遠くの光に踵を上げて

第82話 決意のゆびきり

 キーン、コーン——。
 終業を告げるチャイムが鳴った。
「今日はここまでだ」
 ラウルは教本を閉じ、脇に抱えた。
「このレポートの提出期限は明日だ。忘れるな」
 生徒たちを鋭く見まわしてそう言うと、大きな足取りで教壇を降り、勢いよく扉を開けた。
「やあ、昨晩はどうも」
 そこにはサイファが待ち構えていた。軽く右手を上げ、にこやかにラウルを見上げている。ラウルは眉をひそめて睨んだ。
「何の用だ」
「おかげさまで風邪ぎみだよ。どうにも仕事に身が入らなくてね」
 ラウルは無言でポケットを探った。小さな白い紙包みをふたつ取り出すと、サイファに手渡した。
「ずいぶんと用意がいいんだな。まさか毒じゃないだろうな」
 サイファはその紙包みを指でつまみ、透かすように高く掲げた。
「こういう用件なら医務室に来い」
 ラウルは苛ついて言った。
 ふたりの会話はクラス中の注目を集めていた。終業後にしてはいつになく静かである。アンジェリカとジークも驚いたように前扉のふたりに目を向けていた。
「いや、おまえに用があるわけじゃない」
 サイファはラウルの肩をポンと叩くと、教室の中へと足を進めた。そして、軽く右手を上げ、にっこりと笑う。
「やあ」
 それはジークに向けられたものだった。ジークは席に着いたまま、不安そうな面持ちで会釈した。
「お父さん、こんなところでラウルと喧嘩しないで。恥ずかしいわ」
 ジークの隣に立っていたアンジェリカは、顔を赤らめながら口をとがらせ、上目遣いで父親を見た。
「喧嘩じゃないよ」
 サイファは優しく微笑み、彼女の頭に手をのせた。
「……ねぇ、お父さん」
「何だい?」
「ジークに何の用なの?」
 アンジェリカは心配そうに尋ねた。黒い瞳がわずかに揺れた。
「たいしたことじゃないよ」
 サイファは笑顔を保ったまま軽く答えた。
「ごまかさないで!」
 アンジェリカは語気を強めて言い返した。真剣なまなざしで、睨むようにサイファを見つめている。一歩も引くつもりはないようだ。
 サイファはふっと表情を緩めた。彼女の横髪に手を伸ばし、撫でるように後ろに流す。そして、あらわになった耳元にそっと顔を近づけた。
「約束は守るから」
 柔らかい声でそう耳打ちをした。それはアンジェリカの疑念に対する答えそのものだった。しかし、それでもまだ彼女の心は晴れなかった。訝しげに顔を曇らせている。サイファは安心させるように大きくにっこりと笑って見せた。
「そう時間はかからないよ。アンジェリカとリックは図書室で待っていてくれ。終わったらジークを行かせるから」
「はい」
 リックは素直に返事をした。だが、アンジェリカは複雑な表情で口を結んだままだった。
「ジーク、行こうか」
「あ、はい」
 ジークは急いで鞄の中に教本を放り込み、サイファのあとについていった。

 ふたりは連れ立って教室を出た。終業直後の廊下は、いつもと変わらず賑やかだった。話し声や靴音、扉の開閉などの雑多な音が交じり合っている。ガラス窓から射し込む光は、だいぶ柔らかくなっているものの、まだ色づいてはいない。
 ラウルはまだ扉の近くに留まっていた。壁にもたれかかり、険しい顔でサイファを睨みつける。だが、サイファは余裕の微笑を返した。
「それじゃあな、先生」
 涼やかな声でそう言うと、立ち止まることなく颯爽と通り過ぎた。ジークはラウルを気にしながらも、遅れないよう足を速めた。
「サイファには深く関わるな」
 背後からラウルの声が聞こえた。ジークははっとして振り返った。ラウルは壁にもたれたまま、無表情でジークに視線を流していた。しかし、目が合うと途端に背を向けた。焦茶色の長髪が大きく波を打った。そのまま早足で立ち去っていく。
「ジーク」
 サイファは足を止め、呼びかけた。ジークは慌てて前に向き直った。後ろ髪を引かれたが、それを振り切り、再びサイファについて歩き始めた。

