遠くの光に踵を上げて

第51話 国家機密

「はーい、それじゃ 10分の休憩ね」
 甘ったるい女性の声が、スピーカーを通し狭いブース内に響いた。ジークはヘルメットを取り、それを足元に置くと、扉を押し開けた。
「いいデータが取れてるわ。君を採用したのは正解みたいね」
 今度はスピーカー越しではなく生の声。髪をアップにし、ヘッドセットをつけた女性が、にこにこしながら近づいてきた。かっちりとしたパンツスタイルのユニフォームだが、その声のせいか、丸顔のせいか、不思議と柔らかい印象を受ける。彼女はジークに冷えた缶コーヒーを差し出した。
「あ、どうも」
 ジークはそれを受け取ると、その場ですぐにプルタブを起こし開け、立ったままごくごくと飲みだした。そして、ふうと一息つくと、額ににじんだ汗を手の甲で拭った。
「ごめんね。ブース内は冷房がきかなくて」
 彼女はヘッドセットを外し、首にかけると、打ち合わせ用の白い机にもたれかかった。ジークは椅子を引き、横向きに腰を下ろした。
「気が散るので静かにしてください!」
 少し離れたところでモニタに向かっていた若い男が、怒りを含んだ声を発した。ジークがうんざりしたように振り向くと、その男は無言で睨みつけてきた。
「うるさいのはあなたの方でしょ! ったく、いつもいつも……」
 彼女はむっとして言い返した。腕を組み、口をとがらせ、彼を睨みつける。そしてジークに振り向くと、申しわけなさそうに笑ってみせた。
「ごめんね。気にしないで」
 その瞬間、ガコンとスチール机を蹴飛ばす音が聞こえた。

「やあ、ジーク君。頑張っているか?」
 聞き覚えのある声に、彼ははっとして顔を上げた。
「サイファさん!」
 ジークは椅子から立ち上がり、小さくペコリとおじぎをした。隣の彼女も、慌てて机から飛び下り、勢いよく頭を下げた。短い栗色のポニーテールがひょこりと飛び跳ねる。
「この前の約束を果たしに来たよ」
「本当ですか?!」
 ジークの顔がぱっと輝いた。そんな彼を、彼女は驚いたように見つめていた。彼女だけではない。フロア内の人間すべてが注目していた。遠くでかすかなざわめきが起こる。
「サイファ殿、今日はどのようなご用件ですかな?」
 茶色い口ひげをたくわえた中年の男が、後ろで手を組み、ゆっくりと近づいてきた。
「突然ですみません、ゴードン所長」
「あなたはいつも突然ですな」
 サイファがにっこり笑いかけると、所長はもともと細い目をさらに細くした。
「今日は彼に下を見学させようと思いまして。構いませんか? もちろん私が同伴します」
 ジークの肩にサイファの手がのせられた。こんなにも注目を浴びてしまっていることに、ジークは少なからぬとまどいを感じていた。驚嘆のまなざし、羨望のまなざし、嫉妬のまなざし、嫌悪のまなざし。さまざまな感情が突き刺さる。彼はそれらから逃れるようにうつむいた。
「ジークとお知り合いで?」
「娘の友達なんですよ」
 サイファは屈託なくそう言った。ジークは顔を上げることができなかった。サイファの言っていることは間違っていない。だがこの流れでは、娘の友達だから特別扱いをされているように聞こえる。いや、実際そうかもしれない。しかし、そう思われることには抵抗があった。
「彼を信用できますか?」
 所長はちらりとジークを一瞥すると、サイファに耳打ちをした。
「あなたはどう思います?」
 サイファはジークから少し離れると、声をひそめて聞き返した。
「人間にはどんな裏があるかわかりませんからな」
 所長は慎重にそう言うと、再びジークを見た。しかし、サイファは軽く笑い飛ばした。
「彼はそんなに器用ではありませんよ」
「あなたがそうおっしゃるのでしたら」
 ジークにはその会話はところどころしか聞こえなかった。だが、自分についての話であることは、ふたりの素振りでわかる。気にはなったが、尋ねられる雰囲気ではない。
「私もついていって構いませんかな」
 所長はサイファから体を離し背筋を伸ばすと、よく通る声を張り上げた。
「もちろんです」
 サイファもそれに呼応するような、少し大きめの声で答えた。そしてジークに振り返ると、にっこり笑って手招きで呼んだ。
「あなたは規則を何だと思っているんですか!」
 突然、若い声がサイファをなじった。その声の主は、先ほどジークに難癖をつけてきた男だった。彼はサイファを激しく睨みつけたが、笑顔で軽く受け流された。
「そう固いことを言うな。なんだったら君も来るか?」
「行きません!」
 若い男はむきになって拒絶した。
「そうか、残念だな」
 サイファはそれだけ言うと、あっさり彼に背を向けた。

