遠くの光に踵を上げて

第75話 取引

 狭く薄暗い部屋。その中央にジークは座っていた。無骨なスチール机に手をのせ、うつむき眉を寄せている。安っぽいパイプ椅子は、彼が動くたびに不快な軋み音を立てた。扉の両脇には、制服の男がひとりずつ立っていた。後ろで手を組み、無言でジークを見張っている。
 ——ガチャ。
 扉が開き、颯爽とサイファが入ってきた。その表情はけわしかった。小脇にはいくつかの書類を抱えている。彼は金の髪をさらりと揺らし、戸口の見張りを振り返った。
「下がっていろ」
「はい」
 ふたりの見張りは一瞬、怪訝な顔を見せたが、すぐに一礼をして部屋を出ていった。
 サイファはジークの向かいに座った。耳を裂く軋み音が狭い部屋に響いた。ジークはうつむいたまま体をこわばらせた。
「すまないな、仕事だ」
 サイファは書類を机に置きながら、素っ気なく言った。ジークは手を膝に下ろし、弱々しく頷いた。
「だいたいの話はユールベルから聞いた」
 サイファは目を伏せ、話を続けた。
「昨晩、アンジェリカの様子がおかしかった理由がわかったよ」
「すみません」
 ジークは眉を寄せ、膝にのせた手をぐっと握りしめた。
「責めてはいないよ」
 サイファは静かにそう言い、ファイルを開いた。無表情で目を落とし、事務的な口調で読み上げ始めた。
「住居不法侵入、暴行未遂、器物破損、魔導不正使用……認めるか」
「……はい」
 ジークは少しためらったあと、小さな声で返事をした。ルーファスに殴り掛かったとき、感情が高ぶり、思わずそのこぶしに魔導の力をのせてしまった。そうでなければ、壁を打ちつけても崩れることはなかっただろう。
 サイファは軽くため息をついた。
「魔導の不正使用は罪が重い。君も知っているだろう」
「脅迫は、罪にはならないんですか」
 ジークは低く抑えた声で言った。その声には憤りが滲んでいた。サイファはわずかに目を細めた。
「証拠がない。客観的に見れば、君が制止を振り切って上がり込み、無抵抗な老人に暴行しようとした、そういうことになる」
 感情を見せずに淡々とそう言うと、じっとジークを見つめた。ジークはうつむいたまま肩を震わせた。
「あいつは……俺の母親やリックも利用しようとしていた!」
 抑え込んだ怒りが噴出した。冷静にと努めたが、やはり堪え切ることはできなかった。
 サイファはファイルを閉じ、机の上に置いた。
「それはおそらくハッタリだ。ラグランジェ家は何よりも騒ぎを起こされることを嫌う。外部の人間を利用すれば、当然そのリスクは高くなる。だから、無関係な者を軽々しく巻き込むようなことはしないよ」
 安心させるように、優しい口調で言った。しかし、ジークの表情が和らぐことはなかった。思いつめた顔でサイファを見つめ、口を開いた。
「絶対にないとは、言い切れませんよね」
「ああ」
 サイファは動じることなく素直に認めた。
 ジークは再びうつむいた。それきり沈黙が続いた。それほど長くはなかったかもしれない。だが、ジークには時が止まったかのように感じられた。
 サイファは瞬きをして、静かに切り出した。
「ラグランジェ家と関わるのをやめるというなら、祖父にそう伝えよう。私は君の意思を尊重する。どのような結論を出そうとも、私はそれを受け入れるつもりだ。君を恨んだりはしない」
 ジークは目を閉じ、まぶたを震わせた。
「考えさせてください」
「わかった」
 サイファは深い声を落とした。そして、一息つくと、再び口を開いた。
「私もできる限りのことはするつもりだ。だが、あまり期待はしないでくれ」
 ジークに返事はなかった。ただ、硬い顔でうつむいたままだった。サイファは眉根を寄せた。
「本当に、すまなかった」
 重々しくそう言うと、椅子を引いて立ち上がり、取調室から出ていった。
 ジークはやるせない思いで、彼の後ろ姿を見送った。無機質な靴音が遠ざかり、代わりに静寂が訪れた。