「アンジェリカ、どうしたの?」
「ええ……」
 リックの問いかけに、アンジェリカは曖昧に返事をした。心ここにあらずという感じである。眉根を寄せ、じっと考え込んでいる。
「図書室、行こうよ」
「ええ……」
 サイファはあのことをジークに告げるつもりではないか、自分が本家を継ぐと決めたあのことを——アンジェリカはそう疑っていた。サイファはジークには知らせないと約束してくれた。今日も約束を守ると言ってくれた。しかし、だとしたら、いったいジークに何の用があるというのだろうか。後ろめたいことがないのなら教えてくれればいい。なのに、ごまかして隠しているのが怪しい。やはり、サイファは嘘をついているのかもしれない。
 アンジェリカは思考を止めた。疲れたようにため息をつく。こんなにも疑り深い自分が嫌になった。自分の父親くらい、どうして素直に信じられないのだろう。
「ねぇ、アンジェリカ?」
 リックは心配そうに覗き込んだ。あまりにも上の空なので、肩を揺すってみようか迷った。
 ——お父さんのこと、信じるわ。
 アンジェリカは自分の気持ちを決めた。顔を上げると、にっこりとリックに微笑んだ。
「行きましょう、図書室」
 ようやく返ってきたまともな反応に、リックは安堵しながら頷いた。

 ジークが連れてこられたのは、薄暗い部屋だった。ただでさえあまり広くないにも拘らず、ロッカーや段ボール箱が多く、また、乱雑に取りとめなく物が散らばっていて、人が立てる場所はますます少なくなっていた。わずかに埃っぽく感じる。倉庫だろうか、とジークは思った。
 サイファはロッカーのひとつを開け、ハンガーに掛かった服を取り出した。それは濃青色の上下だった。サイファが身に着けている魔導省の制服と同じもののようだ。
「君の制服だよ」
「えっ?」
 ジークは素っ頓狂な声を上げた。サイファはにっこりと笑った。
「背格好は私と同じくらいだから、おそらくこれで大丈夫だろう。着てみてくれるか。合わなければ調整するか取り替えるかするから」
 そう言いながら、押しつけるようにそれを渡し、ふたりの間に仕切りのカーテンを引いた。
 ジークはとまどいながら、腕の中の制服を眺めた。
「ずいぶんと早いんですね。まだ何ヶ月も先なのに」
「その間に成長したら、ちゃんと取り替えてあげるよ」
 薄いクリーム色のカーテンの向こうから、冗談めいた声が返ってきた。確かに、もうそれほど成長するような年齢でもない。ジークは苦笑しながら着替え始めた。

「実は、これは単なる口実でね」
 サイファは静かに切り出した。
 ジークは手を止めた。仕切りのカーテンに目を向ける。サイファの影が薄く映っているのが見えた。腕を組んで、壁にもたれかかっているようだ。表情を窺えないのがもどかしい。
「本当は、君に話しておきたいことがあって来てもらったんだ」
「何ですか?」
 ジークはカーテンを開けた。まだ上着を脱いだだけの状態だ。不思議そうな顔でサイファを見ている。
 サイファはそんな彼を見て、にっこりと微笑んだ。
「着替えをしながら話そう」
「あ、はい」
 ジークはカーテンを閉め、言われるままに着替えの続きを始めた。
「ジーク」
「はい」
「アンジェリカのことは好きか?」
 不意打ちにも近い、唐突の質問だった。ジークの心臓は大きく打った。痛いくらいに強く膨張と収縮を繰り返す。頬が火照り、額に汗がにじんだ。しかし、迷いはなかった。
「はい、好きです」
 噛みしめるように答える。
「ありがとう」
 サイファの声は優しかった。だが、次の瞬間には、鋭く険しいものに変わっていた。
「これから話すことは、アンジェリカに口止めされている」
 ジークの顔から熱が引いた。何か、嫌な予感がした。
「だが、やはり君に知らせないわけにはいかないと思ってね」
 サイファは淡々と話を続ける。
「アンジェリカの前では知らないふりをしてほしい。出来るか?」
