ガラガラガラ——。
ジークは引き戸を開け、中に入った。いつもは賑やかな教室が、今はしんと静まり返っている。
そこにいたのはラウルひとりだけだった。窓際の椅子に座り、青色のファイルに目を落としていた。ファイルを持つ左手は、白い包帯で覆われていた。
ジークは乱暴に椅子を引き、向かいの席に腰を下ろした。ふたりの間の机には、窓からの強い光が落ちていた。その照り返しのまぶしさに、思わず目を細める。わずかに顔をそむけ腕を組み、正面に座る担任の言葉を待った。
「魔導省か」
ラウルはファイルを閉じると、感情のない声でつぶやいた。ジークはむっとして眉をひそめた。
「文句あるのかよ」
ぶっきらぼうな口調でふてぶてしく突っかかる。だが、ラウルは無表情のままだった。彼を見もせず、ファイルを机に置くと、冷淡に言い放った。
「やめておけ。おまえには向いていない」
「なんだと?」
ジークは顔をしかめた。そして、身をのり出すと、いきり立って語気を荒げた。
「いきなりそれかよ! おまえにそんなことわかるのか? 俺の何を知ってるっていうんだ!」
「あそこは理不尽なことが平然とまかり通るところだ。おまえにはそれを受け入れる覚悟があるのか」
ラウルはジークを見据え、静かに言った。ジークは当惑の表情を浮かべた。考えもしないことだった。返答に窮し、目を泳がせる。
「忠告はした。あとは勝手にしろ」
ラウルは冷たく言い捨てた。ジークはカチンときた。途端に強気になり言い返す。
「ああ、言われなくても勝手にするぜ」
「おまえが望めばサイファがどうとでもするだろう」
ラウルはファイルを手に取り、すっと立ち上がった。ジークの頭に一気に血がのぼった。奥歯を噛みしめると、目の前の長身の男をキッと睨み上げた。
「俺の実力じゃ受かるわけねぇって言いたいのか?」
怒りを込めた低い声で尋ねる。ラウルは冷たい目で彼を見下ろした。
「魔導の実力やアカデミーの成績は問題ない。問題はおまえのその態度だ」
ジークは息を呑んだ。
「気に食わないからといって、そういうあからさまな態度をとっていては受かりはしない。受かったとしても昇進は見込めない。」
ラウルは淡々とそう言うと、ファイルを脇に抱えた。
ジークは苦々しく顔をしかめた。言葉もなく目を伏せる。痛いところを突かれた。その自覚はあった。だが、ラウルに対しては意地を張りたかった。
「……これは、相手がおまえだからだ。いざとなれば、上手くやる」
精一杯の反抗心は、自信なさげな弱々しい声で語られた。
ラウルは無言で背を向け歩き出した。
「た、たとえ!」
ジークは去り行く背中に向かって声を張り上げた。ラウルの足は止まった。
「たとえ、上手くいかなかったとしても……」
そこでいったん言葉を切った。グッと表情を引き締め、瞳に強い光を宿らせると、彼の大きな背中を凝視した。
「俺は、サイファさんに頼ろうなんて思ってねぇ。自分の力でやっていく」
今度は決意をみなぎらせた声で、きっぱりと言い切った。
ラウルはわずかに振り返った。
「ならば、はっきりとサイファにそう言っておくんだな。放っておくと、あいつは勝手なことをやりかねない」
「ああ、そうするぜ」
ジークは投げやりに答え、フンと鼻を鳴らした。ラウルは再び背を向けた。そして、
ふいに口を切った。
「サイファに関わるとろくなことがない。あいつには近づきすぎるな」
その声には、苛立ちと反感のようなものが微かに含まれていた。ジークは怪訝に眉をひそめた。
「俺は進路指導に来たんであって、人生相談に来たんじゃねぇぞ」
彼のその言葉に、ラウルは何も答えなかった。無言のまま、大きな足どりで教室を出ていった。ちらりと見えた横顔は、相変わらずの無表情だった。