 ガラガラガラ——。
 アカデミーへやって来たサイファは、教室の前扉を開けた。教壇のラウルも、生徒たちも、いっせいに振り向いた。
「授業中だぞ」
 ラウルは眉をひそめ、冷ややかに言った。
「悪いが来てくれ」
 サイファは落ち着いた声で頼んだ。その青い瞳は真摯にラウルを見つめていた。
 ラウルは小さくため息をつくと、教本を机に置いた。
「しばらく自習にする」
 生徒たちにそう言い残し、教室をあとにした。

 ジークと何か関係があるのだろうか——。
 リックは不安になった。ジークはきのうからずっと、様子が普通ではなかった。アンジェリカを避け、ユールベルと親密そうにしていた。昨晩は家にも帰らなかった。今日はアカデミーにも来ていない。
 彼は頼りない顔でアンジェリカに振り向いた。だが、彼女は席にいなかった。
「えっ?」
 リックは驚いて立ち上がり、あたりを見渡した。やはり、彼女の姿は見当たらない。
「まさか……」
 彼の顔からさっと血の気が引いた。あわてて廊下へ飛び出したが、もう彼女の姿も、ラウルとサイファの姿も見つけられなかった。

 サイファはラウルを連れ、王宮の外れにある小さな森へとやってきた。ひっそりとした静かな散歩道に、強い木漏れ日が落ちている。サイファはその中をゆっくりと歩いていた。ラウルはさらさらと流れる金色の髪を見ながら、そのあとに続いた。
 サイファは足を止めた。そして、背を向けたまま淡々と言った。
「ジークがルーファスの家へ乗り込んで事件を起こした。今、魔導省で留置している」
 ラウルも足を止めた。焦茶色の長髪が風になびいた。
「私にどうしろというんだ」
 サイファは振り返り、微かな笑みを見せた。
「君の生徒だろう。一応、知らせておこうと思っただけだ」
 そう言うと大きくため息をつき、額を押さえてうなだれた。
「いや、おまえの顔が見たかっただけかもしれない。正直、どうすればいいのかわからないよ」
 弱音を吐いたその声には、はっきりと疲れが滲んでいた。ラウルは無表情で彼の顔色を窺った。
「少し休め」
 サイファはその言葉に驚き、薄笑いを浮かべた。
「おまえに気づかってもらえるとは、ありがたいな」
「医者として言っている」
 ラウルの反応はすげないものだった。だが、サイファはにっこりと笑顔を見せた。

 カサッ——。
 脇から草の踏みしめられる音が聞こえた。サイファははっとして機敏に振り向いた。
「アンジェリカ!」
 彼女は大きな樹の後ろから姿を現した。真剣な表情でサイファを見据えている。
「ジークのところへ連れていって」
「だめだ、教室に戻れ」
 サイファは顔つきを厳しくし、毅然と言った。しかし、アンジェリカは引かなかった。逆に前へ踏み出し、詰め寄った。
「私のせいなんでしょう? ジークに会わせて」
「あとで取りはからう。今は引くんだ」
 アンジェリカは反抗的な目で睨んだ。
「いいわ、自分で探すから」
「待て!」
 踵を返したアンジェリカを引き止めようと、サイファは彼女の細い手首を掴んだ。
 その瞬間。彼女の体全体から魔導の力が発せられた。体が強く光ると同時にバチッという音がして、サイファの手を弾いた。そして、間髪入れず、彼のまわりに強力な結界を張った。
「な……」
 サイファは、自分のまわりで淡く光る結界を、呆然と見上げた。アンジェリカはそのまま振り返りもせず、散歩道を走り去っていった。軽い足音が次第に小さくなっていく。サイファは自嘲ぎみにふっと笑った。
「見てないで解除してくれないか。内側からは魔導が使えない結界だ」
「油断していたにしても情けないな」
 ラウルはあきれたように言うと、呪文を唱えることなくサイファのまわりの結界を消滅させた。
「仕方ないさ」
 サイファは大きくため息をつき、森の緑を見上げた。
「魔導の潜在能力は、私より遥かに上だからな。おまけに、教えているのはおまえだ」
 そう言ってラウルに視線を流し、意味ありげに含み笑いをした。だが、その表情にはどこか翳りのようなものがあった。
 ラウルは無表情で視線を返した。
「それは、おまえ自身が望んだことだ」
「ああ、アカデミーの担任はね」
 サイファは背を向けながら言った。ラウルは太い眉をぴくりと動かした。

