「二階の改修、完了しました」
作業着姿の若い男が、帽子をとり、ひょっこりと顔をのぞかせた。その部屋では、三人がダイニングテーブルを囲み、静かに食事をとっていた。
「ご苦労さま」
その中のひとり、ユリアは、微笑みを浮かべて立ち上がり、玄関まで彼を見送りに行った。残ったふたり、バルタスとその息子アンソニーは、黙々と食事を続けた。玄関からユリアの笑い声がかすかに聞こえた。
「アンソニー、あなたの部屋、二階に移してもいいわよ。行きたがっていたでしょう?」
ユリアは戻ってくるなり上機嫌でそう言いながら席についた。
アンソニーは、まだあどけない顔に、暗く思いつめた表情を浮かべ、沈むようにうつむいた。そして、手を止めると、重々しく口を開いた。
「二階にいた人は、どうなったんですか」
——ガシャン。
ユリアはフォークを皿の上に取り落とした。顔から血の気が引いていた。手はわななき、視線は空を泳いでいる。その表情に浮かんでいたのは、明らかに怯えだった。
「……誰も、いなかったわよ」
乾いた喉の奥から言葉を絞り出した。平静を装ったつもりだったが、その声はわずかに震えていた。
バルタスは無反応だった。ユリアを気に掛ける素振りも見せず、無言で新聞を広げた。
アンソニーは両親の態度に、ますます不信感を募らせた。顔に苦悩の色を浮かべると、ためらいながらも、心の中に秘めていた疑念を切り出した。
「あのとき、二階の部屋を壊して出てきた包帯の人……僕の姉なんじゃ……」
「黙りなさい」
ユリアは冷たくピシャリと言い放ち、刺すように睨みつけた。
アンソニーはびくりと体をこわばらせた。それでも母親の言いなりにはならなかった。おそるおそる言葉を紡いでいく。
「僕には、姉がいた。そんな記憶がかすかにあります」
「うるさい!!」
彼女はまるで悲鳴のような叫び声をあげて立ち上がると、大きく手を振り上げ、アンソニーの頭をなぎ払った。彼の華奢な体は、吹っ飛ぶように椅子から転げ落ち、床に倒れ込んだ。
「いないったらいないのよ!!」
ユリアは怒りまかせに机のへりにグラスを叩きつけ、次々と割っていった。バリン、ガシャン、と派手な音が部屋中に響いた。
アンソニーは軽い脳震盪で起き上がることができないでいた。その上に、容赦なくガラスの破片が降り注いでいく。鋭利な破片のいくつかは、彼を切り、血をにじませた。
「うっ……」
倒れ伏したままの少年から、わずかに苦悶のうめきが漏れた。
ユリアはそれを耳にすると、はっと我にかえった。自分が起こした行動の結果を目の当たりにし、息をのんだ。
「く……うっ……!」
喉を詰まらせたような唸り声を発すると、彼女は両手で顔を覆い、嗚咽を始めた。
「お願い……お願いだから、いい子でいて……! こんなことさせないで!!」
膝から崩れ落ち、体を折り曲げ、背中を震わせる。
「あなたを愛しているわ。だから——」
アンソニーは薄れゆく意識の中で、ぼんやりと母親の言葉を反芻した。
バルタスの新聞をめくる音が、静まった部屋に響いた。
外から聞こえる小鳥のさえずりが、気持ちを晴れやかにさせる。その日はそんな朝から始まった。
「行ってくるよ」
「行ってらっしゃい」
レイチェルは愛くるしい笑顔でサイファを見上げた。彼は、薄桜色の頬に軽く口づけし、重い扉を押し開けた。
——ゴン。
鈍い音と同時に、扉を開ける手に抵抗を感じた。向こう側で何かがぶつかったらしい。ふたりは顔を見合わせた。
サイファは薄く開いた隙間から首を出し、用心しながら外を窺った。
「君は……!」
そこには、額を押さえた少年がうずくまっていた。
「こんな朝早くに、お客さん?」
二階から降りてきたアンジェリカは、来客用のティーカップにお茶を注ぐ母親を見て、不思議そうに尋ねた。
「ええ、ほら、早く行かないと遅れるわよ」
レイチェルは動揺することなく答え、さりげなく会話をそらせた。アンジェリカは掛時計に目をやると、小さくあっと声を漏らした。
「行ってきます!」
「気をつけて」
「え?」
玄関に向かおうと急いでいたアンジェリカは、思わず足を止め振り返った。気をつけて、という言葉に引っかかりを感じたのだ。普段はこんなことを言わないのに……。怪訝な顔で母親を見つめた。
