遠くの光に踵を上げて

第15話 交錯するそれぞれの想い

「ジーク! きのうは女の人のところに泊まったんだって?!」
 アカデミーの門をくぐったところで、リックは大声でわめきながら、ジークの背中へ全速力で駆けていった。
 ジークはぎょっとして振り返り、一歩後ずさった。しかし、引いた足をすぐに戻すと、体勢を立て直し、逆にリックの方へ一歩踏み込んだ。
「おまえは誤解を招くようなことを、そんな大声で言うな!」
 そういうと、腕を組んで、はぁと大きくため息をついた。
「おふくろが言ったんだな。違うって言ってんのに…」
 半ば呆れ顔、半ば諦め顔で、ジークはうなだれる。
「なんだ。違うの?」
 リックの問いに、冷めた笑いで返す。
「俺が泊まったのはコイツんち」
 親指を斜め下に向ける。その先にはアンジェリカが無表情で立っていた。
「あのあと?」
 リックが視線を向けると、彼女は少し目を伏せ、わずかに顔をそらした。そして半開きになっていた唇をほんの少しとがらせると、後ろで手を組み、右足をカツンと地面に軽く打ちつけた。
 リックは、彼女のしぐさの意図することがわからず、不思議そうな顔をした。が、ジークはそんな彼女の様子にまったく気づく様子もない。
「なんか、成りゆきでな」
 表情を変えずに、ただ冷静に答えている。
「へえ、そうなんだ」
 リックは相槌を打ちながらも、アンジェリカの様子が気になって、それ以上深くは聞けなかった。なぜだか聞いてはいけないような気にさせられたのだ。そのまま、リックは押し黙ってしまった。ジークもあえて口を開こうとはしない。
 立ち止まったまま、三人に沈黙が流れた。

「いつまでこんなところで立ち話してる気?」
 その沈黙を破ったのはアンジェリカだった。小さい声だったけれど、どこか強気を感じさせるその口調はいつもと変わらない。少なくともリックにはそう思えた。彼はようやく少し安堵した。

 キーン、コーン──。
「今日はここまでだ」
 終業のチャイムと共に授業は切り上げられた。教壇の上のラウルはチョークを投げるように置くと、左手の上に広げられていた教本を勢いよく閉じた。
「明日からは試験だ。それなりに難しいので覚悟しておけ」
 その捨てゼリフを残して、教壇を降り歩き出した。そして、扉に手を掛けようとして振り返った。
「アンジェリカ」
 静まり返った教室に、その声が響きわたる。
 一斉に注目を浴びたアンジェリカは、少し動揺したのか、立ち上がろうとして机の上の本を床に落としてしまった。
 慌てて拾うと、それを持ったまま小走りでラウルのもとに駆け寄り、ふたりで教室を後にした。
「前から思ってたけど、あのふたりってどういう関係?」
 呆然としていたジークに、セリカは後ろの席から身を乗り出し、声をひそめて話しかけた。
「俺が知るかよ」
 ジークはぶっきらぼうに答え、ノートなどを乱暴に鞄に投げ込み始めた。
「なんか、昔の知り合いらしいよ」
 ジークの態度を見かねて、リックが横から苦笑いしながら口をはさんだ。
「ふーん、そう」
 リックの答えが期待に沿うものではなかったのか、あまり興味がなさそうな相槌を返した。
 ジークが鞄を右肩に引っ掛けて立ち上がると、セリカも慌てて鞄をつかんで立ち上がった。
「ジーク。今日も残って勉強とかやっていくんでしょ?」
 すでに教室を出ようと歩き始めているジークの背中に向かって声を投げる。
「いや。今日は帰る」
「え? そうなの?」
 意外な答えに呆気にとられている間に、ジークは教室の外に出ていってしまった。
 リックは顔の前で右手を立てた。
「ごめん。今日は機嫌が悪いみたい」
 申しわけなさそうな顔をすると、ジークを追って教室を後にした。

「うまく、いかないわね」
 小さな声でセリカがつぶやく。もう彼の姿が見えなくなったその扉を、ただずっと眺めていた。

「ねえ。何の用なの?」
 アンジェリカは、ラウルの歩調に合わせるため、ときどき走ったりしながらついていっている。
「顔色が良くない。どうせジークと張り合って無理してたんだろう。今日くらいはゆっくり休め」
 その足を止めることなく、ラウルが答える。
「無理なんかしてないわよ」
 自分が見くびられたように感じて、不満の色をその声に思いっきり含ませていた。
 するとラウルは彼女の方へ向き直り、片ひざを立ててしゃがみこんだ。両手を彼女の肩へのせ、まっすぐ目線を合わせる。
「たまには私のところへ来い」
 彼は真顔で言った。
 それが本心なのか、それとも自分を説き伏せるためなのか。どちらか判別がつかず、アンジェリカは少し頭が混乱していた。手に持っていた本を抱え込み、ぎゅっと抱きしめる。

 そこへ───。
「めずらしいわね。こんなところで会うなんて」
 聞き覚えのある声。アンジェリカとラウルが同時に声のした方を振り返る。
「お母さん!」
 そこには無邪気な笑顔をたたえたレイチェルが立っていた。彼女は軽く右手を上げて、アンジェリカに応えた。そしてそのあと、その視線を、アンジェリカからラウルへとゆっくりと移す。
「先生、こんにちは」
 わざと「先生」と呼んでからかっているのだということは、彼女のいたずらっぽく笑うその表情を見れば一目瞭然だった。
 ラウルは無言で立ち上がると、彼女の方に一歩踏み出した。
「アンジェリカのこと、よろしくね」
 レイチェルはラウルの目をまっすぐ見て、首を小さくかしげながら小さく笑った。
「……ああ」
 一拍の間をおいて、彼は静かに答えた。
「アンジェリカはこれからどうするの?」
 今度はアンジェリカに話を振る。
「私は、ラウルのところに……」
 まだ行くとは決めていなかったが、とっさに口をついて出てしまった。自分の言葉に一瞬とまどう。しかし、考える間もなく続けて畳み掛けられた。
「じゃあ、一緒に帰りましょう。私はこれからアルティナさんのところに行くから……四時すぎくらいかな? それまでラウルのところにいて」
 レイチェルは一方的に話を進めたあと、じゃあねと手を振り去っていった。
 ふたりはしばらく彼女の姿を目で追っていた。
 姿が見えなくなったところで、アンジェリカがひとりごとのようにつぶやく。
「うち、すぐ近くなのに。わざわざ一緒に帰るって……」

「アンジェリカの家はどうだった?」
 ずっと無言で歩いていたが、その沈黙に耐えかねたリックが、ジークに話を切り出す。
「でかかったな」
 一言だけの返事。しかし、リックはめげずに質問をした。
「アンジェリカのお父さんやお母さんとは会った?」
「父親は夜勤でいなかったが、母親とは会った」
 やはりそっけない返事。しかし、それもよくあることなので、リックはあまり気にしていないようだ。さらに続けて尋ねた。
「お母さんどうだった? アンジェリカと似てた?」
 リックのその問いかけに、ジークはふいにうつむいた。そして、しばらくそのまま考えを巡らせていた。
「……若かった」
 彼はぽつりとそれだけ答えた。