 アンジェリカは薄汚れた建物に駆け込んでいった。窓が少なくこじんまりとして、陰気な雰囲気が漂っている。いくつかある魔導省管轄の建物のひとつで、容疑者の取り調べや留置がなされているところだ。おそらくここだろうと、あたりをつけてやってきたのだ。
 入ってすぐのロビーにユールベルがいた。長椅子に腰かけ、膝の上で祈るように手を組んでいる。
「ユールベル! ジークは?」
 アンジェリカは彼女に駆け寄り、焦ったように早口で尋ねた。ユールベルは驚いて顔を上げ、右目を見開いた。アンジェリカが思いつめた顔で自分を見つめている。その視線に耐えきれず、逃げるように目を伏せた。
「奥に連れていかれて、それきりよ」
 彼女は小さな声で答えた。
 アンジェリカは奥へと続く廊下に、鋭い目を向けた。その入口には、ふたりの衛兵が立っていた。彼女を目にすると、互いに顔を見合わせ、とまどった表情を浮かべている。ラグランジェ本家の令嬢が押し入ろうとしたら、どのように対応すれば良いのだろうか。そもそも、止めようにも止められる自信はまるでない——。ふたりはそうならないことを祈った。
 だが、アンジェリカにその祈りは通じなかった。まっすぐその廊下へ向かって走り出した。衛兵たちの表情が引きつった。
「行ってはだめ!!」
 ユールベルは後ろからアンジェリカに抱きつき、彼女を止めようとした。
「放して!!」
 アンジェリカは一気に魔導力を高めた。あたりの空気が、彼女を中心に渦を巻いた。ユールベルの長い髪は絡み合うように舞い上がった、ワンピースはバタバタと音を立ててはためいた。それでもユールベルは放さなかった。必死でアンジェリカにしがみついた。
「冷静になって! ジークはそんなこと望んでいない!」
 精一杯の声で訴えかける。
 アンジェリカははっとした。それをきっかけに落ち着きを取り戻し、魔導力も鎮まっていった。
 あたりは再び静寂を取り戻した。
 ユールベルは力が抜けたように、その場に座り込んだ。
「何があったの? 話して」
 アンジェリカは彼女を見下ろし目を細めた。ユールベルは床に手をつき、大きくうなだれた。
「ごめんなさい、私のせいなの……」
 そう切り出すと、訥々と話し始めた。きのうルーファスに弟を人質に取られ脅されたこと、そして今日、彼の家で起こったこと——。
 アンジェリカは神妙な面持ちで聞いていた。そして、ユールベルが話し終わると、複雑に顔を歪ませ、走って出ていった。

 アンジェリカはルーファスの家へとやってきた。呼び鈴を鳴らすと、すぐにメイドが扉を開けた。
「私はアンジェリカ=ナール=ラグランジェ。ひいおじいさまはいるかしら」
 アンジェリカは背筋をピンと伸ばし、自分より背の高いメイドを睨みながら、冷たく尋ねた。
「どうぞ」
 メイドは丁寧にお辞儀をし、彼女を中へと案内した。