「行ってらっしゃい」
レイチェルはにっこりとして言い直した。アンジェリカは少しとまどっていたが、もう一度「行ってきます」と言い、玄関へ走っていった。
レイチェルがサイファの書斎に入ると、少年はあわてて額の濡れタオルを取り、ソファから立ち上がった。
「すみません」
「いいえ」
ペコリと頭を下げた少年に、レイチェルは穏やかに微笑みかけ、お茶を差し出した。そして、再び座るよう促した。
サイファは、皮張りの柔らかい椅子に腰掛け、大きなデスクにひじをついた。ソファに座る少年をじっと見つめる。彼は行儀よく背筋をぴんと伸ばし、緊張した面持ちでサイファを窺っていた。
「念のため確認するが、バルタスの息子、アンソニーだな」
「はい。すみません、こんな時間に……」
アンソニーは畏縮し、肩をすくませ小さくなった。
サイファはにっこりと満面の笑みを浮かべた。
「おかげで仕事には遅刻だよ」
「すみません……」
「もう、サイファったら」
レイチェルはサイファをたしなめた。彼女にはいたずら心からの言葉だとわかるが、この少年にはそのような余裕はないだろう。
サイファは笑いながらすぐに撤回した。
「ごめんごめん、気にしてないよ。それより……」
声のトーンが真剣なものに変わった。アンソニーはびくりとした。
「何か話があって来たのだろう?」
サイファは、身をすくめる少年の瞳を探った。だが、アンソニーは無言でうろたえるばかりだった。覚悟も決まらないまま、ここに来てしまった。そして、この場でもまだ迷っていた。額にうっすら汗がにじんできた。
レイチェルは、後ろから彼の肩に優しく手をのせた。
「緊張しなくてもいいのよ。それとも、私は出てましょうか?」
「いえ! いてください!」
少年はあわてて振り返り、幼さの残る顔で、すがるようにレイチェルを見上げた。サイファとふたりきりにされては、ますます何も言えなくなってしまいそうだった。
「わかったわ」
彼女はアンソニーの隣に腰を下ろし、覗き込むようにしてにっこりと笑いかけた。
彼は再びうつむいた。固く口を結び、何かを懸命に考えているようだった。やがて、意を決したように顔を上げると、まっすぐサイファに目を向けた。
「僕は、真実を知りたいんです」
サイファは冷静な表情で彼を見つめた。続きを促しているようだった。
アンソニーはもう逃げなかった。サイファの視線を受け止め、しっかりとした口調で話し始める。
「一年前、僕の家の二階を壊して出てきた人がいるんです。誰なんですか? なぜあそこにいたんですか? もし、何か知っていたら教えてください。両親は何も話してくれません。でも、様子がおかしくて……何かを隠していると思うんです」
一気にそれだけ話しきると、強い光を宿した瞳で訴えた。
サイファはため息をつき、物憂げに遠くを見やると、噛みしめるように静かに言った。
「真実か……」
そして、厳しい表情をアンソニーに向けた。
「真実は時として残酷なものだよ。知らない方が良かった、ということもあるかもしれない」
隣で聞いていたレイチェルの表情に、一瞬、翳りが落ちた。
「君にはそれを受け止める覚悟があるか?」
サイファは少年の瞳の奥に問いかけた。蛇に睨まれた蛙のように、アンソニーは身がすくんで動けなくなった。恐怖心が彼を呑み込む。喉はからからに乾燥し、手先足先は感覚をなくしていた。それでも、真実を知りたいという強い思いが、彼をつき動かした。膝にのせたこぶしをぎゅっと握りしめた。
「僕の家で起こったことだから……知らなければいけないんじゃないかって……」
「知ってどうする」
ようやくの返答を即座に切り返され、今度こそ答えに窮した。うつむき、眉根にしわを寄せ、唇をきつく噛みしめた。膝にのせたこぶしは、小刻みに震えていた。何か答えなければ……そう思うものの、頭が真っ白になり、何も考えられなかった。
サイファは紙とペンを取り、さらさらと走り書きをした。そして、それを二つに折ると、アンソニーに差し出した。
「君が探し求める人は、ここにいる」
アンソニーは顔を上げ、きょとんとした。
「私がしてやれるのはここまでだ。あとは君次第だよ」
「ありがとうございます!」