 ジークは難しい顔で考え込んだ。アンジェリカが口止めしている話を聞くことは、彼女を裏切ることにならないだろうか——そんな疑問が頭をもたげた。断ろうか迷った。だが、話の内容は気になる。サイファの口調からすると、相当に重要なことのようだ。口止めされていることをあえて話すのは、それなりの理由があるからに違いない。聞かなければ後悔するかもしれない。
「……はい」
 迷ったすえ、低い声で返事をした。知らないふりなどという器用なことができるか自信はなかったが、話を聞くためには肯定するしかなかった。
「くれぐれも頼むぞ」
 カーテンに映ったサイファの影が少しだけ動いた。
「では、話そう」
 ジークは固唾を呑んだ。サイファは表情を引き締め、ゆっくりと口を開いた。
「アンジェリカはラグランジェの人間と婚姻し、ラグランジェ本家を継ぐ。彼女自身がルーファスとそう約束した。彼女が自由でいられるのはアカデミーを卒業するまでだ。それ以降は君と会うことも敵わないだろう」
「……えっ?」
 ジークはすぐにはその話を理解できなかった。いや、頭が理解することを拒絶したのかもしれない。鼓動が早鐘のように打っていた。頭の中が強く脈打っていた。汗が頬を伝った。そして、ようやく理解が追いついた。
「そ、んな……嘘だ!!」
 ジークはカーテンを引きちぎらんばかりの勢いで開け、叫びながら飛び出した。まだ着替えはほとんど進んでいない。上半身の服を脱いだところのようだった。
 サイファは無表情で彼を見た。
「いや……あの……冗談、ですよね?」
 冷めた視線を向けられ、ジークは途端に萎縮した。しどろもどろになりながら、自分のきつい言葉を取り繕うように尋ね直した。
「本当だよ」
 サイファは素っ気なく言った。
「どうしてだと思う?」
「……わかりません」
 ジークは唇を噛み締めうつむいた。本当に見当もつかなかった。
「君のためだよ」
「え……?」
 ジークは大きく目を見開いた。サイファは彼の瞳を奥まで覗き込むように見つめた。
「君を助けるために、アンジェリカはその条件を呑んだんだ」
「俺を、助ける……?」
 ジークは眉をしかめて考え込んだ。そして、はっとして顔を上げた。
「まさか、あのとき?!」
「そう、君がルーファスの家で騒ぎを起こしたときだよ。おかしいと思わなかったか? すぐに釈放されて」
 サイファはじっとジークを見据えて言った。ジークは責められているように感じた。確かにあのとき不思議に思った。なのに、なぜ気がつかなかったのだろうか。なぜ深く考えなかったのだろうか。
「俺のせいで……」
 ジークは歯を食いしばり、こぶしを強く握りしめた。爪が食い込んでいたが、痛みなど気にならなかった。
「俺が……俺が何とかします。俺がやめさせます!」
 思いつめた表情でサイファに詰め寄り、懸命に訴える。そんな彼を、サイファは右手で制した。
「いつまでも裸でいると、君も風邪をひくぞ。着替えながら話そう」
「……はい」
 ジークは勢いを削がれ、肩を落としてカーテンの向こうに戻った。ゆっくりカーテンを閉めると、真新しい白いシャツを手に取った。
「君は何とかすると言ったが、いったい何をするつもりだ?」
 サイファの落ち着いた声が背後から聞こえた。ジークは眉根を寄せた。
「それは……これから考えます」
「勝てると思うか」
「やってみないとわからないです」
 ジークはシャツの袖に、乱暴に腕を通した。こんな返答しかできない自分が、無性に腹立たしかった。何とかする——今まで何度もそう思ったのに、具体的に何をすべきか未だに見いだせていない。それは、本気で考えていなかったからに他ならない。常に受け身だった。自分の不甲斐なさをあらためて痛感した。
 サイファは目を細めて遠くを見やった。
「君もそろそろ大人になってもらわないとね」
「それは、あきらめろ……ってことですか」
 ジークは湧き上がる激しい感情を抑え、努めて冷静に尋ねた。