 ルーファスはリビングルームで悠然と椅子に腰かけていた。背もたれに身を預けたまま、小さく光る蒼い瞳を彼女に流した。
「アンジェリカ=ナール。随分と早かったな。手間が省けたよ」
「あなたの目的は私なんでしょう?」
 アンジェリカはきつい表情で曾祖父を睨みつけた。
「今さらあらためて言うことでもないがな」
 彼はそう前置きすると、静かに話し始めた。
「一族の者と結婚し、子をなし育てる。そうやってラグランジェ家を次世代へ繋ぎ、守っていくことが、本家に生まれた者の定めだ。みなそうやってきた。おまえひとり好き勝手していい道理はない」
 アンジェリカはごくりと唾を飲み込んだ。鼓動が強く打っている。じっと曾祖父を見つめ、ためらいがちに口を開いた。
「……私が承知すれば、ジークを助けてくれるの?」
「そのように取りはからおう」
 ルーファスは真剣な表情で答えた。
 アンジェリカは目を伏せた。そのまま考えを巡らせる。様々な想定をした。様々な未来を思い浮かべた。様々なものを天秤に掛けた。
 やはり、私の選択はこれしかない——。
 決意を固めたように、ぐっと表情を引き締めた。ゆっくりと顔を上げ、強いまなざしを彼に向けた。
「わかったわ。あなたの望みどおりにする。でも、アカデミーを卒業するまで待って」
「ならん」
 彼はきつい口調で即答した。そして、冷たい目でアンジェリカをじろりと睨みつけた。
「アカデミーは今すぐ辞めてもらう。そもそも、あそこでおまえは悪影響を受けたのだからな」
「お願い、せめて卒業させて。あと一年もないわ」
 アンジェリカは顔を曇らせながら懇願した。
 ルーファスはおもむろに腰を上げた。一歩、また一歩と、彼女との間を詰めていく。大きな体が近づくたび、小さな彼女は威圧された。まばたきすることも忘れ、彼を見上げている。彼女は完全に彼の影に覆われた。
「何を企んでいる」
 ルーファスは体の芯まで響く低音を、彼女の頭上から降らせた。
「何も」
 アンジェリカは強気にそう言い、キッと睨み上げた。額から頬に汗が伝った。
「ただ、最後までやり遂げたいだけよ。初めて自分の意志で進んだ道だから」
 ルーファスは探るように彼女の瞳の奥を見つめた。アンジェリカはまっすぐ見つめ返した。
「約束は必ず守るわ。私にはそれしか道がない。そのことはよくわかったから」
「許さん、と言ったらどうする」
 ルーファスは重々しく尋ねた。アンジェリカの瞳に強い光がともった。
「何もかも、むちゃくちゃにするわ。あなたも道連れよ」
 ゆっくりと魔導力を高めていく。まわりの大気が激しく揺らぎ、カーテンが舞い上がりはためく。
 ルーファスの背筋に冷たいものが走った。初めて彼女に対して恐怖を感じた。彼女は本気だ。そうなれば、自分も無事ではすまない。本当に何もかも台無しになってしまう。彼女にはそれだけの力がある——。
「まあいいだろう。卒業までは待とう」
 彼は威厳を保ったまま答えた。アンジェリカは小さく息を吐き、力をゆっくりとおさめていった。
 ルーファスは彼女の顎を掴み、ぐいと持ち上げた。
「くれぐれも言っておく。妙なことは考えるな」
「くどいわね」
 アンジェリカは眉をひそめ、少し苦しげに言った。しかし、ルーファスは容赦しなかった。さらに彼女の顎を持ち上げる。アンジェリカはつま先立ちになり、思いきり顔をしかめた。
「その身を大切にしろ。もはやおまえひとりのものではない。おまえがラグランジェ家のすべてを背負っているのだ」
 ルーファスは覆いかぶさるように彼女の黒い瞳を覗き込んだ。

