むせ返るような強い消毒液の匂い。
レオナルドはあからさまな嫌悪を示した。腕を組みながら壁にもたれかかり、うつむき加減に顔をしかめる。
「治らないと言ったくせに、いつまでこんなことを続けるんだ」
吐き捨てるように言うと、あごを引いたまま、上目づかいで前を凝視した。その先にいたのは、ラウルとユールベルだった。向かい合って椅子に座っている。ラウルは彼女の目を診察すると、手際よく包帯を取り替え始めた。
「嫌なら来なくていい。何度も同じことを言わせるな」
面倒くさそうに、突き放した答えを返す。レオナルドはますます顔をけわしくした。
「おまえは優秀な医者だという話だが、たいしたことはないんだな。それとも手を抜いているのか?」
ラウルはまるで取り合わなかった。無言でユールベルの頭に包帯を巻きつけている。しかし、彼女の方が、その言葉に反応した。大きく右目を開き、ラウルを見つめる。
「……治せるの?」
「レオナルドの言葉など真に受けるな」
ラウルは彼女を引き寄せ、頭の後ろで包帯を結んだ。そして、頬に軽く手を置くと、椅子をまわし机に向かおうとした。だが、彼女が腕をつかみ、それを止めた。
「私のことが嫌いだから手を抜いているの? 私があなたを困らせてばかりだから、その仕返し?」
張りつめた表情で問いかける。ラウルは目を閉じ、ため息をついた。
「治せないものは治せない」
「お願い、私が悪かったのなら謝るわ。目は見えるようにならなくてもいい。せめて、醜い傷跡だけでも……」
ユールベルは、彼の腕をつかむ手に力を込めた。細い指がかすかに震えている。それでも、ラウルの心は動かなかった。
「何度言われても答えは変わらない」
素っ気なく彼女の手を払い、机に向かう。そして、薄く黄ばんだカルテに万年筆を走らせた。さらさらと軽い音が部屋を舞う。ユールベルは目を伏せた。
「アンジェリカは治したんじゃないのか」
レオナルドが思い出したように口を切った。ラウルが振り向くと、彼は無言で脇腹を指さしてみせた。どうやらセリカに刺されたときのことを言っているらしい。
「わずかに痕が残っているはずだ」
「わずかに、か」
ラウルの言葉の一部を、レオナルドは嫌みたらしく強調して繰り返した。
「あれとは状況も状態も違う」
ラウルは冷静に答え、机に向き直った。再び手を動かし始める。レオナルドは腕を組み、口をへの字に曲げ黙り込んだ。
「嘘よ!」
静寂を裂く叫び声。それはユールベルが発したものだった。椅子から立ち上がり、握りしめたこぶしを震わせている。
「やっぱり私だからなのよ」
だが、ラウルはカルテに向かったまま、視線を上げようともしなかった。ユールベルは彼の冷淡な横顔をきつく睨みつけた。その目には涙がにじんでいた。
「弁解くらいしたら? それでも医者なの?」
震える声で責め立てる。それでも、彼はまるで無反応だった。ユールベルは唇を噛みしめうつむいた。そして、ゆっくりと、思いつめた顔を上げた。
——シャッ!