顔をぱっと輝かせ、デスクに走り寄った。サイファの手から紙切れを受け取ると、ペコリと頭を下げた。震える手でそっと紙を開く。そこには、どこかの住所が書かれていた。
「ひとつ言っておくが、そこは男子禁制だ。気をつけるんだぞ」
「男の子は入っちゃダメってことよ」
目をぱちくりさせているアンソニーを見て、レイチェルがくすりと笑って付け加えた。
「アンソニー」
「はい」
サイファの呼びかけに、アンソニーはしっかりと返事をした。
「両親とは仲良くやっているか」
その質問に一瞬ぽかんとしたが、すぐににっこりと微笑んで見せた。
「はい、僕のことを愛してると言ってくれます」
「そうか」
サイファもにっこりと微笑み返した。
「ユールベルっ!」
寮の門をくぐろうとしていたユールベルは、無言で振り返った。それと同時に、呼びかけたターニャが、後ろから飛びつくように腕を絡ませてきた。からりと笑顔を弾けさせている。ユールベルもつられてかすかに口元を緩めた。
「今日はひとり? レオナルドは?」
たいていは一緒にいるはずの彼がいないことに気がつき、ターニャはあたりを見回しながら尋ねた。ユールベルは前を向いたまま、ぽつりと言った。
「補習」
「補習っ?!」
ターニャの声は裏返った。アカデミーで補習など、今まで聞いたことがなかった。
「進級がやばかったとか?」
「そうみたいね」
ユールベルは淡々と答えた。
「じゃあさ、久しぶりにふたりでアイス食べに行こっか」
「あなた、本当にアイスクリームが好きね」
ユールベルの声は、少し呆れたような調子だったが、ターニャは気にしなかった。断らなかったことを、肯定の返事と捉えた。
「決まりね! 鞄だけ置いてこよ!」
明るく笑って強引に話を進めると、ふたりで腕を組んだまま門をくぐった。
玄関ポーチに差しかかったところで、突然、脇の植え込みから何かが飛び出してきた。ふたりはとっさに飛び退いて、防御の姿勢をとった。
「だ、誰?!」
ターニャが少しうろたえたように呼びかけた。
それは、猫や犬ではなく、人間だった。まだあどけない顔の少年である。澄んだ青の瞳は、まるで疑うことを知らない子供のようだった。そして、細く柔らかい金髪には、いくつもの木の葉が絡みついている。植え込みのものだろう。
ユールベルは息を止め、目を見開いた。
「君! 男の子は入ってきちゃダメなのよ。そんなところで何してたの」
ターニャは叱るようにそう言った。
しかし、少年の耳にはまるで届いていないようだった。彼はユールベルだけを見ていた。彼女に向かって、一歩、前に進み出る。
「僕は、アンソニー=ウィル=ラグランジェです。あなたは?」
ユールベルは固まった表情のまま、何も答えなかった。
「あなたは、僕の姉ではないんですか?」
「……私に、家族はいない」
こわばった口元から、小さな声を漏らした。
アンソニーは、その答えに納得しなかった。
「僕は二階に行ってはいけないと、ずっと言われてきました。その二階を壊して出てきたのはあなただった。そのときのことは覚えています」
「知らない……」
「なぜなんですか? 何があったんですか? どうなっていたんですか?」
「やめて! 関係ないわ!」
次々とに畳み掛けてくるアンソニーの勢いに、ユールベルは取り繕う余裕をなくした。おびえたように頭を抱え込み、小刻みに何度も横に振り続けた。
「待って、待って!」
ターニャがふたりの間に割って入った。
「君たちの間に何があったか知らないけど、ここで言い争うのはまずいわ」
ふたりの肩を軽く叩き、交互に目を見ると、ねっ、と同意を求め、落ち着かせた。
「君が必死なのはわかるけど……」
そう言いながら、アンソニーを見てくすりと笑い、髪に絡みついた葉っぱを取ろうと手を伸ばした。
そのとたん、彼は顔をこわばらせ、固く目をつぶり、肩をすくませ、体を硬直させた。
ユールベルははっとした。
——まさか、この反応。
どくんと強く心臓が打った。嫌な予感に、体中から汗がにじんだ。
「見せて!」
短くそう言うと、唐突にアンソニーに掴みかかった。
「ちょっと、ユールベル?!」
ターニャの制止も聞かず、ユールベルは乱暴に彼の上衣をまくり上げた。そして、あらわになった背中に目を落とす。
——やっぱり……!
