遠くの光に踵を上げて

第13話 闇と静寂のひととき

 アンジェリカたちがアカデミーに入学してから約四ヶ月が過ぎた。あと二週間ほどすると期末休みに入るのだが、その前にひとつ、重要なイベントが待っていた。期末試験である。

 図書館の窓際の席。三人は大きな机に並んで座っていた。
「まだやっていくの?」
 リックはぐったりと机に伏せる。しかし、隣のふたりは目もくれない。ただ淡々と書物やノートに向かっている。
「もう九時過ぎてるよ」
 返事のないふたりに向かって、覇気のない声で畳み掛けた。
「帰りたきゃ、先に帰っていいぜ」
 ジークは書物から目をそらすことなく、素っ気なく答えた。
「アンジェリカは? そろそろ帰った方がいいんじゃない?」
 返事のなかったアンジェリカの方に振ってみた。
 まだ子供なんだから——そう付け加えようとしたが、やめておいた。それは彼女の最も言われたくない言葉であることがわかっていたからだ。
「そう……。じゃ、先に帰るよ」
 机の上に広げていたノート、筆記具を鞄の中にゆっくりと収めていく。
「僕、もうホントに疲れちゃって。ゴメンね」
 片眉をひそめ、右手をひたいの前で立て、申しわけなさそうに許しを請う。肝心のふたりは見ていなかったが、そうせざるをえない気持ちだったのだ。
 そして音を立てないように立ち上がり、ドアに向かってゆっくり歩き始めた。
「またあしたね」
 背後から唐突に聞こえた高い声。リックはその声に振り返った。ようやく顔を上げたアンジェリカが少しだけ笑って、顔の横で小さく手を振っていた。
 リックもつられて笑い、同じ動作で返した。少し、安堵の色が見えた。

 リックの根性がないというわけではない。アンジェリカ、ジークとの力の差なのだ。
 試験期間中の授業は午前のみ。午後は自己鍛練の時間となる。体力トレーニングに魔導力を高めるための瞑想、ヴァーチャル・リアリティ・マシン(通称 VRM)と呼ばれる機械でのシミュレーション。それらを日が落ちるまで続け、その後、夜九時過ぎまで、図書館や教室で文献を調べたりノートの整理をしたりする。
 そんな生活が、もう一週間も続いていた。
 特に VRMでのシミュレーションは、実戦と同程度の体力、精神力、魔導力を使う。それを連日行うということは、力のない者にとっては自殺行為にも等しい。
 リックもずっとふたりに付き合って頑張ってきたが、そろそろ限界にきていた。悲しいことだが、実力が違い過ぎていたのだ。同じメニューをこなそうとするのが無謀だったといえる。リックは自分自身でそのことは感じ始めていた。
 しかし、アンジェリカとジークが楽々とこのメニューをこなしているというわけではない。リックほどではないが、やはり疲労がたまってきている。その体を支えているのは、お互いに対する「負けたくない」という気持ちであった。

「おまえ、まだやっていくのか?」
 本をめくる手を止めずにジークが尋ねる。が、アンジェリカの返事を待たずに、続けて言った。
「子供が夜ふかしするなんて、体に悪いぞ」
 アンジェリカの動きが一瞬止まる。
「たいして歳も違わない人に子供扱いされたくないわ!」
 ジークの方に向き直り、両こぶしを振り下ろして、怒りをあらわにする。
「たいしてって八つも違うだろ。子供に子供って言って何が悪いんだ」
 ジークは冷静に火に油を注ぐ。アンジェリカは思いっきりほほを丸くしていたが、上手い返答を思いつかなかった。仕方なく、怒りを残したまま本に向き直った。