ひとり残されたジークは、大きく息を吐きながら、机に突っ伏した。机の表面は、昼下がりの強い陽射しに照りつけられ、熱いくらいだった。しかし、今の彼には、それがちょうど心地よく感じられた。
ジークは教室を出ると、食堂に向かい歩き出した。あたりは多くの生徒が談笑しながら行き交い、騒がしいくらいに賑やかだった。誰も皆、楽しそうに見える。彼は無意識に足を早めた。ときおりスニーカーがキュッと軽い音を立てた。
小走りで階段を駆け降りると、彼ははっとして足を止めた。その視線の先にいたのは、レオナルドとユールベルだった。ここは彼らの教室の近くだった。そうでなくても同じアカデミーにいる以上、校舎内のどこで出会ってもまったく不思議ではない。だが、できれば出会いたくない相手だ。
彼らも気づいたらしく、同様にはっとしてジークを見ていた。ジークはわずかに身構えた。また、いつものように、レオナルドが嫌味のひとつでも吹っかけてくるだろうと思った。だが、彼は不機嫌な顔を見せただけで、つんと無視をして通りすぎた。彼に手を引かれたユールベルも、とまどいがちに顔をそむけた。ジークの視界の隅を、白い包帯が流れた。
ジークは思わず振り返っていた。首を傾げながら、階段を上がるふたりの後ろ姿を睨んだ。肩すかしをくらった脱力感、無視されたことの腹立たしさ、ふたりの態度への疑問など、さまざまに入り混じった感情が、彼に複雑な表情を作らせていた。
「ジーク! ここだよ!」
リックは食堂に入ってきた彼を目ざとく見つけ、声を張り上げた。笑顔で大きく手を振っている。アンジェリカも隣でにっこり微笑んでいた。先に進路指導の面談を終えたふたりは、ここでジークを待っていたのだ。
ジークは軽く右手を上げて応えると、コーヒーを買ってから、ふたりのいる窓際の席についた。一面の大きなガラス窓から陽光が射し込み、まぶしいくらいに明るい。食堂には彼らの他にもちらほら生徒がいて、遠くで笑い声やはしゃぎ声が上がっている。のどかな昼下がりらしい光景だ。
「どうしたの?」
そんな中でひとり冴えない顔をしているジークを見て、リックは心配そうに声を掛けた。ジークはコーヒーをひとくち流し込むと、膨れっ面で頬杖をついた。
「ここに来る途中でレオナルドに会った」
「また喧嘩したのね」
アンジェリカは呆れ口調で言った。
「そうなるかと思ったけど、あいつ、完全に無視しやがった。嫌味を言われるよりも腹が立つぜ。ユールベルも俺を避けるみたいに目を逸らすしな」
ジークは面白くなさそうにそう言い、口をとがらせた。
「ユールベル、来てたんだ」
ぽつりと漏らしたアンジェリカのひとことに、ジークははっとして振り向いた。
「違っ……別に、だからどうってわけじゃねぇんだ!」
慌てふためいて、とっさに稚拙な弁明をする。だが、曖昧な言い回しは彼女に通じなかった。ぽかんとしてジークを見ている。彼の顔にわずかな赤みがさした。リックは隣で声をひそめて笑っていた。
「ええ、別に来ていてもいいんだけど……」
アンジェリカとジークの話は噛み合っていなかった。だが、ジークは訂正しなかった。黙って彼女の話の続きを聞いた。
「きのうはユールベル、事情があって家に帰れなかったみたいなの。だから、今日アカデミーに来ているとは思わなくて。そう、それできのうだけアンソニーをうちで預かったのよ」
「アンソニーって、ユールベルの弟だったな」
ジークはエプロン姿の彼を思い出していた。ターニャの卒業祝いパーティで、張り切って料理をしていた姿が印象深い。まだ顔立ちはあどけなかったが、その言動は姉のユールベルよりもしっかりしていた。
「ええ、それにルナちゃんも来ていたのよ。もうけっこう歩けるし、言葉もしゃべるの。とっても可愛いわ」
