機械仕掛けのカンパネラ

ひとつ屋根の下 - 第2話 二人きりの朝

「七海、もう起きる時間だよ」
 遥はベッドの端に腰掛けてそっと声をかけた。スヤスヤと心地よさそうに眠っていた彼女は、かすかに眉を寄せながらこちらに寝返りを打ち、ぼんやりと半目を開く。
「ん……武蔵……?」
 武蔵というのは、昨日まで一年半ほど七海を預かっていた男である。しかしながらいまはもう遠い故郷に帰ってしまい、ここにはいない。遥は微妙なこころもちになり苦笑を浮かべた。
「寝ぼけてる?」
「……そっか」
 七海はゆるりとあたりを見まわして現状を思い出したようだ。枕元の目覚まし時計に眠そうな目を向ける。目覚ましは七時にセットされていたが、いまは六時すぎである。
「早いね」
「朝練するから六時起きって言ったでしょ」
「あ……ごめん、いままで七時だったから」
 彼女は目をこすりながらもぞりと体を起こした。まだぼうっとしていて半分寝ているようだ。髪もあちこち寝癖でぴょんぴょんはねていて、いかにも寝起きといった風情である。
 遥はくすりと笑い、クローゼットから取ってきたジャージを差し出した。
「これに着替えて」
「うん……」
 七海はうつらうつらしたまま、おぼつかない手つきで着ていたパジャマのボタンを外し始めた。

「ふわぁ」
 ジャージに着替えた七海は、遥と並んで廊下を歩きながら盛大に欠伸をした。目尻には涙がにじんでいる。冷たい水で顔を洗ったはずだが、それでも完全には目が覚めていないようだ。
「眠れなかった?」
「ん……寝たけど眠い」
「疲れてたんだね」
 それまで暮らしていた人と別れたり、新しい家に連れてこられたりと、きのうは精神的に疲弊する出来事が多かった。早起きさせるのは酷だったかもしれない。今日は案内くらいにしておこうかと考える。
「……あのさ」
 七海はうつむき加減でちらりとこちらに視線を流し、ためらいがちに切り出した。
「遥って、いつもメルと寝てるのか?」
「いつもじゃないけどわりと多いかな」
 メルローズはひとりだと寂しくて寝られないと言って、遥のところへやってくる。昔は一緒にベッドに入って寝かしつけていたが、いまはそこまでしていない。彼女が寝つくまで、勉強や仕事をしながら話し相手になるくらいだ。
「もしかして話し声がうるさかった?」
「うるさいってほどじゃないけど……」
 そんなに騒いでいなかったはずだが、ちょっとしたはしゃぎ声くらいは上げていたように思う。メルローズを引き取ったときは両隣とも空いていたため、まわりの迷惑は気にしていなかった。
「わかった、メルにはなるべく声を抑えるように言っておく。そろそろちゃんと自分の部屋で寝させようと思ってるけど、急には無理だから、もうしばらくはこういう状態が続くかな」
 もともと中学生になるまでにはやめさせるつもりでいた。あと一年とすこしだ。寂しがりで甘えたところがあるので、突き放すのではなく、すこしずつ慣れさせていこうと考えている。
「うるさかったら我慢しないで言いにきて」
「……わかった」
 七海はそう答えつつも、下を向いてひそかに口をとがらせている。
 気持ちはわかるが、彼女の望みばかりを優先するわけにはいかない。ごめんね、と言いながら隣でうつむいている頭にぽんと手をのせる。そのとき小さな耳がほんのすこし上気するのがわかった。

