機械仕掛けのカンパネラ

ひとつ屋根の下 - 第33話 二人で歩む道(最終話)

 一年の婚約期間を経て、遥と七海は結婚する——。
 今日の結婚式は身内と友人のみが参列する小さなものだ。式のあとにはささやかなガーデンパーティを催す予定である。幸い、空はどこまでも青く澄みわたっており雨の心配はない。
 披露宴は、後日、親族や会社関係者を招いて盛大に行うことが決まっている。こちらは橘財閥の後継者としての義務でしかないが、七海は嫌がりもせずあたりまえのように受け入れてくれた。
 ただ、大伯母はこの結婚に強く反対していた。七海の両親がともに出自不明である点がどうしても許容できないらしい。平たく言えば、どこの馬の骨ともわからない女を橘に嫁がせたくないということだ。
 けれども剛三は取り合わなかった。他家に嫁いだ人間に口出しする権利はないと。そう言われたところで彼女が納得するはずもないが、理解はしているらしい。最近は嫌味くらいにとどまっている。
 もちろん一族の中にも異を唱えるものは少なからずいた。だが最終的にはみな剛三に説得されて受け入れることにしたようだ。表向き、一族の総意として賛成ということになっている。
 遥も七海も自分の置かれた立場はよくわかっていた。この結婚を間違いだと言わせないためには、行動と結果で示していくしかない。少なくとも付け入る隙を与えるわけにはいかない。
 面倒なものを背負わせてしまった七海には申し訳なく思うが、彼女はいつだって笑顔で頑張ろうと言ってくれる。そのたびに実感するのだ。彼女とならどんな道でも手を取り合って歩んでいけると——。

「はーい、開いてるよー」
 七海の支度が終わったとスタッフから聞いて控え室へ向かい、扉を叩くと、結婚式直前の新婦とは思えない緊張感のない声が返ってきた。あまりにもいつもどおりなので逆に不安になる。
 扉を開くと、七海はウェディングドレスを身につけて椅子に座っていた。
 ウエストラインからふんわりと流れるように広がるシルエット、デコルテと背中を覆った透け感のある繊細なレースなど、クラシカルで品がありつつ華やかさも感じられるデザインである。
 ドレスに合わせて、メイクも上品でいて華やかな仕上がりになっていた。別人のように変わったわけではなく、素材の良さをうまく引き立てている感じだ。文句の付けようもない出来である。
 ただ、傍らに立つブラックスーツの男性が気にくわなかった。まるで新郎のような顔をして彼女に寄り添っている。そんな彼に挑発的なまなざしを向けながら腕を組み、冷ややかに告げる。
「花嫁と密室で二人きりなんて感心しないな」
「ついさっきまでスタッフもいたからさ」
 男性が答えるより早く、七海が肩をすくめて苦笑しながらそう弁明した。男性をかばうというより遥をなだめているのだろう。だが、男性のほうは不快感を隠しもせず睨み返している。
 彼は二階堂——七海のたったひとりの友人といえる存在である。中学、高校、そして現在の大学に至るまで同じ学校に在籍し、学部は違うが、いまでも一緒にお昼を食べたりしているらしい。
 ただ、彼には友情だけでなく下心もあったはずだ。中学のときから七海に恋愛感情を抱いていたのである。一度告白を断られたものの、友人の立場からひそかに狙いつづけていたに違いない。
 もっとも七海のほうは友人としか見ていない。彼と付き合うのは無理とまで言い放ったのだ。それでも友人としては大切に思っているのだろう。遥との婚約を公表前に報告するくらいには。
 友人だから自分の口から伝えておきたい、過去のことも正直に話したい——そう七海に懇願されて、いまさら何もかも暴露するのはどうかと思いつつも、最終的には彼女の意思を尊重して承諾した。
 過去というのは、中学一年生のときに遥と付き合い始めたこと、二年半で別れて初恋の相手と付き合ったこと、けれど半年も経たずにふられてしまったこと、それから遥に何度も告白されたことなどだ。
 案の定、二階堂はそれを聞いて遥を軽蔑したらしい。保護者という立場を利用して中学一年生の子に手を出すなど、男としてクズでしかないと。七海に結婚を思いとどまるよう何度も訴えたと聞いている。
 もしかしたら、ここに来てもまだあきらめていないのかもしれない。すくなくとも祝福してはいないのだろう。七海の隣に立ったまま、あからさまに挑発するような口調で言い返してきた。
「随分と余裕がないみたいですね」
「常識の話をしているだけだ」
「あなたが常識を語るなんて驚きだ」
 切れ味はなかなか鋭かった。
 中学生の七海と恋人関係になったことが間違いだとは思わないが、常識的にはアウトだろう。それを自覚しているだけに分が悪かった。返す言葉もなくじとりと彼を睨むことしかできない。
「もう、二人ともやめろよ!」
 七海は両手を広げて二人を押しとどめるような仕草をしながら、強めの声を上げた。そしてあらためて隣に立つ二階堂を見上げると、人差し指をまっすぐ彼の鼻先に突きつけつつ、口をとがらせる。
「結婚式をぶちこわしたら絶交だからな」
「わかってるよ……」
 不服そうな顔をしながらも、叱られた子供のようにしゅんとおとなしくなる。この様子なら結婚式で暴挙に出るようなことはないだろう。そもそも彼にそこまでの度胸があるとも思えなかった。

