「ジョン、服を脱げ」
豪奢な椅子にゆったりと座している美しい男性が、尊大に命じる。
その正面に立たされていた八歳のジョンはビクリとして固まるが、すぐ後ろに控えている叔父夫妻に脱ぎなさいと促されて、おどおどしながらシャツ、ズボン、靴下とひとつずつ脱いでいく。
やがてパンツ一枚になった。恥ずかしいというより、何をさせられているのだろうという不安のほうが大きかった。うつむき加減のままチラリと視線だけを前に向けると、彼は冷ややかに言い放つ。
「下着もだ」
言い知れない恐怖にぞわぞわと肌が粟立った。
それでも叔父に早く脱ぎなさいと言われると逆らえなかった。全身にまとわりつくような視線から逃げるように目を伏せ、いつのまにか小さく震えていた手をおずおずとパンツにかけた。
ジョン・グラミスは、貴族とは名ばかりの貧乏男爵家に生まれた。
領地も持たず、使用人も雇わず、親子三人だけで慎ましやかに暮らしていた。しかしそれを不幸だと思ったことはない。家族みんな仲が良くて、あたたかくて、毎日がとても楽しかったのだ。
しかし、先日、両親が馬車の事故で亡くなってしまった。
祖父母は双方ともジョンが物心つくまえに亡くなっていたため、親戚は叔父だけだ。未成年は爵位を継ぐことができないので彼が継ぐらしい。だからジョンの面倒も見てくれるのだろうと思ったが。
「ジョン、君にはカドガン伯爵家に養子に行ってもらう」
申し訳なさげにそう告げられた。
彼によれば、カドガン伯爵は結構な金を父親に貸していたそうだ。それで後継である叔父にいますぐ返済するよう迫ってきたが、無理ならジョンを養子にもらいたいという話になったらしい。
「それで借金がなくなるのですか?」
「ああ、そう聞いている」
自分が養子に行ってすむなら行くしかないだろう。叔父も返済できるほどの金は持っていないというし、そもそも自分の父親が作った借金なのだから。そう思って頷いたのだけれど——。
一糸まとわぬ姿になり、さすがに恥ずかしくて身を縮こまらせながら前を隠す。しかしカドガン伯爵に手をどけろと命じられ、叔父夫妻にも早くしなさいと急かされ、言うとおりにするしかなかった。
「ほう……」
鮮やかな碧眼が見開かれ、その端整な顔にどこか下卑た笑みが浮かんだ。そのままねっとりと舐めまわすようにジョンを見つめていく。顔も、体も、手足も、陰部も、余すところなく全部——。
「来なさい」
すっかり青ざめていたジョンはびくりとして思わず一歩下がる。どうして裸にされたのかも呼ばれたのかもわからなかったが、ただただ怖かった。しかし押しとどめるように叔父が背後からジョンの両肩を掴んだ。
「申し訳ありません。つづきは取引を終えてからにしていただけますか」
「……いいだろう」
カドガン伯爵は不愉快そうに秀麗な顔をしかめて応じると、書類を机の上に置いた。
叔父が目配せし、叔父の妻がそれに頷いておずおずと前に進み出る。そして伯爵に一礼してその書類に手を伸ばしかけた、そのとき。
バンッ!
壊れんばかりの激しい音を立てて扉が開いた。
そこにいたのはカドガン伯爵よりも幾分か若そうな男性だった。その後ろでは使用人が困りますと焦ったように訴えているが、彼は無視してまっすぐジョンのほうへ足を進めてくる。そして呆気にとられる叔父を無言で押しのけると、外套を脱いでジョンの体が見えないようにすっぽりと包み、片腕で抱き上げた。
「何者だ、貴様、カドガン伯爵家に楯突くつもりか」
「ポートランド侯爵家の嫡男、グレアム・ポートランドだ」
「なっ……」
カドガン伯爵は目を見開き、狼狽えた。
しかしグレアムは無表情のまま彼の執務机の前に向かい、その上に置かれていた書類を手に取って眺めると、どこからか取り出した重そうな小袋を机上に置いた。音からして金貨だろう。
「借入金額と利息分以上はある。釣りは不要だ」
「……ま……お待ちください!」
カドガン伯爵は執務机に手をついて勢いよく立ち上がった。
グレアムは片腕でジョンを抱き上げたまま立ち去ろうとしていたが、その声に足を止めると、そのままゆっくりと顔半分だけ振り向いて冷ややかな視線を流した。
「ここでおとなしく引いたほうが身のためだ。今後、この子に関わろうとすることがあれば、我がポートランド侯爵家が全力で相手をさせてもらう」
そう言うと、今度は叔父夫妻のほうに目を向ける。
「あなたたちもだ」
カドガン伯爵も、叔父夫妻も、ただ顔をこわばらせて立ちつくすだけだった。
ジョンはそのまま王都の屋敷に連れて行かれた。
すぐに使用人に風呂に入れられ、服を着せられ、食事をさせられた。何がなんだかわからなくて不安だったが、食事には我を忘れてがっついてしまった。両親が死んでから初めてのあたたかいごはんだったのだ。
「もう安心して大丈夫よ、グレアム坊ちゃまが助けてくれたのだから」
おなかが満たされたことで現実を思い出してしまい、また不安が襲ってきたが、年配の女性使用人がニッコリと優しく声をかけてくれた。それでようやく自分が助けられたのだとわかった。
食事のあとは、応接間に連れて行かれてしばらく待つようにと言われた。
やることもなく、ふかふかのソファに座ってぼんやりとしていたら、グレアムが入ってきて向かいに腰を下ろした。女性使用人も控えているので二人きりではない。おそらく彼の配慮なのだろう。
「助けてくれてありがとうございました」
ジョンはぺこりと頭を下げる。次に会ったらお礼を言おうと心に決めていたのだが、いささか唐突だったかもしれない。しかしながら彼の表情はほとんど変わらなかった。
「君のお父さんに返せていない恩義があった……それを返したまでだ。君は気にしなくていい。それより今後のことを話したいのだが、構わないだろうか」
「あ……はい……」