「わあ……!」
 地下へ続く階段を下り、重みのある扉を開けて蛍光灯をつけると、七海が感嘆の声を上げた。さきほどまでの眠気はどこへいったのか、きらきらと顔をかがやかせながら駆け込んでいく。
 そこは数か月前にできたばかりの真新しいジムである。エアロバイクやランニングマシン、トレーニングマシンなどが並び、奥には格闘術の訓練ができるよう広いスペースがとってある。
「テレビで見たスポーツジムみたい!」
「七海はこっち」
 いそいそとトレーニングマシンに跨がろうとしていた彼女を手招きで呼び寄せると、広い訓練場のほうへ向かう。彼女は並んで歩きながら、さきほどのマシンが並んでいるあたりを指さして尋ねた。
「あれは使わないの?」
「子供にはまだ早いから」
「そうなんだ……」
 しょんぼりとするが、素直に聞き入れてくれたようで駄々はこねなかった。
 遥は訓練場の前でポケットから紙を取り出して広げる。何の変哲もないレポート用紙に書いたメモのようなものだ。その内容を確認していると、彼女がひょこりと首を伸ばして覗き込んできた。
「あ、これ僕のトレーニングメニュー?」
「そう、きのう考えてみたんだ。どうかな?」
「うん……これなら余裕だよ」
 筋力トレーニングではなく体力づくりを目指しているので、ランニングや腕立て伏せ、腹筋、背筋などで軽く汗を流す程度にしてある。余力があれば体幹トレーニングを入れてもいいだろう。
 七海からトレーニングをしたいと言ってきただけに意欲は高いが、その分オーバーワークには気をつけなければならない。体が出来上がっていない子供なのでなおさらだ。メニューを作ったのもそのあたりを警戒してのことである。
「腕立てとか腹筋とかこの五倍でもできるよ」
「やりすぎはかえって体に悪いんだ」
「でもいままでそのくらい平気でやってたし」
「メニューは様子を見ながら調整するよ」
「……わかった」
 メニューを作っても守ってくれなければ意味がない。彼女の納得していなさそうな様子からすると、勝手に回数を増やしかねないので、きちんと見守っておく必要があるだろう。
「あとトレーニングとは別に護身術もやろう」
「えっ?」
 これは武蔵に頼まれたことだ。彼は七海に簡単な格闘術を教えていたのだが、筋は悪くないので継続して教えてやってほしいと。遥としてはまず護身術を身に付けさせたいと考えている。
「土日の時間に余裕があるときに教えるから」
「えー……遥に教えてもらうのってなんか怖い」
「まあ、武蔵ほど甘くはないかもね」
 思いきり嫌そうに顔をしかめた七海を見て、遥はくすりと笑う。彼女にはいまだに若干怖がられているようだ。それに関しては身に覚えがあるので仕方がない。実際、指導においては甘やかさないつもりでいる。
「でも、護身術は身に付けておいて損はないよ」
「どうせなら射撃やりたいんだけどなぁ」
 七海は口をとがらせた。
 その瞬間——遥は冷たい手で心臓を鷲掴みにされたかのように感じた。我知らずこぶしを握りしめる。彼女としては何も考えず軽い気持ちで言ったのだろうが、聞き流せるものではない。
「もう人殺しの練習はさせない」
 真剣なまなざしで強く見つめながら、そう告げる。
 彼女は幼いころから復讐のために射撃を教え込まれてきた。犯人を殺すことだけを頭に思い描きながら。だから、勝手かもしれないがもう二度と銃を持たせたくない。たとえ合法であったとしても。
「うん……ごめん……」
 彼女は最初こそ目をぱちくりさせて驚いていたが、すぐに真意を察したらしい。神妙な面持ちで謝罪の言葉を口にする。それを見て、遥はだいぶ頭に血が上っていたことを自覚した。いつのまにか強く握りしめていたこぶしを緩める。
「僕のほうこそきつい言い方をして悪かった」
「うん」
 七海はほっと息をつきながらそう返事をすると、気を取り直したようにエヘヘとはにかみ、軽やかな足取りで訓練場に入っていく。
「じゃあ、ランニング始めるね!」
「疲れてるみたいだし今日は休んだら?」
「平気、体を動かしたい気分なんだ」
「わかった」
 遥も付き合い、二人でメニューをこなした。
 その時間が思いのほか楽しかったのは、誰かと一緒のトレーニングが久しぶりだったからか、あるいは他の誰でもない七海が一緒だったからか、このときの遥にはまだわかっていなかった。