遠くの光に踵を上げて

第39話 家出

「ここって、あなたの家じゃないの」
 アンジェリカの目の前には、彼女の家ほどではないが、かなり立派な邸宅が広がっていた。レオナルドの家である。拍子抜けしたような、あきれたような顔で彼を見上げた。
「他にあてはない」
「なるほどね」
 アンジェリカはため息まじりに言った。レオナルドはムッとして彼女を見下ろした。
「嫌なら帰るんだな」
「この際、仕方ないわね」
 アンジェリカは腕を組みながら再びため息をついた。お願いする立場であるはずの彼女が、なぜか偉そうな態度をとっていた。ケンカを売っているも同然な物言い。レオナルドにとっては面白いはずがない。
「本当に可愛げのないやつだな」
 顔をしかめて彼女をひと睨みすると、玄関へと歩き始めた。

 アンジェリカは玄関先で足を止めた。少し怯えたような表情で中を見渡す。彼女がここに入るのは初めてだった。自分のことを疎ましく思う人たちの家。いわば敵の本拠地である。彼女が躊躇するのも無理はない。
「どうした。入らないのか?」
「入るわよ」
 レオナルドに弱味を見せるわけにはいかない。アンジェリカは精一杯、突っ張った。不安な気持ちを押し隠し、前方を睨みつけながら、堂々と見えるよう大きな足どりで歩いていった。
「二階だ」
 ふたりが階段をのぼっていると、下でガチャンと大きな音がした。驚いて振り向くと、下で女の人が青い顔でこちらを見上げていた。レオナルドの母親だった。彼女の足元には壊れたティーポットやカップが散らばっていた。
「どうして、その子……」
 彼女は震える声でつぶやいた。アンジェリカの顔が曇った。
「何をしに来たの! うちまで呪われるわ、出ていってちょうだい! レオナルドあなた何を考えているの?!」
 金切り声でまくしたてる。レオナルドは母親に冷たい視線を送ると、無視して階段を上がろうとした。しかし、アンジェリカが呆然と立ちつくしていることに気がつき、彼女の手を引き、声を掛けた。
「行くぞ」
「でも……」
 アンジェリカは横目で階下を見下ろしながら口ごもった。
「気にするな」
 レオナルドは吐き捨てるようにそういうと、アンジェリカの手を強く引いて二階へと駆け上がっていった。
「レオナルド!」
 ヒステリックな声が背中に突き刺さったが、ふたりはもう振り返らなかった。

