遠くの光に踵を上げて

第89話 伸ばした手の先

 ユールベルは机に頬杖をつき、窓越しに空を見上げた。午前中よりも雲が厚くなっているような気がする。傘を持ってこなかったが、帰るまでもつだろうか——ぼんやりとそんな心配をした。
 授業がつまらないわけではなかったが、丁寧すぎる担任の解説は、彼女をときどき退屈にさせた。もっとも、レオナルドはそれでもついていくのがやっとである。担任の進め方が間違っているわけではないのだろう。
 ガラガラガラ——。
 ノックもなしに、引き戸が開けられた。
 授業中の担任と生徒たちは、いっせいにそちらに目を向けた。扉を開いたのは、見知らぬ男だった。アカデミーの教師でも生徒でもなさそうだ。
「ユールベル=アンネ=ラグランジェはいるか」
 男は教室を見まわしながら尋ねた。
 ユールベルは怪訝な顔で手を挙げた。見ず知らずの男に、なぜ自分の名前が呼ばれているのか、まるでわからなかった。頭を巡らせてみたが、思い当たる節はない。
「一緒に来てください」
 男は丁寧な口調で言った。
 ユールベルはますます訝った。授業中に呼びつけるなど、よほど重要なことに違いない。だが、やはり何も思い当たることはない。まさか、アンソニーに何か——一瞬、不吉な考えが頭をよぎった。そんなはずはないと、懸命にその思考を振り払う。
「ユールベル」
 男は急かすように名を呼んだ。
 ユールベルは不安そうな面持ちで立ち上がり、男に促されるまま教室を出た。扉が閉められ、彼女の姿が見えなくなる。
 レオナルドは弾けるように立ち上がった。
「おい、レオナルド! どこへ行くつもりだ!」
 担任が呼び止めたが、完全に無視をした。振り向きもせず堂々とその前を横切り、彼女を追いかけ教室を飛び出していった。

 ユールベルは、応接室の前へ連れてこられた。どうやらこの中で何かがあるらしい。二年以上、アカデミーに通っているが、ここに入るのは初めてだった。
 男が扉を開いた。
「姉さん!!」
 応接室のソファに、弟のアンソニーが座っていた。彼女の姿を見るなり立ち上がり、落ち着かない様子で駆け寄ってきた。
「アンソニー、どうしてここに……」
 彼が元気そうなのでとりあえずは安堵したが、アカデミーになぜ彼まで呼ばれたのか不思議だった。
「ふたりとも、掛けて」
 応接室の中にいた年配の男性が、ソファを示しながら言った。彼も教師ではないようだ。おそらく王宮の関係者だろう。サイファのものと似たような濃青色の制服を身に着けている。
 ユールベルは、自分より背の高くなった弟の手を引きながら、中へと足を進めた。並んでソファに腰を下ろすと、睨むように目の前の男を見た。
「何の用なの?」
「単刀直入に言います」
 男性は膝の上で手を組み合わせ、真剣な表情をふたりに向けた。
「あなた方の母親が重傷を負い、入院しています」
「え…? どういうことですか?」
 アンソニーが身を乗り出して尋ねた。
「本日昼頃、ルーファス=ライアン=ラグランジェ宅で大規模な爆発が起こりました。それに巻き込まれたようです」
 ユールベルはうつむき、無言で立ち上がった。長い横髪が肩から滑り落ち、顔に陰を作る。何かをこらえるように固く結ばれたこぶしは、体の横でわずかに震えていた。
「私たちに、親はいません」
 小さな口を開き、重々しくそう告げる。そして、いまだ座っている弟の手首を掴み、乱暴に引いた。
「待ってよ、爆発に巻き込まれたって……」
 アンソニーは手を引っ張られたまま、それでも立ち上がろうとしなかった。困惑した顔で姉を見上げる。
 彼女の表情には、焦りと怒りが滲んでいた。
「他人よ、関係ない」
「僕らの母親だよ」
「違う」
 ユールベルはぎゅっと心臓を鷲掴みにされたように感じた。弟はまだあの人のことを母親だと思っている——そのことがたまらなく悔しく、そして怖かった。
「姉さん、僕は、やっぱり気になるよ」
 アンソニーは、ユールベルがどう思っているかは察していた。それでも、母親の様子を知りたい、見に行きたいという思いは消せなかった。もし、このまま会わずに母親が死んでしまうようなことがあれば、きっと一生後悔してしまうだろう。
「どうして? せっかく忘れかけていたのに……」
 ユールベルの右目は、今にも泣き出しそうに潤んでいた。その悲しげな瞳は、アンソニーの胸を深く貫いた。一瞬、気持ちが揺らいだ。だが——。
「ごめん、僕は、やっぱり母さんのところへ行くよ」
「勝手にすればいいわ」
 ユールベルは、涙をこらえた声で、突き放すように言った。そして、掴んでいた手首を離すと、足早に応接室をあとにした。

