遠くの光に踵を上げて

第41話 迷走

「どうして?!」
 アンジェリカはそう叫んで一歩前へ踏み出した。
「当たり前だ。そう決まっている」
 ラウルは彼女を見ようともせず、机に向かったまま書類にペンを走らせていた。窓からの赤みがかった光が、彼の端整な横顔を照らす。何の感情もない表情。ユールベルは眉をひそめた。その後ろで、ジークとリックは曇った顔を見合わせた。
 しかし、アンジェリカは、これくらいでは諦めなかった。
「そんなのわかっているわよ。だからラウルにお願いしているの」
 強い視線を向け、強い口調で食い下がる。ラウルは横目で彼女を一瞥すると、あきれたようにため息をついた。
「おまえたち親子は、よほど私をクビにしたいらしいな」
「ラウルならうまくやってくれるって信じているわ」
 アンジェリカはにっこりと満面の笑みを浮かべた。ラウルの手が止まった。机に向かったまま、再び小さくため息をついた。
「サイファに似てきたな」
 アンジェリカはきょとんとして瞬きをした。だが、再びにっこりと笑って、照れたように肩をすくめた。
「使わせてくれるわよね、VRM」
 彼女の口調は、ほとんど確信しているかのようだった。だが、ラウルの返答によって、その確信はあっさりと打ち砕かれた。
「駄目だ」
 彼は迷いなくきっぱりと言い放った。
 アンジェリカは口をとがらせ、不満げに彼を睨みつけた。しかし、やがてその瞳は決意を秘めた鋭いものへと変わっていった。
「だったらリアルで戦うまでよ」
「リアルって、おまえ何いってんだ!」
 後ろからジークがうろたえながら叫んだ。リックも同様に驚き、大きく見開いた目を彼女に向けた。ユールベルは少しうつむいて、不敵にふっと笑った。
 しかし、肝心のラウルは何の反応も示さなかった。アンジェリカは彼を覗き込むと、さらに畳み掛けた。
「私は本気よ。どちらかが死ぬかもしれないわ」
 冷静に、重々しく言葉をつなげた。
「いいのね?」
 それでもラウルが動じることはなかった。
「私には関係のないことだ」
 冷たく突き放した言葉。机に向かったまま、アンジェリカに視線を向けもしない。
 アンジェリカは目を閉じ、唇をかみしめた。
「わかったわ」
 かすかに揺らぐ声。抑え込んだ怒りがにじんでいる。彼女はくるりと背を向けると、ジークとリックの間をすり抜け、大股で戸口へと歩いていった。引き戸を怒りまかせにガシャンと開け、そのまま医務室をあとにした。
 ユールベルもそのあとに続き、静かに外へと出ていった。
 ジークはけわしい目つきで、ラウルをじっと睨んでいた。
「おい、アンジェリカは本気だぜ」
 低く、静かな声でうなった。
「おまえに言われなくてもわかっている」
 ラウルは相変わらず書類に向かったまま、そっけなく答えた。
「だったらなんとかしろよ!」
 ジークはそう言うと同時に、机にこぶしを叩きつけた。ゴッ、とスチールの机が鈍い音を立てる。机との接点から腕へと一気に痺れが駆け抜けた。ジークの目にうっすら涙が浮かんだ。しかし、歯を食いしばり必死でこらえた。ここで痛がっては格好がつかない。
 ラウルはゆっくり腕から顔へとジークを見上げた。彼は怒りと痛みをすべて瞳に込め、まっすぐにぶつけてきていた。ラウルも逃げることなく、鋭く凍りつくような視線を返した。
「おまえは他人に頼るだけか」
 ジークはカッと頭に血が上った。
「見損なったぜ!」
「それは元からだろう」
 ラウルの冷静な態度と反比例するかのように、ジークはますます熱を帯びていった。
「今までよりもっと見損なったってことだ!!」
 大声でそう叫び、足早に医務室を飛び出した。
「ジーク!!」
 リックは慌てて彼のあとを追っていった。
「待ってよ、ジーク!」
 ジークはリックの呼びかけを無視し、逃げるように足を進めた。彼には自らの逆上の理由がわかっていた。もちろんラウルは腹立たしい。しかし、それ以上に、何も出来ない自分自身に腹を立てているのだ。ラウルの指摘でそのことに気づかされたことが、さらに許せなかった。奥歯をかみしめ、爪が食い込むほどにこぶしを握りしめる。
「アンジェリカとユールベルがどこへ行ったかわかってるの?!」
「……あ」
 背後からのリックの問いかけに、ジークははっとして足を止めた。