ズンと気が重くなった。助けてもらったはいいが、行くところがなくなっていたことを思い出した。いまさら叔父夫妻のところには帰れないだろうし、帰りたくもない。
「心配するな。君の養子先はわたしが責任を持って探すつもりだ。きちんと家族として迎え入れてくれるところをな。貴族は難しいが、商家なら養子を探しているところもあるだろう。もちろん君の意見は最大限に尊重する」
グレアムが淡々と告げる。無表情でまったくといっていいほど愛想はないが、真面目に考えてくれているのは伝わってきた。きっと彼の言葉に嘘やごまかしはないのだろうと思う。けれど——。
「僕は、よそには行きたくない……怖いです……」
今日のことを思い出すだけでぞわりと寒気がする。よく知らないひとのところに行ったら、またあんなことになるかもしれない。もっとひどいことになるかもしれない。そう思うと怖くてたまらなかった。
グレアムは目を伏せ、そのままじっと深く考え込んでしまった。
それを見計らったように、後ろに控えていた女性使用人がティーポットを持って紅茶を注ぎに来た。ほとんど中身の減っていないティーカップに形ばかり注ぎ足すと、やわらかく声をかける。
「グレアム坊ちゃま、この子にはまず休養が必要なのではありませんか? 大変なことがあったばかりですもの。ゆっくりと休んでもらって、落ち着いたころにまた話し合えばよろしいと思いますよ」
「そうだな……そうしよう……」
ジョンは客間をあてがわれ、しばらくポートランド家の屋敷で過ごすことになった。
自由にくつろいでいいと言われたが、ひとりでいるのも寂しかったので使用人たちについてまわり、そのうち仕事もすこしずつ手伝わせてもらうようになった。
「あら、芋剥きとても上手ね」
「よく手伝ってたんだ」
みんな良くしてくれたが、特にメアリーという年配の女性使用人が優しかった。最初の日にジョンの世話を焼いてくれたひとである。使用人でジョンの事情を知っているのは彼女と執事だけらしい。
「あの、僕、そろそろグレアム様と話がしたいんだけど、時間あるのかな?」
「ではグレアム様に聞いておきますね」
ここ二日ほど、仕事が忙しくなったようで顔も合わせていなかった。だからすぐには面会できないかもしれないと思っていたが、翌日、さっそく時間を取ってくれた。
「ここで使用人として働かせてください!」
通された書斎でグレアムと向かい合わせに座り、心に決めていたことを前置きもなく訴えると、彼は絶句した。後ろに控えていたメアリーも目を丸くしている。
「ずっと家の手伝いをしてたので働くのは得意です。お父さんの借金も働いて返したいです。真面目に働くのでここに置いてもらえませんか?」
「……君は、貴族の家に生まれたんだぞ?」
「僕はもともと貴族だなんて思ってなかったです」
一応、父親がグラミス男爵だという話は聞いていたが、そんな実感はなかった。だから使用人として働くことにもまったく抵抗がない。むしろ実際に手伝わせてもらって向いているとさえ思った。
グレアムはしばらく難しい顔をして考え込んだあと、小さく息をつく。
「わかった。ただし君にはまず教育を受けてもらおう」
「えっ、使用人なら別にそんなの必要ないんじゃ」
「使用人にも教養がなければ務まらない仕事が多々ある」
「……それならちゃんと受けます」
ジョンは約束どおり家庭教師から様々な教育を受けつつ、空き時間には使用人として雑用をこなした。最初は野菜の皮剥きなど簡単なことばかりだったが、みんなに教わりながら徐々にできることを増やしていった。
三年後、グレアムは領地に戻ることになり、ジョンも一緒に連れて行かれた。
領地にある彼の実家だという住まいは驚くほどの豪邸だった。王都のタウンハウスも立派だと思っていたが、その比ではなかった。もし宮殿だと言われたら疑いもせず信じてしまうだろう。
当然ながら領地もかなり広い。グレアムが戻ったのは、父親であるポートランド侯爵から領地経営を引き継ぐためである。領地が広い分、仕事も多岐にわたるので早いうちからすこしずつということらしい。
そのきっかけのひとつはグレアムの結婚が決まったことだ。一年の婚約期間を経て、この領地で結婚することになっている。グレアムにつづいて、妻となる女性もすぐに専属侍女を連れてやってきた。
彼女の名はロゼリアという。とても美しいが、どことなく冷たくてきつそうで気位の高そうなひとに見える。グレアム様にはもっと可愛らしくて優しいひとが似合うのに、とひそかに残念に思った。
「ロゼリア様って、あの悪役令嬢ローズのモデルなんですって」
結婚式が終わると、女性使用人たちのあいだでそんな噂が囁かれるようになった。
ジョンは知らなかったが、悪役令嬢ローズというのは人気小説の登場人物で、ロゼリアをモデルに書かれたと言われているらしい。だからロゼリアも傲慢な女なのではとみんな恐れていた。しかし——。
「あんなのロゼリア様とは似ても似つきません!」
その噂を聞きつけた専属侍女のアンナが全力で否定した。
もちろん失敗して叱られたことはあるが、不当な扱いは受けていない。ましてや他の令嬢を陥れるなんて絶対にしない。むしろ陰口をたたかれても黙って耐えていた。そんな強くて気高い方なのだと。
それを表立って否定するひとはさすがにいなかったが、みんなどこか信じきれずにいるようだった。噂になるのはやはり似たところがあるからではないか。ジョンもそんなふうに考えていた。
「本当なの? かばってるだけじゃないの?」
アンナに誘われて二人でお菓子を食べているときに、率直に尋ねてみると、彼女は「信じてくれないなんてひどーい」と口をとがらせた。しかしすぐに吹き出すように笑って言葉を継ぐ。
