「ようこそ、いらっしゃいませ」
レイチェルが門まで、レイラ、ジーク、リックを出迎えた。
今日はアンジェリカの誕生パーティである。三人は連れ立ってやってきた。ジークとリックはまるきり普段着だが、レイラはひとり気合いを入れて、ワインレッドのベロア調ワンピースで若づくりをしている。
「約束のモノ、ちゃーんと持ってきたわよ」
レイラはウインクをしながら、底の広い白無地の紙袋をゆっくりと掲げた。がさつな彼女にしてはめずらしく丁寧に扱っている。レイチェルはにっこり微笑みながらそれを受け取った。
「ありがとうございます。面倒なことを頼んでしまってすみません」
「なんの、なんの。こっちも楽しかったし、ね!」
レイラはジークとリックに振り返り、同意を求めた。
「はいっ!」
リックは元気よく返事をした。だがジークはむすっとして顔をそむけた。
「どうしたんです?」
レイチェルはきょとんとして尋ねた。
「いいの、いいの、気にしないで。自分の不甲斐なさにへこんでるだけだから」
「え? 不甲斐なさって?」
「ふふっ、あとでわかるわよ」
レイラは白い歯を見せて、いたずらっぽくニッと笑った。
重厚な扉を開け、レイチェルは三人を中に招き入れた。ジークの家がすっぽり入るのではないかというほどの玄関ホール、緩やかなカーブを描く幅広の白い階段、それと対照的な赤い絨毯、きらびやかなシャンデリア。いつもながら圧倒される光景だ。
「アンジェリカ? みなさんがいらしたわよ」
レイチェルが声をかけると、アンジェリカは応接間の扉から、ちょこんと顔だけ出した。少し困ったような顔で、恥ずかしそうに笑っている。
「大丈夫だよ、ほら」
サイファは優しくそう言うと、後ろからアンジェリカの肩を抱き、玄関ホールに連れ出した。
「…………」
三人は目を見開いて、呆けたように見つめた。
彼女は深紅のロングドレスをまとっていた。腰からふんわりと広がったベルライン、肩を柔らかく包み込むパブスリーブは、レイチェルと同じシルエットである。黒いチョーカーについた小さなバラが、可愛らしいアクセントになっている。いつも身軽なミニスカートやミニのワンピースばかり着ている彼女のドレス姿に、三人は思いきり意表をつかれた。
「やっぱり変よね。着替えてくる!」
無言の視線に耐えきれなくなったアンジェリカは、顔を真っ赤にして逃げようとした。
「かわいいわ! すっごいかわいい!!」
「うん、似合ってるよ!」
レイラとリックは我にかえり、顔をぱっと明るくすると、口々にそう言った。しかし、ジークはいまだ無言のままである。
「ジーク、あんたもそう思うでしょ」
「え……ああ、まぁ……」
レイラは気を利かせてジークに振ったが、彼は目を伏せ、曖昧に口ごもった。アンジェリカは顔を曇らせうつむいた。
「やっぱり変なのね……」
「あははっ、気にしないで。あのバカ照れてるだけなのよ。かわいいってくらい素直に言えばいいのに。なーに意識しちゃってんだか」
「てっ……テメーなに言ってんだ!!」
ジークの顔は一瞬にして上気した。
「さっ、バカは放っといて行きましょ」
レイラは先頭を切って、すたすたと応接間に向かった。まるで自分の家のような所作である。サイファとリックは笑いながらそのあとに続いた。
アンジェリカは不安そうにジークに振り向いた。彼はまだ火照った顔を下に向けたままである。しかしわずかに顔を上げ、ちらりと彼女を見ると、右手で OKのサインを送った。アンジェリカはハッとしたあと、安堵したように表情を緩めた。長いドレスの裾を少し上げ、小走りで応接間に駆けていくと、戸口で振り返った。
「ジークも早く!」
弾んだ声で呼び掛けると、屈託のない笑顔を彼に向けた。ジークは表情が崩れそうになるのを抑えながら、早足で応接間に向かった。
レイチェルは後方で、見守るようにあたたかく微笑んでいた。
広い応接間には、大きな長方形のテーブルがセッティングされ、その上には数々のごちそうが並んでいた。
「まずは、乾杯ね!」
レイラは勝手に仕切り始めた。いつものことである。ジークはあきれて突っ込む気にもなれなかった。
全員に飲み物が行き渡ると、レイラは高々とシャンパングラスを掲げた。