アンジェリカは声を弾ませた。だが、ジークはまるで興味を示さなかった。ぼんやりと聞き流しながら、ふと、ラウルの左手の包帯のことを思い出した。ルナを預けたのは手を怪我したせいなのだろうか。あのラウルが怪我をするとは、いったい何が原因だったのだろうか。彼の関心はそちらに向かっていた。
「楽しそうだね」
リックはにこにこして相槌を打った。アンジェリカも顔をほころばせて頷いた。
「本当、賑やかで楽しかったわ。私にも弟や妹がいればいいなって思っちゃった」
「今からでも遅くないかも」
リックが言い終わらないうちに、ジークはテーブルの下で彼のすねに蹴りを入れた。横目で睨みつける。リックは痛みをこらえて苦笑いした。ふたりのおかしな様子に、アンジェリカは目をぱちくりさせた。
「じゃあ、お兄さんはどう?」
リックは話題を変えた。人さし指を立てて尋ねかける。
「そうね、リックみたいな優しいお兄さんだったら、いいかもしれないわ」
アンジェリカは少し考えながらそう言うと、彼に明るく笑いかけた。
ジークは頬杖をつき、コーヒーを口に運んだ。彼自身は、気にしていないふうを装ったつもりだったが、表情ににじむ不機嫌さは隠しきれなかった。
「ジークがお兄さんだったら?」
リックは軽い調子で質問を続けた。ジークはぎょっとして彼を見た。あやうくカップを滑り落とすところだった。
アンジェリカは首を傾げながら、じっとジークを見つめた。
「毎日、喧嘩してそう」
真顔でぽつりと言った。しかし、すぐに笑って付け加えた。
「でも、きっと楽しいわね」
ジークの頬は赤く染まった。そして、嬉しいような困惑したような、ぎこちない笑顔を返した。
「なによ、私が妹じゃ不満?」
アンジェリカは口をとがらせた。ジークは弱り顔でぼそりと答えた。
「不満ていうか、妹って……」
「生意気だから妹には似つかわしくないってこと?」
彼女はさらにきつく問いつめた。
「そうじゃねぇよ!」
ジークは反射的に言い返した。だが、それきり言葉を繋ぐことが出来なかった。困ったように顔をしかめ、前髪をくしゃりと掴む。
アンジェリカは怪訝に彼を覗き込んだ。
「そうじゃなくて、何なの?」
「まあまあ、落ち着いて、ふたりとも」
リックがふたりに割って入った。ジークにとってはありがたい助け舟となった。ふうと安堵の息をついた。
「そうだ、進路指導はどうだったの?」
リックの質問に、ジークの心は落ち着く間もなく波立った。けわしい顔で頬杖をつくと、口をとがらせた。
「俺は役人に向いてねぇからやめとけってよ。自分こそ教師に向いてねぇくせに」
「でも、やめる気はないんでしょう?」
アンジェリカはくすりと笑って尋ねた。
「当たりまえだ。忠告だなんて偉そうに。よけいなお世話だぜ」
ジークは腹立たしげに答えた。そのとき、ふいに、進路指導でラウルが口にしたもうひとつの忠告を思い出した。そして、あのとき頭の隅をかすめた疑問——。
「なあ、ラウルとサイファさんって、仲が悪いのか?」
窓の外に目をやりながら、その疑問を彼女にぶつけた。ガラスの向こうでは、木々の緑がかすかに揺れている。
「どうして?」
アンジェリカは驚いて尋ね返した。
「なんとなくな。さっきも、ラウルのヤツ、サイファさんに関わるなとか言ってやがったし」
「それは、お父さんにっていうよりも、ラグランジェにって意味じゃないかしら。今までも私のことで巻き込まれているから、心配しているのよ」
彼女は冷静に答えた。だが、ジークは腑に落ちない表情で眉をひそめた。
アンジェリカは淡々と話を続けた。
「私の見た限りでは、お父さんとラウルは仲が悪いってことはないと思うの。お父さんが軽口を言って、ラウルに睨みつけられるってことは、よくあるけれど」
その光景が目に浮かんで、ジークは軽く吹き出した。しかし、すぐにはっとして考え込んだ。まさか、それが原因で、ラウルはサイファさんを嫌うようになったのだろうか——。同時に、それくらいのことで嫌うようになるだろうかとも思った。