 アンジェリカとユールベルは並んで廊下を歩いていた。
「リアルでの戦いに変更するけど、異存はないわね」
 アンジェリカは前を向いたまま、はっきりとした声で尋ねた。
「ヴァーチャルでは物足りないと思っていたくらいよ」
 ユールベルは目を細め、遠くを見つめると小さく笑った。
「いつのまにか、ずいぶん笑うようになったじゃない」
 隣の彼女をちらりと盗み見ると、アンジェリカはつんとして言った。しかし、ユールベルはにっこりと顔いっぱいで笑ってみせた。
「ジークのおかげよ」
 アンジェリカは目を見開いて足を止めた。動けなかった。言葉が出なかった。
 ユールベルも少し先で足を止め、振り返った。そのときにはすでにいつもの冷たい顔に戻っていた。
「だから、私にはジークが必要なの」
 淡々とそう言うと、再び前を向いて歩き出した。
 アンジェリカの額には生ぬるい汗がにじんでいた。

 渡り廊下を歩ききると、白い立方体状の建物に辿り着いた。側面に窓はなく、一面コンクリートで覆われている。
 アンジェリカは白い扉にかけられた古びた南京錠を手にとった。小さく呪文を唱える。手の内側が光り、一瞬でその錠は砕け落ちた。
 重量感のある両開きの扉を、アンジェリカ、ユールベルが片方づつ手にとり、ゆっくりと開いた。さらに内扉を押し開くと、まぶしいくらいの真っ白な空間があらわれた。白い壁、白い床、白い天井、それ以外は何もない。
「この道場なら心置きなく戦えるでしょう」
「そうね」
 道場と呼ばれたこの建物は内側に強い結界が張ってあり、魔導の力が外にもれない仕組みになっている。また、そもそもが特別に丈夫に作られているため、物理的な力にも極めて強いという特性も持ち合わせている。まさに道場と呼ぶにふさわしい建物なのだ。
 だがここは、教師の監視下でなければ使用してはならない。アンジェリカとユールベルも当然そのことは知っていた。しかし、今の彼女たちには、そのような規則を気にかける余裕などなかった。
「決着は、降参かテンカウントでどう?」
 アンジェリカはまっすぐユールベルを見据えた。彼女は頭の後ろで包帯を固結びにしながら、けだるく答えた。
「誰がカウントをとるの? それに降参する気なんてないでしょう?」
「気絶するか、死ぬまでね」
 アンジェリカはユールベルの言葉に被せるように訂正した。ユールベルは口端を上げ、挑むような目を向けた。