「あの小説を最初に読んだときは、ロゼリア様をモデルにしてるなんて噂があることを知らなくて。読んでもちっとも気付かなくて。だってロゼリア様とは本当に似ても似つかなかったんだもの」
そこまで話すと紅茶を一口だけ飲み、遠くに目を向ける。
「だからロゼリア様がその小説を持ってるのを見たときにね、それ面白いですよねとか能天気に声をかけちゃって。でもロゼリア様はつらそうな素振りさえ見せなかったわ……そういう方なの」
その目がせつなげに細められた。
アンナの言ったことに嘘はないような気がした。もしかしたら悪役令嬢というほどではないのかもしれない。そう思いつつも、ロゼリアと関わりのないジョンには見極める機会もなかった。
ただ、二週間、三週間と過ぎるにつれて風向きが変わっていく。
ロゼリア様は確かに悪役令嬢ローズとは似ていない、ごく常識的な方だと——アンナの主張を信じたというより、ロゼリアと実際に接してそう感じるひとが増えたようだ。ジョンはまだ接したことがないのでわからないけれど。
「こんにちは、何か用事はありますか?」
ジョンが勉強を終えて調理場にひょっこりと顔を出すと、アンナもそこにいた。料理人のひとりと向かい合って何か話していたようだ。ジョンに気付くとひらひらと手を振りながら話しかけてくる。
「もう勉強は終わったの?」
「うん……アンナはどうしたの?」
「お茶会についての相談よ」
彼女によれば、王都ではマカロンとかいう新しい焼き菓子が流行っているので、それをここで作れないかと相談していたらしい。そういったことでポートランド家の威厳を示すのだという。
「ふぅん、貴族って面倒くさいんだね」
「なに他人事みたいに言ってんの」
「え……だって僕は貴族じゃないし……」
「でも貴族の使用人でしょ!」
「あ、そっか」
自分が元貴族であることを知られたのかと内心焦ったが、そうではなかった。へらりと笑ってごまかすと、アンナはあきれたようなじとりとしたまなざしになる。
「勉強ばっかしてるから自覚が持てないのよ」
「ひゃっ!」
いきなり二の腕をつかまれて思わず変な声が出てしまった。それでも彼女は構うことなく何かを確かめるように握々する。
「まあ、こんな細っこい腕じゃ力仕事もままならないだろうし、頭を使わせるしかないわよねぇ……」
ひとりつぶやくようにそう言うと、手を放した。
「旦那様のご厚意で勉強させてもらってるのは忘れないでよ。家庭教師だってタダじゃないの。しっかり頑張って旦那様のお役に立てるようになりなさい。それがひいてはロゼリア様のためにもなるんだから」
「わかってるよ……」
アンナはことあるごとに「ロゼリア様のため」と口にする。いいかげん聞き飽きたし、そもそもロゼリアばかり気にかけていることが面白くない。何となく。
「ジョン、こっちを手伝ってくれ」
そのときちょうど下ごしらえをしている料理人から呼ばれたので、じゃあねと逃げるように手伝いに向かう。しかし彼女は気にする様子もなくジョンを軽く見送ると、すぐに相談を再開していた。
「紅茶を買いに行くんだけど、ジョンも行く?」
「うん、行く!」
そのうちにアンナは月に一回ほど街に誘ってくれるようになった。
荷物持ちという名目だが、いつもたいして荷物がないのであまり役に立っていない。それなのにどうして誘ってくれるのかと不思議に思いながらも、うれしくて都合さえつけば同行していた。
今日はロゼリアの茶葉を買うとのことである。このくらい他の使用人に任せてもいいのに、アンナは自分で選ぶことにこだわっているらしい。時間に余裕のあるかぎりはそうしているという。
「ま、息抜きの意味もあるんだけどね」
アンナはエヘッと笑う。
用事のあとはたいていカフェで休憩してから帰るのだ。ジョンはこれも楽しみだったりする。アンナとおしゃべりできるのも楽しいし、おいしいお菓子を食べさせてもらえるのもうれしい。ただ——。
「あんたいつまでたってもひょろっこいけど、ちゃんと食べてる?」
「食べてるよ」
毎度そんなふうに心配されるのはあまり面白くなかった。確かにひょろっとしていて小さいけれど——自分でも気にしているだけに、悪気がないとわかっていてもちょっと悲しくなってしまうのだ。
三年が過ぎ、十五歳になってもジョンは小さいままだった。
もちろんそれなりには成長しているが、年齢のわりに小さくて痩せた体型というのは変わらない。顔も幼いため、まわりからはまだまだ小さな子供のように扱われている。くやしくて毎日牛乳をがぶ飲みしていた。
そんな折、グレアムとロゼリアが半年ほど王都に滞在することになった。
ジョンも当然のように同行するものとばかり思っていたのに、勉強があるから残るようにと言われてしまった。もっとも同行してもジョンにできることはそんなにない。だがアンナは——。
「わたしはロゼリア様の専属侍女なんだから、同行するに決まってるでしょ」
「そうだよね……」
わかっていたつもりだが、実際に聞かされるとやはり寂しくなってしまう。ジョンがいちばん仲良くしているのはアンナなのだ。しゅんとすると、彼女はアハハと軽快に笑って頬杖をついた。
「たった半年なんだからそんな顔しないの! 王都で流行ってるお菓子とか買ってきてあげるから、楽しみにしてて!」
「うん」
笑顔の彼女にわしゃわしゃと頭をなでられる。また子供扱いされてしまったが、今日にかぎっては不思議と嫌だと思わなかった。
ほどなくしてグレアムたち一行は王都に向かった。
もっともジョンの日常はそれまでとあまり変わらなかった。家庭教師の授業を受けて、空き時間にこまごまと雑用をするという生活である。ただアンナがいないことだけがたまらなく寂しかった。
「えっ……ちょっとあんたずいぶん大きくなってない? 声も変わってない?」