 レオナルドに促されて、アンジェリカは二階の奥の部屋へ入った。彼女の部屋には及ばないが、それでもかなり広めの部屋。全体に白が基調となっている。本棚に机、ベッド、ソファなどがゆとりをもって配置され、すっきりと清潔感にあふれていた。これがレオナルドの部屋であるとは、アンジェリカには意外に思えた。
「座れよ」
 レオナルドはベッドに腰を下ろしながら、アンジェリカにソファを勧めた。
「勘違いするなよ、さっきのこと。おまえを庇ったわけじゃない」
「反抗期ってわけ?」
 アンジェリカはソファの背もたれに体重を預けた。レオナルドは疲れたように息をつき、顔をしかめながら頭をかいた。
「反抗期は向こうの方だ。アカデミーに入ったのが気に入らないらしくてな。ますますヒステリックになってきている」
 アンジェリカはあの金切り声を思い出し、少しレオナルドに同情した。同時に、ふと疑問がよぎった。
「そもそもどうしてアカデミーに行こうなんて思ったわけ? 前に訊いたときははぐらかされたけど」
「はぐらかしてなんかいないさ」
 レオナルドはベッドに手をつき、胸をそらして上を仰いだ。
「あのとき言ったとおりだ。子供じみた強がりはやめにして、事実を受け入れることにしたのさ。から威張りしている自分が情けなく思えたんだな」
 そこでいったん言葉を切り、軽く一息ついた。そして、アンジェリカに視線を流し、さらに話を続けた。
「正直、今はおまえにはかなわないだろう。だが、いつか正々堂々とおまえを負かしてやろうと思ってな。そのために同じ舞台を選んだのさ」
「はぁ……」
 アンジェリカは気の抜けた相槌を打った。あまりに意外で呆然とした。彼が語ったことは、彼女にとって想像もしないことだった。
 しかし、どこかで聞き覚えのある話だと思った。彼女は瞬きをしながら考えを巡らせた。ふとジークの顔が、声が、頭をかすめた。
 アンジェリカはそれを打ち消すように、激しく頭を横に振った。
「何をやっているんだ」
「……別に」
 不思議そうに尋ねるレオナルドから目をそらし、軽く口をとがらせた。
「思えばおまえとまともに会話をしたことなんてなかったな」
 レオナルドはニッと笑った。アンジェリカは無表情で、彼にちらりと目を向けた。
「そうね、妙な感じだわ。……そうだわ」
 急に何かを思いついたようにレオナルドに振り向いた。
「一度あなたに訊いてみたかったんだけど」
「何でしょうか、お嬢さま」
 レオナルドはこの状況を楽しむようにニヤリとし、からかうような口調で言った。
 しかし、アンジェリカは真剣な表情で彼を見据えていた。
「私のどこが嫌い?」
「は?」
 今度はレオナルドが驚き、素頓狂な声をあげた。
「嫌いなんでしょう? 私のこと」
 さも当然のように、冷静にくり返す。レオナルドは答えに窮し、渋い顔をして首を傾げた。
「嫌いというか……話していると頭にくるのは事実だが……」
「はっきりしないわね」
 アンジェリカは冷ややかな視線を向けた。レオナルドは焦りから頬を紅潮させ、彼女を睨み返した。
「自分はどうなんだ」
「私はあなたのことが嫌いよ」
 アンジェリカは事もなげに、さらりと言った。
「……ずいぶんはっきり言うな」
 レオナルドは言葉を失い、とっさに返事ができなかった。好かれていると思っていたわけではないが、面と向かって言われるとさすがに動揺してしまう。
「当然よ。あれだけ嫌なことを言われ、嫌なことをされれば、誰だって嫌いになるわ。肩のやけどだって痛かったんだから」
 眉間にしわを寄せ、口をとがらせながらそう言うと、レオナルドに焼かれた肩を手で押さえて見せた。
「あー、悪かったと言っただろう」
 思いきり顔をしかめ頭をかくと、面倒くさそうに言った。
「でも……」
 憂いを含んだアンジェリカの声に反応して、レオナルドは手を止めた。
「今は嫌いなあなたと一緒にいる方が気が楽だわ」
 誰に向けるともなく、寂しげな儚い笑顔を浮かべる。
「これ以上、裏切られなくてすむもの」
 レオナルドは複雑な面持ちで、彼女の横顔を見つめた。

 夜も遅くなり、ふたりは部屋を暗くして寝ていた。レオナルドは自分のベッドで、アンジェリカはソファで、それぞれ静かに寝息を立てている。
「レオナルド! レオナルド!!」
 部屋の外から金切り声が響き、扉が勢いよく開けられた。廊下から明かりが広がり、部屋を薄く照らす。
「……んだよ」
 レオナルドは半分寝ぼけて、目をほとんど閉じたまま上体を起こした。白いシルクのパジャマが薄明かりに反射した。
「お嬢さまのお迎えが……」
 レオナルドの母親が震える声で言いかけた。と同時に、後ろから怖い顔をした男性が姿を現した。サイファだった。彼は無遠慮に部屋に踏み入り、ぐるりとあたりを見まわした。そして、奥のソファにアンジェリカを見つけると、早足で歩み寄った。静かに膝をつき、彼女の顔を覗き込んだ。その寝顔を目にすると、表情を和らげ、小さく安堵の息をもらした。
「帰るよ、アンジェリカ」
 サイファは彼女の耳もとで優しくささやいた。アンジェリカはようやく目を覚ました。
「……どうして……ここは、どこ……?」
 ぼんやりした頭でサイファの顔を確認する。そして、ゆっくりとあたりを見まわした。見慣れない天井、見慣れない部屋。ようやく思い出してきた。ここがどこなのか、なぜ自分がここにいるのか——。
「わたし、家出したのよ。だから帰らない……帰りたくないの]
 横になったまま体を丸め、サイファから視線をそらせた。
「言いたいことがあるのなら聞くよ」
 優しい声、穏やかな表情。だが、その中にどことなくつらそうなものを感じて、アンジェリカの胸に痛みが走った。しかし、彼女にも意地があった。素直に帰るわけにはいかない。目をきつく閉じ、首を横に振った。
「とりあえず帰ろう」
 サイファはにっこりと笑いかけ、アンジェリカへと手を伸ばした。だが、彼女はその手をピシャリと払いのけた。
「帰らない」
 震える声で思いつめたように言うと、毛布を頭からかぶり背中を向けた。
「本人が帰らないと言っているだろう」
 今まで黙って見ていたレオナルドが、ベッドの上から口をはさんだ。サイファは勢いよく振り返ると、激しく彼を睨みつけた。
「おまえは黙っていろ」
 ぞっとするほど冷たい瞳、冷たい声。レオナルドはすくみ上がり、言葉をなくした。
 サイファは再びアンジェリカに向き直った。毛布ごしの背中にそっと手を置き、顔を近づけ哀願した。
「お願いだ、一緒に帰ってくれ」
 アンジェリカは毛布の奥で首を横に振った。
「お願い、しばらくそっとしておいて」
 感情のないその声に、サイファは拒絶を感じた。今は何を言っても無駄かもしれない。引き裂かれるような胸の痛みをこらえながら、彼女の背中からそっと手を引いた。
「……わかった。あしたは帰っておいで。待っているから」
 サイファは無理に笑顔を作り、穏やかに言った。そのあと、真剣な表情になると、まっすぐ彼女の後ろ姿に目をやった。
「これだけは信じてほしい。私たちは誰よりもアンジェリカのことを大切に思っている」
 そう言うと、もういちど彼女の背中に手を置いた。そして、静かに立ち上がり、その場をあとにした。
 アンジェリカは遠ざかる足音を耳にして、急に不安に襲われた。だが、振り返ることはしなかった。
 サイファは部屋を出る間際、目とあごでレオナルドを呼びつけた。彼は一瞬、躊躇したが、素直に従った。音を立てないようベッドを降り、サイファに続いて部屋を出ていった。

