遠くの光に踵を上げて

第52話 遺恨

「本当に悪かったね」
 サイファはジークの肩を抱き、笑いながら謝った。
 サイファ、所長、ジークの三人は、一階の研究室に戻ってきていた。サイファが現れたときと同様、他の研究員たちの注目を浴びている。ジークは気になって仕方なかったが、サイファはまるで気にしていないかのように、平然と話を続ける。
「そうだ。今から飲みに行かないか。もちろん私のおごりだ」
 チャンスかもしれない、ジークはとっさにそう思った。以前レオナルドが言っていたことを尋ねる絶好の機会だ。
「はい」
「よし、さっそく行くか」
 サイファはジークの肩にのせた手を、力を込めて揺らした。
「定時まであと30分ありますけどぉ?」
 やたらジークやサイファに突っかかってくる若い研究員が、今回も嫌みたらしくけちをつけてきた。しかし所長がそれを制した。
「いいんだ。サイファ殿、どうぞ連れていってください」
「感謝します。この埋め合わせはまた」
 サイファはにっこり笑うと、とまどうジークの肩を抱いて外へ出ていった。

 ふたりの背中を睨みつけるようにして見送ると、若い研究員は所長にくってかかった。
「どうしていつも好き勝手やらせておくんですか! ラグランジェ家の当主だからですか?! それとも魔導省のお偉いさんだからですか?」
 所長はおだやかに目を細めて答えた。
「おまえは知らないだけだ、彼のことを。我々が彼の家や地位にかしずいていると思うか?」
 若者は複雑な表情で下唇を噛みしめた。そんな彼を見て、所長は真面目な顔で付け加えた。
「いずれ、おまえにもわかるときがくるだろう」

 陽の落ちかけた寂れた路地裏を、サイファとジークは並んで歩く。ジークがここに来たのはずいぶんと久しぶりだった。不安からか、ついあたりを見回してしまう。あいかわらず人の姿はほとんどない。
 看板すら出ていない、薄汚れた建物。その地下がフェイの酒場だ。サイファ、ジークと続いて扉をくぐった。
「お久しぶりです、フェイさん」
 サイファは、カウンターにひじをついている黒髪の女性に声を掛けた。
「あら、ずいぶんと久しぶりじゃない。娘は元気なの?」
「ええ、元気すぎるほどですよ。たまには会いに来てください」
「あんなところ、冗談じゃないよ」
 彼女はほおづえをついたまま、けだるそうに吐き捨てた。この人がこの酒場の女主人フェイである。彼女は王妃アルティナの母親だ。雰囲気は似ているが、フェイの方がだいぶくたびれた感じである。
 まだ早い時間のためか、客は誰もいない。
 サイファはつかつかと店の中に入っていき、カウンターの丸椅子に腰を掛けた。ジークもその隣に座った。
「おすすめのブランデーをいただけますか?」
「そう言うと、いちばん高いやつにするよ。ストレートでいいね」
 およそ客相手とは思えないほどぶっきらぼうなフェイに、サイファはにっこり笑顔で答えた。
「ジーク、君は?」
「えーと、じゃあ、スクリュードライバーで」
 フェイは返事をすることなく背を向けた。棚から取り出したボトルを開け、ブランデーグラスに深みのある濃い琥珀色の液体を注ぐ。そして、今度はカラカラと音をさせながら、手慣れた様子でスクリュードライバーを作り始めた。
 ジークは何とはなしにそれを眺めていた。
 彼女は手早く作り終わると、二つのグラスをふたりの前に置いた。そしてつまみを一皿、ふたりの間に置いた。サイファはグラスを手のひらで包み込むように持つと、それをジークに向けた。ジークも細長いカクテルグラスを手にとった。ふたりは互いに目を見合わせると、無言でグラスを軽く合わせた。
「今日はどうだった?」
 サイファは一口つけたあと、ジークに向かいにっこりと笑いかけた。
「知らない世界を見たような気分です。あんなに科学技術が進んでいるなんて、思いもしませんでした」
 ジークはふいに思いつめたような顔でうつむいた。
「いずれは、誰でも道具の助けを借りながら、魔導が使えるようになるってことですか」
 グラスを持つ手に力を込め、眉をひそめる。そんな彼を見て、サイファはふっと小さく笑った。
「そうはならない。というか、させないつもりだ。少なくとも私の生きている間はね」
 彼は右手のブランデーグラスをそっと揺らした。芳醇な香りが立ちのぼる。
「剣や弓とはわけが違う。新しい力を手に入れ、暴走する愚か者がわんさと出てくることは想像に固くない。我々のような魔導を扱える者は、真っ先に標的になるだろうね。秩序は崩壊し、混沌がこの国を覆うだろう。悪くすれば国がつぶれかねない」
 ジークは下を向いたまま、はっとした。彼はそこまでのことを考えていたわけではなかった。単に魔導が使えることの価値が薄れていくのではないか、つまり、自分の価値がなくなってしまうことを懸念していた。言われてみれば、確かにサイファの言うとおりだ。彼は自分の小ささを痛感した。
「研究はあくまで有事のときのだめだ。何も起こらなければ使うつもりもない。だから厳重に管理しているんだよ」
 サイファはジークを安心させるように、にっこりと笑いかけた。