半年後、王都から帰ってきたアンナに声をかけたら、彼女は振り向くなり大きく目を見開いて当惑を露わにした。そしてジョンもいつもと目線が違っていたので驚いた。以前は見上げるような感じだったのに、いまは同じくらいの高さだ。
「半年のあいだにけっこう背が伸びたんだけど、実感したのは初めてかも」
「何か腹立つわね!」
アンナは口をとがらせると、ズイッと距離を詰めて二人の背を比べるが、ジョンのほうが高かったようでさらにくやしがった。
「あのちっちゃかった子がこんな……声変わりまでして……」
「別におかしなことじゃないだろ、僕、もう成人なんだし」
「えっ、そうなの?!」
つい先日、十六歳になったところだ。
とはいえ成人に見えなくても仕方がないと自分でも思う。でもいずれは大人の男として見てほしい。すこしでも早くそう見てもらえるように頑張らないと——ジョンは内心ひそかに気合いを入れた。
「ジョン、成人おめでとう」
翌日、グレアムから書斎に呼ばれて祝いの言葉を贈られた。誕生日を覚えていてくれただけでもすごくうれしくて、ありがとうございますと元気いっぱいに応えたが、それが本題ではなかったらしい。
「実は、とある商家から君を養子にしたいと申し出を受けている」
「えっ……」
「わたしが長年懇意にしている夫妻だから信用していい。跡取りはいるが、君には経営を手伝ってほしいと考えているそうだ。そしてゆくゆくは店のひとつを任せられたらと。悪くない話だと思うが、どうだろう?」
突然、想像もしなかったことを言われてひどく困惑した。目を伏せ、グレアムの話を反芻しながら静かに考えをめぐらせる。そして——膝の上のこぶしにグッと力をこめると顔を上げる。
「僕は、ここにいたいです」
それがジョンの素直な気持ちだった。一通りのことを思案したが心が揺れることさえなかったし、きっとこれからもないだろう。しかしその気持ちはグレアムに伝わらなかったようだ。
「わたしに恩義を感じてのことなら気にしなくていい」
「いえ……もちろんグレアム様には恩義を感じていますが、だからというわけではありません。僕にとって育ったところなので愛着がありますし、グレアム様のために働けることも誇りに思っています。あと正直なところ商売にはあまり興味がありません。ご迷惑でなければ、これからもここに置いてくださいませんか?」
今度は精一杯の言葉を尽くして訴える。
グレアムはわずかに目を伏せた。
「……わかった」
そう答えながらも、まだ完全には納得していないようだった。
彼としては、養子になったほうがジョンのためだと考えているのだろう。それでもジョンの意見を、意思を、最大限に尊重してくれた。そういうひとが主だからこそここで働きたいと思うのだ。
成人を機に、家庭教師を呼んでの勉強はなくなり、執事見習いとなった。
これでようやくグレアムに恩返しができると喜んだが、見習いなのでまだまだ雑用のようなことが多く、恩返しにはほど遠い。それでもほんのすこしでもグレアムの役に立てることがうれしかった。
それから二年——。
ジョンは十八歳になり、成人男性として普通くらいの身長になっていた。ただ、あいかわらずひょろっとした体型である。まったく運動をしていないわけではないのだが、筋肉はつかない。
執事見習いのほうは意欲的につづけている。ひとりでこなせる仕事もだいぶ多くなってきたし、グレアムに同行することも増えてきた。それなりに仕事ぶりを認めてくれているのだと思う。
ただ、先輩には気弱なところが難点だといつも指摘されていた。簡単に押し切られるようでは執事は務まらない。たとえ主が相手でも、毅然と対応しなければならないこともあるのだからと。
理解はしていても、やはり性格によるところが大きいので改善は難しく——。
「ねえ、ジョンはあしたから五日間おやすみ取れる?」
そんな折、アンナとお昼ごはんを食べていたら唐突にそう尋ねられた。いつもと変わらない軽い口調だが、その内容は軽くない。五日間もの連続休暇なんてこれまで一度も取ったことがないのだ。
「急にそんなこと言われても……」
「ちょっとつきあってほしいの」
「え、つきあうって?」
「カーディフの街に行きたくてね」
それは隣の領地でいちばん賑やかな街である。
ジョンも王都からここに来るときに通りかかったことがあった。馬車で二時間かからないくらいの距離なので、このあたりから遊びに行くひとも少なくないが、普通は日帰りか一泊程度だろう。
「五日間もいったい何するの?」
「楽しいこといっぱいしたくない?」
「あ、うん……休めるか聞いてみる」
訝しみながらも、なかなか破壊力のある誘い文句につい頷いてしまった。特別な意味がないことくらいわかっているのに。彼女はジョンのことを弟のようにしか思っていないのだから。
グレアムと先輩執事に明日から五日間の休暇を申し出たところ、快く了承してくれた。
アンナとカーディフの街に遊びに行くからと正直に理由を言ったら、先輩からは気のせいか生温かい視線を向けられた。何か言われたわけではないので素知らぬふりをしておいたけれど。
「ええっ、そんなのダメだよ! やめようよ!」
翌日、カーディフの街に到着して宿を取ったあと(部屋はもちろん別々だ)、中央広場のテーブルで移動販売のサンドイッチを食べていると、アンナがとんでもないことを言い出した。本当はウィンザー公爵家の結婚を潰すために来たのだと——。
「もうっ、情けないこと言わないの!」
「情けないとかじゃなくて絶対ダメだよ」
「ロゼリア様の命令よ」
「いくら主の命令でも断らなきゃ」
「…………」
アンナは思いきり不服そうな顔をしてジョンを睨み、口をとがらせる。
「あいつはね、婚約者だったロゼリア様を自分勝手な理由で捨てたクソ野郎なの。そのせいでロゼリア様は社交界で嘲笑されて、あげく悪役令嬢なんてレッテルまで貼られることになったわ」
