遠くの光に踵を上げて

第42話 騙し合い、そして

「始め!」
 ラウルのその声と同時に、アンジェリカとユールベルは距離をとって身構えた。白い空に果てなく広がる薄茶色の地面。他には何もない。

 ユールベルは短く呪文を唱えると、両手を揃えて前に突き出した。手のひらが白く光り、そこから頭くらいの大きさの光球が飛び出した。アンジェリカは後ろに飛びのきながら、両手を前へと伸ばし、同じ呪文で応戦した。
 ——ドン!
 ふたりの真ん中で、互いの光球がぶつかった。爆発が起こったかのように、あたり一面を白い光が飲み込んだ。
 その光に乗じて、アンジェリカは素早くユールベルの後ろに回り込んだ。気を集中させると、小さな声で長い呪文を唱え始めた。ユールベルはまだ無防備な背中を見せている。
 ——勝てる!
 アンジェリカがそう思ったとき、ユールベルは左脇下から右手を突き出し、白い光を放射した。後ろ向きだったにもかかわらず、その光は少しのずれもなくまっすぐ目標へと突き進んだ。思いがけない攻撃に、呪文詠唱中だったアンジェリカは反応が遅れた。とっさに結界を張ることができなかった。両腕で身をかばったが、体ごとはじきとばされ宙を舞った。数メートル後方の地面に背中から叩きつけられると、そこからさらに数メートル、砂ぼこりを巻き上げながら滑っていった。アンジェリカの顔が苦痛に歪んだ。
「ワン、ツー」
 ラウルはすかさずカウントを取り始めた。
「おいっ!」
 彼女に聞こえないとは知りつつも、ジークは思わず声を上げた。
 ラウルが三つ目のカウントを口にするより早く、アンジェリカは勢いよく飛び起きた。そして、その勢いのまま即座に反撃をしかけた。しかし、ユールベルは余裕だった。予測していたかのように、青白く光る結界を張り、向かってくる赤い炎を消滅させた。
 アンジェリカに驚きと焦りの色が浮かんだ。まだしびれる左腕を押さえながら、息を荒くしていた。

「なに押されてんだよ、おまえ!」
 ジークはディスプレイに向かってわめき立てた。だが、もちろん彼女には届かない。
「スリーカウントなんて短すぎるじゃねえか!」
 今度はラウルに食ってかかった。しかし、ラウルはディスプレイに目を向けたままで、ジークのことなど完全に無視していた。
「ユールベル、かなり手強そうだね」
 リックはなぜか声をひそめてジークに近寄った。
「ああ……。アンジェリカの行動がまるきり読まれているみたいだったぜ」
「うん、頭が良さそうだし、耳もいいんだろうね」
 ふたりの口から出た言葉は、さらに自分たちを不安の深みへと落とし入れた。ジークは下唇を噛みしめ、祈るような気持ちでディスプレイを見上げた。
「俺はまだ、信じてるぜ」
 その言葉はリックに向けられたものであり、アンジェリカに向けられたものであり、同時にジーク自身に言い聞かせるものでもあった。

 ユールベルは青白い光に守られたまま、その内側で呪文を唱え始めた。指先までピンと伸ばした左手をまっすぐアンジェリカに向け、右手は大きく弧を描きながら後方へと引いた。
 あれは——。
 アンジェリカはピンときた。ユールベルの声は聞き取れなかったが、彼女のポーズには見覚えがある。アンジェリカもすぐに呪文を唱え始めた。両手を上空に向け、高々と掲げる。静かな緊迫感が一面に張りつめた。ジークもリックも、ディスプレイを見上げながら固唾を飲んだ。
 先に唱え終わったのはアンジェリカだった。掲げた手の上に集めた魔導の力を、ゆっくりとユールベルに向け、勢いよく放った。白い帯がすさまじい速度で伸びる。だが彼女に届く一歩手前で結界にはじきとばされた。しかし、同時に結界も消滅した。
 ユールベルは右目を見開き、明らかに驚きの表情を見せた。それでも呪文の詠唱を止めることはなかった。
 アンジェリカはもう次の呪文の詠唱に入っていた。今度はさらに短い呪文だった。またしてもユールベルより早く唱え終わり、再び彼女に向けて放った。
 しかし、どういうわけかユールベルはよけようとも防ごうともせず、目を閉じ呪文を唱え続けていた。白い光球が彼女に迫る。それでも動かない。ついに無防備な状態のユールベルに直撃した。白い光に飲み込まれ、はじきとばされるのが見えた。が、それと同時に砂ぼこりが巻き上がり、その後の彼女の姿は見えなくなった。だが直撃したことは間違いない。防ぐこともなくまともに受けたのでは、無事であるはずはない。アンジェリカは目を凝らして、砂ぼこりの奥を見つめた。
 薄曇りの向こう側で、何かが光った。
 ——何?
 アンジェリカが目を細めたその瞬間。薄茶色に濁った空間から、彼女の胸を目がけ、白い光の矢が飛び出してきた。とっさに上体をねじり、間一髪でかわした。——かに見えたが、完全にはよけきれず、白い閃光は彼女の左肩をかすめていった。
「ぅうああぁあーーー!!!」
 アンジェリカは絞り出すような悲鳴を上げ、肩を押さえてうずくまった。