 ——カランカラン。
 扉が開き、中年の男三人が連れ立って入ってきた。三人ともサイファと同じ濃青色の服を着ている。
「おお、サイファ殿。こんなところで会うとはめずらしいですな」
 その中のひとりが、サイファを見つけると親しげに声を掛けてきた。
「いつも誘ってもめったに来ないだろう」
「サイファ殿は愛妻家ですからなぁ」
「あれだけ若くて可愛い嫁をもらえば、それも仕方ないだろう」
 三人は口々に勝手なことを言い出した。
「いえ、仕事が忙しいんですよ」
 サイファはうろたえることなく、冷静に笑顔で切り返した。
「そういうことにしておきますよ」
 三人は彼を見ながら少しにやつくと、奥の丸テーブルについた。
「誰ですか?」
 ジークは後ろをこっそり盗み見た。
「魔導省育成科の連中だ。毎日のように飲んでばかりだよ」
 サイファは感情なくそう言うと、ブランデーに口をつけた。
 レイチェルの話題が出てきたことで、ジークは目的を思い出した。
「……聞きたいことが、あるんですけど」
 こわごわと切り出し、サイファの反応をうかがった。彼はまるで顔色を変えることなく、ジークに振り向いた。
「なんだ?」
 ジークは少しためらったが、やはり思いきって尋ねる決心を固めた。
「レオナルドが言っていたことで、俺は信じてるわけじゃないんですけど、少し気になって」
 レオナルドの名前が出ると、サイファの瞳に一瞬、鋭い光が宿った。ジークは気押されそうになりながらも話を続けた。
「アンジェリカが呪われた子と言われているのも、家族を不幸にしているのも、全部サイファさんのせいだと……」
 まわりを気にしながら声をひそめる。サイファは目を伏せ、思いつめたような顔で考え込んだ。
「レオナルドがそう言ったんだな」
 彼は視線を落としたまま、落ち着いたしっかりした声で念を押した。
「はい」
 ジークは首を縦に振った。サイファの言動に不安を覚えつつも、否定してくれることを期待していた。期待というより強い希望といった方がいいかもしれない。レオナルドの言うようなことが事実であるはずがない。ずっとそう思ってきた。今はその確証が欲しかった。
 しかし、サイファが口にしたのは望んでいたものとは違う言葉だった。
「彼が言っていることには心当たりがある」
 ジークの頭に、ガツンと衝撃が走った。

 ——カランカラン。
 再び扉が開き、ふたり連れが入ってきた。服装からすると、今度も役人のようだ。
 サイファはカウンターの向こうのフェイに声を掛けた。
「フェイさん。個室を貸していただけますか」
「特別料金を上乗せするわよ」
 彼女はため息をつきながらも、親指で奥を指した。
「行こう」
 サイファはグラスを持ったまま立ち上がり、ジークの肩に手をおいた。ジークの鼓動は心臓を突き破りそうなほど強く打っていた。奥に行くということは、まわりに聞かれたくない話ということだ。真実は知りたい。だが怖い。ただ否定をしてほしかっただけなのに、こんなことになるなんて……。しかしもう後戻りはできない。彼は覚悟を決め、無言でサイファのあとをついていった。