ぎゅっと服を掴んだ彼女の右手は、小刻みに震え出した。
「どう……して……あなたは幸せなはずだと……」
「これって、まさか……」
ターニャは眉をひそめた。
彼の背中や脇腹には、いくつかの古い傷跡、そして最近のものと思われる切り傷と打撲の痕があった。
アンソニーは困惑して、上目づかいでふたりを見た。
「あの、これは……僕が良い子じゃなかったから……」
「違う! 良い子とか良い子じゃないとか……誰にもこんなことをする権利なんてない!」
ユールベルは唇を噛みしめ、涙をにじませた。しかし、すぐに手の甲でそれを拭い、表情をキッと引き締めると、アンソニーの手を引き走り出した。
「どこ行くの?! ねぇ、ユールベルっ!」
「来ないで!」
あとを追おうとするターニャを、強い語調で牽制すると、そのまま走り去って行った。
「どこへ行くんですか」
不安がるアンソニーの質問にも答えず、ユールベルは彼の手を引き走り続けた。アカデミーを突っ切り、王宮へと駆け込んでいく。
「ラウル!」
医務室の扉を開くなり、声の限りに叫んだ。そして、アンソニーを中へ押しやり、背中をまくって見せた。
「この子を助けて」
真摯にまっすぐラウルを見つめる。
「そういうことか」
彼はそれを見るなり、彼女の言わんとすることを悟った。机にひじをのせ、小さくため息をついた。
「その傷と打撲の手当てはする」
ユールベルは眉をひそめた。彼は無表情で言葉を続けた。
「だが、それ以上のことは求めるな。サイファに頼め」
「いまさら、おじさまにどんな顔をして会えっていうの。あなたしかいないから、だから頼んでいるのに!」
「だったら、あきらめるんだな」
——パン!
ユールベルは、彼の頬に大きく平手打ちをした。奥歯を噛みしめ、激しく睨みつける。
「勝手に助けたかと思えば、冷たく突き放したり……いつも勝手で気まぐれで……」
唸るようにそう言うと、目に溢れんばかりの涙をため、浅い呼吸を繰り返す。
「やっぱりあなたなんて大嫌い!」
精一杯の声で叫ぶと、大粒の涙をこぼしながら、もういちど平手打ちをした。ラウルはなすがままでそれを受け止めた。左頬にはわずかに赤みがさしていた。
ユールベルはくるりと踵を返すと、アンソニーの手を引き、走って出ていった。
——どうしよう。
ラウルの医務室から離れると、途方に暮れて壁を背に座り込み、ぐったりとうなだれた。
アンソニーはその隣に膝をつき、心配そうに覗き込んだ。
「姉さん……」
「違う」
彼女は否定した。しかし、アンソニーはそれを信じなかった。
「だって、僕のことでこんなに一生懸命になってくれている」
ユールベルはさらに頭を沈めた。
「……あなたのことを憎んでさえいたのに……あなたひとり幸せだと……」
アンソニーは当惑した。彼女の言うことがよくわからなかった。しかし、なんとか元気づけようと笑ってみせた。
「僕は大丈夫。怒られたのは僕が悪かったからなんです。母さんは僕を愛してくれているって」
「違うわ。愛していたら、そんなことはしない」
ユールベルはゆっくりと静かに、だが、はっきりと言い切った。
アンソニーの顔に怯えたような色が浮かんだ。彼も、今まで何の疑問も持たなかったわけではない。ただ、そう信じることで耐えてきたのだ。しかし、それも今、崩れ去ろうとしていた。
ユールベルは彼をじっと見つめると、立ち上がり、その手を強く握った。
「おじさま……」
ユールベルはおそるおそる扉を開けた。魔導省の塔、最上階の一室にあるサイファの部屋。広くはないが、整然と片付けられている。その奥に彼は座っていた。訪問者に気がつくと、立ち上がって出迎えた。
「やあ、ユールベル。久しぶりだね。アンソニーも一緒か」
サイファの、以前と少しも変わらない笑顔に、ユールベルの胸は締めつけられた。アンソニーはぎこちなくおじぎをした。今朝、押し掛けたばかりのサイファに、成り行きとはいえ再び助けを求めることになってしまい、アンソニーはばつの悪さを感じていた。