 サイファ、レオナルド、彼の母親の三人は、階段を降りたところで足を止めた。
「理解ある父親を演じるのは大変ですね」
 レオナルドは鼻先で笑いながら言った。
「何を企んでいる」
 サイファはレオナルドに振り向くと、低くうなるような声で詰め寄った。
 レオナルドは背筋に寒気を感じ、ごくりと息をのんだ。宴の日のことが彼の脳裏によみがえった。額に汗がにじむ。それでも不敵ににやりと笑って見せた。
「行くあてもなく困っていたお嬢さまをお助けしただけですよ」
 サイファはレオナルドの胸ぐらに掴みかかりたい衝動に駆られた。だが、理性でそれを堪えた。手のひらに爪が食い込むほど、強くこぶしを握りしめた。
「わかっているだろうな。娘に何かしてみろ。ただではおかない」
 こみ上げてくるものを抑えながらそう言うと、冷たく切りつけるような視線でレオナルドを睨みつけた。レオナルドの心臓はぎゅっと縮みあがった。体全体に寒気と痺れが走り、額からは冷や汗が吹き出した。それでも彼はサイファに挑むことをやめなかった。
「何もするつもりはありませんよ。あなたとは違いますから」
「な……に?」
「レオナルド!! いいかげんにしなさい!!」
 金切り声がふたりの会話を遮った。
「サイファさんも、今日のところはお引き取り願います。お嬢さまは丁重にお預かりしておきますから」
 彼女は疲れた顔で、突き放すように言った。サイファはその言葉を耳にして、ようやくいつもの冷静さを取り戻した。そして、彼女に深々と頭を下げた。
「夜分にお騒がせして申しわけありませんでした。アンジェリカのこと、よろしくお願いいたします」
 丁寧にそう言うと、扉を開け外へと出ていった。

 レオナルドが部屋に戻ると、アンジェリカは両膝を抱え、毛布にくるまり、ちょこんとソファに座っていた。不安そうな表情で、おずおずと尋ねかける。
「お父さんは?」
「帰った」
「そう……」
 安堵と落胆の入り混じった息をつき、目を伏せた。そして、曇った顔を膝の上にのせると、小さくひとりごとをつぶやいた。
「やっぱり帰ればよかったかしら」
 レオナルドは扉を閉めた。部屋はたちまち真っ暗になった。カーテンの隙間からのぼんやりしたわずかな光で、なんとかお互いの姿を確認することだけはできる。
「そんなことでは、なめられるぞ。一日くらいまともに家出をしてみろ」
 レオナルドはそう言いながらベッドに入った。
「そうね」
 アンジェリカは寂しげに目を細めた。
「おやすみなさい」
 彼女は深めに布団をかぶっているレオナルドに声を掛けた。だが、彼からの返事はなかった。