 戸口にはレオナルドがいた。話を立ち聞きしていたのだろう。心配そうな顔を彼女に向けたが、声は掛けなかった。早足で歩く彼女のあとを、ただ無言でついて歩く。
 彼女は教室には戻らなかった。昇降口から外に出る。せり出した厚い雲が、昼下がりの強い日差しを遮り、どんよりと重く湿った空気を作っていた。
 アカデミーの門を出たところで、彼女は不意に足を止めた。
「どこまでついてくるの?」
 後ろのレオナルドに、振り返らないまま尋ねる。
「家に帰るんだろう」
「駄目、来ないで」
 語気を強くしてそう言うと、振り切るように、よりいっそうの早足で歩き始めた。緩やかなウェーブを描いた長い金髪が、頭の後ろで結ばれた白い包帯と絡み合うように揺れる。
 レオナルドは彼女の嘆願を聞き入れなかった。遅れることなくついていく。
「今にも壊れそうなおまえを、ひとりにはできない」
「もう、あなたを利用したくない」
 ユールベルはかすれた小さな声で言った。
「俺は利用してくれて構わない。それだけでいい」
「私が、駄目になるの」
 苦しげにそう言うと、足を止めた。ゆっくりと振り返り、レオナルドの青い瞳を見つめる。
「お願い、ひとりになりたいの」
「ユールベル……」
 レオナルドは手を伸ばした。彼女を抱きしめようとする。
 しかし、ユールベルは拒絶した。顔をそむけ、手を伸ばし突き放す。一歩、二歩と後ずさると、くるりと背を向けて走り去った。長い髪が大きく波を打ってなびいた。
「ユールベル……」
 レオナルドは追いかけることが出来なかった。足が、地面に根を下ろしたように動かない。小さくなる後ろ姿を見つめながら、ただ彼女の名前をつぶやくしかなかった。

 ユールベルは自宅に帰った。ガラス窓に寄りかかり、崩れるように座り込むと、ぼうっと空を見上げた。灰白色の雲が緩やかに流れていく。

 そのまま、数時間が経った。
 彼女はずっと動かず、窓際に座り込んでいた。いまだにぼんやりとしている。すでに陽は落ち、空は濃紺色に塗り替えられていた。部屋も暗くなっていたが、灯りはつけていない。
 はぁっ……。
 彼女は息を吐いた。いつになく寒く感じる。気のせいかもしれない。自分の心が、そう感じさせているのだろうと思った。
 ——バルタスもアンソニーも、私ではなくあの人を選んだ。
 その事実が彼女の心を蝕んだ。大きな穴が開いたように感じた。焦がれるように痛く、そして寂しい。
 バルタスはともかく、アンソニーだけは自分を選んでくれると信じていた。だが、その幻想は見事に打ち砕かれた。しかし、冷静に考えれば考えるほど、この結果が当然のことのように思えてきた。自分は選んでもらえるような人間ではないのだ。そんなことはわかっていたはずなのに、どうして忘れていたのだろう。
 手足が冷たくなってきた。痺れたように感覚が薄い。これも気のせいなのだろうか。
 不意に、空から白いものが舞い降りてきた。
 ——雪?
 凍てついた涙と呼ばれる、白い小さな雫。三年前にも目にしている。閉じ込められた二階から、結界ごしに見ていた。今の状態とそれほど変わらない。あの頃は、自分の行動を奪う結界がなければ、もっと自由に生きられると思っていた。だが、自分の心は、いまだに過去に囚われたままである。