 ガタン!
 大きな音を立て、内扉が弾けるように開いた。
「やっぱりここか!」
 ジークは入り口でけつまづきながら、慌ててアンジェリカに駆け寄った。そして、彼女の両手首をきつく掴み上げると、覆いかぶさるように顔を近づけにじり寄った。
「なによ!」
 アンジェリカは手を振り払おうと力を入れたがびくともしない。視線を上げると、ぶつかりそうなくらい近くに、ジークのけわしい顔があった。
「俺が認めるのは VRMまでだ。現実世界での決闘なんて絶対やらせねぇ。力づくでも止めてやる」
 アンジェリカは大きな瞳を見開き、顔を上げ首を伸ばした。お互いのひたいが髪の毛ごしに触れ合った。ジークは少し身をひいた。
「ジークに止められる?」
 静かだが凛とした声。そして冷たく鋭い表情。ジークの背中に痺れが走った。その一瞬をつかれ、アンジェリカに手を振りほどかれた。彼女は手が放れると素早く後方に飛び退き、ジークから離れた。
「始めるわよ、ユールベル!」
 ユールベルはその声に呼応するかのように、両手を高々と上げ、呪文を紡ぎ始めた。それとほぼ同時に、アンジェリカも両手を前方に突き出し、口を開いた。
「くそっ!」
 ジークは短く叫ぶと、早口で呪文を唱え始めた。
「ちょっと、三人とも!」
 もはやリックに為すすべはなかった。ただそう叫ぶのが精一杯だった。
 三つ巴の戦いが始まる——。
 緊張が高まったその瞬間、三人はそれぞれ呪文をフェードアウトさせた。静寂があたりに広がる。怪訝な表情で、かわるがわる視線を合わせた。リックの制止を受け入れたわけではなさそうだった。
「どうしたの?」
 リックは後ろからおそるおそるジークに声を掛けた。
「……全然、使えねぇんだ、魔導の力が」
 ジークはわけがわからないといった様子で手のひらを見つめ、ひたすら首を傾げていた。
「どうやらこの空間は魔導を無効化するみたいね」
 アンジェリカがまわりを大きく見渡しながら、ジークとリックの元に戻ってきた。
「そんなことできんのかよ」
 ジークは眉をひそめた。
「実際ここがそうなんだから、できるんでしょうね。すべての魔導を無効にするなんて、ただのおとぎ話かと思っていたけど……」
「食えない男ね」
 ユールベルもそう言いながら、ジークたちのところへ歩いてきた。
「え?」
 アンジェリカが振り向いた。
「こんなことができるのはラウルくらいよ。どうりで落ち着きはらっていたわけだわ」
 ユールベルの声は淡々としていたが、どこか楽しんでいるかのようにも聞こえた。
 ジークは、ラウルの態度と言葉を思い出すにつけ、ふつふつと怒りが沸き上がってきた。
「あいつ……ふざけやがって……。ホントに食えねえヤツだぜ」
 うつむいて歯ぎしりをしながら小さくうなり、こぶしを強く握りしめた。
「どうするの?」
 ユールベルは腕を組み、アンジェリカに向き直った。
「とりあえず、ここを出ましょう。なんだか落ち着かないわ」
 アンジェリカはひじを抱え、肩をすくめた。
「もう決闘はあきらめた方がいいんじゃない?」
 リックが後ろから声を掛けた。しかし、ふたりの少女は彼を一瞥しただけで、扉に向かって歩き始めた。彼の寂しげな背中に、ジークはため息をつきながら手を置いた。

 空は道場に入る前より赤みを増していた。ジークとリックは顔を上げ、大きく腕を伸ばし深呼吸した。しかし、アンジェリカとユールベルは、気を緩めることなく話し始めた。
「結界なんかなくても外で戦えばいいでしょう。他に被害が及ぶことを恐れているわけ?」
「すぐにばれるからダメね。あっさり止められて、こってりお説教よ」
「じゃあ、やっぱり VRMしかないのかしら」
「ええ」
 ふたりの意見が一致したところで、そろって足を踏み出した。その後ろを、ジークとリックはついて歩いた。

