遠くの光に踵を上げて

第24話 10年前の傷跡

 応急処置の後、セリカは別室に移された。アンジェリカと同じ部屋に置いておくのは危険だというラウルの判断だった。
 ジークは、セリカのことも心配ではあったが、やはりアンジェリカのそばを離れることはできなかった。リックとともに、医務室の隅で立ったまま彼女を見守っていた。近くに行きたい気持ちはあったが、彼女の家族に遠慮してした。

 コンコン──。
 医務室の扉をノックする弱い音が聞こえた。ラウルが扉を開けると、そこにはくたびれた白衣を身にまとった、年配の医者らしき人物が立っていた。小柄で白髪、背中もやや丸くなっている。医者にしては頼りなく見えるとジークは思った。
 ラウルはその男に、二、三の言葉をかけると、持っていたカルテを手渡した。男はカルテに目を通すと、小さく二度うなずいた。そして、ラウルに短く何かを言うと、その場を立ち去った。
 ラウルは静かに扉を閉めた。
「ああ見えても優秀な医者だ。セリカの方は彼に任せることにした」
 それでもジークとリックに安堵の表情はなかった。

 サイファはアンジェリカのベッド脇に座り、彼女をじっと見守っていた。レイチェルも彼と並んで座り、アンジェリカの手を優しく握っていた。心配そうに顔を曇らせ、祈るように右手を胸に当てている。

「サイファ」
 ラウルは後ろから呼びかけた。サイファは表情を引き締め、振り向いた。ラウルは腕を組み、目でこちらに来るよう合図をした。サイファはそれに応じ、大きな足どりでラウルへと向かった。レイチェルは、不安げにサイファの背中を目で追った。
 ラウルとサイファは互いに顔を近づけ、小声で言葉を交わした。その話の途中、サイファは何度か小さく頷いていた。そして、ふたりで連れ立って足早に出ていった。

「お役所仕事があるのよ。ごめんなさい」
 レイチェルはジークたちに説明した。ふたりに心配させまいとしてか、無理に笑顔を作っている。
「いえ……」
 ジークはそう返事をするだけで精一杯だった。彼女の健気な様子に、胸が詰まる思いだった。
 彼女のいう「お役所」とは、サイファの勤めている魔導省保安課のことだった。アカデミー内で起こったこととはいえ、これほど大きな事件を放置しておくわけにはいかないのだろう。サイファも責任ある立場として、また関係者として、顔を出さざるをえない状況であることは想像がついた。
 レイチェルは、アンジェリカの手を両手で包み込んだ。沈痛な面持ちで、血の気のない顔を見つめている。レイチェルの顔色もショックと疲れで、かなり白くなっている。ジークはレイチェルの方も心配になってきた。

 ふと気がついて、レイチェルはジークたちに振り返った。
「おふたりとも、もう帰ってもいいのよ。いろいろとありがとうございました」
 そう言って、丁寧に深々と頭を下げた。ジークはあわてた。
「いえ、あの、俺たち、ここにいたいんです」
「そうです。このまま帰るなんて出来ません!」
 リックも懸命に力を込めて言った。レイチェルの表情が柔らかく緩んだ。
「では、せめて座ってください」
 ふたりは促されるままに、アンジェリカのベッドの隣に腰を下ろした。
 近くで見るアンジェリカは、ますます人形のようだった。肌だけではなく、唇さえも色をなくしていた。顔も体も、微動すら感じられない。息をしているのかさえわからなかった。そして、透明な管につながった針が、彼女の左腕の内側に刺されたまま、テープで固定されていた。その部分は赤紫に変色し、やや腫れているように見えた。それがあまりにも痛々しくて、ジークは思わず目をそらした。そして、爪が食い込むくらいにこぶしを強く握りしめ、奥歯を噛みしめた。

 そのまま、どれくらいの時間が経っただろうか。その場にいた誰も口を開かなかった。時が止まったかのように続く沈黙。ときどき聞こえる衣擦れの音だけが、かろうじて三人を現実世界につなぎ止めていた。