ラウルの頬に冷たい刃が押し当てられた。ユールベルの仕業だった。机の上のペン立てからカッターを取り、その刃をあてがったのだ。
「ユールベル!」
レオナルドは壁から跳ねるように身を起こした。
「あなたも少しは思い知るといいわ」
彼女にはレオナルドの声など少しも届いていないようだった。まっすぐにラウルを睨み、カッターを持つ手にぐっと力を入れた。固い頬に、わずかに刃が沈む。
だが、ラウルは平然として微動だにしなかった。
ユールベルの顔がこわばった。微かなとまどいの色が浮かぶ。怯えるようにわななく手でゆっくりと刃をずらしていった。彼の頬に赤い一筋が浮かぶ——。
「いいかげんにしろ」
ラウルは横目でギロリと睨めつけた。彼女が怯んだその瞬間、彼は素手で刃をつかみ、強く握りしめた。手から赤い血が滴り、手首、肘へと伝っていく。そして、さらに力を入れると、刃だけを根元からへし折った。
ユールベルは青ざめ、呆然と立ち尽くしていた。柄だけになったカッターが手から滑り落ち、床の上で乾いた音を立てた。
ラウルは血まみれの刃を、机の上に投げ捨てた。そして、おもむろに立ち上がると、真っ赤に染まった手を彼女へと伸ばした。
「い……いや……」
顔を引きつらせ、震えながら後ずさる。頭をぎこちなく横に振り、精一杯の拒絶を示した。だが、ラウルは容赦なく距離を縮め、流血する手のひらを、彼女の眼前に突きつけた。顔に生温いものが滴り流れる。それは、白いワンピースにも落ちていき、胸元を赤く染めた。
「見ろ。おまえの行動の結果だ」
「違う……私、こんなつもりじゃ……私じゃ……私じゃない!」
ユールベルは顔をそむけ、目をつむり、声の限りに叫んだ。その直後、糸が切れたように、膝からガクンと崩れた。ラウルは素早くそれを抱きとめた。床に倒れ込むすんでのところだった。意識を失った彼女は、力の抜けた体を、すっかりラウルに預けている。
レオナルドは動くことも声を発することもできず、ただその光景を目に映すだけだった。顔からは血の気が失せ、足はカクカクと震えている。立っていることさえ危うい状態だ。
「出ていけ」
ラウルはぞっとするほど冷たい視線を彼に向けた。
「お、おまえ、なんで……」
「出ていけ」
同じ言葉を、語気を強めて繰り返す。そして、血で染まった手をレオナルドに突き出した。
「うわぁ!」
彼は情けない悲鳴を上げ、しりもちをついた。ラウルは乱暴に引き戸を開けると、レオナルドを医務室から蹴り出した。間髪入れずに扉を閉め、ガチャリと鍵を下ろす。あっというまの出来事だった。
レオナルドは蹴られた腹を押さえ、うめきながら立ち上がった。扉を引いてみたが、ガタガタと音を立てるだけで、開くことはなかった。扉に手を掛けたまま、下唇を噛みしめる。そして、怒りをぶつけるように、力いっぱい扉を叩きつけた。
「どいてくれないか」
頭上から降る高圧的な声。扉を背に座り込んでいたレオナルドは、口を真一文字に結んだ。その一言だけで、嫌悪するに十分だった。間違いなくあいつの声だ——。睨みをきかせながら、ゆっくりと顔を上げる。そこに立っていたのは、案の定、サイファだった。大きな黒い紙バッグを脇に抱えている。
「ここに用があるんでね」
彼は冷たく見下ろしながら、親指で医務室の扉を示した。レオナルドははっとして立ち上がった。
「中に入るなら、俺も一緒に入れてくれ!」
サイファは詰め寄る彼を制した。
「おまえは追い出されたんだろう。気が立っているときのラウルは何をするかわからないぞ。下手をすると殺されるかもな」
「脅かそうったってそうはいかない。もしそうなら、おまえだって……」
レオナルドは食い下がった。だが、そんな彼を見て、サイファはふっと口元を緩めた。
「残念ながら私は特別でね。ラウルが私を殺すことはできない」
レオナルドにはその意味がわからなかった。怪訝に眉をひそめる。しかし、それを追求するよりも、今はもっと重要なことがあった。
「だったら、おまえから俺のことを頼んでくれ。ユールベルに会わせてくれ」
「それが目上の人間に物を頼む態度か?」
サイファは尊大にそう言うと、レオナルドを押しのけ、扉をノックした。レオナルドはこぶしを震わせながら歯噛みした。怒りで上気した顔を深くうつむけると、押し殺した声で唸るように言った。
「……お……お願いします」
彼にとっては耐えがたい屈辱だった。よりによって、最も腹立たしく、最も疎ましい相手である。しかし、自尊心をかなぐり捨ててでもユールベルに会いたい。会わなければならない。その思いの方が強かった。