「結婚おめでとー!」
 ふいに能天気な声が聞こえて振り向くと、双子の妹である澪が、笑顔をふりまきながら控え室に入ってきたところだった。綾乃、真子、富田がそのあとに続く。遥も含めたこの五人は初等部から高等部までの同級生である。
 富田とはずっと親しくしているが、大学が分かれた綾乃や真子とは疎遠になり、会うのも久々である。もっとも澪はいまでも二人と交流があるので、彼女を通じて近況などは聞いていた。
「わー、七海ちゃんすごくきれい!」
「こんなにかわいい子だったんだね」
「遥にはもったいないよな」
 遥には目もくれず、女性陣はやいのやいの言いながら七海を取り囲んだ。その勢いに圧倒されて、二階堂ははじかれるように一歩二歩と後ずさり、ひとりぽつんと立ちつくす状態になった。それを見て遥はひそかに溜飲を下げる。
「いよいよ結婚だな」
「ようやくだよ」
 富田だけが遥に声をかけてきた。
 互いの左手薬指から指輪がなくなってもう一年だ。遥は今日から別の指輪をはめることになるが、富田にはまだそういう予定はないらしい。見合いも恋愛もあまり気乗りしないと言っている。澪への未練をいまだに断ち切れていないのだろう。
「おまえやっぱそういう格好が似合うよな」
「そう?」
 遥が着ているのは新郎用の白いタキシードである。いわゆるブラックタイとして着用するものとはかけ離れているが、日本の結婚式においては、こういうものを一般的にタキシードと呼称するらしい。
 白を希望したのは七海である。遥は無難に黒かグレーがいいのではないかと思ったが、絶対に白がいいと彼女に力説されてそうしたのだ。色以外のデザインにも彼女の意見を取り入れている。
 ファッションに疎いので、本当に似合っているのかどうかはよくわからない。富田にしてもお世辞で言っただけかもしれない。だが、七海が喜んでくれればそれでいいと開き直っている。
「富田もそれ似合ってるよ」
 そう返すと、彼は反応に困ったように曖昧な笑みを浮かべた。