 ガチャッ。
 玄関の扉が開く音が聞こえた。
 ユールベルはびくりとした。確か、鍵は掛けたはずだった。一瞬、レオナルドかと思ったが、鍵はとうの昔に返してもらっていた。
「姉さん? いないの?」
 廊下から聞こえてきたその声は、よく知っているものだった。聞き違えるはずはない。
 でも、いったいどうして……?
 ユールベルはわけもわからず、声のする方に目を向けた。
 リビングルームの扉を開けて入ってきたのは、まぎれもなく弟のアンソニーだった。彼は、暗がりの中に姉の姿を見つけると、ほっとしたように息をついた。
「良かった、いたんだ」
 そう言いながら、パチンとスイッチを入れた。部屋に人工的な灯りが満ちた。
 ユールベルはまぶしさに目を細めた。
「真っ暗だったからビックリしたよ。帰ってないのかと思って心配しちゃった」
 アンソニーは、あどけなさの残る笑顔を見せた。
「まだそんな格好をしてたんだ。寒くないの?」
 ユールベルの隣に座り込むと、細い指先を取り、優しく包むように握りしめた。
「アンソニー……?」
 ユールベルはとまどったように呼びかけると、下を向いている彼を見つめた。
「だいぶ冷えてるね」
 アンソニーはぽつりと言った。そして、自分のジャケットを脱ぐと、彼女を抱き込むようにして羽織らせた。華奢な彼女にとっては、大きいくらいのものだった。一緒に暮らし始めて以来、成長期の弟は驚くほど背が伸びていった。身長はもう追い越されている。
「なんか、結界に穴が空いたらしくて、これからもっと冷え込むって」
 ユールベルの肩に手を置いたまま、ガラス越しに空を見上げる。空からは、白い雪がひらひらと舞い降りていた。その数は次第に増してきているようだ。
「夜ごはん、まだだよね。温まるものを作るから」
「どうして……戻ってきたの?」
 ユールベルは不思議そうに尋ねた。どことなく、怯えているようだった。
 アンソニーは質問の意味がわからず、きょとんとした。
「どうしてって、ここ、僕の家だよ? 僕と姉さんの家」
「あの人のところに行ったんじゃ……」
「心配だから様子を見てきただけなんだけど……もしかして、僕が母さんと一緒に暮らすことになったと思ったの?」
 ユールベルは返事の代わりに涙をこぼした。真珠のようなきれいな丸い雫が、頬をかすめて落下し、彼の手の甲で弾けた。
 アンソニーは肩をすくめて笑った。母親からは、新しい家で一緒に暮らそうと、しつこいくらいに懇願された。だが、それははっきりと断ってきた。
「心配しないで、僕はどこにも行かないから」
 ユールベルはうっと声を詰まらせ、彼に縋りついて泣いた。右目からあふれる涙が、白いシャツを濡らしていく。
 アンソニーは、小さい子供をあやすように、彼女の頭に優しく手を置いた。