サイファは冷めた目で彼を見やった。まだ足りないとばかりにあごをしゃくる。レオナルドは切れそうになる自分を必死につなぎ止めた。半ば自棄になりながら、床に手をつき頭を下げた。
そのとき、中から扉が開いた。薄暗い廊下に光の帯が伸びる。そして、そこにラウルと思われる影が映った。サイファはさっと医務室に入ると、後ろ手で扉を閉め、鍵をかけた。
レオナルドは土下座したまま、その場に残された。何かを言う間もなかった。ただ、唖然として扉を見つめるだけだった。手から廊下の冷たさが染みてきた。
「着替えだ」
サイファは黒い紙バッグを机の上に放り投げた。カタンと固い音がした。中にはいくつか箱が入っているようだった。
ラウルは疲れたように椅子に身を投げた。そして、あきれ口調でため息まじりに言った。
「私は殺人鬼か」
「感謝してほしいくらいだよ」
サイファはにっこり笑った。
「レオナルドを追い払うためさ。どうせ扉の前でしつこく座り込んで耳をそばだてているだろうが」
扉がガタンと音を立てた。レオナルドが動揺して体勢を崩したのだろう。サイファは失笑した。
「それに、言ったことは間違っていないと思うがね」
後ろからラウルの肩に腕をのせ、挑発的な笑みを口元にのせた。
「私を殺せないということも」
耳元で囁くように言葉を落とす。
「図に乗るな。何もかもどうでも良くなることもある」
ラウルはむっとしてそう言うと、サイファの頭を押しのけようとした。だが、彼はそれをひょいとかわし、軽い調子で笑った。
「おまえと本気でやりあえるのなら、それはそれで本望だよ」
ラウルは無言で眉をひそめた。
「それで、ユールベルはどうしている」
サイファは急に真面目な顔になり尋ねかけた。ラウルは、紙バッグを床に下ろしながら答えた。
「気を失っただけだ。今は私の部屋で休ませている」
「あまり、いじめないでやってくれよ」
サイファは彼の左手に目を向けて言った。そこには真新しい白い包帯が巻かれていた。
「刃物を持ち出したのはあいつだ。何の覚悟もなくな」
「必死だったんだよ。おまえもそのくらいわかっているだろう。もう少しソフトに受け止めてやってくれよ」
「おまえがやれ。父親代わりはおまえだろう」
ラウルはいらだたしげに、冷たいまなざしを向けた。
「私に出来ることはやっているよ」
サイファはパイプベッドに腰を下ろした。
「ただ、彼女がすがるのはいつもおまえなんでね」
「迷惑だ」
ラウルはすげなく答えた。無表情で背を向ける。そんな彼を見て、サイファはにこりとした。
「私よりおまえのほうが優しいことを、無意識のうちに感じとっているのかもな」
ラウルはわずかに振り返り、肩ごしに鋭く睨みつけた。しかし、サイファは軽く笑ってそれを受け流した。
「少なくとも、今の彼女に必要なのは、レオナルドではなくおまえだ。落ち着くまで、せめて一晩くらい一緒にいてやってくれ」
「断る」
ラウルは即座に拒否した。微塵のためらいもない。にもかかわらず、サイファは勝手に話を進めていった。
「ルナのことは心配するな。一晩、預かってくれるよう頼んでおこう。いや、私が預かるか……そうだ、それがいい」
「おまえなどにルナを預けられるか」
「面倒を見るのはレイチェルだぞ」
ラウルは少し間をおいてから答えた。
「……レイチェルに迷惑は掛けられない」
「やはり優しいな、ラウル先生は」
サイファは含みをもった口調で、からかうように言った。ラウルは固く口を結んだ。
「たまにはいいだろう? アンジェリカもルナに会いたがっていたよ」
今度はにっこり微笑んで言った。それでもラウルは無言だった。背を向けたまま、振り返ろうともしない。
サイファはそれを承諾と受け取った。
「よし、決まりだな。彼女の弟には、私から連絡しておこう」
「おまえはいつも強引だ」
ラウルはあきれたようにため息をついた。サイファはニヤリとしてパイプベッドから立ち上がった。腰に手をあて、背筋を伸ばす。
「嫌いじゃないんだろう。レイチェルもあれでけっこう強引だからな」
ラウルは何も答えなかった。前を向いたまま机の上でこぶしを握りしめた。白い包帯が千切れそうなくらいに引っ張られ、微かに音を立てた。
「大丈夫なのか。かなり出血したようだが」
サイファはそのこぶしに目を落とした。
「たいしたことはない」
「無茶はするな」
気づかうように言うと、ポンと肩に手をのせた。それから、はたと思い出したように付け加えた。