「それでは、アンジェリカちゃんの 12歳の誕生日を祝して……かんぱーい!!」
ひときわ高い声を張り上げて、嬉しそうにみんなとグラスを合わせてまわった。
「ったく、本人よりはしゃいでどうするんだ」
ジークはため息をつくと、やけっぱちで大きな骨付き肉にかぶりついた。レイラはそう言われても気になどしない。ただ、そんな息子を眺めながらふとつぶやいた。
「12歳かぁ……。ジークが 12のときって何やってたかしら」
「……頼むから何も思い出すなよ」
いつかの悪夢がよみがえり、ジークは額に冷や汗をにじませた。その隣でアンジェリカはくすりと笑った。そして、グラスを置くと、レイラに走り寄った。
「レイラさん、これ」
彼女はスカートを持ち上げ、赤い革靴を見せた。
「あ、去年プレゼントした靴ね! 良かった、似合って! もうサイズはピッタリ?」
「まだ少しだけ大きいんだけど、せっかくだから。この靴に合わせてドレスを作ったの」
ほんのりと頬を染めながら、照れたようにはにかんだ。
「靴に合わせて作るんなら、スカートは短い方が良かったんじゃねぇのか? そんだけ長かったら隠れちまうだろ」
ジークは口に食べ物を入れモゴモゴさせたまま、後ろから冷静に突っ込んだ。レイラはキッと彼を睨んだ。
「もう、アンジェリカちゃんの生足が見たいからって、いやらしい子ね!」
茶化したようにそう言うと、肩をすくめ、わざとらしくため息をついた。
ジークは喉に食べ物をつまらせ、げほげほと激しくむせた。
「言ってねーだろ!」
顔を赤くしながら涙目で必死に叫んだ。みんなどっと笑った。ただ、アンジェリカだけはひとりぽかんとしていた。
「ねぇ、ナマアシって何?」
「……えっ?!」
尋ねられたリックは、驚いて言葉を詰まらせた。
「うーん、まあ、足とおんなじ意味じゃないのかな」
困ったように笑いながら、そう言ってお茶を濁した。その様子をレイラはにこにこしながら眺めていた。
「ほーんと、かわいいわぁ。ね、ウチの娘にならない?」
落ち着こうとしてお茶を飲んでいたジークは、再びむせ返った。
「む……むちゃくちゃ言うな!!」
「そんなに無茶かしら、ねぇ?」
レイラは含み笑いをしながら、サイファとレイチェルに振り向いた。
「まだしばらくは手元に置いておきたいですよ」
「将来はわかりませんけれどね」
ふたりはくすくす笑いながら返事をした。ジークはその場から逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。アンジェリカがどんな反応を示しているのかも気になった。しかし、ただ紅潮した顔を隠すようにうつむくことしかできなかった。
「私、養子に出されちゃうの?」
アンジェリカはきょとんとしてそう言った。それを聞いて、今度はまわりがぽかんとした。そして次の瞬間、どっと笑いが起こった。ひときわ大きな声で笑っているのがレイラであることは言うまでもない。
「上、行くぞ!」
たまりかねたジークは、とまどうアンジェリカの腕をつかみ、戸口へ走っていった。
「おい、リック!」
「え? 僕も?」
ソファに座ってくつろいでいたリックは、嫌な顔もせず立ち上がり、呼ばれるまま彼のあとを追った。
三人は二階のアンジェリカの部屋にやってきた。あいかわらず広い部屋である。ジークの部屋が 10個は入るかもしれない。何度か来ているが、久々だったせいか、ジークもリックも少し驚いていた。
「ねぇ、さっきの話だけど」
アンジェリカの声が呆けていたジークを現実に引き戻す。
「あれはただの冗談だ。悪ノリって言うか……とにかく気にすんな! な!」
「そんなので納得できるわけないじゃない」
頬をふくらませ、ジークを睨んだ。そしてふいにリックに目を移した。
「僕に聞かないでよ。言ったらジークに殺されちゃうから」
彼は笑顔であっさり拒否をした。
「まあ、なんていうか、あいつらは俺をからかってるわけで、おまえが気にすることはねぇってことだ」
「そうかしら? 私が笑われているみたいだったけど」
アンジェリカは疑いのまなざしを送る。ジークは逃げるように目をそらせた。策もつき困り果てているところに、リックが助け舟を出した。