「ああ、あの小説の……」
どうやらロゼリアはいまだに当時のことを恨んでいるらしい。だからといって侍女に復讐を命じるなんて悪役令嬢そのものでは——思わず眉をひそめるが、アンナはさらに前のめりになって訴えてくる。
「なのにあいつは素知らぬ顔で元同級生と幸せになろうとしてる。もちろん同性の彼とは結婚できないから、彼の娘さんと結婚するというかたちでね。ロゼリア様との婚約解消も実はそのためだったらしくて」
「ちょっと待って、ロゼリア様の元婚約者って、え……男色なの?」
「あんた知らなかったんだっけ。あいつがロゼリア様と婚約解消したあとで明らかになったのよ。当時の王都では有名な話だったし、うちの使用人も女ならだいたいみんな知ってるんじゃないかな」
ぞわぞわと悪寒が走り、いまにも吐きそうなくらい気持ちが悪くなってうつむく。そんなジョンの様子に気付いていないのか、アンナは雲ひとつない青空を見やりながら頬杖をついた。
「いまの婚約者だってかわいそうよ。まだ十五歳なのに、そんなことのために男色のおっさんに嫁がされるだなんて。自分を利用して父親と夫がよろしくやってるとか、考えるだけでぞっとするわ」
「……やる」
ジョンは低く唸るようにそう言うと、テーブルの上に置いていた手をグッと握りしめて顔を上げる。
「そいつの結婚を潰そう」
「ほんと?!」
そんなことをしてはいけないと頭ではわかっているのに、激情には抗えなかった。やはり男色なんて変態のケダモノのクズばかりなのだ。このまま思いどおりになんか絶対にさせない——。
「それで、どうすればいいの?」
「ここからそう遠くないところに婚約者の家があるの。五日後の結婚式までに公爵家へ向かうはずだから、婚約者の家を見張って、その馬車が来たらこっそり壊すってのはどうかしら?」
アンナの案は冗談かと思うくらいひどかった。
考えてみれば彼女に緻密な計画など立てられるわけがなかった。行動的ではあるが思慮深いほうではないのだ。呆れたような落胆したような疲れたような気持ちになりつつ、溜息まじりに言う。
「そんなの代わりの馬車を呼ぶだけだよ」
「結婚式には間に合わないかもしれないじゃない」
「だからって結婚自体はなくならないだろ」
反論すると、アンナは思いきり口をとがらせて不満を露わにする。
「じゃあどうすればいいのよ」
「急に言われたって……」
だいたい結婚を潰すなんてとんでもなく大変なことなのだ。失敗して捕まりでもしたらただではすまない。だからこそ本当は時間をかけて慎重に策を練るべきなのに。そんなことをモヤモヤと考えながら眉をひそめていると。
「そうだわ!」
アンナが両手を合わせ、わくわくしたような表情でグイッと身を乗り出す。
「婚約者を襲うってのはどうかしら?」
「ええっ、ダメだよそんなの!」
「衆人環視で肌をさらす程度よ」
「婚約者は悪くないのにかわいそうだろ」
「でも彼女の救済にもなるでしょ」
ジョンは渋面で逡巡する。自分の父親に懸想する男色家に嫁ぐよりはいいのかもしれないが、何も悪くない彼女を辱めるのはやはりかわいそうだ。そもそもこれで婚約破棄になるかも微妙だろう。
「もっといい案を考えるからちょっと待ってくれる?」
「じゃあこれはプランBってことで」
いい案が浮かばなければ婚約者を襲うはめになる。
ジョンは難しい顔をしたままサンドイッチにかぶりついてジュースを飲んだ。いつのまにか残り少なくなっていて、それに気付いたアンナが近くの移動販売でおかわりを買ってきてくれた。
「どう? 何か思いついた?」
「うーん……」
考えようとはしているものの空回りして何も考えられない。あまりにも情報がなさすぎるのだ。ピースがないのにパズルを完成させろと言われても無理である。ほとほと困り果てた、そのとき——。
「あっ!」
そう声を上げたアンナが、ジョンをつついて広場の入口のほうをこっそりと指さす。そこには一組の男女がいた。二人で並んで話しながらこちらのほうへ足を進めてくる。
「あいつがロゼリア様の元婚約者リチャード・ウィンザーよ。まさかこっちに来てたなんて……隣の子はリチャード様の婚約者ね。めずらしいストロベリーブロンドだから間違いないわ。デートなのかしら」
男性のほうは黒髪ショートヘアで圧倒的にスタイルがよく、少女のほうはピンクがかったふわふわのブロンドでかわいらしい雰囲気だ。二人とも遠くからでも目を引いた。不覚にもお似合いだと感じてしまったけれど。
えっ——。
ほど近いところを二人が通りすぎる瞬間、ドクンと心臓が跳ねた。
よく見ると別人だったが、そのとき目にしたリチャードの顔がすこし似ていたのだ。八歳のジョンを買おうとしたあの伯爵に。当時のおぞましい記憶と恐怖が一気にぶわりとよみがえった。
「え、ちょっとジョンどうしたのよ」
「ううん……」
顔面蒼白になっている自覚はあった。意識的にゆっくりと呼吸してどうにか気持ちを落ち着けると、ふいにひとつの案がひらめき、額に脂汗をにじませながらもニッと挑発的な笑みを浮かべる。
「あいつを犯罪者にすればいいんだ」
「え、どういうこと?」
「男色のあいつに僕を襲わせる」
「そう都合よく襲ってくれるかしら」
「まわりにそう思わせるだけだよ」
そう答えると、喉の渇きを自覚してジュースを一口飲み、思案をめぐらせつつ言葉を継いでいく。
「まずは理由をつけてあいつを宿の部屋に連れ込むんだ。そこから僕がビリビリに服を破かれた状態で悲鳴を上げながら飛び出してくれば、襲われたってみんな信じてくれると思う。あいつは男色なんだから」
「なるほど! それなら結婚も潰れそうね!」
