「遥、もう見合いをして結婚しなさい」
祖父の剛三がそう命じるのを、遥は直立したまま表情も変えずに受け止めた。先日、大伯母からも見合い相手を見繕っていると聞かされたし、呼び出された時点でこの話だろうとほぼ確信していたのだ。
執務机にはお見合い写真らしきものが山積みにされている。剛三は若干うんざりした面持ちでそれを見やると、一番上からひとつぞんざいに取り、中の写真に冷ややかな目を向けながら言う。
「大地たちのこともあって、遥にはしかるべき家のお嬢さんをという声が大きい。個人的にはおまえたちを応援していたし、味方になるつもりでいたが、よりを戻せないのでは仕方あるまい」
「僕はまだあきらめていません」
遥は強気に訴える。
しかし剛三が気持ちを動かされた気配はなかった。手にしていたお見合い写真を無造作に元の場所に戻すと、まっすぐに遥を見据え、厳しさすら感じさせる真剣な声音で諭すように告げる。
「現実を見ろ。三年以上ふられつづけているのだぞ。七海の気持ちがおまえに向くことはもうない。そのくらいおまえだってわかっているのだろう。ときにはあきらめるしかないこともある」
「……最後にもうすこしだけ時間をください」
遥は背筋を伸ばし、まじろぎもせずひたむきに見つめ返して訴える。泣いてはいないが泣き落としのようなものだ。剛三は半ばあきれたような目つきになりながら、溜息をついた。
「強要や脅迫は絶対に許さんぞ」
「承知しています」
「七海が成人するまでは待とう」
「ありがとうございます」
遥は静かに答え、深々と一礼して剛三の執務室を辞した。
自室に戻る途中、うららかな陽気に誘われるようにふと足を止める。格子窓のガラス越しに庭のほうへ目を向けると、満開の桜並木が風にそよぎ、薄紅色の花びらがひらひらと舞い落ちるのが見えた。
七海は現在十九歳。成人するまであと約三か月だ。
認めたくはないが剛三の言ったことはもっともだと思う。正直、遥自身も七海とよりを戻すのはもう難しいと感じている。これまで三年三か月、何度告白しても受け入れてもらえなかったのだから。
遥は現在二十七歳。まもなく七海の保護者としての役割にも区切りがつき、結婚を考えるにはちょうどいい頃合いである。いつまでも見込みのない片思いにうつつを抜かしているわけにはいかない。
だが、急に言われてもすぐには気持ちを切り替えられない。せめて悔いの残らないようにもうすこしだけ足掻かせてほしい。そのあとは素直に剛三に従う。七海を好きになるまえの人生設計に戻るだけのこと——。
心臓がギュッと引き絞られるように痛む。
七海と出会わなければこんな気持ちを知ることもなかった。それでも出会わなければよかったと思えないのが憎らしい。小さく吐息を落とすと、その痛みを振り切るように颯爽と足を進めた。
「遥!」
自室の扉を開けようとドアノブに手を伸ばしたとき、足音を聞きつけたのか、隣の部屋から七海があわてた様子で飛び出してきた。その手にはきのう遥が貸したミステリ小説が握られている。
「それ、もう読み終わったの?」
「うん、下巻も貸してくれる?」
「もちろん」
その返事に、七海は嬉しそうな顔を見せる。
そういえば上巻はひどく続きが気になる終わり方をしていた。ラスト数行でぞわりと鳥肌が立ち、混乱し、下巻を読むまで落ち着かないような。七海も同じ気持ちになったのかもしれないと思い、くすりと笑う。
「入って。ちょうどお茶にしようと思ってたところだから、ついでにつきあってくれると嬉しいんだけど」
「うん」
すぐにでも下巻を読みふけりたいところだろうが、笑顔で頷いてくれた。遥は扉を開け、どうぞと彼女を促しながら中に足を進めると、ベッドサイドの内線電話でお茶の用意を頼んだ。
