遠くの光に踵を上げて

第67話 パーティ

「決まった! 進級できるんだ!」
 レオナルドはアカデミーの昇降口で待っていたユールベルに駆け寄り、彼女の手を取ると興奮して叫んだ。
「良かった」
 ユールベルは安堵の息をつき、微かに表情を緩めた。レオナルドはじわりと涙ぐんだ。あわててうつむき、手の甲で拭った。
「全部おまえのおかげだ。あきらめずにずっと付き合ってくれて……。本当に何て礼を言ったらいいか……」
 そこまで言うと、はっとして顔を上げた。
「そうだ。今から進級祝いのパーティをやらないか?」
「ごめんなさい。今日は先約が……」
「ユールベルっ!」
 弾けた声がふたりの会話を遮った。
「ターニャ」
 振り返ろうとしたユールベルに、彼女は後ろから飛びかかるように抱きついた。いつもとは違い、黒のブレザーで正装している。
「じゃーん、見て見て、卒業証書!」
 ユールベルにのしかかったままで、手にしていた筒状の紙を開いて見せた。そこには彼女の名前や学科名などとともに、王の直筆サインが入っていた。王の名の入った卒業証書はこのアカデミーでしか手に入らない。優れた才能を備え、努力を惜しまなかった者だけに与えられる栄誉だ。
 だが、ユールベルはほとんど興味を示さなかった。
「式、終わったのね」
 見せられたものに対しては何も述べず、素っ気なく話題を変える。
 だが、ターニャはまるで気にしていなかった。いつものことである。悪気がないのもわかっている。それを気にしているようでは、ユールベルの友達にはなれなかっただろう。
「うん、さっそく行こっか」
「先約って、コイツか?」
 レオナルドはあからさまに嫌そうな顔でターニャを指さした。
「なに? レオナルドも何か?」
「進級祝いのパーティをしようって」
 無言でそっぽを向いた彼の代わりに、ユールベルが答えた。
 ターニャはいい事を思いついたとばかりに、ぱっと顔を輝かせ、両手をパチンと合わせた。
「じゃ、一緒にやっちゃおうよ。私の卒業祝いパーティと」
「誰がおまえなんかと。別の日にあらためてふたりだけでやるさ」
 レオナルドは苦虫を噛み潰した顔で吐き捨てた。
「あ、ジーク!」
 並んで歩くジークとアンジェリカを見つけ、ターニャは大きく手を振った。
「見て! 私、今日で卒業なの」
 彼女は嬉しそうに、再び卒業証書を広げた。
「そうか、良かったな」
 ジークはまるで心のない返事をした。ターニャは腰に手をあて、口をとがらせた。
「そっけないなぁ。そうだ、ふたりとも来ない? 私の卒業パーティ。ユールベルの家でやるんだけど」
「行かねぇよ」
 ジークは即答して、すぐに立ち去ろうとした。
 しかし、アンジェリカはその場に留まったまま動こうとしない。
「どうした? アンジェリカ」
 ジークは足を止めて振り返った。
 彼女は何かを言いたげな表情をしていた。ちらりとユールベルに目を向けたあと、困ったようにジークを見る。
「行きたいんでしょ?」
 ターニャは優しく微笑み、横から助け舟を出した。
「ユールベルが、その、嫌じゃなければ……」
 アンジェリカはそう言って口ごもった。うつむいて、ユールベルの様子を窺う。
 彼女は無表情で口を開いた。
「別に構わないわ。もう、あなたのことを疎ましいとは思っていないもの。今はただ、少し気まずいだけ」
 そう言うと、顔をそらし、肩にかかった髪をはね上げた。緩やかなウェーブを描いた金の髪と、頭の後ろで結んだ白く柔らかな包帯が、緩やかな風になびいた。
「来たければ来て。……いいきっかけになるかもしれないわ」
 小さいがはっきりとした声だった。
 アンジェリカの顔がぱっと晴れた。
「ありがとう」
 弾んだ声でそう言うと、満面の笑みを見せた。
 ジークはあわてた。
「おまえ本気で行くつもりなのか?!」
「ええ。だって、ユールベルもああ言ってくれてるし」
 アンジェリカはにこっと笑った。
 ジークは弱り顔でため息をついた。彼女がこれほど嬉しそうにしているのに、止めることはできない。止めるだけの決定的な理由もない。ただ、少し心配なだけである。せめて、できることといえば、自分が付き添うことくらいだろう。
「おまえが行くんなら、俺も行くぜ」
 少し疲れたような声で言った。
 それを聞いて、今度はレオナルドがあわてふためいた。
「コイツが行くなら、俺も行く!」
「じゃ、みんな行くってことね」
 ターニャは嬉しそうに笑って、ユールベルの手を引いた。