「私が今さらおじさまに会わす顔なんてないってことは、わかっているわ」
ユールベルはうつむき、つらそうに顔を歪ませた。
「でも、この子を助けてほしくて……この子は私と同じなの!」
必死にそう訴えかけると、再度アンソニーの上衣をまくって背中を見せた。
サイファは驚いたように目を見開いた。
「まさか……」
思わずそんな言葉が口をついた。今まで少しも気がつかなかった。彼とは滅多に顔を会わすことはないが、少なくとも今朝は対面して話もした。両親のことも尋ねた。それなのに気づけなかったのは、不覚といわざるをえない。
「あの、これは、僕が言うことをきかなかったからで……」
「そんなの関係ないって言ってるでしょう?!」
ユールベルは涙声で叫んだ。
サイファは片膝をつき、アンソニーの小さな肩に手をのせた。そして、まっすぐに彼と視線を合わせた。
「母親につけられた傷なんだな?」
「……はい」
アンソニーはとまどいながらも、わずかに頷いた。
「おじさま……」
ユールベルはすがるようにサイファを見つめた。彼女にとって、頼る人はもう彼しかいない。断られたら——そう思うと怖くてたまらなかった。
サイファは立ち上がり、腕を組むと、ゆっくりと彼女に顔を向けた。
「君が、守るんだ」
「え……?」
「アンソニーが家を出る。君が寮を出る。そして君たちがふたりで暮らす」
「えっ?!」
「ユールベルがアカデミーに行っている間は、そうだな、アンソニー、君も学校へ通うか。なに、生活費の心配はいらないよ。両親にきっちりと出させるからね」
サイファは大きくにっこりと笑いかけた。
呆気にとられていたユールベルは、我にかえると必死で訴えた。
「無理! そんなのできないわ!! 私がこの子の面倒を見るなんて!!」
目をきつくつぶり、首を大きく横に振った。
サイファは彼女の頬を両手で包み込み、自分に顔を向けさせた。真剣な表情で、彼女の瞳を覗き込む。
「私もできうる限りの助力はする。しかし、彼を守ってやれるのは君しかいないんだよ、ユールベル」
頬から沁み入る優しい温もりが、彼女の心を落ち着けた。少し考えたあと、静かに尋ねた。
「私ができないって言ったら、どうなるの?」
「施設へ預けることになるだろう」
「…………」
その方が彼のために良いのではないか、ユールベルはそう考え始めていた。何もできない自分よりも、施設の方が適切にケアをしてくれるはず……。
「あの、僕は、どうしても家を出なくてはいけないんだったら、施設へ行くよりも、姉さんと暮らしたい」
横からアンソニーがおずおずと話しかけてきた。ユールベルは表情を凍らせた。
「私に家族はいないわ。何度言わせるの」
「あなたが姉でないというなら、それでもいいです。でも、僕は、あなたといたいです」
まっすぐに自分を見つめてくる、まっすぐなアンソニーの言葉に、ユールベルは押しつぶされそうだった。
「……どうして……今日、会ったばかりじゃない……」
うわ言のようにつぶやいた。
アンソニーは無邪気な顔で笑った。
「僕のことにこんなに一生懸命になってくれている。だから、姉さんはいい人に違いないです」
ユールベルは、一瞬、言葉をなくした。
「……バカよ。どこまでお人好しなのよ。なんにも知らないくせに……。それに私は姉さんじゃないって……」
そこで言葉が途切れた。そして、うっと小さくうめき声をあげたかと思うと、両手に顔をうずめ、泣き崩れた。サイファは彼女の前に膝をつき、震える細い両肩に手をのせた。
「ユールベル、君ならできるよ。君は優しくて強い子だ」
「おじさまっ!!」
ユールベルはサイファにすがりついて泣いた。まるで子供のように、大声をあげて泣きじゃくった。サイファは彼女を優しく撫でた。
やがて、ユールベルは泣き疲れ、次第にすすり泣きへと変わっていった。その間、サイファはずっと彼女を支え、頭を抱いていた。
「何かあったら、些細なことでも、遠慮なく相談しにおいで。アンソニー、君もだ」