 翌日、ターニャがユールベルたちの家へ遊びにきた。
 話題は昨日の爆発のことだった。巻き込まれた人々の多くがラグランジェ家の人間だったと知り、その中にユールベルたちの家族がいたのではないかと心配をしていたらしい。どうやら、遊びにきたというよりも、そのことを聞くために来たという方が正しいようだ。
「はい、母親が巻き込まれました」
 ターニャの問いかけに、アンソニーはいたって落ち着いた様子で答えた。
「え? ホントに?」
 ターニャは目を丸くし、白い息を混じらせながら言った。飲みかけの紅茶を机に戻す。自分で質問しておきながら、そんなことはないだろうと心のどこかで思っていたのだろう。
「うちは爆発が起こったところのすぐ近くだったんです。父さんは仕事で家にいなかったけど、母さんは家にいたから……」
 アンソニーは淡々と説明した。
「それで、無事なの?」
「命に別状はないそうです。骨折だけって聞きました」
「そう、よかった」
 ターニャはほっと胸を撫で下ろした。はっきり言えば、あの母親のことは嫌いだった。一度会っただけだが、恐ろしく印象は悪かった。それでも、知った人間が亡くなるというのは、気持ちのいいものではない。
「やめて、あの人の話は……」
 ユールベルは弱々しい声で、ぼそりと言った。ソファの上で膝を抱え、顔を曇らせている。
「あ……」
 ターニャは配慮が足りなかったと反省した。この姉弟と母親の事情は、少しは知っているつもりだった。アンソニーはともかく、ユールベルはいまだに異常なほど母親を怖れている。彼女の前でする話ではなかった。
「ごめんね」
 素直に謝罪の言葉を口にすると、ユールベルの隣に移動する。そして、安心させるように彼女の肩を抱きながら、そっと寄りかかった。
 ユールベルは気を持ち直しかけた。寮のときから、彼女はいつもこうやって温もりをくれた。初めは馬鹿なことと思ったが、案外これで落ち着いた。彼女の気持ちが嬉しかったのかもしれない。
 だが、そのとき——。
「でも、逃げてばかりじゃ、何も変わらないんじゃないかなぁ」
 出し抜けに、ターニャがそうつぶやいた。ほとんど独り言のようだった。そのときの彼女の目は、ここではないどこか遠くを見ていた。
 ユールベルは体をこわばらせた。
「わた……し……」
 震えながら、細くかすれた声を漏らす。膝に顔を埋め、厚手のスカートの裾を、何かをこらえるようにきつく掴んだ。
 ターニャははっと我にかえった。
「あ、ごめん! 今の忘れて!」
 勢いよくそう言うと、ユールベルをぎゅっと抱きしめた。今日二回目の失態だ。顔をしかめながら、激しく自分を責めた。
 ユールベルは、ターニャの腕の中で、彼女の言葉をぼんやりと反芻した。

 それから一週間が過ぎた。
 事故から二、三日ほど雪が降り続き、この世界は一面、白色に覆われたが、それ以降は新たに降ることはなかった。だが、まだ冷え込みは続き、地面には固くなった雪が残っている。

 ユールベルは、半分凍りついた雪を踏みしめながら、大きな建物を見上げた。
 アンソニーはあれから何度かユリアの見舞いに行っていた。そのたびに、もう帰ってこないのではないかという不安に押しつぶされそうになった。だが、行くなとは言えなかった。ただ、祈りながら彼の帰りを待つだけだった。
 彼は必ずここへ帰ってくると言っている。その言葉を信用していないわけではない。だが、どうしても、怯える心は止められなかった。
 ——逃げてばかりでは、何も変わらない。
 ユールベルは表情を引き締め、足を踏み出した。ジャリ、と氷の砕ける音がした。