「おかえり!」
 ユールベルが扉を開けると、エプロン姿のアンソニーが出迎えた。
「人数、だいぶ増えちゃったけど、大丈夫かな?」
 ターニャはうしろのジークたちを指さしながら、少し申しわけなさそうに尋ねた。
「気にしないで。足りなければ買い足してきますから」
「上がって」
 ユールベルは振り返ってジークたちを招き入れた。
「おう」
「お邪魔します」
 ふたりに続いてレオナルドも入ろうとした。だが、アンソニーがそれを許さなかった。レオナルドを蹴り飛ばし、倒れた隙に、扉を閉め鍵をかけた。
「おい!」
 レオナルドは外からドンドンと扉を叩いた。
「おまえは出入り禁止だ! おとなしく帰らないと、今度は火傷くらいじゃすまないぞ!」
 アンソニーは鉄の扉に向かってフライ返しを振り上げた。
「アンソニー、今日はレオナルドの進級パーティを兼ねているの。入れてあげて」
 ユールベルは無表情で頼んだ。アンソニーはもどかしげに眉根を寄せて叫んだ。
「ねえさん! いいかげんあんなヤツ見限ってよ!」
「アンソニー」
 ターニャはユールベルの肩ごしに声を掛けた。
「許せとは言わないけど、今日だけは入れてあげてくれないかな?」
 ね、と両手を合わせて頼み込む。
「……ターニャさんがそう言うなら」
 アンソニーはしぶしぶ鍵を開けた。ガチャッという音がするのとほぼ同時に、レオナルドが扉を開けて入ってきた。アンソニーは目の前を通り過ぎる彼を睨みつけた。
「今日だけだぞ」
「今度はおまえのいないときに来るさ」
「来るな!」
 歯噛みするアンソニーの頭に、ターニャはぽんと手を置いた。

 ジュ——。
 食欲をそそる音と匂いが立ちこめる。アンソニーは料理をしながら、手際よく片づけや盛りつけもこなしていた。
「私も手伝うよ」
 ターニャが台所に入ってきて声を掛けた。
「ありがとう、ターニャさん。じゃあ、これ運んでください」
「オッケー」
 彼女は軽い調子で返事をすると、大皿ふたつを手に取った。

「おまえの弟がひとりで作ってるのか?」
 ジークはソファでくつろぎながら、親指で台所を指さした。ユールベルは淡々と答えた。
「ええ、腕はいいから心配しないで。最近、料理に目覚めたそうよ。作るのが楽しくて仕方ないみたい」
「お待たせっ」
 ターニャは持ってきた大皿ふたつを机の上に置いた。チキンやサンドイッチなどのパーティ料理が、たっぷりときれいに盛り付けられている。ジークとアンジェリカは目を見開いて覗き込んだ。
「すげぇ……ってか、量もすげぇな。これで三人分のつもりだったのかよ」
「だからキミたちを呼んだのよ」
 ターニャはウインクした。ユールベルはため息まじりに補足した。
「あの子、張り切って作りすぎるのよ」
「まだまだあるわよ」
 ターニャは笑いながら台所へ戻っていった。