「そうだ、今度どこかを切ったときは、手当てをする前に私を呼んでくれ」
ラウルはぴくりと眉を動かした。椅子をまわし、サイファに向き直る。
「まさか、くだらん噂を信じているわけではないだろうな」
「おまえの血は青色だとか、緑色だとか、飲めば不老不死になるとか?」
サイファはどこか楽しむような声音で、悪戯っぽく尋ねかけた。そして、挑むようにラウルを覗き込んだ。
「血が赤いということは知っているけどね」
そう言いながら、彼の頬につけられた浅い傷を親指でなぞる。その傷は、わずかに赤黒かった。
「だが、不老不死の方は、試してみないことには、わからないだろう?」
「おまえがそこまで愚かだったとはな」
ラウルは小さく息をつきながら、彼の手を払いのけた。焦茶色の長髪を大きく波打たせ、再び背を向ける。
サイファはにっこり笑い、軽く右手を上げると、医務室をあとにした。
レオナルドは深くうなだれ、扉の脇で座り込んでいた。左右に長く続くガラス窓には、一面紺色の景色が映し出されている。行き交う足音も次第にまばらになっていき、あたりは寂寥としていた。
鍵の開く音、そして扉の開く音——。
中から出てきたのはサイファだった。レオナルドは凄まじい形相で睨み上げた。
「俺をいじめてそんなに楽しいか」
「まあな」
サイファは悪びれもせず、あっさりと肯定した。
「我々の話は聞いていたな」
「…………」
レオナルドは目をそらせ、口をつぐんだ。聞き耳を立てていたことは、サイファにばれている。それはわかっていた。だが、素直に認めることには抵抗があった。
サイファはそのことについて、それ以上の追求はしなかった。
「ユールベルはラウルのところに預けた。今日は帰った方がいい」
「冗談じゃない、なぜラウルなんだ!」
レオナルドは立ち上がり、サイファに噛みついた。サイファは横目で彼を一瞥した。
「今のおまえではユールベルを支えてやれないからだ」
「そんなことはない!」
「おまえは不安定になったユールベルの行動を見ていながら、止めることができなかった」
レオナルドは何も言い返せなかった。唇を噛みしめうつむく。
「そもそも、おまえが日頃から彼女の悩みを、痛みをわかってやっていれば、それを受け止めてやっていれば、彼女があんな極端な行動には出ることはなかった。違うか?」
サイファは淡々と追いつめた。
「好きだという気持ちは大切だ。だが、おまえの場合はそれが強すぎる。自分の気持ちを押しつけるばかりで、相手を見ようともしない」
「違う! 俺はいつも見ていた!」
レオナルドは必死に否定した。サイファは冷めた視線を投げた。
「見ていてわからなかったのなら、なおのこと悪いな」
レオナルドは完全に負けた。返す言葉などなかった。くやしさと情けなさに肩を震わせた。
「冷静になれ、心にゆとりをもて、そして相手の気持ちを考えろ。そうすれば、今まで見えなかったものが見えてくるはずだ」
サイファは腕を組んで、壁にもたれかかった。
「彼女を支えるには、多少のことでは動じない精神が必要だ。ラウルのようにというのは無理な話だが、せめてもう少し大人になれ。彼女が安心して寄り掛かれるようにな」
レオナルドは怪訝に眉をひそめ、彼の端整な横顔を睨みつけた。
「……何を企んでいる。普段のおまえなら、ユールベルと引き離そうとするんじゃないのか?」
「アンジェリカの婚約者を決めろという声が、最近また強くなってきている。おまえの名前も上がるかもしれない」
「そういうことか」
レオナルドは鼻先で笑った。
「断ってくれるんだろう? 親に逆らっても、何を敵にまわしても」
サイファは腕を組んだまま、視線を流して尋ねた。レオナルドは真剣な表情で答えた。
「当然だ、見くびるな。おまえのためじゃない。自分自身のためだ」
「固い決意が聞けて良かったよ。おまえが息子だなんてゾッとするからな」
サイファはそう言って、ニヤリと笑ってみせた。レオナルドも口端をつり上げ、負けじと言い返した。
「それはこっちのセリフだ。おまえが父だなんて、この世の終わりだ」
「この点においては、私とおまえは利害の一致する仲間というわけだ。ただし、私はユールベルの父親代わりでもある。彼女を不幸にするようなことはしないつもりだ。わかるな」
「俺は、不幸になんてしない」
レオナルドはまっすぐな瞳をサイファに向けた。しかし、不意にあることが頭をよぎった。はっとすると、眉根を寄せ、首を傾げる。
「ちょっと待て。ユールベルの父親代わりってことは……」