アンナはパッと笑顔で両手を組み合わせながら同調した。その音量の大きさにジョンがあわててシーッと人差し指を立てると、彼女はゴメンと小さくなる。
「でもどうやって宿に連れ込むわけ?」
「ジュースをかけて、おわびに服を洗うとか言えば連れ込めると思う」
「へぇ、なかなか上手いこと考えるじゃない」
横目でリチャードたちを窺うと、通行人の邪魔にならないところで何かやりとりをしているようだった。ジョンはジュースの入ったカップを手にして立ち上がる。
「アンナは離れてて」
「わかったわ」
彼女が頷くのを見て、カップを持ったままリチャードのほうへ足を進める。背後にまわりこんで近づくとわざと肩からぶつかった。
「あっ!」
ジュースが彼のシャツに上手くかかった。白い袖にべっとりと滴るくらいオレンジ色が染みている。
「ああっ、すみません!!」
「いいよ、仕方ない」
彼は苦笑しながらそう応じた。本性はとんでもないクズのくせに、外面だけはいいのか好青年のような対応だ。腹立たしく思うものの表情には出さない。
「そのシャツ僕に洗わせてください!」
「え、洗う……?」
「泊まってる宿がすぐそこなので」
「いや、そこまでしてくれなくていい」
「それじゃあ僕の気がすみません!」
「だが、連れもいるし……」
「できるだけ急いでやりますので!」
上目遣いで見つめつつグイグイと距離を詰めていく。彼は困惑しながらも、溜息をついて「わかった」とあっさり受け入れてくれた。やはり男色だけあって男に迫られると弱いのだろう。
「お嬢さんはこちらでお待ちくださいね」
宿に入るとすぐ、ジョンはついてきた婚約者の少女にそう告げる。
心細そうに頷いた彼女に、リチャードはなるべく早く戻るよと微笑みかけ、受付の男性従業員にも彼女のことを頼んでいた。自分が幸せになるために必要な存在だからか、大事にはしているようだ。
「ここです、どうぞ」
リチャードをつれて二階に上がると、客室に案内する。
宿を取ってすぐに出てきたので、着替えの入った鞄がひとつ置いてあるだけのきれいな状態だ。あちこちに目を走らせているので警戒しているのかもしれないが、何もないのだから何も見つけられはしない。
「シャツ、洗いますので脱いでくださいね」
「ああ……」
彼はどこか躊躇いがちにシャツのボタンに手をかけると、動きを止めた。
「なあ、悪いんだけど向こうを向いててくれるか? 同じ男とはいえ、そんなに熱心に見つめられると落ち着かない」
「あっ、すみません」
ジョンは素直に背を向けたものの、すぐに後悔する。
男色相手に軽率すぎた。細身ながらもしっかりと筋肉がついている彼なら、ひょろっこい非力なジョンなど簡単に組み伏せられる。背後からなら口をふさぐのも容易だ。そうなれば助けも呼べないまま体を暴かれてしまう——。
「脱いだぞ」
背中越しの声にビクリとした。
それでも何でもないかのような素振りで向きなおると、いきなり上半身裸の彼から脱いだシャツを放り投げられて、あたふたと受け取る。どうやら襲うつもりはなかったようでひそかにほっとした。
「では、洗ってきますね」
ニコッと人好きのする笑みを浮かべて応じると、いよいよ心の準備をしつつ扉のほうに向かう。ここからが正念場だ。彼に背を向けたまま扉のまえでそっと足を止め、そして思いっきり息を吸い——。
「やめてください!! 許してくださいっ!! ああーーーッ!!!」
全力の悲鳴を上げる。
同時に自分の着ているシャツを両手で引き裂き、不規則に扉に体当たりして乱暴な音を立てると、叩きつけるようにそれを開け放って飛び出した。そのまま階段を駆け下り、驚く男性従業員の背中にまわりこんで縋り付く。直後、リチャードが上半身裸のまま必死に追いかけてきた。
「助けてください! あのひとの服を洗ってあげようと脱いでもらったら、いきなりベッドに押し倒されてシャツを破かれて、もうすこしで襲われるところだったんです!」
「俺は何もしていない。こいつが急に一人芝居を始めたんだ」
「嘘です! 嫌だって言ったのに、押さえつけてキスして体をまさぐってきたじゃないですか! 僕が隙をついて逃げ出さなかったら強姦されてました!」
彼はわずかに眉をひそめて口を閉ざした。どうすればいいかわからなくて苦慮しているのだろう。いくら否定したところで、どちらに信憑性があるかなど状況から一目瞭然である。なのに——。
「それはおかしいですね」
背後から涼やかな声が上がった。
怪訝に振り返ると、すこし離れたところに彼の婚約者である少女が座っていた。彼女は冷たく怜悧なまなざしでジョンを見据えたまま、椅子からすっと立ち上がる。
「わたしがここで待っていることも、宿の方がここにいらっしゃることも、リック様はご存知でした。それなのに軽率に襲ったりするでしょうか。悲鳴も物音も丸聞こえなくらい近い部屋なのに」
「それはっ……あのひとが男色のケダモノだからです! 我慢できなかったんです!」
思わぬ指摘に焦り、ジョンは後ろのリチャードを指差して言い募る。稚拙な反論だという自覚はあるが、とっさのことでそれしか思いつかなかったのだ。やはりというか彼女の顔色は変わらなかった。
「リック様が男色かどうかは存じ上げません。ですが、いずれにしてもそのような無体を働く方ではないと、わたしは信じています」
「ぐっ……」
形勢は明らかにジョンのほうが不利である。だからといってここで引き下がるわけにもいかない。じわじわと額に汗がにじんでいくのを感じながら、どうにか頭を働かせようとしていると。
「ジョン! プランBよ!!!」
どこからかアンナの声が響いた。
一瞬、何を言っているのかわからなかったが、すぐに思い出した。あんなことはしたくないしするつもりもなかった。でも——グッと歯を食いしばり、ほとんどやけっぱちで婚約者の少女に突進していく。
ごめん!!