 サイファが個室と呼ぶ部屋、すなわちフェイの応接間兼リビングルームへやってきた。サイファはためらいなく奥へ進み、古びたソファに腰を下ろす。そして、ジークにも向かいのソファをすすめた。彼は気後れしながらも、それを悟られないようにと必死だった。だが、その努力も虚しく、あからさまに動きがぎこちない。なんとかソファに座り、顔だけは平静を取り繕ってみせた。
「レオナルドが言っていたことだが……」
 サイファはためらったように言葉を詰まらせた。ジークの緊張は一気に高まった。ごくりと喉を鳴らす。
「結婚する前に子供が出来たんだよ」
「……はい?」
 あまりにも予想を超えた答えに、ジークは素頓狂な声を上げ、唖然としていた。その内容にも驚いたが、今までの話とどうつながっているのかまるでわからない。
 サイファは琥珀色の小さな水面に目を落とし、自嘲ぎみに小さく笑うと話を続けた。
「当時、親戚たちに、まことしやかに言われたものだよ。モラルに反する行いが、神の怒りを買い、子供が呪われてしまったんだとね」
 ようやくつながりが見えてきた。レオナルドはこのことを言っていたのだ。ジークはようやく納得した。
 サイファは顔を上げると、グラスを持ったまま両手を広げ、肩をすくめてみせた。
「おかしいだろう? 魔導でさえ科学で解明されようとするこの時代に、呪いなどバカバカしいにもほどがある。アンジェリカは呪われてなどいない」
 サイファはいつになく感情的にまくしたてた。
「レイチェルを苦しい立場に追い込んでしまったのは、私のせいだと言えるかもしれないがね」
 ふいに寂しげな表情を浮かべると、ブランデーを一気に飲み干した。
「そう、ですか」
 ジークは何と言っていいかわからなかった。複雑な顔で目を伏せる。だが、少しほっとしていた。サイファがレイチェルたちを裏切るようなことをしていたわけではなかったのだ。家族を想う気持ちはきっと本物だろう。
 サイファは立ち上がり、戸口へ向かうと、ブランデーのボトルを持って戻ってきた。ソファにどっかりと腰を下ろすと、ボトルの蓋を開け、自分でグラスに注ぎ始めた。
「しかしいまだにそんなことを言っているとは、そうとう根にもたれているようだな」
 ふっと軽く笑い、グラスに口をつけ傾けた。
「レオナルドに、ですか?」
「ああ、君は知らないんだな」
 ふと気づいたようにそう言うと、右手にのせたグラスを揺らし、琥珀色の波を立てた。
「レオナルドはレイチェルのことが好きだったんだよ。小さいころから、おそらくつい最近までずっとね」
 表情ひとつ動かさずに説明をする。そして、残りのブランデーを一気にあおった。
 ジークは驚いて声も出なかった。今日は驚きっぱなしである。
「家が近かったこともあって、レイチェルはよくレオナルドと遊んでやっていたんだ」
 サイファは再びボトルを手にとりグラスに注いだ。
「その頃には、すでに私とレイチェルが結婚することは決まっていたし、レオナルドもそれを知っていたはずだが、幼さゆえに実感できなかったんだろう」
 右手の上にグラスをのせると、それを目の高さに掲げ、蛍光灯にかざした。郷愁を誘うセピア色が、彼の顔を彩る。
「それが、16の若さでいきなり結婚だ。引き離されたように感じて、ショックを受けたんだろうな」
 右手をゆっくりとまわし、グラスの中でブランデーを転がす。立ちのぼる深く豊かな香りに包まれながら、そっと目を伏せると微かに自嘲した。
「それからだよ、彼がひねくれだしたのは。私を目の敵にし、その矛先はアンジェリカにも向けられたよ。私に対しては構わないが、アンジェリカを傷つけることだけは別だ。許すわけにはいかない」
 きっぱりと言い切ると、再び一気に飲み干した。
 ——カラン。
 スクリュードライバーの氷が崩れて音を立てた。ジークはすっかりその存在を忘れていた。水滴に覆われたグラスを手にとり、一口、二口、流し込んだ。上の方は氷が融けて、やや水っぽくなっていた。
「今、ユールベルはレオナルドのところに住んでいるらしいな」
「はい。きっと今はユールベルのことが……」
「少し、心配だな。けっこう思いつめるタイプでね」
 サイファの話を聞くにつれ、ジークがレオナルドに対して抱いていたイメージが変わってきた。彼にもいろいろと抱えているものがあり、理由があった。それでもやはり好きにはなれないと思うが、少しは理解できたような気がした。
 サイファはほおづえをつき、ジークを見つめながら、目を細めてかすかに笑みを浮かべた。
「君は素直だな」
「え?」
「少しは疑うことを覚えた方がいい」
 ジークははっとした。
「あ……すみません。レオナルドの言葉を真に受けたわけじゃなかったんですけど」
 彼は申しわけなさそうに頭を下げた。しかしサイファは、彼ではなくどこか遠くを見ているようだった。
「私が真実を言っているとは限らないぞ」
 意味ありげなその言葉が、ジークを不安に陥れた。彼は何を意図しているのだろうか。自分を試しているのだろうか。彼の表情からは何も読み取れない。
「……どういうことですか?」
 息が詰まりそうになりながら尋ねる。
「簡単に人を信用しない方がいいということだ」
 サイファは真面目な顔でそう言いながら、ブランデーのボトルに手を掛けた。
「嘘をついているわけじゃないんですよね?」
「どうかな」
 少しも表情を動かすことなくはぐらかす。ジークには、彼が何を考えているのかまるでわからなかった。しかし、もうこれ以上の追求などできない。どうすればいいのかわからない。すっかり困り果て、うつむいて口をつぐんでしまった。
「悪い、飲み過ぎたようだ」
 サイファはブランデーに手を掛けたまま、深々と頭を下げた。そして、ゆっくりソファの背もたれに身を預けると、天井を仰ぎ、額に手の甲をのせた。
「大丈夫ですか?」
「ああ」
 ジークが立ち上がろうとしたそのとき、フェイが両手に皿を持って入ってきた。サイファの様子を目にしたあと、机の上に視線を移す。
「あきれた。この短時間でこんなに飲むなんて」
 半分以下になったボトルを覗き込み、ため息まじりに言った。
「何があったか知らないけど、いい大人なんだから自制しなさい。君も止めなさい」
 料理が盛られた皿を机の上に置きながら、母親のようにふたりをたしなめた。
「すみません」
 ジークは小さく頭を下げ、素直に謝った。しかし、いいわけしたい気持ちも少しはあった。サイファは顔色が変わらないので、酔っているかどうか見た目ではわかりづらい。どう止めたらいいというのだろう。そう思ったが、口には出さなかった。
「水を持ってくるわ」
 フェイはその言葉を残し、戻っていった。
「サイファさん……」
 ジークは遠慮がちにそっと声を掛けた。目を閉じている彼を見て、眠ってしまったのではないかと思った。だが、彼はしっかり意識を保っていた。
「大丈夫だよ、心配ない」
 目を閉じたままだったが、いつものはっきりした口調だった。
「俺のせい、ですか?」
 ジークはよくわからないまま、そう尋ねていた。不安そうに顔を曇らせる。
「君は悪くないよ」
 サイファはなだめるように優しく答えた。