 サイファ、所長、ジークの三人は、研究所をあとにし、薄暗い廊下に出た。
「彼にはずいぶんと嫌われているようですね」
「優秀だが、神経質で頭が固いのが難点で」
 前を歩くサイファと所長は、笑いながら話をしていた。
 ジークは少し後ろめたい気持ちになっていた。ただのアルバイトである自分がこんなに特別扱いされても良いのだろうか。他のみんなが不快に思っていないだろうか。そんなことを、もやもやした気持ちで考え込んでいた。
 やがて、地下へと続く階段に辿り着いた。階段の前には黄色の線が引かれ、それより向こう側は立入禁止区域であることを示している。
 ふいにサイファが振り返った。真剣なまなざしでジークに問いかける。
「ジーク、ここで見たことは他言無用だ。もちろんアンジェリカやリックにもだ。守ることができるか?」
「はい」
 緊張しながらも、まっすぐ視線を返す。サイファは探るように彼の瞳を見つめていたが、しばらくするとにっこり微笑んだ。
「よし、じゃあ行こう」
 ジークは顔をこわばらせながら、黄色の線をまたいだ。

 薄暗い階段を降りると、そこにはいかにも頑丈そうな扉があった。サイファはココンと軽くノックし、ドアノブをまわし開けた。煌々とした明かりとともに視界が開ける。ジークの目に中の光景が飛び込んできた。
「……上と変わらないですね」
 ジークは拍子抜けしたようにぽつりとつぶやいた。たくさん並んだコンピュータ、実験ブース、会議用の机。すべて上の研究室にあるものと同じだ。ただし、部屋自体は上よりも狭く、かなり雑多な印象を受ける。彼にはどのあたりが機密なのか理解できなかった。
「扱っている研究の内容が、上より機密レベルの高いものなんだよ。コンピュータの処理能力も上とは比べものにならない」
 ジークの心を見透かしたかのように、サイファはそう説明をした。それでもジークは落胆の色を隠せなかった。見た目からしてもっとインパクトのある何かを期待してしまっていたのだ。
「サイファさん、今日はどのようなご用件ですか?」
 チーフの襟章をつけた男が声を掛けてきた。見た感じではサイファと同じくらいの年齢だろうか。こざっぱりと白衣を着こなしたさわやかなその姿は、散らかった研究室には不釣り合いに見える。
「今日はただの見学ですよ。気にせず仕事を続けてください」
 サイファはにっこり笑いかけると、ゆっくり見回り始めた。所長はチーフと仕事の話を始めたようだった。黙って突っ立っていても仕方がないので、ジークもサイファについて見てまわることにした。彼の後ろから邪魔にならない程度に覗き込む。モニタを見てもジークに研究の内容はわからない。だが、サイファはそれについて研究員と議論をし、指示を出したりしている。優れた魔導士でありながら、科学技術にも精通しているようだ。ジークは研究所より、彼のことの方が気になり始めていた。
「すまない、退屈していたか?」
 サイファは、ジークがぼうっとしているのに気がつくと、振り向いて声を掛けた。
「いえ……」
 ジークは少し耳元を赤らめると、うつむいて言葉を濁した。
「次へ行くとするか」
 サイファは振り返り、軽く右手を上げ、離れたところにいる所長に合図を送った。
「……え?」
 ジークは意味がわからず聞き返した。
「行くだろう? レベルA区域」
 サイファは、逆に不思議そうに聞き返してきた。
「レベルA区域……?」
「知らなかったのか。セキュリティレベルによって、フロアが分かれているんだ。上がレベルC区域、ここがレベルB、この下がレベルAだ。下はここよりさらに機密レベルが高くなっている」
 彼は淡々と説明をした。
 所長はチーフとの話を切り上げ、サイファの方へやってきた。
「行きますか」
「ええ」
 ジークは、並んで歩くふたりのあとをついていった。