彼女の衣服を破こうと胸元に大きく手を伸ばした、その瞬間——腕を取られて視界がまわった。そして何が起こったのかわからないまま、激しい音とともに背中側を打ち付けられた。
「うっ……」
顔をしかめてうめきながらゆるくまわりを見まわして、ようやくテーブルや椅子の上に投げ飛ばされたのだと理解した。信じられないが、あのふわふわした髪の華奢で可愛らしい少女に。
「起きろ」
ジョンの二の腕を掴んで冷ややかにそう命じたのは、見知らぬ青年だった。
返事をする間もなく無理やり引き立たせられて、後ろ手で拘束される。打ち付けられたところがまだジンジンと痛むものの、骨は折れてなさそうな感じだ。内出血くらいですむのではないかと思う。
「痛っ! 乱暴にしないで!!」
耳をつんざくような悲鳴はアンナのものだ。
ハッとして振り向くと、彼女も自分と同じように後ろ手で拘束されていた。かなり抵抗したのか髪が乱れている。ジョンとしては彼女だけでも逃げてほしかったが、もうどうにもならない。
しかし捕まったときのことまでは考えていなかった。いまからでは彼女と話を合わせることもできない。ジョンとしてはポートランド家に迷惑をかけたくないので、素性は隠したいのだが——。
「おまえには見覚えがある。ロゼリアの侍女だな。俺を陥れるよう命じられたか」
「…………」
隠すまでもなく知られていた。
そういえばリチャードはかつてロゼリアと婚約していたのだ。当然ながら専属侍女の顔くらい目にしていただろう。アンナは覗き込んできたリチャードから顔をそむけるが、いまさらもう遅い。
「来い」
拘束された二人の身柄はリチャードたちから衛兵に託されて、詰所と思われる場所に連行された。部屋は別々だ。連行されるときも、連行されてからも、二人が言葉を交わすことは許されなかった。
「あの、アンナは悪くないんです。だから……」
「後ほどリチャード様に申し上げろ」
アンナだけでも助けたくて訴えてみたものの、取り付く島もない。
ジョンは拘束されたままひとり部屋に残される。別室の彼女がどんな扱いをされているのか心配だが、悲鳴や物音のようなものは聞こえてこないので、すくなくとも暴力は受けていないのではないかと思う。
空腹を感じ始めたころ、ふいに勢いよく扉を開けてリチャードが入ってきた。彼は簡素な椅子に座るジョンを冷ややかに一瞥すると、机をはさんだ向かいにある同じ椅子に荒っぽく音を立てながら座った。
「名前、年齢、身分を明かしてもらおう。言っておくが、隠し立てはためにならないぞ」
「……ジョン、十八歳、ポートランド家の従僕です」
アンナがロゼリアの侍女だと知られている以上、隠しても無駄だろう。躊躇する気持ちはあるものの正直に話すしかなかった。
「どうしてあんなことをした?」
「あなたの結婚を潰せとロゼリア様に命じられました」
「それで君たちはただ従っただけというわけか」
「主の命令には逆らえません」
「人を殺せと命じられても粛々と従うのか?」
「それ、は……」
そう、リチャードの結婚を潰せと命じられたという話も、最初に聞いたときは止めなければならないと思っていたのだ。盲目的に従うべきではないとわかっていたのだ。それなのに——。
「あなたがいけないんだ!」
胸のうちで渦巻いていた怒りがふくれあがって爆発した。彼を睨めつけ、後ろ手で拘束されたまま噛みつかんばかりに前のめりになる。
「男色のくせに幸せになろうだなんて間違ってる! それもまだ若い娘を利用して! 不幸にして! かわいそうだと思わないのか! こんな非人道的な結婚は潰さなきゃいけないんだ!!!」
「……大きなお世話だな」
リチャードはわずかに眉をひそめて吐き捨てると、鷹揚に腕を組んだ。
「そのせいでポートランド家は罰せられることになる。使用人に命じて公爵家を陥れようとしたんだ。下手したら領地没収や爵位剥奪もあり得るかもな」
「そ……んな……!」
ジョンの顔から一気に血の気が引いた。
ポートランド家が責任を問われるかもしれないとは思ったが、まさかここまでとは思わなかった。いつかグレアムに恩返しをするために働いてきたはずのに、どうしてこんなことに——。
「君たちの処分は追って連絡する」
リチャードは冷ややかに告げて席を立ち、退出した。
狭く殺風景な部屋で、拘束されたままひとり椅子に残されたジョンは、ただ呆然とうなだれることしかできなかった。
翌日、ジョンとアンナはポートランド家に移送されることになった。
処分についてはまだ何も聞かされていない。
怖くてたまらないが、それはアンナも同じようでひどく顔をこわばらせている。もう会話することは禁止されていなかったものの、ごめんと言い合ったきり二人とも無言で馬車に揺られていた。
ポートランド家に着くと、待ち構えていた家令に書斎へ行くよう命じられた。そのまえに彼にも謝ろうとしたものの、事務的に拒否される。まずは主であるグレアムにということのようだ。