「諦めを知ることは大人への入口に過ぎない。何を諦め、何を諦めるべきでないか——それを見極められるのが、本当の大人だ」
 サイファは真摯に答えた。
 ジークは握りこぶしをぐっと胸に押し当てた。
「これは、俺にとって、あきらめてはいけないことです」
「感情に流された結論は、見極めたとはいわない」
 サイファは冷淡に指摘した。ジークは返す言葉がなかった。強く唇を噛み締めた。
「君は、自分のしようとしていることが正しいと思うか」
 サイファは再び問いかけた。ジークは声の方へ向き直った。
「当然です! アンジェリカが望んでもいない、こんなこと……」
 カーテンに映る影に、むきになって答える。カーテンが微かに揺れ、それに沿って影も揺らいだ。
「彼女は望んだよ。自分でそうすることを選んだんだ」
「それは、仕方なく……俺のせいで……」
 ジークの声はみるみる沈んでいった。
「家のために望まない婚姻に身を委ねるなど、そうめずらしい話でもない。私とレイチェルの婚姻も、そもそもは親どうしが決めたものだ。そうやって家が護られ、伝統が護られ、この国が護られてきたんだ」
「誰かを不幸にしなければ護れないものだったら、無い方がいいです」
 ジークはまっすぐに言った。サイファは小さくふっと笑った。
「君のそういうところは好きだよ。でも、そう簡単にはいかない」
「サイファさんはどうすべきだと思ってるんですか」
「何事も0か1というわけではないからね。どこかで折り合いがつけられることもある。アンジェリカは不幸にはならないよ」
「え?」
 ジークは奇妙な面持ちで眉をひそめた。
「最初こそ寂しい思いをするだろうが、その生活の中で幸福を見つけていくだろう。もしかしたら、君といるよりも大きな幸福を得られるかもしれない」
「それって、どういう……」
 ジークの顔がこわばった。
「君が思うほど、人も世界も単純ではないということさ。手は動かしているか?」
「あ、いえ……」
 ジークは慌てて濃青色の上衣を手に取った。さっと袖を通し、前を閉じる。だが、その手は次第に動きを止めていった。
「ひとつ忠告するならば、自分の行うことを正しいなどと思わないことだ」
 サイファは凛然と言った。ジークはゆっくりと顔を上げた。困惑したように目を細める。
「正しいか否かの議論では、君は必ず負ける」
 サイファは厳しく断定した。
「君自身もわかっていると思うが、君は正義のためにやろうとしているわけではない。ただ身勝手な望みを実現させようとしているに過ぎない。そのことを認め、下手な理論武装はやめるべきだ」
 その鋭い指摘は、ジークの胸に深く突き刺さった。サイファは軽く息を継ぐと、幾分、語調を和らげた。
「たとえ正しくなくとも、すべてを敵にまわそうとも、迷わずにやり通すくらいの気概がなければ、君に勝ち目はないよ」
 ジークは少し怯んだ。簡単にいかないことくらい、わかっているつもりだった。だが、もしかしたら、本当は何もわかっていなかったのかもしれない。自分が進もうとしている道は、想像もつかないほど険しいのだろう。しかし——。
「よく考えるんだ。後悔のないようにな」
 サイファは優しく諭すように言った。
「俺はあきらめません」
 ジークは低く落とした声で即答した。それは、どれだけ考えても、何が起ころうとも、変えようのない強い意思だった。
 サイファは口元を緩めた。
「君の決意はわかった。着替えているかい?」
「あっ……」
 ジークはすっかり手が止まっている自分に気がつき、思わず声を上げた。これで何度目だろう。どうも、考えることと手を動かすことが同時にできないようだ。顔を赤らめながら、また着替えにかかった。
「このまま何の取っ掛かりもない状態では、君もどうしていいかわからないだろう。いくつか質問を受け付けるよ。答えられる範囲で私が答えよう。そうでないとフェアじゃないからね」
 ——フェア?