 四人はヴァーチャルマシンルームにやってきた。対戦用ではない、通常の VRMがずらりと並んでいる。そのうちいくつかはコクピットが閉じられ、実際に作動しているようだった。
 その部屋を突っ切り、奥の古びた扉へと足を進めた。この向こう側に、対戦用 VRMが置かれている。
「当たり前だけど、鍵がかかってるよ」
 リックはそう言ったあとで、道場の壊されていた鍵を思い出した。嫌な予感がした。だが、止める間もなくユールベルが呪文を唱え、鍵を砕いてしまった。壊れた鍵を床に落とし、ぽつりと言った。
「これでおあいこね」
「え……ああ」
 アンジェリカは生返事をした。おそらくはアンジェリカが道場の鍵を壊したことに対して言っているのだろうとは思ったが、彼女にはユールベルがそんなことにこだわる理由がよくわからなかった。
 ギィ——。
 アンジェリカはそろりと扉を開いた。そのとたん、顔をしかめて激しく咳き込んだ。他の三人も思わず後ずさりをした。
 その部屋が長い間使われていないことは一目瞭然だった。つんとカビくさい匂い、床やマシンを覆うほこり、天井からぶら下がる蜘蛛の巣の残骸、虫の死骸……。部屋の中央に置かれているふたつのコクピットは、まるで骨董品のように見える。
「一年も経ってねぇのにこれかよ! いくらなんでもたまりすぎだろ、ほこり!」
 ジークはやけになり、勢いよくどかどかと踏み入った。足を下ろすたび、白いものが床から舞い上がった。
「ジーク、やめてよ!」
 アンジェリカは両手で鼻と口をふさぎ、眉根にしわをよせた。窓のないこの部屋では、簡単に換気もできない。
 ジーク以外の三人も、彼に続きこわごわと部屋に入っていった。アンジェリカはずっと口をふさいだままである。目にはうっすら涙さえ浮かんでいた。
「本当に動くのかよ。腐ってんじゃねぇのか?」
 ジークはコクピットの外側をバンと平手打ちした。すると再びあたりにほこりが舞い上がった。アンジェリカは無言で彼をうらめしそうに睨んだ。
 ユールベルはふたつのコクピットのまわりを、ゆっくりとまわって観察していた。
「このコードをここにさして、そっちのコードはそこ」
 指をさしながら、誰にともなく指示を送る。しかし、誰も反応しない。ジークとリックはゆっくり顔を見合わせると、同時にため息をついた。ふたりはしぶしぶしゃがみこみ、言われたとおり配線していった。ほこりだらけの床に這いつくばっての作業で、手もひざも白く汚れてしまった。
「ふたつのコクピットをつなげるメインケーブルがないんじゃない?」
 アンジェリカが口を手で覆いながら、コクピットの下方を覗き込んで言った。
「どこかにあるはずよ、探して」
 ユールベルは腕を組み、命令口調で言った。
「はいはい」
 ジークは投げやりに答えた。コクピットの下に手を伸ばしまさぐる。
「これ、そうかなぁ」
 ジークの反対側で、リックが声を上げた。彼が掲げた手には丸めた太いケーブルが握られていた。
「ちょっと切れてるみたいだけど」
 彼の言うとおり、被覆部が破れ導線がむき出しになり、切れかかっている部分がある。アンジェリカはコネクタ部分を手にとり、コクピットのそれと見比べた。
「形状的にはピッタリね。他にないならこれでやってみましょう」
「大丈夫なのかよ」
 ジークは文句を言いながらもケーブルを受け取り、リックとともにふたつのコクピットに差し込んでいった。
「いいかしら?」
 ユールベルが確認をとり、電源ボタンに手を伸ばした。

「そのボタンを押したら爆発するぞ」
「ラウル?!」
 戸口から腕組みをしたラウルがあらわれた。
「あれで諦めるわけはないと思ったが」
「だったら協力して!」
 アンジェリカはラウルへと駆け寄った。
「これ以上、物を壊されても困るからな」
 ラウルは足元の砕けた南京錠に目を落とした。
「じゃあ!」
 アンジェリカはぱっと顔を輝かせた。
「メインケーブルは私の部屋にある」
「部屋のどこ?!」
 アンジェリカはすぐにでも飛び出していきそうな勢いで、返事を急かした。
「私がとってくる」
 ラウルはアンジェリカの肩に手を置き、落ち着かせた。そして、奥にいる、ほこりまみれのジークに目を移した。
「その間にここをなんとかしておけ」
「なんとかって、どうすんだよ」
 ジークは彼を睨みつけながら、いつもの調子で食ってかかった。ラウルは涼しい顔で廊下を指さした。
「清掃道具はあっちだ」

 ラウルが出ていったあと、四人は言われたとおり素直に掃除を始めた。ユールベルとアンジェリカがほうきで掃き、ジークとリックはぞうきんがけをする。
「なんか、うまくこき使われてるような気がする……」
 ジークは納得がいかない表情で、ぶつぶつと独り言を口にした。
「文句を言ってないで手を動かしてよ。ラウルの機嫌を損ねたら終わりなんだから」
 アンジェリカにたしなめられると、ムッとして、むきになって床を拭き始めた。そんな彼の様子をリックはにこにこ笑いながら見ていた。
「いいんじゃないの? 掃除くらい」
「俺はあいつのやり方が気にいらねぇんだよ!」
 ジークはぞうきんを持つ手に怒りを込め、ますます勢いよく拭いていった。

 アンジェリカとユールベルは、ほうきをぞうきんに持ち替えた。アンジェリカは右側の、ユールベルは左側のコクピット内部を拭き始めた。
 ここが自分の戦場になる——。アンジェリカは手に力を込めた。
 ふいに顔を上げると、コクピットの向こう側のユールベルと目が合った。彼女は何も言わなかったが、負けないという強い意志がその瞳から感じられた。しかし、アンジェリカも負けるわけにはいかない。その思いを瞳に込め、強い視線を返した。