 ガラガラガラ──。
 ゆっくりと入口の扉が開いた。
 ラウル、続いてサイファが入ってきた。サイファはレイチェルのそばまで来ると、片膝をつき、彼女と目線を合わせた。
「相手のご家族の方が見えたそうだ」
 静かに、しかしはっきりとした口調で言った。その目はまっすぐレイチェルを捉えていた。
 レイチェルは小さく頷いて立ち上がった。その張りつめた表情には、先ほどまでの弱々しさは感じられなかった。
「すまないが」
 レイチェルに見とれていたふたりに、サイファは重々しく声を掛けた。ふたりははっとしてサイファに振り向いた。
「私たちが戻るまで、アンジェリカについていてやってくれないか」
「はい! 任せてください!」
 リックは力を込めて返事をした。ジークは真剣な表情で、こくりと首を縦に振った。
「ありがとう」
 サイファはにっこりと笑いかけた。だが、すぐにけわしい表情に戻った。
「行くか」
 ラウルを見上げ、レイチェルの肩に手をまわした。三人は互いに顔を見合わせると、連れ立って医務室をあとにした。

 王宮の地下へと続く長い階段を下り、三人は大きく重厚な扉へと辿り着いた。ラウルはその中央に両手をあて、ゆっくりと押し開けた。その向こう側には薄明かりが灯っていた。
「娘は?!」
 セリカの母親と思われる女性が、ソファから勢いよく立ち上がった。
「まだ会わせることはできない」
 ラウルは静かに言った。
 部屋にいたもうひとりの人物——セリカの祖父は、座ったまま上目遣いにラウルを睨みつけた。そして、順に入ってきたサイファ、レイチェルへと視線を移していった。
 サイファとレイチェルは、セリカ側の家族に一礼すると、向かいのソファに腰を下ろした。セリカの母親もそれにつられて、崩れるように腰を下ろした。
「今回の事件は、セリカ本人の意思で起こしたものではないと、私は考えている」
 ラウルは、ソファに座っている老人を目だけで見下ろした。老人は、頭を斜めに持ち上げ、鋭い視線を返した。
「ウォーレン=グレイス。数少ない催眠術師のひとりだな」
「もう引退したがな」
 静かな言葉のやりとりの間、セリカの母親はただひとり、落ち着きのない表情を浮かべていた。訝しげな顔を、ラウル、そして義父のウォーレンへと向けた。
「おまえがセリカに催眠術をかけ、アンジェリカを襲わせた」
 ラウルはウォーレンを冷たく見下ろして言った。
「ふっ」
 ウォーレンは小さく鼻で笑った。
「言い掛かりも甚だしい」
「動機は十年前」
 ラウルはウォーレンの言葉をさえぎるように、声を大きくして続けた。
「息子のリカルド=グレイスをラグランジェ家へ刺客として差し向けた。目的は生後間もないアンジェリカ=ナール=ラグランジェ抹殺のためだ。しかし、目的を遂げる前に、レイチェル=エアリ=ラグランジェに見つかってしまい、彼女の逆襲を受けた。リカルドはなんとか家へ辿り着いたが、そのときの傷がもとで三日後に死亡」
 セリカの母親は、ラウルに顔を向けたまま凍りついた。その目は大きく見開かれ、膝の上にのせられた手は小刻みに震えていた。
「今回の事件は、十年前の復讐のために企てられたのだろう」
 ラウルはウォーレンをじっと見据えて言った。しかし、彼はどっしりと腰を下ろしたまま、まったく動揺した様子を見せない。
「息子は事故で死んだ。おまえが何を言っているのか、さっぱりわからんな」
「おまえが認めなければ、セリカが罰を受けることになるが」
「脅しか。だが、どう言われても、違うものは認めようがない。だからといって、あの子が自分の意思でやったとは限らんだろう。誰か、他の催眠術師に操られていたのかもしれん」
 ウォーレンがわずかに口の端を吊り上げたのを、ラウルは見逃さなかった。
「他の人間には動機がない」
「動機ならワシにもない。息子が死んだのは事故だ」