「ジークの言っていることは本当だよ。それは保証する」
「まあ、リックがそう言うなら」
多少の疑念を残しつつも、アンジェリカは引き下がった。
「来たばっかりなのに、なんかもうぐったりだぜ」
ジークはそう言って、出窓の飾り棚に手をつきうなだれた。
「ごめんね」
アンジェリカは後ろからぽつりと言った。
「なんでおまえが謝るんだよ。どっちかっていうと、謝らなきゃいけねぇのは俺の方だろ。俺の母親が引っかきまわしてんだからよ」
ジークは母親の所業を思い出して、苦々しく顔をしかめた。ある程度のことは覚悟をしていたが、彼女はその一歩先を行っていた。
「ふたりともそんな渋い顔しないで、ぱっと楽しくやろうよ!」
リックは急に明るい声を張り上げた。
「大変なこともいっぱいあるけど、今日くらいは全部忘れてさ」
付け加えたその一言に、ジークが過敏に反応した。キッときつく睨みつける。あえて「大変なこと」を思い出させるような配慮のない言い方が許せなかった。リックもようやく自分の失言に気がついた。
「あ、僕、食べるものでも取ってくるねっ!」
焦ったようにそう言うと、リックはすばやく部屋から逃げ出した。パタンと扉の閉まる音がすると、ジークは腕を組み、深くため息をついた。
「……ったくよ」
そっとアンジェリカに振り向くと、彼女は少しとまどったように肩をすくめて笑った。
「そんなに気を遣ってくれなくてもいいのに」
「……平気なのか?」
ジークはためらいがちに声を掛けた。
「いろいろ考えちゃうことはあるけどね」
そう言ってかすかに笑ってみせると、窓の外に視線を流した。どこか遠くを見ているような、どこも見ていないような、捉えどころのない表情。笑みは消えていたが、無表情というのとはどこか違う。
「この前、ラグランジェ家が集まるパーティがあったの。毎年開催しているものなんだけど」
ガラス窓に手を伸ばし、そっと目を伏せる。
「レオナルド、今年は来なかった」
「良かったじゃねぇか」
ジークは軽く言った。しかし、アンジェリカは不満そうに口をとがらせた。
「基本的に一族の者はみんな参加する義務があるのよ。今までレオナルドは毎年来てたし。そう、いつも私をいじめるのを楽しみにしてたわね」
「ちったぁマシな人間になったってことだろ。おまえをいじめるより、もっと大切なことを見つけたんじゃねぇか?」
ジークは飾り棚に手をつき、背筋を伸ばすと、真剣な顔を外に向けた。昼下がりの柔らかい光が彼を包む。
「それって、ユールベル?」
アンジェリカは彼の横顔を見上げた。
「多分な」
ジークは外を見つめたままで答えた。
「そういえば、ユールベルの家族は来てたわよ。あのお母さん、普通に楽しそうに笑ってた。なんだか、やりきれなかったわ」
つらそうに目を細め、うつむく。
「ユールベル、幸せになってくれるといいんだけど」
「レオナルドに頑張ってもらうしかねぇだろうな」
ジークは投げやりな感じでそう言うと、ため息をつき視線を落とした。アンジェリカはそっと顔を上げ、じっと彼を見つめた。
「でも、ユールベルはジークのことが好きだって……」
とたんにジークは表情をけわしくして振り向き、彼女を睨みつけた。
「だから何なんだ」
「え?」
「おまえ、俺にどうしろっていうんだ。俺の気持ちはどうなるんだよ。人の気も知らねぇで!」
ジークの突然の感情の高ぶりに、アンジェリカはわけがわからずぽかんとしていた。
「あ……悪かった」
ジークは冷静を取り戻すと、ばつが悪そうに彼女から顔をそむけた。そのとき、ふいにミニサボテンが目に入った。もっとも窓に近いところに置かれ、太陽の光をたっぷり浴びている。濃い緑のピンと伸びたとげが、元気であることを主張していた。ジークの表情はふっと和らいだ。ジャケットのポケットに右手を突っ込み下を向いた。
「ねぇ、俺の気持ちって? ユールベルのことが嫌いなの?」
アンジェリカは無遠慮に覗き込んできた。ジークは慌てて顔をそむけ、ポケットから手を出した。
「そうじゃねぇよ。どうでもいいだろう。蒸し返すなって」
冷静を装って、その話題から逃げようとしていたが、アンジェリカがそう簡単に許すはずはない。
「いきなり怒鳴っておいて、それはないんじゃない?」