難しい顔をしている彼を見て、アンジェリカは付け加えた。
「お父さんが子供の頃、ラウルが家庭教師をしていたみたいなのよね。それ以来の長い付き合いだから、軽口も言えるんだと思うわ」
「家庭教師?」
ジークにとって、それは初耳だった。ふたりの姿とその事実を重ね合わせると、その関係がとても不思議なものに思えた。ますますわからなくなった。
「……レイチェルさんとは?」
ついでだと思い、ジークはもうひとつ気に掛かっていたことを尋ねた。アカデミーの中庭で話していたふたりの姿が、ずっと頭から離れなかった。話は一部しか聞いていないので、内容はよくわからなかった。だが、何かがあったらしい。ラウルのあの怒り様も、ただ事ではないと思った。
アンジェリカはきょとんとしながらも、素直に答えた。
「ラウル? お母さんの家庭教師だったこともあるらしいわよ。ふたりがしゃべっているところはあまり見たことないけれど、仲が悪いってことはないんじゃないかしら」
ジークはじっと考え込んだ。アンジェリカは訝しげに彼を覗き込んだ。
「どうしてそんなことを訊くの?」
「ちょっと気になっただけだ。別に深い意味はねぇよ」
ジークは素っ気なく答えた。それから、再び頬杖をつくと、口をへの字に曲げた。
「でも、なんか引っかかるんだよな、いろいろと。隠しごとをされてるって言ったら、言い過ぎかもしれねぇけど」
「もしかしたら、あのことかしら」
アンジェリカは軽く握った手を口元に添え、ぽつりと言った。
「心当たり、あるの?」
リックは抑えた声で尋ねた。
「ええ」
アンジェリカはこくんと頷いた。
「お父さんとお母さんが結婚する前に、私ができたことかなって」
ガタガタン!
ジークは勢いよく立ち上がった。椅子が倒れ、食堂に大きな音が響いた。驚愕の表情でアンジェリカを見下ろし、口をカクカクと震わせた。
「おっ、おまえっ! なんでそれ知ってんだ!!」
右足を後ろに引いて、彼女を指さしながら、大声でわめき立てた。彼の顔は耳まで真っ赤になっていた。隣では、リックがゲホゲホとむせこんでいた。
「え? ジーク、知っているの? どうして?」
アンジェリカも驚いて、逆に聞き返した。
「お、俺は、サイファさんに聞いた……」
ジークは狼狽しながら、次第に消え入りそうな声で答えた。どうしていいかわからないといった様子で目を泳がせている。
「お父さん、ジークにそんなことまで話していたのね」
アンジェリカは大きな黒い瞳で彼を見つめ、ひとりごとのように言った。
「ていうか、おまえこそ何で……」
ジークの心臓は、いまだに早鐘のように打っていた。一方のアンジェリカは、いたって冷静だった。
「親戚たちがよく私の近くで、ひそひそとそんな話をしているのよ。聞こうと思わなくても聞こえるわ」
さらりとそう言ったかと思うと、急にむっとして眉根を寄せた。
「だから呪われているんだとか罰だとか、そういうことを言うのよ、あの人たち。非科学的にもほどがあるわ。そう思わない?!」
彼女は強い口調で同意を求めた。
「あ……ああ……」
ジークは勢いに圧され、まごついた返事をした。
「このことをジークに話していたってことは、隠していることはこれじゃないわね」
アンジェリカはそうつぶやきながら、真剣に考え始めた。
ジークとリックは隠れるようにして身をかがめ、こっそり囁きあった。
「俺、あいつがわからねぇよ」
「僕はいろんなことに驚きすぎて、わけがわからないよ」
リック乾いた笑いを浮かべた。彼は彼女の話した事実さえ知らなかった。当然の反応といえるだろう。
「なにふたりでひそひそ話しているの?」
アンジェリカは怪訝にふたりに振り向いた。
「アンジェリカの進路指導はどうだったのかなって」
リックはとっさに取り繕った。彼女はそれに素直に答えた。