「ユールベル、アンジェリカは来なかったか?」
 サイファは小走りで駆け寄りながら尋ねた。ユールベルは長椅子から立ち上がった。
「来たわ。中に押し入ろうとしたのを止めたら、出ていってしまったけれど」
「そうか……」
 サイファは難しい顔で何かを考えながら、ぼんやりと相槌を打った。
 ユールベルは不安げに瞳を揺らした。自分の行動は間違っていたのだろうか、そんな考えが湧き上がった。
 サイファは彼女の暗い顔に気がつくと、その頭に優しく手を置き微笑みかけた。
「止めてくれてありがとう」
 ユールベルはそれでもまだ表情を曇らせていた。
「疲れただろう。帰って休んだ方がいい」
 サイファは彼女を気づかった。しかし、ユールベルは首を横に振った。
「いいえ、ここにいるわ。いたいの」
 力を込めて懇願した。サイファはにっこりと笑顔を見せ、もういちど彼女の頭に手をのせた。
「わかった。無理はするな」
 ユールベルは彼の手の温もりを感じながら、こくんと頷いた。

 サイファは魔導省の最上階へとやってきた。早足で廊下を歩く。自室があるため、毎日のように通る場所だ。しかし、今回は自室を通り越し、さらにその奥へと向かった。
 コンコン——。
 突き当たりの扉を軽く二度ノックし、返事を待った。
「どうぞ」
 中から男性の落ち着いた声が聞こえた。サイファは扉を開け、中へと進んだ。その部屋は、サイファの部屋の倍ほどの広さがあった。こざっぱりと整頓され、床もきれいに磨かれていた。
 奥の窓際には、サイファと同じ濃青色の服を着た男性が立っていた。サイファよりやや背が高いくらいで、体格はよく似ていた。彼は入口に背を向け、後ろで手を組み、大きなガラス窓から外を見下ろしていた。
 サイファは彼へと足を進めた。無言で隣に並ぶと、目を細め、ガラス越しに空を望んだ。一面に広がる青のグラデーションに、白い筋状の雲がかかっていた。緩やかな風が、少しずつそれを流していく。
「ジーク=セドラックを釈放していただけませんか、長官」
 サイファが口を切った。長官と呼ばれた男は、前を向いたままきっぱりと答えた。
「通報があった以上、そういうわけにもいかん」
「彼は嵌められたんです。お察しでしょう」
 サイファは淡々と抗議した。長官は彼を一瞥した。
「彼と君とはどういう関係だ」
「娘の友達です。アカデミーのクラスメイトでしてね」
 サイファは愛想よく言った。
「ただの学生が、なぜルーファス=ライアン=ラグランジェの不興を買ったのか知りたいね」
 長官は外を見ながら、鷹揚に尋ねかけた。
「娘と仲良くしすぎたからでしょう」
 サイファはさらりと答えた。長官は怪訝な顔で振り向いた。
「つまらない冗談など期待していないのだが」
「いえ、事実ですよ。これ以上のことは、ラグランジェ家の内情に関わることなので、お話できませんが」
 サイファは真顔で言った。その表情を見て、長官はようやく信じる気になった。軽くため息をつき、椅子に腰を下ろした。そして、机に向かうと、肘をついて両手を組み合わせた。
「だとすれば、不憫な話だな。……だが、釈放するわけにはいかんよ」
「私より祖父の方が大きな影響力を持っているから、ですか」
 サイファは長官に振り返り、落ち着いた声で尋ねた。
「そうだ」
 長官はたじろぎもせず答えた。
「あの方の意向に逆らえば、私の首など簡単に飛ぶ」
 強いまなざしで前を見据え、重々しく言葉を落とす。
 サイファは端整な顔を、鋭く引き締めた。青い瞳に小さな強い光が宿った。
「いずれ、あなたよりも祖父よりも、私の方が強大な権力を握ることになりますよ」
「そうなったときには、君のご機嫌を窺うよ」
 長官の声はいたって真面目だった。ゆっくりサイファに振り向くと、口元に不敵な笑みをのせた。サイファは隙のない表情で、同じように笑みを返した。
「こんなときのために、あなたの弱みを握っておくべきでした」
 冗談とも本気ともつかない口調でそう言うと、今度は大きくにっこりと笑ってみせた。
 長官は強い視線を送り、低い声で詰問した。
「君がそこまで彼に肩入れする理由は何だ」
「娘を悲しませたくないんですよ」
 サイファは穏やかに微笑した。長官はそれでもなお、けわしい表情を崩さなかった。
「それだけか?」
 再度、低い声で問いただす。
 サイファの顔から、すっと笑みが消えた。一呼吸すると、静かに話し始めた。
「彼は、私が持ちえなかったものを持っています。だから、それを守ってやりたいと思うのかもしれません」
「……なるほどな」
 長官は椅子の背もたれにもたれかかった。
「君にそう言わしめる彼に、興味が出てきたよ」
 かすかに楽しむような声音だった。天井を見つめ、わずかに口角を上げた。