 次はアンソニーが皿を運んできた。机の上にそれを置くと、アンジェリカをじっと覗き込んだ。
「なに?」
 アンジェリカは少し怯えたように身を引いた。革のソファが小さく音を立てた。
「本家のアンジェリカさんですよね?」
 アンソニーはにこにこしながら尋ねた。
「ええ……」
「間近で見るのは初めてです」
 澄んだ青い瞳で、探るように彼女を見つめる。
「呪われてなんか、いませんよね?」
 その場の空気が一瞬にして張りつめた。あまりに思いがけない言葉に、誰も反応できなかった。当のアンソニーは、その場の雰囲気を察することなく、まだ笑顔のままだった。
「黒いから呪われているなんて、何の根拠もない話ですよね。僕は好きですよ。黒い瞳も、黒い髪も。ターニャさんもそうだし」
 彼は無邪気にそう言うと、台所へ戻っていった。

「何の話?」
 入れ違いにターニャが新しい皿を持ってやってきた。
「ラグランジェ家以外の人間は知らなくてもいいことだ」
 レオナルドは腕組みをして突っぱねた。
「えー、何よそれぇ」
 ターニャは不満げな声を上げた。
「ごめんなさい、本当に話せないことなの」
 ユールベルは固い声で言った。
 何か事情がありそうだ、とターニャは感じた。ラグランジェ家以外の人間に話せないというのは、本当のことなのかもしれない。レオナルドの言葉では信じられなかったが、彼女が言うと素直に信じられた。
「そっか……うん、わかった」
 気にはなったが、それ以上の追求はしなかった。持ってきた皿を机に置くと、再び台所へ戻っていった。

「ごめんなさい。あの子に悪気はないの」
 ユールベルは居たたまれない思いでうつむいた。
「ええ、わかってるわ」
 アンジェリカはぎこちなく笑顔を作った。親に「呪われた子だから近づいてはいけない」とでも教えられてきたのだろう。容易に想像がついた。アンソニーだけでなく、ラグランジェ家の者はほとんどがそうなのだ。
「……帰るか?」
 ジークはアンジェリカの耳元で声をひそめて尋ねた。彼女は頭を小さく横に振った。
「大丈夫。ちょっとビックリしただけ。何でもないわ」
「無理すんなよ」
 ジークは前に向き直り、彼女の背中に手を置いた。アンジェリカははっとした。そして、その手の温かさを感じながら、ゆっくりと目を閉じ小さく頷いた。

「さ、始めましょ!」
 ターニャとアンソニーは缶とスナック類を抱えて戻ってきた。
「はい」
 ターニャは缶を一本、アンジェリカに手渡した。
「……ビール?」
「おい、なに渡してんだよ。ジュースか何かねぇのかよ」
 ジークはターニャに文句を言いながら、そのビールを取り上げようとした。しかし、アンジェリカはそれをかわした。
「これでいいわ。いちど飲んでみたかったの」
 そう言って、にっこり笑った。ジークはあわてた。
「ダメだダメだ! なに言ってんだオマエ」
「いいじゃないの、ちょっとくらい」
「絶対ダメだ!」
 アンジェリカはムッとして口をとがらせた。
「もうっ、ジークがそんなに頭が固いとは思わなかったわ」
 ジークは脱力した。泣きたい気持ちになっていた。自分だってこんな堅物の大人みたいなことを言いたいわけではない。だが、彼女の両親——サイファとレイチェルを裏切るようなことはできない。
「頼むよ。俺に保護者みたいなこと言わせんなよ」
「言いたくなければ、言わなければいいじゃない」
 アンジェリカはますます反抗的な態度をとった。
「俺もジュースにするから、な」
 ほとんど泣き落としの説得に負け、彼女はしぶしぶビールを返した。ターニャはビールとジュースを交換しながら、とぼけた調子でつぶやいた。
「残念。酔ったアンジェリカってかわいいだろうなぁ。見てみたかったなぁ」
 ジークは含み笑いを見せるターニャから顔をそむけた。平静を装っていたが、耳元はほんのり赤みを帯びていた。
 ターニャは缶ビールのプルタブを開け、おもむろに立ち上がった。
「それじゃ、私の卒業と、ついでにレオナルドのギリギリ進級を祝って」
「ギリギリは余計だ!」
 レオナルドはあわてて噛みついたが、ターニャは無視して続けた。
「乾杯!」
 その掛け声とともに高々と缶ビールを掲げた。そして、ささやかなパーティが始まった。