腰に手をあて口をとがらせながら、わざと怒ったようにそう言うと、小さくくすりと笑った。
「ホント悪かったって。ったく……」
ジークはちらりと彼女を見て、耳元を赤らめた。そして小さく口を開いた。
「………………れよ」
「えっ? なに? 聞こえなかった、もう一回」
アンジェリカは顔を上げ、背伸びをしながら彼に踏み込んだ。大きな黒い瞳をまっすぐ彼に向ける。
「バっ……! そんな近づくなっ!」
ボリュームのあるドレスのスカートに、彼の脚が埋もれていく。ジークは逃げるように上体をそらせ、片足を引いた。
「ジーク! アンジェリカ!!」
「うわぁっ!!」
扉を開けリックが元気よく戻ってきた。ジークは焦って妙な叫び声をあげた。
「どうしたの?」
リックはぜいぜいと息の荒いジークを、不思議そうに見た。
「ノックくらいしろ!!」
「あ、ごめん」
あまり悪いとは思っていないような、軽い調子で答えた。
「食べるものを取りに行ったんじゃなかったの?」
アンジェリカは手ぶらの彼を見て尋ねた。
「うん、今からケーキを出すから、ふたりとも降りてこいって」
「……俺はいいよ」
ジークは目をそらせ、小声でぼそっとつぶやくように言った。
「なに言ってるの!」
アンジェリカはにっこり笑いかけると、彼の手をとり駆け出した。
「お待たせしました」
レイチェルは白い箱を手に載せて、応接間に入ってきた。
「私のわがまま、きいてくれてありがとう」
アンジェリカは嬉しそうに、ジークとリックに礼を述べた。ケーキはふたりが作ったものだった。今年の誕生日プレゼントは手作りケーキがいい、アンジェリカがそうリクエストしたのだ。ジークがプレゼントのことで悩まなくてもいいようにという彼女なりの配慮でもあった。
「私が付きっきりでみっちり監修したから、味は保証するわよ」
レイラは人さし指を立ててウインクした。
「見た目はちょっとアレだけどね」
「仕上げはジークに任せちゃったからね」
リックも同調して苦笑いした。ジークは背を向けたまま、何も言わなかった。
「さあ、開けますよ」
レイチェルは机の上に白い箱を置き、そっと蓋を上に持ち上げた。
「……」
「……持ってくるときに崩れてしまったのかしら?」
「いやいや、元々こうだったのよ」
レイラは腕を組み、笑いながら言った。
そのケーキはデコレーションと呼ぶには、あまりにもお粗末な状態だった。まわりには生クリームが無造作に塗りたくられ、ぼってりと厚い部分もあれば、スポンジが見えている部分もある。そして、やはり無造作にイチゴが載せられている。立っていたり転がっていたり統一がとれていない。そして、どれも中途半端に生クリームにまみれていた。とてもおいしそうには見えない。
「でも大丈夫よ。絶対においしいから」
レイラは自信たっぷりに胸をはった。
「そうよね。見た目じゃないわよね」
アンジェリカはケーキを眺めながらぽつりと言った。
「ろうそくは立てる?」
レイチェルが尋ねると、アンジェリカは恥ずかしそうに首を横に振った。
「いいわ。もう子供じゃないんだし」
ジークは何か言いたげに彼女を見た。
「なに?」
「なんでもねぇよ」
ジークは再び顔をそむけた。
レイチェルはケーキを六つに切り分け皿に取り、みんなにひとつづつ渡していった。
「まずはアンジェリカから食べてね」
レイラがにっこり笑ってそう言うと、アンジェリカはこくんと頷き、緊張ぎみにケーキのひとかけらを口に運んだ。
「あ! おいしい!」
「でしょ!」
レイラは腰に手をあて、背筋を伸ばすと、満足げに笑った。
「疑ってただろ、おまえ」
「ちょっと、ね」
ジークがじとっと睨むと、彼女は肩をすくめて笑った。
「本当においしいわ、これ」
「味だけなら、パティシエ顔負けだな」
レイチェルとサイファは、見た目の悪いケーキを口々に褒めた。ジークとリックは顔を見合わせて、ほっとしたように胸をなで下ろした。
「しっかし、この子の不器用は誰に似たのかしら。両親とも手先は器用なのに」
レイラはケーキを口に放り込みながら、あきれたようにつぶやいた。
彼女の言うことは間違っていない。ジークの母親、つまりレイラは、内職で服や靴を作っていて、細かい作業はお手のものだ。ああ見えて料理も上手い。ジークの父親は、もう亡くなっているが、生前は腕のいい二輪車修理工だった。