「申し訳ありませんでした!!!」
書斎に入り、グレアムの姿を目にするなりジョンは土下座をした。隣ではアンナも同じく土下座をしている。いまの自分たちにできるのはこのくらいしかなかった。
「座りなさい」
静かに、いつもと変わらない落ち着いた声音でグレアムが言う。
それでもとても彼と目を合わせることはできず、視線を落としたままアンナとともにソファに腰を下ろした。向かいにはグレアムとロゼリアが並んで座っている。
「ジョン、アンナ」
ゆっくりと重々しく名を呼ばれると、グッと奥歯を食いしめつつおそるおそる顔を上げる。グレアムはいつもの無表情だったが、見慣れているはずのそれがいまはとても怖く感じられた。けれど——。
「今回の件は、ウィンザー卿の温情により不問に付された」
「えっ?」
予想外の言葉にきょとんとしてしまった。
それでもグレアムは淡々とつづける。
「ただし、君たちには主であるわたしから五日間の謹慎を命じる。この程度ですませるのはロゼリアにも責任があると判断したからだ。ウィンザー卿がお許しにならなければ、我がポートランド家は取りつぶされていたかもしれない。君たちがしでかしたのはそういうことだと理解してほしい」
「はい……本当に申し訳ありませんでした」
「わたしたちがいつも正しい命令を下すとは限らない。もちろん正しくあろうとはしているが、人間だから間違うこともある。今後、不当な命令を受けたのではないかと思ったときには、遂行するまえに必ず家令や執事に相談しなさい。決して自分たちだけで判断することのないように」
その話を真摯に真剣に噛みしめながら、ジョンは深く頭を下げた。
「……アンナ」
今度はロゼリアがそう声をかけてきた。いつもと違い、どこか申し訳なさそうで遠慮がちな響きが感じられる。ジョンは顔を上げたが、呼ばれた当人であるアンナはまだ頭を下げたままだった。
「わたくしはあなたに謝らなければなりません。命令のつもりはなかったけれど、そうとられてもおかしくないことを口にしました。あなたには申し訳ないことをしたと心から反省しています」
「違うんです!」
アンナはパッと顔を上げて訴えた。
「ロゼリア様が本気で命じたわけではないということは、わかっていました。それでもロゼリア様にひどい仕打ちをしたリチャード様が許せなくて、だから結婚を潰そうとしたのはわたし自身の意思です」
そう告げると、一拍の間をおいてさらにつづける。
「ジョンも悪くありません。わたしが何も言わずにカーディフの街に連れて行って、ロゼリア様の命令だと嘘をついて手伝わせました。ジョンは必死に止めようとしてくれたのに無理やり……」
「無理やりではありません」
ジョンはとっさに割り込んだ。自分の心情まで明らかにするつもりはなかったが、彼女ひとりを悪者にしたまま知らんぷりはできない。緊張のせいか血の気が引いていくのを感じながら、あらためて口を開く。
「僕が結婚を潰そうとしたのは僕自身の意思です。確かに最初は止めようとしたんですけど、リチャード様が男色だと聞いて感情が昂ぶって……しかも顔があいつと似ていたから当時のことを思い出して……」
話しているうちに、いつしかぽろぽろと涙がこぼれ落ちていた。
あのときのことで泣いたのはこれが初めてだ。いまさらどうしてと思うが、涙腺が壊れてしまったかのように涙が止まらない。当惑した視線から逃れるように両手で顔を覆いながら上体を伏せた。
「すまなかった、ジョン……気付いてやれなくて」
申し訳なさそうなグレアムの声に、ジョンはそのままの体勢でふるふると首を横に振った。グレアムには何の非もない。自分でさえ、こんなトラウマになっていたなんて知らなかったのだから。
みんな何も言わずに待ってくれた。
ひとしきり泣いて落ち着くと、濡れた頬を手で拭いつつおずおずと顔を上げる。グレアムはいつもと変わらず無表情のままだったが、ロゼリアとアンナは気遣わしげな顔でジョンを見ていた。
「すみませんでした。もう大丈夫です」
そう言い、ぎこちないながらも笑ってみせる。
それでもまだアンナは困惑したような怪訝な面持ちをしていた。そういえば彼女はジョンの過去を知らないのだ。そもそもどうして泣いたのかさえわかっていないのだろう。だから——。
「アンナにはあとでちゃんと話すよ」
「……いいの? 無理してない?」
「うん」
中途半端に聞かされたままではアンナも気になるだろうし、どうせなら自分の口から伝えたい。それがジョンの望みだ。これまで誰にも話そうとしたことがなかったけれど、アンナにならきっと話せると思う。
そんな二人を見て、グレアムはこころなしかほっとしたように息をついた。
「ところで、ウィンザー卿の名誉のためにひとつ言っておくと、彼は男色ではないそうだ」
「……えっ?」