 ジークはその言葉に軽い引っかかりを覚えた。だが、それはすぐに意識の奥深くへ沈んでいった。代わりにサイファに尋ねたいことが、次々と浮上してきた。頭の中で整理をする。
「質問、していいですか?」
 顔を上げ、カーテンに映る影に向かって尋ねる。
「どうぞ」
 サイファは短く答えた。どこか楽しんでいるふうな声音だった。ジークはごくりと唾を飲み、口を開いた。
「アンジェリカの髪と瞳の色は関係ありますか」
「そうだね……」
 サイファは相槌を打つと、一息おいて話を続けた。
「色がどうだからというわけではないけれど、そうなった原因は関係するね」
 ジークは緊張しながら、さらに踏み込む。
「その原因は何ですか」
「それは答えられない質問だ」
 サイファはきっぱりと言った。以前と同じ答えだった。知らないから答えられないのか、知っているが都合が悪いので答えられないのか、どちらだろう——。ジークは後者ではないかと思った。根拠はないが、確信に近いものを持っていた。
「遺伝子……が関係しますか」
 ずっと気になっていた単語をぶつけてみる。
 サイファは少し間をおいてから、静かに答えた。
「いいところを突いてきたね。さあ、次の質問は何だ」
 間髪入れず、次を促す。もうこの話題は終わりにするという意思表示なのだろう。それは、核心に近づいた証左とも取れる。
「これで終わりか?」
「いえっ」
 ジークは慌てて声を上げた。続けて質問を口にしようとして、一瞬、躊躇った。耳元をほんのり赤く染める。
「……あの……アンジェリカの婚約者は誰ですか」
 サイファはくすりと笑った。
「まだ決めていないんだ。ラグランジェの人間なら誰でもいいことになっている。君は誰がいいと思う?」
「えっ?」
 思いもよらない逆質問に、ジークは凍りついたように固まった。
「君に決めてもらってもいいかなと思っているよ」
 サイファの声は穏やかだった。冗談なのか本気なのか、ジークには判別がつかなかった。泣きそうに顔を歪ませ、奥歯を噛みしめる。
「他に質問はあるか?」
 サイファは軽快に尋ねた。ジークはきゅっと眉根を寄せた。
「サイファさんは味方ですか? それとも……」
 そこで言葉を切った。それ以上は口にできなかった。
「私はアンジェリカの幸せを願っている。ラグランジェの人間として生きるのもひとつの道だろう。現状では、それが最も平和的な解決方法だね」
 サイファは淡々と答えた。ジークは黙って彼の言葉を噛みしめた。
「だからといって、君が起こそうとしている行動を阻害したりはしない。君は君で、信じる道を進めばいい」
「わかりました」
 ジークは沈んだ声で答えた。

 シャッ——。
 カーテンが開き、濃青色の制服に身を包んだジークが、サイファの前に姿を現した。うつむき加減に視線を落とし、ふさいだ表情で立ちつくしている。
「いいね、ぴったりだ」
 サイファはにっこりと微笑んだ。すっとジークへ歩み寄ると、外れていた詰襟のフックを掛けた。彼の細い指が首筋に触れ、ジークはどきりとした。思わず顔を横に向ける。そのとき、不意にガラス窓に映った自分の姿が目に入った。
「なんか、変……ですよね。似合ってませんよね」
 弱気につぶやくように尋ねかける。
「すぐに馴染むさ。そうなってもらわないと困るしね」
 サイファは笑いながらジークの肩に手を置いた。ジークにはその手がとてつもなく重く感じられた。この制服が似合う人間になれ、ということをサイファは言っているのだろう。今の自分には、そんな自信はまるでなかった。
 サイファは腕時計に目を落とした。
「今日はこれで終わりだ。アンジェリカたちが待っている。行ってやってくれ」
「はい」
 ジークは再びカーテンを引こうとした。だが、その手をサイファが掴んだ。そして、にっこりと微笑みかける。
「このままだよ」
「え?」
 ジークはきょとんとした。
「このまま図書室へ行って、アンジェリカたちに制服姿を見せるんだ」
「え、どうして……」
「アンジェリカは、私が約束を破るのではないかと疑っているからね。違う理由で君を呼んだと信じさせなければならない」
 サイファは論理的に説明した。
 ジークはうろたえた。サイファの言い分はよくわかったが、問題はそこではない。
「だからって、これで歩きまわるのはまずいんじゃ……まだ働いてもいないのに……」
「誰も気づかないと思うよ。もし何か言われるようなことがあれば、私の名前を出せばいい」
 サイファは事も無げに言った。ジークはもう反論することができなかった。従うしかないと思った。あきらめたように気弱な笑顔を浮かべた。

 ジークはきょろきょろと廊下を見まわしながら外へ出た。幸い、近くには誰もいない。ひとまず、ほっと胸を撫で下ろした。