「アンジェリカ!!」
 ジークとリックは同時に叫んだ。ふたりの顔から一気に血の気が引いていった。彼らにアンジェリカの声は聞こえない。しかし、彼女の表情や様子を見ているだけで、つんざくような叫び声が聞こえてくるようだった。
 ジークは居ても立ってもいられず、後ろからラウルに突進し、ヘッドセットに手を伸ばした。どうにかしてアンジェリカに声を届かせたい、その一心だった。しかし、あと少しというところで、ラウルのひじがジークのみぞおちにめり込んだ。
「うっ……」
 ジークは冷や汗をにじませうずくまった。ラウルに一撃をくらわされたところを押さえ、歯を食いしばる。
「おとなしく見ていろ」
 ラウルはディスプレイに目を向けたまま、振り返ることもなく、冷たく言い放った。
「大丈夫?」
 リックはジークを心配そうに覗き込み、彼の背中に手を置いた。ジークはリックの顔を目にすると、徐々に落ち着きを取り戻した。
「俺よりもアンジェリカだ。やばいかもしれねぇな」
 ジークは声をひそめた。リックは重々しくうつむいた。
「アンジェリカの攻撃をまともに受けて、それでも呪文を唱え続けるなんて、普通できないよ。それにユールベルのあの呪文て……」
「通常レベルの結界なら簡単に貫くほど強大な威力はあるが、その分、バカ長い呪文と、半端ねぇ集中力と、強大な魔導力に耐えられるだけの身体がいるとかいう、あんまり使えねぇヤツだな」
 ジークは言葉にすればするほど絶望が近づいてくるように感じ、それ以上は何も言えなくなった。リックも同じように感じたのか、口をつぐんで黙りこくってしまった。ジークはみぞおちを押さえながら立ち上がり、再びディスプレイを見上げた。