 サイファは入ってきた方とは反対側の扉を開けた。そこには暗く細い下り階段だけがあった。階段の前には橙色の線が引かれている。ここから先がレベルA区域という印のようだ。一歩踏み出すと、ひんやりした空気が肌にしみてきた。
「足元に気をつけて」
 サイファは初めてのジークを気づかうと、靴音を響かせながら、暗闇へと降りていった。所長はジークを先に行かせると、そのすぐあとをついていった。
 階段を降りきると、鉄製の物々しい扉が行く手をふさいでいた。サイファは体重をかけ、ゆっくりと押し開けた。
「あっ、VRMですね!」
 ジークは開きかけた扉の奥にある機械を見つけ、弾んだ声をあげた。
「そう。ここでVRMを作り、魔導発動の仕組みを研究している」
 三人は煌々と光のともったレベルA研究室へ足を踏み入れた。上の研究室とはかなり趣きが違う。未完成のVRMが二体中央に置かれ、そこから多数のケーブルが伸び、絡み合い、大小さまざまなコンピュータにつながれていた。床には工具や計測器が雑然と転がり、足の踏み場もないほどだ。奥の大きなマシンが轟々と唸りを上げている。ひとりはチーフの襟章をつけ、デスクトップコンピュータに向かっている。ひとりは右手に持った小さな機械で何かを計測している。そして、もうひとりは、絡み合ったケーブルの上に寝そべり、VRMの下部にコードを接続しようとしていた。
「あっ、サイファさん!」
 コンピュータに向かっていたチーフが驚いた声をあげ立ち上がると、他のふたりも慌てて立ち上がろうとした。だが、サイファはそれを制した。
「今日は見学に来ただけだ。そのまま続けて」
 そう言うと、三人に向かってにっこりと笑いかけた。
「アカデミーのもここで作ったんですか?」
 ジークは後ろから尋ねた。
「ああ」
 サイファは前を向いたまま、腕を組んで答えた。
「神経、脳波、血流、細胞の変化から、体の動きと魔導の発動と制御を的確にシミュレートする。君たちは何気なく使っているだろうが、すさまじい技術の結晶だよ、これは。それゆえ一般に販売することも、他で作らせることも一切ない」
 サイファに指摘されたとおり、ジークは深く考えず何気なく使っていた。言われてみれば、確かにすごそうな技術である。だが、彼には難しすぎて理解できそうもない。
「実はこれ、ラウルの理論に基づいて作られたんだよ」
「ラウルの?!」
 思わぬところで思わぬ人の名前が出てきたことに、ジークはとまどいを感じた。
「彼の理論は私たちの何十年も先を行っているものだったよ。彼が我々の科学水準を20年、30年引き上げたといっても過言ではないだろう」
 VRMを見下ろしながら、サイファは淡々と語った。ジークは眉をひそめ、けわしい表情を作った。
「何者なんですか。いろいろ怪しすぎませんか」
「さあ、何者なんだろうね。この国ではない、遠いところからやって来たらしいが」
 サイファはVRMに片手をかけながら、ケーブルを踏みしめ、ゆっくりそのまわりを歩き始めた。
「しかし何かを企むには長すぎるだろう、300年は」
「300年?!」
 ジークは素っ頓狂な声をあげた。サイファは足を止め、少し驚いたような顔で振り返った。
「知らなかったのか? ラウルがこの国にやって来て、およそ300年だそうだ。その間、姿はまるで変わっていないらしい」
 若く見えるがかなり年がいっているという噂は聞いたことがあったが、まさか300年とは思いもしなかった。ジークはただただ驚くばかりで、声も出なかった。
「何を考えてやって来たのかはわからないが、悪いやつではないと思っているよ」
 サイファはそう付け加え、にっこり笑ってみせた。VRMを挟んだ向こう側から、所長がさらに一押しした。
「私もその意見に賛成だ。金にも地位にも名誉にも、まるで揺るがされることのない、数少ない人間だよ」
 ジークはうつむき口を結んだ。
「だいたい何かを企てようとしている男が、赤ん坊を引き取って育てようとするか?」
 サイファは軽く笑いながら言った。それでもジークは深く考え込んだままだった。思いつめたように眉根にしわを寄せる。
「洗脳して何かをさせようとか……」
 真面目な顔でふいにぽつりとつぶやいた。サイファはきょとんとして彼を見た。そして、次の瞬間、上を向いて大笑いした。
「あっははははは。そんなまわりくどいことをする必要があると思うか? ラウルが本気を出せば、こんな国などあっというまに崩壊させられるよ」
「サイファさんは……」
「足元にも及ばないさ。みんなで束になってかかっても無理だろうね」
 確かにラウルが強大な魔導力を持っていることはわかる。しかし、いくらなんでもそれは言いすぎなのではないかとジークは疑っていた。サイファでさえ足元にも及ばない力など想像もつかない。自己の謙遜なのだろうか、相手の過大評価なのだろうか。それとも事実なのだろうか……。そんなことを考えていると、サイファは優しく、しかしどこかはかなげに、ふっと笑いかけてきた。
「君も本当は感じているのだろう? ラウルが悪い人間ではないと。好き嫌いは別にして」
 そう問いかけられると、ジークはうつむき、ぎゅっと結んだ口を歪ませた。そして、そのまま何も答えることができなかった。