「良かったわ、レイチェルが元気になって」
 アルティナはカラリと笑って椅子に座った。
 ベッドのうえで上半身を起こしたレイチェルも、穏やかに微笑みを返した。萌黄色の寝衣に、厚手のカーディガンを羽織っている。現在、病棟にはある種の結界が張られており、そこそこの暖かさが保たれていた。そのため、毛布にくるまるような必要はなくなっていた。
 アルティナは、サイファから大体の事情を聞いていた。爆発事故を起こしたのはレイチェルの魔導が原因であることも、そのせいで父親が亡くなってしまったことも——。
 レイチェルは事故から三日ほどの間、ほとんど口を開くこともなく、壊れたように動かなかった。ベッドに横になったまま、生気のない表情でぼんやりしているか、眠っているかのどちらかだった。
 しかし、次第に表情を取り戻し、一週間が過ぎて、ようやく起き上がれるまでになった。
 アルティナは素直にそのことを喜んだ。まだ心の傷が癒えたわけではないだろう。だが、彼女はあえて普段どおりに接した。こういうとき、まわりに必要以上に気を遣われるのが、何よりもつらいはずだと思ったからだ。
「今度は子供たちも連れてくるわね……って、その前に退院しちゃうかしら」
 そう言って、あははと笑う。
「ね? いつから復帰できるの?」
「そのことなんだけど……」
 レイチェルは遠慮がちに前置きした。
「何?」
 アルティナは軽い調子で続きを促した。一瞬、嫌な予感がしたが、無理やり心の隅に追いやった。
 レイチェルは表情を硬くして、彼女を見上げた。
「私、辞めさせてもらおうと思っているの」
「なっ……辞める?! 何を言いだすの?! ふざけないで!!」
 アルティナは取り乱したように叫んだ。椅子を蹴飛ばすように立ち上がり、ベッドに手をつくと、正面から彼女に顔を突きつける。
 だが、レイチェルは冷静だった。すぐ近くまで寄せられた顔に引くこともなく、薄い微笑みを見せる。
「本気で言っているのよ」
「あれは事故なのよ?! あなたが悪いわけじゃない。責任を取る必要なんて……」
「そうじゃないの、聞いて」
 落ち着いた声でそう言うと、まっすぐに視線を向けて理解を求める。
 アルティナは澄んだ瞳に気圧され、言葉をなくし口をつぐんだ。倒した椅子を起こし、静かに座る。それは、彼女の話を聞くという意思表示だった。
 レイチェルは真剣な表情で口を切った。
「私は自分の力を制御することができない。このままでは、いつかアルティナさんも巻き込んでしまうかもしれないの」
 しっかりとした口調で、ひたむきに説明する。
 だが、アルティナは納得しなかった。
「今まで十年間、何事もなかったじゃない」
「今後もないって保証はないわ」
「そんなものいらない!」
 冷静なレイチェルの言葉に、彼女は全力で反論した。感情が昂り、声が大きくなっていく。
「未来を保証するものなんて、あるわけないじゃない!」
「私は、アルティナさんを大切に思っているから……」
「大切に思ってくれているなら傍にいて。万が一、今回みたいなことが起こって、巻き込まれて命を落とすことがあっても、私は本望よ。レイチェルを恨まないし、後悔もしない。私が軽い気持ちで言ってるんじゃないってことは、わかってくれるわよね」
 レイチェルの両肩に手をかけ、覗き込むようにして熱く見つめる。その瞳からは強い決意が見てとれた。彼女の言うように、軽い気持ちでないことはよくわかった。
「ええ、でも……」
「頼んでるわけじゃない、これは命令よ。私の付き人を続けて。辞めることは許さない」
 アルティナは有無を言わせぬよう、強い口調で命じた。だが、そこに傲慢さは窺えなかった。そこから感じたのは、縋り付くような必死さだけだった。だからこそ、レイチェルは何も言えなくなった。
「レイチェル、あなたは私のたったひとりの友達なの」
 そう言ったアルティナは、怖いくらい思いつめた顔をしていた。瞳がわずかに潤んだ。彼女はそれを隠すようにうつむくと、突然、レイチェルの首に腕を絡めて抱きついた。ぎゅっと力を込める。長い銀色の髪が、レイチェルの頬をさらりと撫でた。
「お願い、私をひとりにしないで……」
 普段のアルティナからは想像もつかない弱々しい声だった。
 レイチェルは彼女の背中に手を置こうとした。だが、その手は途中で止まった。彷徨う指先は空を掴み、何事もなかったようにベッドの上に戻った。