「あら、もう飲み物なくなっちゃったわね」
 ターニャは冷蔵庫を覗き込み奥まで探ったが、一本も残っていなかった。まだパーティを始めてから、それほどの時間はたっていない。料理は多めに作ってあったが、飲み物は三人分しか用意してなかったのだ。
「僕、買ってきます」
 アンソニーは立ち上がった。
「私も行くわ」
「ひとりで大丈夫です。ターニャさんは主賓なんだから、ゆっくりしててください」
 そう言ってにっこり笑いかけると、立ち上がりかけたターニャを座らせ、ひとりで出ていった。
「残念だったな」
 レオナルドは鼻先で笑った。
「下心だらけのキミと一緒にしないでよね」
 ターニャはつんと顔をそむけ、ソファに腰を下ろすと、サンドイッチを手に取りほおばった。
「そうだ、アンジェリカ。お母さんの写真、持ってないかな?」
 彼女は唐突に身を乗り出して尋ねた。
「今は持っていないけど、どうして?」
 アンジェリカは怪訝に尋ね返した。ターニャはぎくりとした。
「あ、その、美人って噂だから見てみたかっただけ」
「レオナルドなら持ってんじゃねぇのか」
 ジークはサンドイッチと唐揚を交互にほおばりながら、しれっと言った。
「なっ……なぜ俺がっ!!」
 レオナルドはバンと机を叩きつけ立ち上がった。顔は上気し、耳まで赤くなっている。
「そうか、アイツか……アイツがしゃべったんだな。人のことをペラペラと……!」
 奥歯をギリギリと噛みしめ、爪が食い込むくらいに強くこぶしを握りしめた。
「え、うそ、そうだったの?」
「知らなかった……」
 ターニャとユールベルはそれの意味することがわかったようだった。ジークの言葉からというよりも、彼の過剰ともいえる反応から察したのだ。ふたりともぽかんとしてレオナルドを見上げている。彼はますます焦った。
「ちっ、違う! 家が近くで、子供のころ遊んでもらったって、それだけだ。それだけなんだよ!」
 必死の言いわけも虚しく空回りする。レオナルドは思いきりジークを睨みつけた。ジークは口いっぱいにほおばりながら、すっとぼけた表情で顔をそむけた。
 アンジェリカは話がわからず、ただきょとんとしていた。