「しっかし、まさかあの遥が恋愛結婚とはねぇ」
 七海を取り囲んでいた女性陣のひとりである綾乃が、腕を組みながらそう言うと、信じがたいものを見るような胡乱な目を遥に向けた。真子と澪もつられるように振り向いて小さく笑う。
「私もちょっとビックリしちゃった」
「あの変わりようには驚くよね」
 昔から遥を知っているひとなら誰でもそう思うだろう。
 かつて遥は、恋愛に興ずる妹や知人たちを冷めた目で見ていた。きっと自分は一生誰も好きになれないと思っていた。橘の後継者として二十代で見合い結婚するのだと、当然のように考えていた。
「でもさ、遥が心から好きだと思える人と出会えて、その人と結ばれて、本当によかったなって思うよ……義務感だけで結婚するんじゃ寂しすぎるもん。私、遥にも幸せになってほしかったから」
 そう言って、澪はうっすらと瞳を潤ませて微笑んだ。
 昔から彼女はそうだった。中高生のころは遥が誰も好きにならないことを心配していたし、七海を好きになってからは一貫して応援してくれていた。正直、余計なお世話だと煩わしく感じることも少なくなかったが、それでも気持ちはありがたい。
「幸せになるよ」
「うん」
 澪は嬉しそうに頷いた。
「ま、これで富田も報われるよな」
 すこし湿っぽくなった空気を払拭するかのように、綾乃は両手を腰に当ててからかいまじりにそう言い、いたずらっぽく笑う。名指しされた富田はなぜかうろたえていたので、遥が応じた。
「ペアリングの話だよね。澪から聞いた?」
「遥の婚約を教えてもらったときにね」
 偽装ペアリングの件は、共通の友人である綾乃と真子にも秘密にしていた。澪はそのことを当初から心苦しいと言っていたので、解禁したらまず彼女たちに話すだろうなと予想はしていた。
「大学のときに噂を聞いて心配してたんだよ」
「あのころは澪もわからないって言うしさぁ」
「ほんとごめんね」
 澪は申し訳なさそうに両手を合わせるが、真子も綾乃も別に責めるつもりはなかったのだろう。事情はわかってるよ、気にしてないからさ、と二人してあっけらかんと笑い飛ばした。
「それより、私、遥くんのプロポーズが気になるなぁ」
「私も気になるなぁ」
 真子がキラキラと目を輝かせて夢見がちに言うと、綾乃もニヤニヤとして同調する。その様子から、ロマンチックなものを期待しているわけでなく、単に遥をからかいたいだけということは一目瞭然だ。
「こんなすました顔してるけど、七海ちゃんにはメロメロになってるって話だし、金にものを言わせてすごいことしたんじゃない? 高級ホテルのスイートルームでシャンパン飲んでるときに、赤いバラの花束と指輪を渡して、キザったらしい情熱的な言葉でプロポーズ、とかさ」
「内緒だよ」
 ところどころかすっていたのでドキリとしたものの、遥は素知らぬ顔でさらりと受け流した。それでも綾乃はあきらめようとしない。
「じゃ、七海ちゃん教えてよ」
「内緒です」
 七海は困惑ぎみに愛想笑いを浮かべながら、そう答えた。
 口止めはしていないが、さすがにこんなところで話すわけにはいかないだろう。無理やり抱かれたあと、ベッドの上で全裸のまま言いくるめられ、結婚を承諾してしまっただなんて——。
 あれが間違いだとは思っていない。ただ、あんなプロポーズになってしまったことは申し訳なく思う。婚約指輪を贈るときにやり直せばよかったのかもしれない。いまごろ気付いてもあとの祭だが。
 もしこのプロポーズのことを二階堂に知られたら、ますます軽蔑されるだろう。七海の後方にいるのをいいことに、思いきり仏頂面をしている彼を見ながら、遥はひっそりと苦笑した。