しかし、ジークも負けてはいない。彼女に振り向くと、にっと笑ってみせた。
「じゃあおまえの自己中な性格は誰に似たんだよ。じいさんもばあさんも、物腰の柔らかい人だったのにな!」
「ほほう、言うようになったじゃない?」
レイラはなぜか嬉しそうだった。
はしゃぎながらたっぷりごちそうを食べたあと、ジークたちはソファでゆったりとくつろいでいた。サイファのピアノの音色が心地よく眠気を誘う。まどろむアンジェリカの隣で、ジークは大口を開けてあくびをしている。さらにその隣では、リックが目を閉じピアノの音色に耳を傾けている。
「アンジェリカ」
レイチェルが小さな箱を持ってやってきた。
「ん……なあに?」
彼女は眠そうな目をこすりながら座り直した。
「プレゼントってわけじゃないんだけど」
レイチェルはそう言うと、手にしていた小さな箱の蓋を開け、彼女に差し出した。その中には、白く光るごつごつしたリングがおさまっていた。きれいに輝いていはいるが、デザインはかなり古めかしい。アンジェリカは不思議そうに母親を見上げた。
「……指輪?」
隣でぼんやりしていたジークは、その一言でばっと勢いよく飛び起きた。
「どうしたの?」
アンジェリカは目を丸くした。ジークは彼女の持っているものを見て、とまどったような表情を浮かべた。
「12歳の女の子にシルバーリングを贈るならわしがあることは知っているかしら?」
レイチェルはにこにこしながら、ふたりに尋ねた。アンジェリカは首を横に振った。
「僕、知ってます」
リックが隣から口をはさんできた。
「確か、魔よけと幸福のお守りとして贈るんでしたよね。今はもうすたれかかっているとか」
レイチェルはにっこり笑った。
「じゃあこの指輪はそのならわし?」
アンジェリカは指輪を取り出し、光にかざした。表面の模様が乱反射を起こし、きらきらと煌めきを放つ。
「そう。私が 12歳のときに受け継いだものよ。ずっと代々受け継がれてきたの。こんな仰々しい指輪、毎日はめているわけにはいかないと思うけど、大切に保管はしておいてね」
レイチェルの話を聞きながら、左手の中指にその指輪をはめてみた。引っかかることなく、すっぽりと奥まで滑っていった。どうやら彼女の指には大きすぎるらしい。
「わかったわ。そういえば、シルバーには魔よけの力があるって聞いたことがあるわね」
「あっ、それ、シルバーじゃなくてプラチナなのよ」
レイチェルは肩をすくめた。
「え? でもさっきシルバーリングを贈るって……」
アンジェリカは目をぱちくりさせた。
「本来はそうなんだけど、どうしてかしらね。多分、シルバーより変質しにくいからだと思うけど」
「ふーん、案外いいかげんなのね」
指を広げて指輪を眺めながら、ぽつりと言った。レイチェルとリックは苦笑いをした。しかし、ジークは思いつめたような難しい顔でうつむいていた。
ピアノの音がやみ、サイファが近づいてきた。
「楽しそうだな」
にっこりと微笑むと、ジークの前のソファに腰を下ろした。レイチェルもその隣に寄り添うように座った。
「ジーク君は今、魔導科学技術研究所で働いているんだって?」
サイファは含み笑いをジークに向けた。ジークに不安と緊張が走った。
「はい、そうですけど……」
「いろいろ噂は聞いているよ。やんちゃな子が入ってきて、手を焼いているって」
「えっ?」
ジークは驚いて短く声をあげた。しかし、考えてみれば、あの研究所は魔導省の管轄にある。魔導省に勤めているサイファとつながりがあっても不思議ではない。
「ジーク、いったい何をやらかしたわけ?」
アンジェリカは笑いながら彼を覗き込んだ。ジークは少し身を引いた。
「別に何もやってねぇよ。ただ、そっちの仕事をやらせてくれとか、他の部屋や施設を見せてくれとか頼んだだけだ。全部、断られたけどな」
「月払いの給料を週払いに変更させたとも聞いたぞ。無断で制限区域に立ち入ろうとしたこともあったらしいじゃないか」
サイファはニッと口角を上げた。
「え、あ、すみません……」
ジークは少しびくつきながら謝った。だが、サイファは別に彼を責めるつもりはなかった。