 ガタン——。
 玄関で大きな物音がした。
「もう帰ってきたのかしら。ずいぶん早いけど……」
 ターニャが様子を見に行こうと立ち上がったそのとき、アンソニーが血相を変えて部屋に駆け込んできた。
「助けて!」
 ただならない様子で叫び声をあげると、ターニャの懐に飛び込んだ。
「どうしたの?」
 彼女は目をぱちくりさせながら、すがりつくアンソニーに尋ねた。ユールベルも立ち上がり、心配そうに覗き込んだ。
「待ちなさい、アンソニー」
 威圧的な声を響かせ、女性が勝手に入り込んできた。豊かな巻き毛の金髪、夜の海を思わせる深い青の瞳——。
 ユールベルはその女性を目にしたとたん、顔面蒼白で棒立ちになり固まった。レオナルドは彼女の手を引き座らせると、かばうように頭を抱き寄せた。
 ターニャもその来訪者に睨みをきかせながら、アンソニーを自分の後ろにかばった。
「何の御用ですか? お母さま」
 彼女は皮肉たっぷりに、そう尋ねかけた。顔を知っているわけではなかったが、アンソニーとユールベルの様子から、それがふたりの母親であることは察しがついた。
 その女性——ユリアは、ひととおり全員を見渡すと冷たく口を開いた。
「ラグランジェ家を汚す厄介者たちが、そろいもそろって何をしているの」
「何しに来たんだ! 出ていけよ!」
 ジークは感情的に声をあげた。このままだと、ユールベルとアンソニーだけでなく、アンジェリカにもとばっちりが来そうだ。なんとかして彼女だけでも守らなければ——そう思った。
 ユリアは冷ややかに視線を流した。
「アンソニーを……息子を迎えに来たのよ」
「どうしてここが……」
 ユールベルはレオナルドにもたれかかりながら、うわごとのようにつぶやいた。
 ユリアは勝ち誇ったように笑った。
「いくらサイファに聞いても教えてくれなくて、途方に暮れていたわ。でも、神の御加護かしらね。偶然、この下でアンソニーと出会ったのよ」
 ユールベルは血の気の引いた顔をユリアに向けた。右目を細め、まぶたを震わせながら彼女を睨む。
「出ていって」
 小さく震える声だったが、きっぱりと告げた。
「あなたと議論するつもりはないわ。ここの家主はどこにいるの」
 ユリアは皆の顔を順に見て、答えを求めた。しかし、誰も答えなかった。しんと静まり返る。
「どこにいるの?!」
 彼女はいらついて声を荒げた。
「ここに住んでいるのは、アンソニーと私のふたりだけよ」
 ユールベルは怯えながらも強気に答えた。
 ユリアは目を見開いた。そして、顔をしかめてうつむくと、小さく舌打ちした。
「騙したのね、サイファ……。信用のおける人物に預けているから心配ないなんて言って、よりによっていちばん信用ならないこの子と一緒だなんて!」
 こぶしを震わせ腹立たしげにそう言うと、キッと刺すようにユールベルを睨みつけた。
「そうとわかれば、何が何でも連れて帰るわ」
 ユリアはターニャの背後に隠れているアンソニーに手を伸ばした。彼はターニャの服を握りしめ、きつく目をつぶり身をすくませた。
「嫌がってるじゃないですか!」
 ターニャはユリアの手を払いのけた。ユリアはそのターニャの手を払いのけた。
「無関係の人間が口を出さないで!」
 ユリアは再び手を伸ばした。
「さあ、いらっしゃい」
 アンソニーは懸命に首を横に振った。精一杯の拒絶を示す。ターニャは、彼をかばいながら一歩下がった。
「アンソニー、あなたはユールベルに騙されているのよ」
 それでもアンソニーは、言葉ごと払うかのように首を振り続ける。
 ユリアはわざとらしく大きなため息をついた。
「これだけは言うまいと思っていたけれど……」
 静かに一歩踏み出し、アンソニーとの間を詰める。
 アンソニーはびくりとした。
 ユリアは真剣な表情で彼を見つめ、静かに口を開いた。