 扉を開けラウルが入ってきた。ケーブルとキーボード、そしてヘッドセットを小脇に抱えている。
「てめぇ、わざとのんびりしてたんじゃねぇだろうな!」
 ジークは黒く汚れたぞうきんを握りしめて立ち上がった。
「まだ隅の方にほこりが残っているぞ」
 ラウルは彼に顔を向けることなく、まっすぐ正面の VRMへ向かった。ジークはラウルの背中を睨みつけた。
「しばらく調整をする。その間、掃除を続けていろ」
 ラウルはメインケーブルを繋ぎ替え、電源を入れた。キーボードを本体に繋ぎ、軽快にキーを叩く。前方の大型ディスプレイに、見たこともない画面があらわれた。ラウルの指に連動して画面に文字が表示され、ウィンドウが次々と開いては閉じていった。
「見てないで手を動かせ」
 ラウルはディスプレイを見たままで、後ろの四人に言った。四人は慌てて掃除を再開した。
 狭い部屋にカタカタとキーボードの音が響く。
「完了だ」
「本当?!」
 アンジェリカはぞうきんを間に両手を組んだ。
「対戦は私のルールに従ってもらう。それが条件だ」
 ラウルはアンジェリカに振り向き、無表情でそう言った。彼女はあごを引き、表情を引き締めた。ユールベルも後ろでじっと彼を見つめていた。
 ラウルは言葉を続けた。
「決着がつくのは以下の三つのとき」
 リックは張りつめた空気を感じ、ごくりと喉を鳴らした。
「一つ目は、どちらかが降参の意思を示したとき。二つ目はスリーカウントダウン。カウントは私がとる。三つ目はリミッターが働いたとき」
 ユールベルの眉がぴくりと動いた。
 VRMでは仮想空間で受けた刺激を、神経信号として脳に送る仕組みになっている。リミッターは制限値を超える信号がきたときに、超過分をカットする役割を担う。すなわち、一度の攻撃で強いダメージを受け、この装置が働いたとき負けとするというのが、ラウルのルールだった。
「制限値はどのくらいにセットしてあるの?」
 ユールベルは上目遣いでラウルを睨んだ。ラウルは彼女の視線を真正面から受け止めた。
「適正値だ。現実世界で受ければ間違いなく意識をなくす」
 その回答を聞きしばらく考えていたが、やがて彼女は強気な微笑みを浮かべた。
「リミッターなんて納得いかないけど、仕方ないわね」
 そう言って、アンジェリカに振り向いた。
「私もそれでいいわ」
 アンジェリカはラウルを見上げて、真剣な表情を見せた。
「よし、準備だ」
 ラウルの声を合図に、ふたりはコクピットに乗り込んだ。
 ジークはアンジェリカのコクピットに駆け寄った。
「頑張れよ! アンジェリカ!」
 白い歯を見せ、ガッツポーズを送る。アンジェリカも勝ち気な笑顔でガッツポーズを作り、ジークのこぶしとコツンと合わせた。
 ユールベルは隣のコクピットからその様子をじっと見ていた。無表情でただ見つめるだけ。リックにはそれが無性に悲しく映った。しかし、彼女に「頑張って」などと声をかけるわけにもいかない。彼は、ただ見送ることしか出来なかった。
 コクピットのふたが閉まり、ディスプレイにふたりの姿が映し出された。ラウルはヘッドセットを手にとった。
「ラウル……。それ、もうひとつないのか?」
 ジークはめずらしく穏やかに尋ねた。
「ない」
 ラウルはそっけなく返事をすると、ヘッドセットを装着した。仮想空間への音声入出力ができるのは、このヘッドセットだけである。ジークは諦めずにしつこく詰め寄った。
「せめて外部スピーカーとかねぇのか?」
「ない」
 再びそっけない返事。ジークは目の前の大きな背中を、突き刺さんばかりに睨みつけた。
 ラウルはヘッドセットのマイクを口元に固定した。
「始め!」
 短い掛け声が狭い部屋に響いた。ジークとリックは息を呑み、複雑な気持ちで大きなディスプレイを見上げた。