 ココン、コン——。
 弱く不安定なノックの音が聞こえた。
 ユリアはベッドから体を起こした。扉の方に目を向ける。夫のバルタスではないだろう。彼は、もっとはっきりとした力強いノックをする。
「どうぞ」
 豊かな巻き髪を軽く手で整え、よそ行きの声で返事をする。
 ガラガラ、と扉が開いた。
 そこから姿を現したのは、思いもよらない人物だった。
「ユールベル……」
 そう言ったきり、絶句した。
「重傷って聞いたけど、ずいぶん元気そうね」
 ユールベルは挑発的に言った。だが、その声は固かった。装った無表情もどことなくぎこちない。緊張をしているのは明らかだった。
「……何をしに来たの。まさか、お見舞いってわけではないでしょう?」
 ユリアは眉間に力を込め、あからさまに嫌悪感を示した。
 ユールベルは顎を引き、小さな口をきゅっと結ぶと、上目遣いに彼女を睨めつけた。
「もう、あなたに怯えるのは嫌だから……決着を、つけにきたの」
「決着?」
 ユリアは眉をしかめた。それの意味するところがわからなかった。怪訝な表情のまま逡巡する。
「ま、さか……」
 あることに考えが至った。みるみるうちに顔色が失せていく。喉もカラカラに乾いていった。
「まさか、私を、殺そう……っていうの?」
「そんなことはしないわ」
 ユールベルは軽蔑するように言い捨てた。
 タン……。
 ゆっくりと重い足を踏み出した。一歩、一歩とユリアの方へ歩みを刻んでいく。
「な、何……?」
 ユリアは怯えたように、狼狽した声を発した。
 だが、ユールベルは何も答えなかった。歩みも止めなかった。ベッドの傍らまで来ると、ようやく足を止め、まっすぐにユリアを見る。手を伸ばせば、互いに触れられる距離——彼女にとっては、身の危険を感じる距離である。
 すぅ、っと大きく息を吸い、緊迫した面持ちで口を開く。
「私はもう逃げないし、あなたを怖れたりもしない。アンソニーは、絶対に渡さないから」
「……何なの、それ」
 ユリアは拍子抜けしたように、唖然として尋ねた。
「私の決意。あなたに宣言しておこうと思ったの」
 ユールベルにも、子供じみた馬鹿なことだという自覚はあった。だが、彼女にとっては精一杯の行動だった。そして、この行動にかけていた。ユリアに自らの意思で会い、目の前で宣言することができたなら、自分の中の恐怖心を克服することができるのではないか、と——。
 ユリアは急に強気に戻った。ユールベルが自分に危害を加えるつもりはないと悟ったためだ。ふっ、と鼻で笑う。
「決着なんて偉そうに言ったわりには、その程度なの? 呆れたわ」
「近づいただけであれほど怯えていた人が、よくそんなこと言えるわね」
 ユールベルも負けじと言い返す。体中がびくついていた。この距離が怖い。後ずさりたい気持ちを懸命に抑える。
「久しぶりだったから、あなたが虚勢だけの人間だということを忘れていたのよ」
「結界まで張って、二階に私を閉じ込めていたのは、私を怖れていたからじゃないの?」
 ユリアは言葉に詰まった。シーツを掴み、憎々しげに顔をしかめた。
「……そう……いえ、違うわ」
「怖れていたから、優位に立とうとしたんでしょう?」
 ユールベルの首筋には、薄く汗が滲んでいた。
 ユリアも同様に、額に汗を滲ませている。
「母親なんだから、優位に立って何が悪いの」
「あなたに母親の自覚があったなんて驚きだわ」
 ユールベルの声に冷たい響きが加わった。単なる反撃のための言葉ではない。心の奥底からの言葉だった。娘とも思っていないくせに、母親などと口にすることに驚き、そして呆れた。
 ユリアは完全に追い込まれた。深くうつむき、シーツを引きちぎらんばかりにきつく握りしめる。
「……ああ言えば、こう言う……少しも変わっていない……人を怒らせるしか能のない子……」
「言いたいことがあるなら、私に向かってはっきりと言ったらどうなの」
 ユールベルの挑発に、ユリアの中の何かが切れた。
「どこまで馬鹿にすれば気がすむの! いいかげんにして!!」
 怒りで顔を真っ赤にすると、爆発したように叫び、大きく腕を振り上げた。
 空気を切る音が聞こえた気がした。
 ユールベルは息を呑んだ。一瞬、怯えた顔を見せたが、目をそむけることはなかった。
 パシン——。
 何かを打つような高い音が、部屋に弾けた。
 ユールベルの頭が薙ぎ払われた音ではない。
 頬が打たれた音でもない。
 勢いよく振り下ろされたユリアの腕を、ユールベルが片手で受け止めた音だった。
「なっ……」
 ユリアは驚き、目を丸くした。
 行動を起こしたユールベルの方も呆然としていた。
 防御することなど今まで出来なかった。その考えすらなかった。手を上げられれば、ただ受けるしかなかった。彼女の中では、それ以外の選択肢はゼロだった。きっと、アンソニーも同じだろう。
 だが、防ぐことは出来たのだ。
 その腕は、思ったよりもずっと細かった。力も決して強くなどない。ずっと、圧倒的なものと感じていたのは、小さな子供の頃に受けた記憶のせいだろうか。
 時は流れていた——。
 ユールベルの目から、涙が零れ落ちた。
「あなたを怖れる理由なんて、とっくになくなっていたんだわ!」
 泣きながらそう言うと、弾くように腕を押し返した。そして、潤んだ瞳でひと睨みすると、踵を返し、走って部屋を出て行った。
 うなだれたユリアの耳に、遠ざかる靴音がこびり付いた。