「あなたは赤ん坊の頃、ユールベルに殺されかけているのよ」
「……え?」
 アンソニーはきょとんとして聞き返した。
「殺さ……れ……?」
「いいかげんなこと言わないで!」
 ターニャの心臓は大きく打った。額にうっすらと汗がにじむ。まさか、そんなこと、あるはずがない——そう思いつつも、まるきり出まかせを言うだろうかという疑問が頭をもたげる。ユールベルに振り向くと、彼女は青い顔で目を見開き、呆然としていた。
 ユリアは身をかがめ、アンソニーに顔を近づけた。
「まだよちよち歩きのあなたを、ユールベルは階段から突き落としたのよ。私たちはあなたを守るためにユールベルとあなたを引き離したの。ユールベルを閉じ込めていたのはあなたのため。わかるでしょう?」
「違う……」
 ユールベルは頭を抱えながら、首を横に振った。顔にかかる乱れ髪を払おうともせず、何度も何度も首を振った。
「突き落としたんじゃない。私は、助けようと手を伸ばしたの!」
「まだそんな見え透いた嘘を言ってるの?!」
 ユリアは嫌悪感をあらわにして顔をしかめた。
「どうして嘘って……」
 そう尋ねたターニャに、ユリアは冷たく言い放った。
「この子が嘘つきだからよ」
「そんな……! 何の証拠もないのに、決めつけてるの?!」
 ターニャは黒い瞳を潤ませた。
「ユールベルが手に掛けようとしたのは弟だけじゃないわ。そこのお嬢さまもそうよ」
 ユリアはそう言って、目でアンジェリカを指し示した。
 彼女はびくりと体を震わせた。ジークは彼女の肩に手をまわし、力をこめて抱き寄せた。大丈夫だ、その思いを手に込めた。
「そんな子のことを信じろっていうの」
 ユリアは嫌悪感をあらわにしながら、ターニャに尋ねかけた。
「娘なら……」
「娘だなんて思ってないわ」
 反論しかけたターニャを遮り、ユリアは強い調子で言った。
「こんなおぞましい子が、私の子であるはずがない。そもそも生まれたことが何かの間違いだったのよ」
 誰も言葉を返せなかった。あまりの言いように、ただ呆然とするだけだった。
「帰りましょう、アンソニー。お父さんも待っているわ」
 ユリアは急に優しい口調に変わった。まるで別人のようだった。微笑みを浮かべ、細い手を差し出す。
 アンソニーはうつむき下唇を噛みしめていたが、やがて決意したように口を開いた。
「僕は……ねえさんを信じる」
 ユールベルははっとして弟に目を向けた。
「ねえさんはいつだって僕のことを考えてくれている」
「罪滅ぼしのつもりかもしれないわよ」
 ユリアは冷めた口調で言った。
 アンソニーは少し考え込んだあと、顔を上げた。
「昔に何かあっても、何もなくても、僕にとって大切なのは今のねえさんだ」
 怯えたふうにターニャの袖を掴みながらも、はっきりとそう言い切った。
 ユリアはギリッと奥歯を噛みしめた。
「だいぶ……ユールベルに影響されたようね。その反抗的な目……」
 こぶしをぎゅっと握りしめ、眉をひそめる。
「どうして? 私がどんな思いであなたを守ってきたと思ってるの? 今まで育ててあげた恩を忘れてユールベルを選ぶっていうの?! いいかげんにして!」
 彼女はカッと目を見開き、感情を高ぶらせ右手を振り上げた。
 アンソニーは頭を抱え、身をすくませた。
 しかし、それが振り下ろされる前に、ターニャが掴んで止めた。
「離しなさい!」
 ユリアはターニャの手を振りほどこうとしたが、ターニャはそれを許さなかった。ユリアの手を痕がつくほど強く握り、ひねり下ろした。ユリアはよろけながら後ずさった。
「あなたもラグランジェ家の人だから、それなりに魔導は使えるんでしょうけど、五人のアカデミー生が相手では分が悪いわよ。私たちとやりあう? それともおとなしく帰る?」
 ターニャは挑発的に尋ねた。
「……また、来るわ」
 ユリアは右の手首を左手で抱え、足早に出ていった。