「今度、連れていってあげるよ。制限区域の施設。簡単な見学くらいになると思うが」
「本当ですか?!」
ジークは身を乗り出した。
「私も行きたい!」
アンジェリカも続いて身を乗り出した。サイファはすまなさそうに笑うと、彼女の頭にそっと手を乗せた。
「さすがにまったくの部外者を入れるわけにはいかないよ」
「そう……」
あからさまに落胆した様子でうなだれ、ソファの背もたれに身を沈めた。
「おまえ、まだまだこれからいくらでもチャンスはあるだろ。そんな顔するなって」
ジークは右手を上げかけて、そっと戻した。
「うん、そうね」
アンジェリカは沈んだ声で返事をした。
「さて、そろそろ帰るか」
ジークはリックに振り向いた。リックもこくりとうなずいた。
「あれ? レイラさんは?」
「あ、そういえば……」
ジークはすっかり忘れていた。
「レイラさんでしたら、あちらですわ」
レイチェルがにっこり笑って指し示した方を見てみると、長いソファで横になり、ぐっすり眠っているレイラがいた。体に掛けられたタオルケットは、おそらくレイチェルが気をきかせてくれたものだろう。ジークはカッと顔が熱くなるのを感じた。
「どうりで静かだと思ったぜ」
ズボンのポケットに手を突っ込み、やや背中を丸めて、母親のもとへ近づいていった。
「おい、起きろよ。ひとんちでくつろぎすぎだぞ」
「……もう、朝?」
レイラは大きくあくびをして目をこすりながら起き上がった。まだ目は虚ろで、ぼんやりとしているようだ。
「寝ぼけてんじゃねぇぞ。そろそろ帰るぜ」
「ジークさん、まだゆっくりしていってくださっても良いのですよ」
「これ以上、迷惑をかけるわけには……ていうか、本当にすみません……」
ジークは申しわけなさそうに背中を丸めて、レイチェルに頭を下げた。彼女は首を横に振ると、にっこり笑って彼を見上げた。アンジェリカとサイファも、その光景を眺めながら微笑んでいた。
「いろいろありがとう。楽しかったわ」
アンジェリカは両親の間に立ち、来客に最後の礼を述べた。
「僕らの方こそ楽しかったよ。ね、ジーク」
「あぁ」
ジークはふいにアンジェリカから目をそらせた。頬をなでる冷たい風が、頭の芯をはっきりとさせる。そして、それは、夢のようなひとときの終わりを自覚させた。まだかすかに明るさの残る空に、カラスの鳴き声が寂しげに響く。
「また、今度ね」
アンジェリカは寂しさを押し隠し、にっこり笑ってみせた。
「……あんまり水やりすぎんなよ」
「えっ?」
「またなっ」
ジークはぶっきらぼうに右手を上げると、背を向け歩き出した。リックも彼女に手を振りながら、ジークのあとを追った。
「来年もまた呼んでね!」
レイラも大きく手を振りながら去っていった。
「水って何の話?」
レイチェルはちょこんと首をかしげてアンジェリカを見た。
「さぁ? 何なのかしら」
アンジェリカは本当にわけがわからないといった様子で、口を軽くとがらせ腕を組むと首を傾げた。
水、水、水……。
心の中でつぶやきながら、後ろで手を組み、アンジェリカは自分の部屋へ戻っていった。
「水をやるなっていったらサボテンだけど、何かおかしくなっていたのかしら。今朝は元気だったはずだけど」
うーんと唸って首を傾げながら窓際に歩いていった。そして出窓の飾り棚を覗き込む。
「なに、これ」
ミニサボテンの鉢の隣に、見覚えのない小さな箱が無造作に転がっていた。手に取り、そっと蓋を開く。
「……えっ?」
その中に入っていたものはリングだった。レイチェルからもらった指輪とは明らかに別のものだ。なんの飾りもない、シンプルで細い銀色の輪。
「これだったのね」
アンジェリカはくすりと笑った。彼のいくつかの不可解な言動がひとつにつながった。
「もう、まわりくどすぎよ」
半ばあきれたようにそう言うと、左手の中指にそのリングをはめてみた。彼女の指には少し大きかったが、それでも満足そうだった。スカートをひらめかせ、くるりと一回転し、ふかふかのベッドに背中から倒れ込んだ。そして、くすくす笑いながら、まっすぐ上に左手を掲げた。
「宝物がもうひとつ増えた」
アンジェリカは目を閉じ、大切そうに銀の指輪を胸元に抱えた。