しばらくして使用人が紅茶を運んできた。
レースのカーテンを通したやわらかな陽射しが満ちる中、手際よくティータイムの用意がなされる。二人の前にはそれぞれティーカップが置かれ、中央にはティーポットと籠入りクッキーが並べられた。
さっそくゆらりと湯気の立ちのぼる熱い紅茶を飲みながら、いつものようにとりとめのない話をする。件のミステリ小説については、七海が下巻を読み終わったら語り合おうと約束した。
「じゃあ、僕はそろそろ戻ろうかな」
話が途切れると、七海はカップに半分ほど残っていた紅茶を一気に飲みきって、そう切り出した。いつもはもっとのんびりとティータイムを楽しんでいるのに、今日は明らかに性急である。
「早く下巻が読みたい?」
「ん、まあね」
からかうように尋ねると、彼女は気まずそうに苦笑を浮かべてそう答える。二人で話をしているあいだも、ときどきではあるが手元の下巻に目を向けており、気もそぞろになっていることはわかっていた。
「でも遥も仕事が忙しいみたいだしさ」
「いまはそんなことないけど」
「剛三さんに呼び出されたんだろ?」
「ああ……」
なぜそんなことを知っているのかと不思議に思ったが、遥が自室にいなかったので、執事の櫻井にでも居場所を尋ねたのかもしれない。
「今回は仕事の話じゃないよ」
「あ、そうなんだ」
「そろそろ見合いしろって」
七海は静かに息を飲んだ。しかし驚いた様子を見せたのはその一瞬だけで、そう、とたいして興味がないかのようにつぶやくと、ティーポットから自分のカップに紅茶を注いで一口飲む。
「僕は見合いなんかしたくないんだけど」
「そんなわがまま言える立場じゃないんだろ?」
「……まあね」
遥は目を伏せ、ひそかに奥歯を噛みしめた。
いつからだろう。七海への想いを口にしようとすると、彼女は心を閉ざすようになってしまった。そっけない態度で話をそらしたり、淡々とあしらったりするばかりで、真剣に向き合ってくれないのだ。
いまだに武蔵のことが好きだと知られたくないのだろうか。最初のうちはそれを理由に遥の告白を断っていたのだが、いつしか理由は言わなくなった。尋ねても答えてくれなくなった。そのこととも符合する。
あるいは富田の言うように、もはや遥を恋愛対象として見ていないのかもしれない。気の合う友人ではあるが付き合うつもりはないと。そのことに申し訳なさを感じて隠しているのなら、辻褄は合う。
いずれにしても、遥にできるのは最後にもういちど告白することくらいである。そのために猶予をもらったのだ。きちんと準備をして、どうにか悔いの残らないように気持ちを伝えなければと思う。
それでもきっと答えは変わらない。せめて理由だけでも聞かせてほしいところだが、それも難しいだろう。だから——凪いだ紅茶の水面を見つめつつ、腿に置いた両手をそっと握りしめる。
「ねえ、今度の七海の誕生日にさ」
「ん?」
七海は飲んでいた紅茶のティーカップを置きながら、怪訝な顔をした。急に三か月も先の話を切り出されたのだから無理もない。遥は安心させるようにやわらかく微笑んで続ける。
「一緒にどこか飲みに行こうよ」
「飲みに……って……え、お酒?」
「そう、二十歳のお祝いも兼ねて」
「うん!」
最初こそ面食らっていたが、二十歳のお祝いと聞くと喜んで頷いてくれた。前々からお酒に興味を示していたのだ。未成年のうちは飲まないよう言いつけてあるので、その日が初めてになるだろう。
告白を断られたら、二人きりで飲みに行くのはおそらく最初で最後になる。七海の成人を祝い、一緒にお酒を飲み、それを思い出にしてこの気持ちに区切りをつけよう。遥はひとりひそかに決意を固めた。