「さあ、次へ行こうか」
 サイファは明るく声を弾ませると、ジークの背中をポンと叩いた。
「レベルS区域へも行くおつもりで?」
 所長は重々しく声を低め、鋭い視線をサイファに向けた。しかし、彼は笑顔でそれを受け止めた。
「ついでですからね。何かあれば、責任は私が負いますよ」
 そう言って、ジークの肩に手をかけた。
「まだ先があるんですか?」
 ジークはサイファに視線を流しながら尋ねた。先ほどの話では、レベルA区域の話までしか出てこなかった。
「そうだよ。ごく限られた者しか立ち入りを許可されていない区域だ」
 サイファはジークの肩を抱えたまま、奥の鉄壁の前までやってきた。ドアノブも、手に掛けるものも、何もない。これは扉なのだろうか。ジークはぐるりと見回しながらいぶかった。サイファは、そんな彼ににっこり笑いかけると、その鉄壁の端に埋め込まれた、四角く黒いプラスティック板のようなものに親指を押しあてた。ピピッと小さな電子音が聞こえたかと思うと、プシューという空気音がそれに重なった。次の瞬間、鉄の塊が唸りを上げ、中央から上下に分かれていった。
「さあ行こう」
 サイファは呆気にとられているジークの背中を軽く押した。呆然としながらも、彼は促されるままに足を前に進めた。三人が奥に入ると、再び鉄壁が轟音を上げ、元に戻った。

「あんな若い子を連れていって、どうするつもりなんですかね」
 レベルA区域で、研究員のひとりが、閉じられた壁を見つめながら首をひねった。そういう彼自身もまだけっこう若いように見える。
「サイファさんのことだ。何か考えがあってのことだろう」
 コンピュータに向かったまま、チーフは冷静に答えた。