「やっぱり年齢がネックなのよね。比較的、融通がきくのは研究所らしいわ」
「研究所って、俺がアルバイトしていたとこか?」
ジークは倒れた椅子を起こして座った。
「他にもいくつかあるみたい。でもやっぱり、あそこがいいかしら」
「悪くねぇと思うけど……」
そう言いながら、ジークは研究所でのことを思い起こした。あの研究所では、サイファの影響力がとても強いように見受けられた。特別扱いされたくない彼女にとって、居心地は良くないかもしれない。いや、どこへ行ったとしても、多少は特別扱いされるに違いない。ラグランジェ本家の娘という肩書きに加え、働くには若すぎる年齢がある。他とまったく同じというわけにはいかないだろう。彼女自身はそのことをわかっているのだろうか。
「リックはどうだったの? 進路指導」
アンジェリカはふいにリックに話題を振った。
「僕は、教師になるのか確認されて、それで終わりだったよ」
ジークとアンジェリカは唖然として彼を見た。
「それだけか?」
「問題がないってことね」
アンジェリカはうらやましそうに言った。
「リック!」
セリカが小走りで駆け寄ってきた。上品な顔立ちを明るく輝かせている。薄手のジャケットと短いタイトスカートが、すらりと背の高い彼女によく似合っていた。
「何か深刻な話?」
曇り顔のジークとアンジェリカを目にすると、彼女は遠慮がちに尋ねた。リックは優しく微笑んで答えた。
「ちょっと進路の話をね」
「そっか、もう四年生なのね」
セリカは少し感傷的に言った。彼女はもともとリックたちとクラスメイトだったが、一年生のときに自主退学をしていた。もし退学していなければ、彼女も同じ四年生になっていただろう。今を後悔しているわけではないが、ふとそんな気持ちが心を通り過ぎた。
彼女はジークを見て、にっこりと笑顔を作った。
「ジーク、夢、かなえてね」
彼は一瞬、呆気にとられた。しかし、すぐにむっとした表情に変わった。ぷいと横を向くと、つんとして答えた。
「おまえに言われるまでもねぇよ」
「そうね」
予想どおりの反応に、セリカはくすりと笑った。
リックは肩をすくめて苦笑いした。いつまでたっても、ジークはセリカに冷たいままだ。過去のことを引きずっているのか、ただ単に彼女のことが気に食わないのか、どちらかはわからない。ただ、彼女の方は気にしてなさそうなのが救いだった。
「それじゃ、僕はこれで」
リックはジークとアンジェリカにそう告げると、鞄を取り立ち上がった。
「ええ、またあしたね」
アンジェリカはにっこりとして手を振った。ジークは仏頂面のまま軽く右手を上げた。
リックとセリカは仲良く並んで食堂を出ていった。
「……外、歩くか?」
窓の外があまりにいい天気だったので、ジークはそう言ってアンジェリカを誘った。彼女も嬉しそうに応じた。
ふたりはあてもなく、校舎のまわりを歩いた。強い陽射しがふたりの後ろに濃い影を作っている。アンジェリカは後ろで手を組み、ピンと背筋を伸ばして顔を上げた。心地良さそうに目を閉じ、光を浴びている。ときおり吹く優しい風が、黒髪をさらさらとなびかせた。ジークは体の中にもあたたかい光が広がるように感じた。
「ねぇ、ジーク」
一歩前を歩いていたアンジェリカが、軽いステップを踏みながら、くるりと振り返った。短いフレアスカートがひらりと舞い上がる。ジークは下から覗き込んでくる彼女の笑顔にどきりとした。
「なんだ?」
アンジェリカはさらににっこりとして笑いかけた。
「まだ誰にも言ってないんだけど、私、卒業したら家を出ようと思っているの」
「家出?!」
ジークは素頓狂な声を上げた。
「そうじゃなくて、一人暮らし!」
アンジェリカは眉根を寄せ、強く力を込めて訂正した。
「いつまでも親元で甘えていてはいけないと思うのよね」