 砂ぼこりがおさまり、ユールベルの姿が次第にあらわになった。彼女もまったく平気というわけではなさそうだった。足元はふらつき、息もあらい。
 ユールベルはこわばった表情で、茶色い靄にうっすらと浮かんだ人影をじっと見つめた。それがアンジェリカと判別できるようになるまで、そう時間はかからなかった。アンジェリカは片膝をつき、左肩を押さえ、頭をガクンと垂れ下げていた。肩を上下に揺らしているところから察すると、まだ意識はなくしていないらしい。
 外した——。
 ユールベルは右目を細め、焦りの色を見せた。
 アンジェリカはその表情を見逃さなかった。痛みをこらえて立ち上がり、強気にユールベルに挑みかけるようににやりと笑ってみせた。
「あてが外れて残念そうね」
 息苦しさをごまかすように、早口で一気に言った。彼女の額から頬へと、幾筋もの汗が伝った。
「あなたこそ」
 ユールベルはあごを上げ、目一杯の余裕を装った。実際アンジェリカより、かなり余裕はあったのだろう。
 アンジェリカはあごを引き、ユールベルを上目遣いで一睨みすると、自分のまわりに白く光る結界を張った。そして、その内側で攻撃呪文を唱え始めた。ユールベルも同じように結界を張り、呪文を唱え始めた。
 ガクン。
 アンジェリカはその途中で膝を折り、前のめりに倒れると、地面に手をついた。集まりかけていた魔導力も拡散し、結界も消滅した。
「アンジェリカ!!」
 ジークは声の限り叫んだ。しかし、どんなに叫んでも彼女には届かない。
 ユールベルは勝ち誇ったように口角を上げると、目を閉じ、よりいっそう魔導に集中した。彼女の両手の中の光球がぐんぐん大きくなっていく。
 アンジェリカは片膝を立て、地面に手をつき、前傾姿勢でユールベルの様子をうかがっていた。彼女が目を閉じているのを確認すると、突然、地面を強く蹴って駆け出し、一気に加速した。一瞬のうちに結界をすり抜け、ユールベルの懐まで入り込む。そして、右手を彼女の脇腹に押し当て、短く呪文を唱えた。アンジェリカの指の間から白い閃光がもれる。
 ユールベルは目を見開いて息を止めた。だが、その攻撃を防ごうとはしなかった。ぎゅっと唇を噛みしめると、すぐに呪文の続きを唱え始めた。
 ——効かない?!
 アンジェリカは焦った。手を離さず、もういちど同じ呪文を口にした。ユールベルの腹部に、再び白い閃光が押しつけられる。同時に、ユールベルは両手を振り上げ、白い光球をアンジェリカの背中に勢いよく振り下ろした。アンジェリカは間一髪で薄く結界を張ったものの、それも弾き飛ばされ、光球ごと地面に叩きつけられた。
「アンジェリカ!!」
 ジークが叫ぶと同時に、ラウルはカウントを取り始めた。
「ワン、ツー」
 ユールベルは容赦なく二発目を撃ち込んだ。だがアンジェリカは地面を転がり、ぎりぎりでかわした。その勢いで立ち上がると、後ろへ飛び下がって身構えた。
 ユールベルは脇腹の痛みをこらえながら、鼻先で軽く笑った。
「わかったかしら。私の体は人並み外れて魔導を受け付けにくいのよ。あなたの何倍もね」
「目に見えない薄い結界でもまとっているのかと思ったけど、なるほど、種も仕掛けもなかったわけね」
 アンジェリカも余裕の笑顔で返そうと思ったが、その瞬間、背中に痛みが走り、逆に顔をしかめることになってしまった。深呼吸をして息を整えると、今度はかすかに笑ってみせた。
「だったら話は早いわ」
 アンジェリカはユールベルに背を向けた。
「どういうつもり?!」
 ユールベルはきつい口調で問いつめた。それは戸惑いからきているということは明らかだった。アンジェリカが降参するとはとても思えない。だとしたらなぜ背中を見せるのか。何か彼女に考えがあるのだろうか。でもそれがなんなのか、わからない……。ユールベルは次第に手のひらが湿ってくるのを感じた。
 アンジェリカは自分の目の前、すなわちユールベルとは反対側に四角い板状の結界を作った。結界は通常、対象物(自分であることが多い)のまわりを囲うように張るものである。こんな奇妙な結界はあまり見ない。
 ユールベルは、アンジェリカの挙動のすべてに目を奪われていた。それでも冷静さは失っていなかった。彼女の後ろ姿を見ながら、自分のまわりに静かに結界を張った。
 アンジェリカはユールベルに向き直った。彼女の目をまっすぐ見据えながら、腕を伸ばし、呪文を唱え始めた。向かい合わせた手のひらが白く光り、その間に魔導力が集まる。かなり大きい。
 ユールベルは内側にもう一つ結界を張り二重化した。アンジェリカの背後の四角い結界が不気味に白く光る。ユールベルの額に汗がにじんだ。これだけ念を入れても落ち着かない。
 アンジェリカは頭よりも大きくなった光球を、自分の体に引きつけた。
 ——来る!
 ユールベルの緊張が高まったそのとき、アンジェリカは地面を蹴り、体を半回転させた。そして、結界で作った四角い壁に向かって全魔導力を放射する。白い光はアンジェリカと結界の間で大きく膨張し、その反動で彼女の小さな体は弾丸のように吹き飛んだ。まっすぐ、ユールベルへと向かう。アンジェリカは彼女に体ごとぶつかり、腹部にひじを突き立てた。

 その瞬間、ヒューンという音とともにディスプレイがブラックアウトした。続いて静電気がパチパチと軽い音を立てた。

「て……停電か?」
 ジークは自信なさげにそう言って、あたりを見渡した。しかし、部屋の明かりは消えていない。
 ラウルはヘッドセットを外し、振り返った。
 両側のコクピットのふたがウィーンと機械音を立てながら、ゆっくりと開いていった。中から姿を現したアンジェリカとユールベルは、ポカンとした顔でラウルを見ている。
「ユールベル側のリミッターが働いて、システムが停止した」
 ラウルの説明に反応する者は誰もいなかった。全員がきょとんとして彼を見つめている。ラウルは言葉を付け足した。
「つまり、アンジェリカの勝ちだ」