「くれぐれも勘づかれないよう頼むよ」
 サイファも部屋を出て、扉を閉めた。
「アンジェリカは君を巻き込みたくないと思っている。そして、残された自由な時間を普通に過ごしたいと願っているんだ。そこを汲んでやってくれ」
「わかりました」
 ジークは一礼すると、鞄を胸元に抱え、顔を伏せるようにうつむきながら戻っていった。

 サイファは彼の背中を見送った。
 ——苛めすぎたかな。
 扉にもたれかかり腕を組むと、小さく息を吐いた。少し頭がぼうっとしている。熱が上がってきたようだ。ポケットに手を入れ、ラウルからもらった薬の存在を確かめた。

 ガラガラガラ——。
 図書室の扉が開いた。アンジェリカとリックは、何気なくそちらに目を向けた。その瞬間、ふたりはぽかんと呆気にとられた。
「ジーク、どうしたのそれ」
 アンジェリカは上から下まで眺めながら尋ねる。
「ああ、なんか制服のサイズ合わせだったみてぇだ」
 ジークはぎこちなく笑った。アンジェリカはため息をつき、白い目を向けた。
「だからって、そのまま来ることないじゃない。いいの? そんな格好で歩きまわっても」
 リックは頬杖をついて笑った。
「アンジェリカに見せたかったんだよ、きっと」
「ば……違うって!!」
 ジークは顔を真っ赤にして、あたふたと否定した。
「どう? 感想は」
 リックはそんな彼を無視して、楽しそうにアンジェリカにマイクを向ける振りをする。アンジェリカはじっとジークを見ながら、わずかに首を傾げた。
「なんだか不思議な感じ」
 ジークは力なく笑った。
「やっぱ似合わねぇよな」
「そんなことはないわ。見慣れていないだけで、悪くないわよ」
「そうだよね。ジークはいつもラフな格好だから」
 リックも重ねてフォローする。
「自信なさそうにしているからいけないのよ。もっと背筋を伸ばした方がいいと思うわ」
 アンジェリカはにっこり笑いかけた。
 ジークは胸が締めつけられた。彼女の笑顔が痛かった。しかし、それを表情に出すことは許されない。
「おまえら俺のことばっか言ってねぇで、自分のこと考えろよ。就職活動、ちゃんとやってんのか?」
 ごまかすように、無愛想にそう言うと、ふたりの前の席に腰を下ろした。
「僕はもうすぐ決まりそうだよ。たぶん大丈夫だと思う。アンジェリカは?」
 リックは隣の彼女に話を振った。
「うん……私は、いいの」
 アンジェリカは歯切れが悪かった。
「今だと年齢のせいで難しいから、やっぱり四年後にしようかなって」
 取り繕うように付け加えると、肩をすくめて笑った。
「じゃあおまえ、卒業したら何するつもりなんだ」
 ジークは頬杖をつき、目をそらせて尋ねた。
「これから考えるわよ」
 アンジェリカは口をとがらせた。
「気楽なもんだな」
 ジークはぶっきらぼうに言った。アンジェリカは少し顔を曇らせただけで、何も言わずうつむいた。
「ジーク、言い過ぎだよ」
 リックは眉をひそめてたしなめた。
 ジーク自身も十分にわかっていた。きっとリックが思う以上に言い過ぎている。サイファから本当のことを聞いた今の自分なら、彼女の答えが嘘であることも、どんな思いでこの嘘をついているのかも、察することは容易だった。なのに、なぜこんなひどいことを言ってしまったのだろう。
「悪かった」
 ジークは素直に謝った。アンジェリカはうつむいたまま小さく頷いた。その表情は、何かを必死にこらえているように見えた。
「……なぁ」
 ジークは少しためらいながら声を掛けた。慎重に言葉を選びながら紡いでいく。
「俺らの関係は、卒業してもずっと切れることなく続くんだ。そうだろう?」
 アンジェリカはどきりとした。だが、すぐに笑顔を作って見せる。
「なに? どうしたの、急に。もう感傷に浸っているの?」
 軽く、明るく、からかうように問いかけた。しかし、ジークは真顔のままだった。立てた小指を彼女に差し出す。
「えっ?」
「約束」
 アンジェリカは動揺を見せた。
「そんな子供じみたことって、いつもジークが言っているのに……」
「いいだろ、たまには」
 ジークは掲げた小指を、さらに彼女の鼻先に近づけ催促した。アンジェリカは仕方なく、おずおずと小指を出した。ジークはそれに自分の小指をがっちりと絡ませた。
 ——必ず、俺がおまえを自由にしてやるから。もう少しだけ待っててくれ。
 心の中で強く語りかける。
「約束、したからな」
 ジークは真剣な顔で、まっすぐ彼女を見つめた。つないだままの小指は、互いに熱を帯びている。アンジェリカは漆黒の瞳をわずかに潤ませた。小さな口が微かに動いたが、何も言葉は出てこなかった。