 ユールベルはユリアの病室が見えないところまで走ると、ゆっくりと足を止めた。壁に寄りかかり、しゃくり上げながら涙を拭う。
 心の重しが少しだけ軽くなったような気がした。それと同時に、心に大きな穴が空いたようにも感じた。安堵と寂寥の入り混じったような、複雑な心境だった。
 これで少しは何かを変えられたのだろうか。その自信はない。結局、何も変わっていないのかもしれない。それでも良かった。きっかけにくらいにはなるかもしれない——彼女にしてはめずらしく、そんな希望を信じる気持ちになっていた。

「あなたから説得してくれない?」
「そういうことはサイファに頼め」
 ふと、そんな会話がユールベルの耳に入った。片方はとてもよく知っている声だ。その声を聞いただけで、胸が熱く痛んだ。
 何を話しているのだろう。誰と話しているのだろう。
 熱が彼女を衝動のままに突き動かす。靴音をさせないよう忍び足で廊下の角に移動すると、身を隠しながら声の方を盗み見た。
 そこにいたのは、ラウルと王妃アルティナだった。ふたりきりで、他には誰もいない。廊下の中央に立ったまま、向かい合って話をしている。
「自信がないわけ?」
「おまえの命令を受ける義務はない」
「義理はあるでしょう?」
「ルナのことを言っているなら、レイチェルにも同じだけの義理がある」
 互いに喧嘩腰だった。双方とも腕を組み、厳しい顔で睨み合っている。
「いいわよもう」
 先に折れたのはアルティナだった。腰に手をあて、面倒くさそうに大きくため息をつく。反撃の言葉はいくらでもあった。だが、ラウルはそう簡単には落ちないだろう。言い合うだけ時間の無駄である。
「サイファに頼むことにするわ」
「期待は持たないことだな。レイチェルを説得など、誰にも出来はしない」
 ラウルは冷ややかに忠告した。
 アルティナはわずかに顎を上げ、鋭い目を彼に向けた。真顔で瞳の奥を探る。
「そうやって、いつもあきらめてばかりなのね、あなたは」
「何がいいたい」
 ラウルは目つきを険しくした。
「わかってるくせに」
 アルティナはとぼけた口調で軽く言った。
 ラウルには無表情で目を伏せた。自分の中で思い当たることはあった。だが、彼女がそれを知っているはずがない。自分の考えているものと、彼女の考えているものは、まったく違うものなのだろう。そう思うことにした。
「それじゃ、またね」
 アルティナは、身を翻しながら右手を上げ、気持ちを切り替えるように軽い調子で言った。
 ラウルは軽く視線を送ったあと、無言で踵を返した。