 ジークの表情がパッと輝いた。
「やったな!」
 ゆっくりと身を起こそうとしているアンジェリカに駆け寄り、コクピットから抱え上げると外に降ろした。
「ヒヤヒヤさせやがって!」
 その言葉とはうらはらの思いきりの笑顔。ジークはアンジェリカの額に、軽くこぶしをねじ込んだ。
「もう! けっこう体中痛いんだから、ちょっとはいたわってよ」
 そう言って頬をふくらませたアンジェリカも、やはり笑っていた。
「……納得いかない」
 ユールベルはコクピットのふちに手を掛け、体を起こしながら声を震わせた。
「あんなの……魔導じゃないじゃない!」
 彼女はラウルを見上げ、必死に訴えた。
「戦いにルールはない」
 ラウルは腕を組み、冷めた声で言った。
「魔導以外の要素を軽視したのが、おまえの敗因だ。魔導耐性は高いが、身体的な能力は低い。その自覚があるのなら、魔導のみを遮る通常結界ではなく、あらゆる物質を遮断する高度な結界を使うべきだった」
 ユールベルに返す言葉はなかった。それでも、やはり納得はできない。身をかがめ腹部を押さえながら、よろよろとコクピットから降りると、アンジェリカを鋭く睨み上げた。
「えっ?!」
 リックはユールベルのポーズを見て、驚きの声を上げた。彼女は両手を前に突き出していた。そして、リックの懸念どおり、呪文を唱え始めた。緩やかなウェーブを描いた金の髪と、後ろで結ばれた白い包帯が、空気の対流を受けて舞い上がる。
「やめろ!」
 ジークとリックはアンジェリカをかばうように立ちはだかった。ふたりは同時に結界を張り、さらにアンジェリカも結界を張り、三人のまわりに三重化した結界ができた。
 ユールベルの手に魔導の力が集まり、白い光を放つ光球がふくらんでいく。
「大丈夫なの?」
 リックは不安げに尋ねた。
「部屋までは守れねぇな」
 ジークは前を向いたまま、いたずらっぽくニッと笑ってみせた。
 ラウルは無表情でユールベルへと近づいていった。無言で彼女を冷たく見下ろした。そして、右手で光球を握りつぶし消滅させると、左手で彼女の腕をひねり上げた。
 あっというまの出来事に、ジークとリックは呆気にとられた。
「……ぅ……ぁあああーーー!!!」
 ユールベルはラウルに腕をつかまれたまま、うつむき、絶叫して泣いた。喉の奥から絞り出すような激しい慟哭が、ジークたちを揺さぶった。
「おまえたちは行け」
 ラウルは後ろで立ち尽くす三人に言った。しかし、誰も動かない。
「行け!」
 今度は振り向き、凄みをきかせた低音で命令した。
 ジークはアンジェリカの肩に手をまわすと、渋る彼女を促し、三人で連れ立って部屋から出た。ユールベルの泣き叫ぶ声が、次第に遠くなっていった。

 ユールベルの号泣は、徐々にすすり泣きへと変わっていった。そして、膝から崩れ落ちるようにぺたんと床に座り込んだ。ラウルは彼女を抱き上げ、ヴァーチャルマシンルームをあとにした。

 ラウルは自分の医務室に戻ると、ユールベルをパイプベッドの白いシーツの上に降ろした。
「落ち着いたら帰れ」
 ユールベルはうなだれたまま、首を小さく横に振った。肩から髪が落ち、合間から折れそうな白い首筋がのぞいた。
「勝手にしろ」
 ラウルは無表情でそう言って立ち去ろうとした。だが、ユールベルの細い腕が、彼の長い髪をつかみ、引き止めた。
「……私を……救って……」
 消え入りそうな儚い声。ラウルは彼女の腕を、肩を、首筋を、背中を、じっと見つめた。
「私におまえは救えない」
 ユールベルの手から力が抜け、ぱたんとベッドの上に落ちた。それきり彼女は動かなかった。
 ラウルは背中を向け、後ろ手で仕切りの白いカーテンを閉めた。そして、立ち止まることなく奥へと消えていった。