 そして、またしばらく、静かに時が過ぎていった。

「俺、そろそろ帰るわ」
 静寂をうち破るジークの声。
「おまえはどうする?」
 アンジェリカは慌てて正面の壁の掛時計を見る。間もなく十一時になろうとしていた。

 いつも帰りを切り出すリックを先に帰してしまったことで、またお互い意地を張り合っていたことで、帰るタイミングをつかめないままこんな時間になってしまっていた。
「私も帰る」
 帰ると決めた途端、気が抜けたのか急に眠気が襲ってきた。口元を隠すこともなく、大きくあくびをする。
 その様子にジークの緊張もふいに緩む。
「ちょっと! いま笑ってたでしょ? なに笑ってるのよ!」
 あくびで潤んだ目を拭いながら、アンジェリカが食って掛かった。
「笑ってねぇよ」
 そう言いつつも、少し戸惑った様子で顔をそむけた。
「ほら、早く片付けろ。行くぞ!」
 照れ隠しからか、背中を向け、短くまくし立てる。そしてさっさとドアの方へ歩き出した。
 その声につられて、アンジェリカは慌てて鞄の中に本を押し込み、小走りでジークの後を追いかけた。

 ふたり並んで無言のまま歩く。ザッ、ザッ。薄い砂のこすれる音だけが明かりのない空間に響く。
 アカデミーの門をくぐり通りに出たところで、アンジェリカは足を止め、ようやく口を開いた。
「それじゃね。またあした」
 そう言った目の前を、ふいにジークが横切っていった。
「え? ちょっ……。ジークのうちはあっちでしょう?」
 無言で歩き続けるジークを小走りで追いかける。大きく伸ばされた右手は、体とは反対を指している。
「おまえんちはこっちだろ」
 ぼそっとぶっきらぼうにつぶやく。送っていく、と素直に言うのが照れくさいらしかった。
「わたし、ひとりで帰れるのに」
 笑っているのか怒っているのか戸惑っているのか、微妙な表情と声。ジークの気持ちは嬉しかったが、それを素直に表現するのは照れくさい。また、嬉しいけれども子供扱いされているのではないかという不安や不満もある。それらが入り混じって複雑な表情を作り上げていた。

「まっすぐでいいのか?」
「うん。ずっとまっすぐ」
 ジークの斜め後ろをついて歩く。
 再び訪れる沈黙。夜の静寂に、ふたりの靴音だけが浮かび上がる。
 アンジェリカは何か話をしたい衝動に駆られたが、何を話していいのかわからず、もやもやした気持ちのまま沈黙を続けた。

「俺、こっちの方に来たことはほとんどないんだよな」
 静寂を破ったのはジークだった。歩きながら隣の王宮を見上げている。
 王宮とアカデミーは隣り合って建っていて、ふたりは今、その前の通りを歩いているのだ。ジークの家は反対方面のため、特別な用でもない限り、こちらに来ることはない。
 王宮の門の前に差しかかると、ささやかながら明かりがともっていた。そしてその明かりの下に、見張りの衛兵がふたり立っていた。
 不審者に間違われたら嫌だな、そんなことがふとジークの頭をよぎった。だが、というかそれだからこそ、平静を装い通り過ぎようとしていた。
 そのとき、ふたりの衛兵が同時にこちらに向けて頭を下げた。予想外の出来事に、ジークは何が起きたかわからず、うろたえてまわりをきょろきょろ見回す。そして目に入ったアンジェリカの様子に、ようやく事情が飲み込めた。
 アンジェリカは衛兵に軽く会釈をしていた。そう、つまり、衛兵はジークではなくアンジェリカに礼をしていたのだ。考えてみれば当然のことである。

 衛兵を後にし、少し離れたところでジークが口を開いた。
「さっきの、お友達か?」
「……それ、皮肉?」
 アンジェリカは、見せつけるように、はぁと大きくため息をついた。
「あの人たちは、私じゃなくてラグランジェ家に頭を下げたの。わかっているんでしょ」
 そうじゃなきゃ、私なんて……。その言葉は心の中だけにとどめた。
「そういうもんなのか」
 ジークは納得しきれないようで、首をかしげていた。

「あ。ここよ、うち」
 そう言って、アンジェリカは歩みを止めた。ジークも足を止める。そしてまわりを見渡した。しかし、どこにも民家らしきものは見当たらなかった。
「……どこだ?」
「だから、ここ」
 人さし指で指し示す。その方向を目で追う。見る。見上げる。
「……これ、まだ王宮だったんじゃねぇの?」