「父親代わりであって、父親ではない。そこは流せ」
確かにそこにこだわるより、もっと大切なことがある。引っかかるものはあったが、そのことについては考えないようにした。
「じゃあな。一晩、頭を冷やしてよく考えろ」
サイファはレオナルドの額にポンと手をのせ、踵を返した。レオナルドは顔をしかめながら、手の感触の残る額を何度も拭った。そして、小さくなる後ろ姿を、奇妙な面持ちで見送った。
ユールベルはベッドの中で目を覚ました。見覚えのある天井。
ここは——。
首を動かし、あたりを見回す。こじんまりとした飾り気のない部屋。だが、とても懐かしい光景、懐かしい匂い。ラウルの寝室だった。以前と違うのは、ベビーベッドがあることくらいだ。
彼女はベッドの上で上半身を起こした。そのとき、何も身に纏っていないことに気がついた。それと同時に、医務室での記憶もよみがえった。目の前を滴り落ちる赤い血、体を伝う生温い感触。思わず吐き気をもよおし、口を押さえてうつむいた。
「目が覚めたか」
ラウルは無遠慮に扉を開け入ってきた。あいかわらずの無表情で、怒っているのかいないのか、推し量ることもできない。
ユールベルは包帯を巻かれた彼の左手に目を落とした。
「ごめんなさい……」
目をそらし、力なく謝る。
「謝るくらいなら、初めからするな」
ラウルは冷淡な言葉を返した。ユールベルの蒼い瞳はじわりと潤んでいった。彼女はまぶたを震わせながら目を細めると、そのまわりの傷跡にそっと指を這わせた。
「本当に治らないのね」
「何度も言ったはずだ」
どれだけ尋ねても、彼の答えが変わることはなかった。白いシーツをぎゅっと握りしめる。それから、小さな声で訥々と語り始めた。
「初めのうちは平気だと思っていたわ。人に何と思われようと関係ないって。それまでの仕打ちに比べたら、好奇の目で見られたり、陰で何かを言われたりすることなんて、なんてことはないって。なのに、どうしてかしら、次第につらくなっていったのよ。どうして……。もしかしたら、人の優しさを知って、人の冷たさも身にしみるようになったのかもしれないわね」
そこまで言うと、さらに深く顔をうつむけた。長い金の髪が、彼女の表情を覆い隠す。
「……こんなことなら、ずっと心を閉ざしていればよかった」
ラウルはじっと黙って聞いていた。そして、彼女が話し終わると、静かに自分の言葉を落とした。
「誰にでも、あきらめるしかないことはある」
ユールベルは頭をもたげ、潤んだ瞳で彼を見つめた。
「あなたにも?」
「誰にでもだ」
「だったら教えて。あなたは何をあきらめたの?」
探るように彼の黒い瞳を覗き込む。だが、彼女にはその奥にあるものを掴むことはできなかった。
ラウルは何も答えず、部屋を出ようとした。
「待って、行かないで。聞かないわ。だから、一緒にいて」
ユールベルはあわてて懇願した。ラウルはドアノブに手を掛けたまま、わずかに振り返った。
「誰かにすがりたいのなら、サイファを頼れ。あいつがおまえの父親代わりだろう」
「おじさまには迷惑を掛けたくない」
「ラグランジェの人間は、どいつもこいつも勝手ばかり言う」
ラウルはその語調に腹立たしさをにじませた。
「勝手ついでに、もうひとつお願いしてもいいかしら」
そう言ったユールベルを、冷たく刺すように睨めつける。彼女はそれに動じることなく彼を見据え、小さな口を開いた。
「私、あなたと一緒にここで暮らしたい」
「前に断ったはずだ」
ラウルはにべもなくはねつけた。
「私、なんでもするわ。あなたの役に立てるように頑張る。あの子の世話だってするわ。だから、私をここに置いて」
ユールベルは必死に訴えかけた。
「おまえは逃げ込もうとしているだけだ」
「逃げて何が悪いの?!」
表情ひとつ変えないラウルを、涙目で睨みつける。しかし、彼の気持ちが揺らぐことはなかった。徹底的に彼女を突き放す。
「他へ行け。迷惑だ」
「どうしてっ……」
ユールベルは涙をこぼしながら、両手で顔を覆った。細い肩を震わせ、何度もしゃくり上げている。
「あきらめるしかない。そういうことだ」
「だったらあなたがあきらめて!」
勢いよく顔を上げ、強い視線を彼に向けた。濡れた頬も濡れたまつげも拭わず、いまだ小さくしゃくり上げてる。
ラウルはまっすぐに黒い瞳を返した。そして、静かに言った。
「弟はどうするつもりだ」
ユールベルははっとしてうつむいた。微かに自嘲の笑みを浮かべる。
「忘れていたわ」
目を細め、奥歯を噛みしめる。