「いつまでもって、おまえまだ……」
ジークはそこまで言って口をつぐんだ。しまったという表情が見え隠れしている。アンジェリカはむっとして口をとがらせた。
「なによ、子供だって言いたいの?」
「大変なんだぞ。わかってんのか?」
「わかっているわよ」
アンジェリカはむきになって言い返した。
「だから、今から料理とか洗濯とか、きちんと勉強しているわ。他の人に出来て、私に出来ないわけはないでしょう?」
「本を読んでるだけじゃ、料理は出来ねぇぜ」
ジークは淡々と言った。アンジェリカはますますむきになった。
「ちゃんと作っているわよ。本職のコックさんには及ばないけれど、けっこう美味しいのよ」
ジークはなんとも言えない表情で彼女を見た。
「なによ、その疑いのまなざしは」
「自分で食ってみたのかよ」
「当たりまえでしょう?」
アンジェリカは、少しも信用しようとしないジークに、半ばむくれ、半ばあきれていた。だが、突然ぱっと顔を輝かせると、思いきり声を弾ませた。
「そうだわ、今度、食べに来て。ごちそう作るから! ねっ!」
屈託のない笑顔でジークを覗き込む。
「え、あ、ああ……」
ジークはどぎまぎしながら返事をした。思わず彼女のエプロン姿を想像していた。ついさっきまで料理の腕を疑っていたことなど、どこかへ吹き飛んでいた。
「それじゃ、約束」
アンジェリカは小指を立ててにっこり笑うと、ジークの小指に絡ませた。こんなガキくさいこと、とジークは思ったが、彼女の指が触れた瞬間、何も言えなくなった。無邪気に指切りをする彼女が、無性に愛おしかった。しかし——。
「どうしたの?」
ジークが急に顔を曇らせたことに気づき、アンジェリカは不安そうに尋ねた。
「なんか俺、平和ボケしそうだぜ」
「平和なんだから、いいじゃない」
アンジェリカは当然とばかりにさらりと言った。ジークはため息をついた。
「おまえの問題、片付いてねぇよ」
「きっと大丈夫よ」
彼女は笑顔を見せた。
「もし、ひいおじいさまがジークに何かしたら、お父さんが仕返しすると思うし、簡単には動けないはずよ。私だって黙っていないわ。だから、心配しないで」
そう言って、右のこぶしをぎゅっと握りしめた。意気込む彼女を見て、ジークは複雑な気持ちになった。ため息をつき、青い空を仰いだ。白く薄い雲が、緩やかに流れていく。
「ホント情けねぇな、俺。おまえを守りたいと思ってんのに、逆に守られてんのか」
「情けなくなんかないわ!」
アンジェリカはまっすぐ真剣に彼を見つめた。
「私が毎日、笑っていられるのは、ジークのおかげよ」
「俺、何もやってねぇよ」
ジークはとまどいながら、ぶっきらぼうに言った。しかし、そんな彼を見て、彼女はにっこりと笑った。
「生きるのがこんなに楽しいって教えてくれたのは、ジークよ」
ジークは何も言葉を返せなかった。ただ気恥ずかしくて目を伏せるだけだった。嬉しく思う気持ちもあったが、それだけのことをした自信が持てなかった。
アンジェリカは後ろで手を組むと、くるりと背を向けゆったりと歩き出した。そして、足をそろえて止めると、空を見上げた。
「卒業しても、ずっと仲良くしてね」
静かな落ち着いた声。ジークははっとして顔を上げた。
彼女はゆっくりと振り返ると、彼と視線を合わせた。神妙な面持ち、何かを訴えかけるような瞳。いつもより数段、大人びて見える。ジークはごくりと唾を飲んだ。
「……あっ……当たりまえだろ! 今さらなに言ってんだ! 俺は何があっても引かないって言ったはずだぜ。忘れたのかよ。ずっと、俺はおまえを……俺たちは、これからも……ずっと……!」
彼は不格好に、しかし懸命に言った。
アンジェリカはふと口元を緩めると、無邪気な笑顔を見せた。強い陽射しを浴びた黒い髪が、その表情とともにきらきらと輝いていた。