「もう大丈夫よ」
 ターニャはアンソニーの肩に両手を置き、安心させるように、にっこり笑いながら覗き込んだ。
 アンソニーは歯を食いしばってうつむいた。
「僕、自分が情けない」
「情けなくなんかないわよ」
 ターニャは優しくそう言ったが、彼自身は納得しなかった。悲しげに首を横に振る。
「僕が逃げ帰ってこなければ、ここを知られることもなかったんだ」
「それは、仕方ないわよ。キミはずっとあの人に抑圧されてきたんだもの。恐怖感は簡単に拭えるものじゃない。それなのに、ホント頑張ったよ」
 アンソニーは目に涙をためた。あふれそうになると、あわてて服の袖でごしごしと拭った。
「でも、このままじゃダメなんです。もっと強くならないと……ねえさんを守れるくらいに」
「うん、キミなら大丈夫。きっと強くなれるよ」
 ターニャは力強く励ました。
 ユールベルは右目から涙をこぼした。それを隠すように下を向き、両手を顔で覆った。
「私の方が……アンソニーを守らなければいけないのに……」
「おまえはあいつよりひどい目にあってきたんだ! 自分を責めるな!!」
 レオナルドはユールベルに向き直り、華奢な肩をつかむと必死になぐさめようとした。だが、その言葉は、彼女の心にはあまり響かなかった。
「守らなきゃ、なんて思わなくても大丈夫よ。アンソニーはしっかりしてるから」
 ターニャはにっこり笑いかけた。
「さ、気を取り直してパーティの続きをしよう!」
 明るく言ってみたが、彼女以外は沈んだままだった。特にユールベルは、顔を上げることすら出来ずにいた。
「ジーク、何か声を掛けてあげてよ」
 ターニャはずっと沈黙していたジークに話を振った。
「何で俺が……」
「なんでもいいから、ほら」
 ターニャはもどかしげに急かした。ジークは眉根にしわを寄せた。この状況では嫌と言うわけにもいかない。さんざん悩んで、頭をかきながら口を開いた。
「あー……この唐揚、うまいぜ。おまえも食って元気出せ」
 そう言って、唐揚の大皿をユールベルに差し出した。しかし、彼女は下を向いたまま微動だにしない。
 ターニャは白い目をジークに向けた。
「もうちょっと気のきいたセリフは言えないわけ?」
「俺に期待する方が間違ってんだよ」
 ジークはふてぶてしくソファの背もたれに両腕を掛けた。すっかり開き直っている。
「それ、自分で言ったら情けないわよ」
 アンジェリカは呆れ顔でため息をついた。
 ユールベルは涙を浮かべたまま、小さく肩を震わせくすくすと笑った。
「おかしな人たち……」
 皆、いっせいに彼女に振り向いた。彼女がこんなふうに声を立てて笑うなど滅多にない。彼女を知る者なら驚くのも当然である。
 アンソニーはジークをじっと見つめた。
「ジークさん!」
「あ?」
 ジークは気の抜けた返事をして顔を上げた。アンソニーは真剣な表情で頭を下げた。
「ねえさんをよろしくお願いします!」
 ジークはソファから半分ずりおちた。
「な、なんだ?! いきなりっ!」
「おまえ何を!」
 レオナルドも同時に声を上げた。飛びかからんばかりの勢いで立ち上がる。
「おまえなんかよりジークさんの方が多分ずっといいよ。きっとねえさんを幸せにしてくれる!!」
 アンソニーは力説した。
「おい待てよ! なに勝手に決めてんだよ」
 ジークは困惑した。本人を目の前にして、あからさまに拒絶するわけにもいかない。だからといって曖昧な返事をしては、誤解されかねない。ここにはアンジェリカもいる。いちばん誤解されたくない相手だ。
「だめよ、アンソニー」
 ユールベルはたしなめるように言った。
「どうして?」
 アンソニーは不満そうに尋ねた。
「だめ……なのよ」
 ユールベルは少し悲しげに笑って見せた。アンソニーは納得したわけではなかったが、その表情を目にすると何も言えなくなった。
 ターニャは目尻をそっと指で拭うと、ぱっと顔を上げた。
「さ、パーティの続き!」
 明るく笑い、ソファに腰を下ろそうとした。
 ピンポーン——。
 来客を告げるチャイムが、その場にいた全員の表情をこわばらせた。
「私が出るわ」
 ターニャは固い声でそう言うと、小走りで玄関へ向かった。皆は固唾を飲んで聞き耳を立てた。かすかに話し声が聞こえる。
 ターニャはすぐに戻ってきた。
「ただのセールスだった」
 皆の緊張が一気に解けた。同時に息をつく。ジークはサンドイッチにかぶりついた。
「ここ、引っ越したほうがいいんじゃねぇのか?」
「そうね。せっかく落ち着いてきたのに残念だけど」
 ターニャもソファに座り、サンドイッチを手にとった。
「でも、逃げまわっているだけじゃ、根本的な解決にはならないわよ」
 アンジェリカは冷静に指摘した。
「そいつを渡せば解決だろう」
 レオナルドはあごでアンソニーを指し示した。
「なに言ってんの!!」
 ターニャは机を叩きつけ立ち上がった。
「それ、自分の都合でしょ! さいってい!!」
「最低ね」
「最低だな」
 アンジェリカとジークも口々に責めた。しかし、レオナルドは腹立たしげに言い返した。
「何か解決方法があるのか? あるなら言ってみろ」
「それを今から考えるの!」
 ターニャはいらついて睨みつけた。レオナルドはふてくされて腕を組んだ。そして、思いつめた顔でうつむくアンソニーに追い打ちをかけた。
「ユールベルのことを思うなら、おまえはさっさと母親のところに帰るんだな」
「やめて、レオナルド」
 ユールベルはレオナルドの袖をつかみ懇願した。
「耳を貸しちゃダメ」
 ターニャはアンソニーの瞳を覗き込んで言い聞かせた。
「でも、確かに僕が戻れば……」
「駄目!」
 ユールベルは立ち上がった。
「行かないで。私にはあなたが必要なの」
「ねえさん……」
 アンソニーは複雑な表情でつぶやいた。
「絶対に、行かないで」
 ユールベルは強く力を込めて言った。
「僕……本当に行かなくてもいいの……?」
「あなたがあの人のところへ行ったら、私は取り戻しに行くわ」
 アンソニーは顔を歪ませ、両手で拭いきれないほどの涙をあふれさせた。
「さ、食べよ! 食べて元気だそ!」
 ターニャは明るく声を張り上げた。