 コンコン——。
 開いたままの扉を軽く叩いて入ってきたのは、武蔵とメルローズだった。その後ろからは護衛が二人ついてきている。武蔵は軽く手を上げて遥に笑いかけたが、メルローズは一目散に七海のほうへ駆け寄っていく。
「七海ちゃん、おめでとう!」
「ありがとう」
 メルローズは座ったままの七海と手を取り合い、はしゃいでいる。
 一時期は気まずかった二人だが、もうすっかりわだかまりがなくなっているらしく、この一年はしょっちゅう一緒にお茶を飲んでいた。外見は似ていないものの仲睦まじい姉妹のようだ。
「すごくきれい……いいなぁ……」
「メルだってそのうち着るんだろ?」
「ふふっ」
 メルローズは白い肌をほんのりと染めて、幸せそうに笑った。
 武蔵もそれを遠巻きに見ながらひどく甘い顔をしている。やっぱり家族としか思えないなどといつか言い出すのでは、と心配していたが、こんな顔を見せられては案ずるのもバカらしくなる。
「ん、何だ?」
「別に」
 視線に気付いた彼に不思議そうに尋ねられたが、遥はそっけなく受け流す。自分の結婚式のまえにする話ではないだろう。表情を動かすことなく静かに腕を組むと、隣でふっと笑う気配がした。
「呼んでくれてありがとな」
「メルと外でデートできてよかったね」
「おまえたちを祝いたかったんだよ」
 遥の憎まれ口に、彼は思いのほか優しい声で返してきた。
「嬉しいんだ。俺にとって家族みたいな二人が結ばれるんだからな。おまえには幸せになってほしいし、七海を幸せにしてやってほしい」
 急にそんなことを言われて、気恥ずかしさと苛立ちがないまぜになり、次第に顔が熱を帯びていくのを自覚した。不自然にならない程度に顔をそむけつつ、非難めいた口調でぼそりと言う。
「こんなときだけ父親面するんだ」
「こんなときしかできないだろう」
 そう応じた武蔵の声に、揶揄するような色は微塵も感じられなかった。反論の言葉が思い浮かばなかったわけではないが、遥は何も言わず、うつむき加減のまま口元だけをかすかに緩めた。

「そろそろ時間だよ?」
 真子がそう告げると、澪たちも武蔵たちもそろって控え室をあとにした。二階堂もあからさまに未練がましい様子で出て行く。賑やかだったその部屋には遥と七海だけが残された。
「騒がしくて疲れたんじゃない?」
「ちょっとだけ」
 座ったまま肩をすくめて苦笑する七海を見て、遥は軽く微笑み、空いていた椅子を彼女のそばに移動させて腰を下ろした。
 彼女はあまり人付き合いが得意でない。さほど親しくないのに親しげに接してこられるのが苦手なのだ。たとえ相手に他意がなくても。一対一でもそうなのに複数のひとに囲まれたらなおさらである。
 ただ、それでは本家の人間として差し障りがあるので、克服すべく努力していた。現にさきほども表情や態度に出すことはなかった。きっと、これからはもっとうまく振る舞えるようになるだろう。
 彼女には強い意志と根性があるのだ。
 ただ、悪く言い換えれば強情ということにもなる。間違ったほうに突き進んでしまったときがやっかいだ。遥でさえ説得がままならない。これまでいったいどれだけ振り回されてきたことか——。
「ねえ、もしかして緊張してる?」
「そんなことはないよ」
 遥は思わずふっと笑みをこぼす。
 黙りこくっていたのでそう思われたのかもしれないが、単に過去に思いを馳せていただけである。楽しかったことも、嬉しかったことも、つらかったことも、苦しかったことも、いまとなってはどれも大切な思い出だ。
「そろそろお時間ですよ」
 女性スタッフ数人が控え室に入ってきた。引きずるほど長いドレスの裾を丁寧にさばきながら七海を立たせ、軽くメイクやベールを整えて、不備がないか真剣な目つきでチェックしていく。
 それが終わると、七海にいくつか確認をしてからせわしなく離れていく。ひとり残された七海は、気持ちを落ち着けるように呼吸をしたかと思うと、まぶしいくらいの笑顔でパッと遥に振り向いた。
「行こう」
 純白の手が、まっすぐ目の前に差し出される。
 遥は虚を突かれてきょとんとしたが、すぐ我にかえり、その手を取って椅子から腰を上げた。そしてあらためてしっかりと手をつなぎ直すと、互いに目を見合わせてくすりと笑う。
「緊張はしてなさそうだね」
「これでも結構してるよ」
「そうは見えないけど」
「遥と一緒にいるからかな」
 七海はいたずらっぽくそう言い、肩をすくめた。
 キィ——両開きの扉がスタッフたちの手によって開かれていく。その音に反応して二人は前に向き直る。扉の向こうの回廊には、青空から降りそそぐ白い光があふれんばかりに満ちていた。