸惑うくらい固く手をつながれたまま歩きつつ、ちらりと隣を見るが、その横顔からは何も窺い知ることができなかった。ただ、彼にしてはめずらしく手のひらがすこし汗ばんでいた。
駐車場から車を出すときには、もう夜の帷が降りていた。
気のせいか車内の空気がやけに重苦しく感じる。遥は真顔で運転していて、何となく話しかけられる雰囲気ではなかった。
「着いたよ」
遥は橘の敷地内で車のエンジンを止めると、助手席に振り向いて言う。
そのとき、またしても携帯電話の震える音が聞こえた。彼はシートベルトを外してポケットから取り出し、画面を一瞥してあからさまに嫌な顔をしたが、今度は無視しなかった。親指で通話ボタンを押して耳に当てる。
「はい……うるさいな、こっちにだって都合があるんだから……それが人にものを頼む態度? 逃げたりしないから黙って待ってろ……そう、だからおとなしくそこにいればいい……じゃあね」
彼らしくない感情的な物言いだった。怒鳴ったり叫んだりしているわけではないが、その語調からむきだしの苛立ちが伝わってくる。唖然としていると、彼は乱暴な手つきで携帯電話を戻し、ハンドルに突っ伏して深く溜息をついた。
「逃げ回っていても仕方ないからね」
そう自らに言い聞かせるようにつぶやき、顔を上げる。
「七海、目を閉じて」
「なんで?」
「サプライズだから」
怪訝に思いながらもしぶしぶ目を閉じると、上から布のようなものを巻かれて後頭部で結ばれた。外そうと思えば簡単に外せそうではあるが、ただの目隠しのようなのでそのままおとなしくしていた。
彼の大きな両手がそっと七海の頬を包み込み、何かがこつんと額に当たる。彼が額を合わせてきたのかもしれない。そう思ったとき、すぐ近くでかすかな息遣いを感じて確信した。
「本当は行かせたくない。でも僕の一存でそうする権利はないし、七海のためには行かせるしかない。このままじゃ、きっといつまでも七海の気持ちは宙ぶらりんだ。七海が自分自身でけじめをつけないといけない。たとえ君がどんな結論を出したとしても、僕は君の味方でいる」
「……何の話?」
混乱して尋ねるが答えは返ってこなかった。その代わり、あたたかくやわらかい何かがかすかに唇に触れた。一瞬のことだったので確信は持てないが、おそらく遥の唇ではないかと思う。
「あのさ」
「行こう」
助手席側の扉が開き、目隠しのまま軽々と横抱きにされる。
遥のことはそれなりに信頼しているつもりだ。しかしながら何もわからないまま目隠しをされたあげく、思わせぶりなことばかり言われては、どうしても不安を感じずにはいられなかった。
「下ろすよ」
屋敷内の廊下と思われるところでそっと足から下ろされて、すこしよろけながらも地面に立った。そのときは手を掴んでくれていたが、すぐにドアノブと思われるところへ誘導されてしまう。
「遥……えっと、これどうすればいいの?」
「扉を開けて中に入って、目隠しを外して」
「わかった」
プレゼントが用意されているのだろうか、あるいはパーティが始まるのだろうか。サプライズという言葉からすると他に考えられない。ただ、そうであれば行かせたくないなんて言うはずがない。
考えていても仕方がないので、言われたとおり扉を開けてそろりと足を進めた。この屋敷にはもう三年半ほど住んでいて、同じ形状のドアノブを頻繁に触っているので、視界が遮られていても開閉くらい簡単にできる。
中はひっそりとしていた。
目隠しをしていても廊下より暗いことは何となくわかる。頬にはすこしひんやりとした空気がかすめた。誰もいないのではないかと不安になりながら、目隠しを強引に頭から抜き取って目を開けた。
電灯はすべて消されていたが、正面の大きな窓にはカーテンが引かれておらず、ガラス越しの月明かりがあたりを照らしていた。その淡い光に浮かび上がるのは、肩幅の広い体躯、煌びやかな金髪、鮮やかな青の瞳の——。
「七海なのか?」
「うそ……」
目を丸くしてこちらを見ているのは、まぎれもなく心の奥底で求め続けた人だった。顔も声も記憶のまますこしも変わらない。見慣れた黒髪ではないものの、初めて見たときと同じ鮮やかな金髪である。
しばらく呆然としたまま無言で見つめ合っていたが、さきに我にかえったのは彼のほうだった。ふっと慈しむように優しく目を細めて言う。
「大きくなったな、見違えた」
「な、んで……」
涙があふれ、止めどなく頬を伝い落ちる。
話したいことはたくさんあるはずなのに、何も言葉にならない。ただいま、と彼が照れくさそうに言うのを見た瞬間、小さな子供のように声を上げて泣きながら、思いきり地面を蹴って彼の胸に飛び込んでいった。