「最低だわ。自分のことしか考えていなかった。姉だなんていう資格ないわね。……いいえ、元からそんなものはなかった」
膝を引き寄せ、シーツごと抱えると、そこに顔をうずめた。
「それでも……それでも、やっぱり、あの子は私が守るしかない」
弱々しい声だが、きっぱりと言い切った。おもむろに顔を上げると、細く白い腕を伸ばし、ラウルに手のひらを向けた。
「帰るわ。服と包帯、返して」
きつい口調で、精一杯、強がってみせる。ラウルは無表情で彼女を見下ろした。
「今晩だけ泊まっていけ。弟にも連絡を入れておく」
ユールベルの腕から力が抜けた。軽い音を立てて、シーツの上に落ちる。
「優しくするか冷たくするか、どちらかにしてほしいわ」
伏目がちに複雑な表情を見せると、ぼそりとつぶやいた。
ラウルは前に向き直り、部屋を出ようとした。
「待って! 行かないで!」
ユールベルは怯えた声で引き止めた。ラウルは背を向けたまま足を止めた。
「私はおまえと違って暇ではない。……あとで戻る。大人しく寝てろ」
淡々とそう言うと、部屋を出て、静かに扉を閉めた。
チチチチ……。
小鳥のさえずりが遠くに聞こえる。木々のざわめきがそれに重なる。細く開いた窓から、ひんやりとした空気が流れ込み、薄地の白いカーテンをふわりと舞い上げた。窓からの柔らかな光が大きく揺らめく。机に向かうラウルにもその風は届いた。彼の長い髪がさらさらとなびいた。
——ガチャッ。
奥の部屋からユールベルが姿を現した。真新しい上質な白いワンピースに、黒いエナメルの靴、おろし立ての白い包帯、緩やかなウェーブを描く金色の髪。すっかり身支度を整えている。
彼女はゆっくりと足を進めていった。
「帰るわね」
机に向かうラウルに、後ろから声をかける。
「ああ」
ラウルは振り返らずに返事をした。ユールベルは目を細め、彼の背中をじっと見つめた。
「……また、来てもいいかしら」
「診察にならな」
素っ気ない答えを返す。ユールベルは後ろから彼に腕をまわした。広い背中に頬を寄せ、そのあたたかさを感じながら目を閉じた。
「さようなら」
囁くように告げられたその言葉は、微かに震えていた。
ユールベルは医務室を出て、扉を閉めた。そのとき、脇でレオナルドが座り込んでいることに気がついた。服にも顔にも、血がついたままだった。すでに変色して、赤というよりも黒に近くなっている。
「ずっと、ここにいたの?」
「情けないな。俺ではラウルの代わりにもならないのか」
レオナルドはうなだれたまま、自嘲ぎみに言った。ユールベルの胸に痛みが走った。何も答えることが出来なかった。ただ、眉根を寄せ、うつむくだけだった。
「おまえはもう俺のことを必要としなくなっていた。それは、だいぶ前からわかっていた」
「……頼んでおきながら、勝手よね」
「勘違いするな。おまえを好きになったのは、頼まれたからじゃない」
レオナルドは、隣で立ち尽くすユールベルに、ちらりと目を向けた。
「だから、これからも勝手におまえのことを好きでいる」
「私なんかのどこがいいのよ」
ユールベルは後ろで手を組み、壁にもたれかかると、投げやりに言った。
「理由が欲しいなら、いくらでも挙げてやる。それとも、迷惑ってことなのか?」
レオナルドは淡々と尋ねた。ユールベルは困惑して顔を曇らせた。
「私は、どうすればいいの?」
レオナルドはじっと考え込んだ。そして、静かに口を開いた。
「俺を見ていてくれ。きっと、おまえを受け止められるような男になってみせる。ラウルの代わりでなく、ジークの代わりでなく、俺を俺として好きになってくれるまで待つさ」
穏やかだが、力強さを感じさせる声。いつもの彼にはない落ち着きもあった。
ユールベルは遠くを見て、目を細めた。
「前にも言ったわ。あなたの気持ちには応えられないかもしれないって」
レオナルドはふっと笑ってうつむいた。
「前にも言っただろう。それでも俺はあきらめないと。未来のことは誰にもわからない、そうだろう?」
ユールベルはゆっくりと彼に振り向いた。そして、静かに尋ねかける。
「あなたは、何かをあきらめたことはあるの?」
「……あるさ」
レオナルドは低い声で短く答えた。頼りなく目を伏せている。しかし、すぐにその表情を引き締めると、瞳に決意をみなぎらせた。
「でも今度は、おまえのことだけは、絶対にあきらめるつもりはない」
「あなたのそういうところ、うらやましいわ」
ユールベルは足元を見つめながら、少し寂しげに微笑んだ。そして、そっと顔を上げると、窓の外の青い空を遠望した。