 ——ガタン!
 今まで黙って座っていたレイチェルが立ち上がり、ローテーブルの上に右ひざをのせた。
「私が、殺したのよ」
 冷たく虚ろな目でウォーレンを見下ろした。そして、今度は左ひざをのせた。そのままドレスを引きずりながら、彼の目の前まで進んでいく。
「あなたの息子さんを殺したのは、私です」
 そう言って、右手を自らの胸に当てた。口を真一文字に結ぶウォーレンに、覆いかぶさるように屈みこみ、顔を近づけた。
「レイチェル! もういい!」
 サイファはしばらく成り行きを見守っていたが、耐えかねて声を上げた。手を伸ばし、彼女を引き戻そうとする。しかし、その手をラウルが強く掴んで止めた。サイファはキッと彼を睨みつけた。ラウルは彼女を利用してウォーレンから真実を引き出そうとしている。そのことはわかっていた。だが、このままではレイチェルがどうなるかわからない。それでも、これしか方法がないとしたら……。サイファは唇を噛みしめた。そして、すぐにでも行動を起こせるよう構えると、彼女とウォーレンの一挙手一投足を凝視した。
「私が憎いのでしょう?」
 レイチェルは無表情のまま、さらに煽った。彼女の口から漏れた息が、ウォーレンの立派な口ひげを揺らした。
「娘を傷つけただけでは、満足なんて出来ないでしょう?」
 ウォーレンの肩が小さく揺れた。
「詳しく話して差し上げましょうか。あの日あの部屋で起こったことを」
 冷たい声と挑発するような視線が、ウォーレンの脳を凍らせた。瞬きすら忘れ、眼前のレイチェルをその瞳に映し続けた。
 ───パサッ。
 レイチェルの髪が、肩からはらりと落ち、ウォーレンの頬をかすめた。その感触が、彼を現実に引き戻した。同時に、心の留め金が弾け飛んだ。
 ウォーレンは顔を歪めると、勢いよく引いた右手に、白い光球を作った。間髪入れず、レイチェルに向けて放とうとする。その瞬間、横からの光が、彼を弾き飛ばし、壁に叩きつけた。その光はサイファとラウルが同時に放ったものだった。
 ウォーレンは小さくうめき声を上げると、その場に倒れ込んだ。レイチェルは、糸が切れたマリオネットのように、テーブルの上に崩れ落ちた。
「レイチェル!」
 サイファはテーブルに飛び乗り、彼女の上半身を抱き起こした。頬に手を当て、心配そうに覗き込む。レイチェルはぼんやりと天井を見つめていた。その瞳から一筋の涙が流れ落ちた。サイファは親指で彼女の目尻を拭った。そして、彼女を強く、優しく抱きしめた。

 ラウルはウォーレンへと歩み寄った。
「もう、言い逃れは出来ないな」
 ウォーレンはよろよろと体を起こし、ラウルを睨みつけた。ラウルは腕を組み、冷たい目で見下ろした。
「知っていると思うが、催眠術を使っての犯罪は重罪だ」
「……化け物め」
 ウォーレンがそう吐き捨てたのと同時に、重厚な扉がゆっくりと開いた。そこから三人の男が入ってきた。彼らはサイファに一礼すると、ウォーレンへと歩いていった。そのうちのふたりがウォーレンを両側から抱えて立ち上がらせると、もうひとりは正面から呪文を唱えた。指先から現れた白い光の糸が、ウォーレンの両手を縛り上げた。三人は、そのまま彼を取り囲み、連行していった。

 残されたセリカの母親は、凍りついた表情でウォーレンの後ろ姿を見送っていた。
「何も知らなかったのだな」
 ラウルの言葉に、彼女は眉根を寄せて頷いた。
「十年前のことは、事故でないとは思っていました。お義父さまが何かを隠していることも感じていました。ただ、いくら聞いても答えてはくれなかった……」
 言葉の最後がかすれた。彼女は涙をこらえ、肩を小刻みに震わせた。
「来い。セリカに会わせる」
 ラウルは開け放たれた扉へ足を進めた。彼女も立ち上がり、弱々しい足どりでその後に続いた。

 ラウルは追い越しぎわに、サイファの背中を軽く叩いた。