 鉄壁の奥には、レベルBからレベルAへ向かうときと同じように、細く暗い下り階段があった。今度もやはり線が引かれていた。色は赤のようである。暗みに沈んでしまって、いまいちわかりづらい。
 サイファが先頭になって下り、その後ろにジーク、最後に所長と続いた。一段ごとに空気が冷え込んでいく。サイファが下りきると、それに呼応するかのように、明かりがともった。明るすぎるくらいの蛍光灯の光。ジークは反射的に右手をかざすと、顔をしかめながら目を細めた。
「これは……」
 目が慣れてきたジークの視界に映ったものは、オレンジ色の液体が入った巨大な円筒だった。人間がひとり中で泳げるくらいの大きさはある。自分たちを取り囲むように、四体がそびえ立っていた。中の液体は静かに循環しているようだった。モーターの低い振動音が腹に響いてくる。
「魔導の源となる物質、エネルギー増幅素子だよ」
 サイファはさらりと言った。ジークは圧倒され、口を半開きにして、そのオレンジ色の円筒を見上げていた。概念としてしか知らなかった物質が、目の前に、それも大量にその存在を示している。なぜだか得体の知れない恐怖を感じた。畏怖の念に近いかもしれない。なぜ、どうして、どうやって……。いろんな疑問が矢継ぎ早に頭を駆け巡るが、まったく言葉が出てこなかった。
「我々は純度99.75%まで精製することに成功している」
 サイファは感情なくそう言うと、円筒のガラス面に軽く手を置いた。手のひらがオレンジ色の光に染まる。
「アカデミーで習っただろう。体内のエネルギーをこの素子で増幅させ放出するのが魔導の基本。この素子を持たずに生まれた者は、いくら努力をしても魔導を使えるようにはならない」
「何のために、これ……」
 ジークはようやくそれだけの言葉を絞り出した。背中に寒気を感じながら、額には汗がにじむ。サイファは顔だけわずかに振り返った。真剣な表情で、鋭い視線を突きつける。
「この国を守らなければならない。来たる脅威に備え、出来うる限りの対抗手段を準備する。それが私たちの仕事だ」
「これを、どうやって……」
 ジークの声はかすかに震えていた。
「体内に注入すれば、一時的に強大な魔導を発動できるようになるだろう。理論上はね」
 オレンジ色の液体を見上げ、サイファは淡々と語った。
「理論上……」
 ジークはおうむ返しにつぶやいた。
「誰も試したことがないんだ。拒絶反応や副作用が起こる可能性が未知数でね。人体実験が禁止されているんだよ」
 サイファは再び振り返ると、意味ありげに小さく笑った。ジークの心臓は飛び出しそうなほどに強く打った。そして、次第に鼓動が速くなっていった。
 ——まさか、俺に?
 こんなに楽なのに、こんなに時給がいいなんて、よく考えるとおかしな話だ。何か裏がある、どうしてそう思わなかったのか。いつかのアンジェリカの言葉がフラッシュバックする。
 ——モルモットってこと?
 ジークは小刻みに震える唇から、声にならない息を漏らすと、おびえるように瞳を揺らした。そんな彼をさらなる深みへ突き落とすように、サイファは冷たい視線を送った。
「決めるのは君だ。我々の未来のためにその身を捧げるか、それとも今日のことをすべて記憶から抹消しここから出ていくか……。たとえ君が後者を選んでも、私は君を責めはしない」
 いつもの柔和な表情からは想像もつかないほどの冷酷で厳しい瞳。
「さあ、どうする?」
 無表情で決断を迫る。彼の言葉がぐらぐら頭に響く。何も考えられない。ただひたすら恐怖を感じていた。でも何か……何かを言わなければ……。
「サイファ殿、少々悪ふざけが過ぎやしませんか?」
 沈黙を打ち破ったのは所長だった。細い目をさらに細くして、ややあきれたような顔をサイファに向ける。サイファはにっこりと笑った。
「あまりに彼が怯えるもので、つい調子にのってしまいました」
 所長もつられて笑い出す。
「いやしかし、なかなか見事な演技でしたぞ。いつ首を切られても安心ですな」
「主演男優賞でも狙いましょうか」
 ふたりは顔を見合わせて笑いあった。
「……え……あ……」
 ジークは話が飲み込めずにとまどった。
「すまない。冗談だったんだよ」
 サイファはにこにこしながら振り返った。ジークは呆然としたまま、目をぱちくりさせた。
「……どこ、から?」
「君に実験台を頼んだくだりからだよ。今はこれを結晶化して使用できないか、またハンドオン装置を作成できないかという方向で進められている」
 ジークはようやく安堵した。強く打つ鼓動を鎮めようと小さく息をつく。しかし、そう簡単に落ち着かせてはもらえないようだ。
「いずれ人体実験を行うときが来るかもしれないが……」
 サイファは不吉な言葉を付け加えた。茶化しているふうではない。今度の言葉は本心なのではないか。ジークに再び緊張が走った。
「そういえば君は四大結界師を目指しているそうだな」
「目指してるっていうか、そうなれたらいいっていうくらいですけど……」
 ジークは突然、自分のことに話を振られてどきりとした。自信なさげにおそるおそる答える。普段、リックやアンジェリカの前では大口を叩いているが、さすがにサイファの前では畏縮してしまうらしい。
「だったら、いい予行演習になったかもしれないな」
 サイファはニッと笑いかけた。オレンジ色の円柱にもたれかかり腕を組む。
「案外、知られていないことだが、四大結界師は物理的、環境的だけでなく、政治的にも国を支えている」
 ジークもそのことは知らなかった。少し驚いたような顔を見せると、サイファはさらに説明を続けた。
「王族に次ぐ大きな権限を与えられていてね。単に魔導力を注ぎ込むだけの楽な仕事ではないんだよ。仕事の大部分は政治的なものだといってもいい」
 サイファは淡々と話を続ける。
「それゆえ、こういった残酷な選択を突きつけられることも、少なからずあるだろう」
 ジークは呆然としていた。
「君には度胸とハッタリと決断力が足りないな。これから少しづつ身につけていくといいだろう」
 サイファはにっこり笑って、ジークの肩にぽんと手をのせた。その瞬間、ジークは膝から崩れ落ち、その場にへたり込んだ。