 フェイが水を持って戻ってきた。
「あのときみたいなのはごめんだからね」
 そう言いながら、サイファにグラスを差し出した。彼は体を起こすと、にっこり笑ってそれを両手で受け取った。
「もうあんな昔のことは忘れてください」
「思い出させるようなことをするからよ」
 フェイはブランデーのボトルとグラスを手にとった。
「これはおあずけ。料理はどうする? 食べられるようなら持ってくるけど」
「ええ、お願いします」
 サイファがにこやかにそう言うと、フェイは小さく笑って再び戻っていった。彼女のこんな表情を見たのは、ジークは初めてだった。

「昔ね、一度だけ酔いつぶれたことがあったんだよ。みっともない話さ」
 サイファはひとくち水を飲むと、笑いながら自ら語った。気になっているけれど聞きづらそうなジークの素振りを察してくれたようだった。
「サイファさんでもそんなことあるんですね」
 ジークは驚いたような、妙に感心したような様子で、そんな言葉を漏らした。
「失望したか?」
「いえ、なんだか安心しました」
 安心したというのが適切な表現かどうかはわからない。だが、それはジークの本心だった。非の打ちどころのない人だと思っていたサイファにも、こんな失敗があったのだ。それを知ることで、ほっとしたと同時に親しみもわいてきた。
「ジーク、君にお願いがある。今日の話はアンジェリカには内緒にしておいてくれ。レオナルドのこともな」
「……言えませんよ」
 ジークは少し耳元を赤らめて目をそらせた。たとえ言えといわれても、自分の口からはとても言えない。
「そうか、そうだな」
 サイファは下を向き、愉快そうに吹き出して笑うと、フォークを手にとりサラダをつついた。