 それからパーティの続きを行った。パーティといっても、主に食べて話をするだけのささやかなものである。暗くなった雰囲気を救ってくれたのは、ターニャの明るさだった。いつも明るい彼女だったが、いつも以上に元気を振りまき、みんなを話に巻き込んでいった。

 パーティが終わり、ジークとアンジェリカは帰ることにした。ターニャに言われ、ジークがアンジェリカを家まで送っていくことになった。もっとも、言われなくても、ジークはそうするつもりだった。

 すっかり暗くなった道を、ふたりは並んで歩いた。月明かりがふたりの後ろにおぼろげな影を作る。
「行かなきゃよかったな。今さら言っても遅いけど」
 ジークは下を向いてポケットに手を突っ込んだ。ひんやりした空気が頬をかすめ、火照りを冷ましていく。
「そんなことないわ。ユールベルやアンソニーのことをいろいろ知ることが出来たもの。上手く言えないけど、なんだか嬉しかった」
 アンジェリカはにこにこして、本当に嬉しそうに言った。
「それに……」
「ん?」
 ためらいがちにそう続けた彼女に、ジークは振り向いた。
「私は幸せだって思ったのよ」
「え?」
「人と比べてこんなことを思うのはいけないのかもしれないけど……私はお母さんにもお父さんにも、ちゃんと愛されている」
 アンジェリカは少し遠慮がちに微笑んだ。
「ああ」
 ジークはやわらかく笑顔を返した。
「それともうひとつ」
 アンジェリカは後ろで手を組み、空を仰いだ。
「呪われた子だってずっと言われ続けてきて、そのことを忘れたことはなかったし、忘れてはいけないと思っていた。いつも見返すことだけを考えていたの」
 ジークは彼女の横顔を見つめた。
「でもね」
 アンジェリカは明るい声でそう言うと、前に飛び出し、くるりと体ごと振り返った。
「アカデミーに入って、ジークたちと出会って、毎日楽しくて……いつのまにか忘れている時間が多くなっていったわ。それって、幸せなことなんじゃないかなって」
「そうだな」
 ジークは大きく息を吸い込んで、濃紺色の空を見上げた。
「でも、これからもっと幸せになれる」
「どうして?」
 アンジェリカはきょとんとしてジークを見上げた。彼はさらに顔を上に向けた。
「どうしてもだっ」
「根拠のない自信って、いちばんあてにならないわ」
 アンジェリカは口をとがらせた。
「根拠がないわけじゃねぇよ」
「じゃあなに? その根拠って」
 ジークはうっすら顔を赤らめた。
「なんでもいいだろ」
「なによそれ。はっきりしないわね」
 アンジェリカはますます口をとがらせた。
「でも……うん、そうなるといいな」
「なるさ」
 ジークは力強く言った。
 アンジェリカは屈託のない笑顔を彼に向けた。