 ジリリリリ——。
 けたたましく電話のベルが鳴った。長官は身を起こし、素早く受話器をとった。
「はい。……なに? …………わかった」
 そう言い終わると、ゆっくりを受話器を戻した。視線を落としたまま、怪訝な面持ちで眉間にしわを寄せる。
「どうかしたのですか」
 サイファは嫌な予感を押し隠し、平静を装って声を掛けた。
 長官は彼に振り向いて言った。
「君にとっては朗報だ……多分な」

 サイファは再びジークの取調室へ入っていった。
 ジークはパイプ椅子に座りうなだれていた。が、サイファに気がつくと、驚いて立ち上がった。机に手をつき、身を乗り出して、思いつめた表情で口を開いた。
「サイファさん、俺、やっぱり……」
「釈放だ」
「え?」
 ジークはきょとんとした。サイファの言葉がとっさに理解できなかった。
「釈放だよ」
 サイファはもう一度、繰り返した。ジークの表情はみるみるうちに晴れていった。
「ありがとうございます!」
 力いっぱい礼を言うと、大きく頭を下げた。
「私は何もしていない」
 サイファは顔を曇らせた。だが、ジークはそれを謙遜としか受け取らなかった。言いようもないくらい彼に感謝した。
 サイファはけわしい表情でジークを見つめた。
「釈放はされるが、魔導の不正使用については記録に残る。一生、君についてまわることになる。覚悟しておけ」
「……はい」
 ジークは噛みしめるように返事をし、ごくりと唾を飲み込んだ。

 ジークはサイファにつれられて、取調室をあとにした。狭く薄暗い廊下を歩き、広いロビーへと出た。
「ジーク」
 鈴を鳴らしたような声。
 ジークははっとして視線を上げた。息を呑んだ。そこにいたのはアンジェリカだった。彼の真正面に立ち、安堵した表情で目を潤ませていた。
「おかえり」
 ジークはその声を耳にすると、張りつめていたものが一気にとけた。倒れ込むように彼女の肩に額をのせ、腕を掛けて寄りかかった。
「……ただいま」
 あたたかい吐息まじりの小さな声。だが、それで充分だった。彼女にだけ届けばよかった。
 ユールベルは離れたところからその様子を見ていた。ジークは自分の存在にも気づいていない——。そんなふたりに割って入ることなど出来なかった。無言でその場から立ち去った。
 サイファは腕を組み、訝しげに娘を見つめた。
 ——まさか、アンジェリカが……。
 ジークの突然の釈放を知ってから、ずっとその考えが頭にこびりついていた。彼女を目にすると、その疑惑はよりいっそう膨らんだ。杞憂であってほしい。サイファはそう願わずにはいられなかった。