ユールベルは彼の腕の中で小さくうなずいた。アンソニーも、その隣でこくりと頷いた。
「私、おじさまの子供に生まれてきたかった」
「父親と思ってくれて構わないよ」
ユールベルは涙が止まらなかった。
大きな窓の外では、紅の空に沈みゆく斜陽が、一筋の輝きを放っていた。それは、部屋の中にも差し込み、三人の姿を赤く照らすと、長い長い影を作った。
「あ……」
ジークは小さく声をあげ、足を止めた。アンジェリカとリックには、すぐにその理由がわかった。
「久しぶりに嫌なヤツに会っちまったぜ」
ジークは、思いきりしかめた顔を、相手に見せつけた。
「それはこっちのセリフだ」
向かいから歩いてきたレオナルドも、同じく顔をしかめて言い返した。隣のユールベルは、無表情で三人を見ていた。
「おまえが同学年でなくてつくづく良かったぜ。毎日、顔を会わすなんて反吐が出る」
ジークは虫の居所が悪いのか、いつになく突っかかり毒づいた。レオナルドも負けじと応戦する。
「同感だ。せいぜい留年しないよう気をつけてくれよ」
「あら、知らないの?」
アンジェリカが割り込んだ。
「ジークは、こう見えても優秀なのよ。意外と真面目だし。心配しなくても留年なんてしないわよ」
ジークは複雑な顔で腕を組んだ。
「おまえ……フォローはありがてぇけど、その言い方、なんか引っかかる……」
「え? なにが?」
彼女に他意はないようだった。
「ねぇさーん!!」
アンジェリカよりもやや小さいくらいの少年が、大きく手を振り玄関から入ってきた。そして、ユールベルのもとへ走り寄った。
「勝手に入ってきちゃダメって言ってるじゃない」
「じゃあ早く帰ろう」
少年は、にこにこしながら彼女の手を引いた。
「それに姉さんて呼ぶのはやめてって」
「だって、姉さんは姉さんだし」
そんな会話をしながら、ふたりは外へ出ていった。
「弟……いたの?」
呆気にとられていたリックが、アンジェリカに振り向いて尋ねた。
「あの子、見たことある気はするけど……」
彼女も驚いていたようだった。
「なんだ、テメーは一緒に帰らねぇのかよ。弟にとられたか」
ジークはレオナルドを意地悪くからかった。彼はムッとして睨みつけた。
「バカを言うな。俺は……他の用があるだけだ」
「おーい!」
ターニャが廊下の向こうから、手を振ってやってきた。そして、あたりを見回しながら尋ねた。
「ユールベルは?」
レオナルドはむっとしたまま、親指で外を指した。その方向に目をやると、ユールベルの後ろ姿が遠くに小さく見えた。ちょうどアンソニーに手を引かれて門を出るところだった。
「あーもう。せっかく一緒に帰ろうと思ったのに。せっかちだなぁ、弟クンは」
「どうなっているの?」
アンジェリカはターニャを見上げた。
「ああ、君たちは知らなかったんだっけ。ユールベルは寮を出て、弟と一緒に住んでるのよ」
「えぇっ?!」
「どうして?」
「大丈夫なのかよ!」
三人は口々に尋ねた。ターニャはくすりと笑った。
「詳しいいきさつは聞いてないけどね。でも元気にやってるわよ。寮のすぐ近くだから、ウチの寮母さんがまめに面倒を見に行ってるみたいだし、私たちもしょっちゅう遊びに行ってるから」
そう言うと、ふと表情を和らげた。
「私はさびしくなったけど、あの子にとっては良かったんじゃないかなって思う。表情が明るくなったもの」
「自分の気持ちを押しつけるだけじゃ、ダメだったってことだな」
ジークはあさっての方を向き、とぼけた調子でしれっと言った。誰とは言わなかったが、レオナルドのことを指しているのは明らかだった。彼は耳元を赤らめ、奥歯を軋ませると、ジークをキッと睨みつけた。しかし、返す言葉はなかった。
ターニャはふいにレオナルドに振り返った。
「そういえば、こんなところでのんびりしてていいの? 君、補習でしょ?」
「……補習?!」
三人はいっせいに声をあげ、レオナルドを見た。彼は思いきり狼狽し、ますます顔を上気させると、逃げるように走り去っていった。