 ユールベルは慌てて顔を引っ込めた。柱の陰に回り込み、身を隠す。
 その理由はアルティナだった。ラウルとの話を終えた彼女が、ユールベルのいる方へ向かってきたのだ。艶やかな銀色の髪をなびかせながら、大きな足取りで闊歩している。まっすぐ正面を向いているせいか、隠れたユールベルに少しも気づくことなく通り過ぎ、階段を降りていった。小刻みな靴音が、複雑に反響しながら遠ざかっていく。
 ユールベルはもういちど廊下の角から顔を出し、ふたりがいた場所に目を向けた。だが、そこにラウルの姿は見つけられなかった。
 ——え? どこ?
 慌てて飛び出し、駆けながら何度もあたりを見まわす。緩やかなウェーブを描いた金の髪が、白い包帯とともに振り乱れた。だが、今の彼女にそれを気にする余裕はなかった。

「体調はどうだ」
 病室のひとつから、低い声が聞こえた。
 扉が閉じられているため、中の様子は窺えない。だが、それはラウルの声に間違いなかった。
 ユールベルはその病室に近づき、息をひそめて耳をそばだてた。

「ええ、もう大丈夫」
 レイチェルはにっこりとして答えた。いつもと変わらない愛らしい微笑みだった。
 ラウルは無表情で、彼女の前のパイプ椅子に腰を下ろした。
「無理して笑わなくてもいい」
「無理なんてしていないわ……?」
 レイチェルは不思議そうに、やや語尾を上げて答えた。
 ラウルはわずかに眉を寄せた。
「すまない」
「えっ?」
 レイチェルは困惑した。先ほどからの発言が理解できない。とまどいの眼差しを彼に送る。
 ラウルはそれに答えるように口を開いた。
「おまえにばかり、重荷を背負わせている」
「…………」
 レイチェルは無言のまま、薄く微笑んだ。そして、ゆっくりと目を閉じ、緩やかに首を横に振った。カーディガンの上で、彼女の金髪が静かに揺らめいた。
 彼女は、すべて自分の責任だと思っている。他人がどれだけ違うと言っても、それを受け入れることはないだろう。謝罪も慰めも望んでいない。ラウルにはわかっていた。わかっていながら、どうしても口にせずにはいられなかった。
「私に出来ることがあれば、何でも言え。おまえの頼みは出来る限り聞くつもりだ」
 彼女に背負わせたものと比して、あまりにも小さな償いかもしれない。だが、彼女の意思を尊重した上で、自分にしてやれることといえば、このくらいしかなかった。
 レイチェルは少し思考を巡らせたあと、ぽつりと言った。
「りんごが食べたい」 
「りんごだな、わかった」
 ラウルは真顔で確認すると、おもむろに立ち上がった。
「そこにあるわ」
 レイチェルは後ろの棚を指さした。
 彼女の指先を辿ると、そこに篭盛りのりんごが置いてあった。誰かの見舞いの品のようだった。果物ナイフもその中にあった。
 ラウルは隣の洗面台で軽く手を洗ったのち、篭からひとつを手にとると、ナイフを使って皮を剥き始める。
「やっぱりすごいわね」
 その手際の良さを見て、レイチェルが感嘆した。くるくると回転するたびに、赤い衣がほどかれていく。まるで手品のように見えた。
 ラウルは感心されるほどのことではないと思ったが、彼女が嬉しそうだったので、黙ってそれを見せていた。いい気になっているわけではない、と自分に言い訳をする。ただ、少しだけ昔を思い出した。
 りんごはすぐに剥き終った。小さく切って小皿に盛り、レイチェルに差し出す。
「ありがとう」
 レイチェルは、にっこりと笑って、両手でそれを受け取った。小さなフォークで、そのひとかけらを口に運ぶ。
「おいしい」
 彼女は子供のように素直な感想を述べ、柔らかく微笑んだ。
 ラウルもつられて、ごくわずかだったが、口元を緩ませた。
 ふたりの間に流れる平穏な時間。だが、それは、ほんのひとときのことだった。
「サイファは何か言っていた? 私のこと」
 彼女のその一言で、ラウルはいつもの無表情に戻った。
 彼女は何か察しているのだろうか。それとも尋ねてみただけなのだろうか。確かにサイファとあることを話し合った。しかし、それは彼女にとって歓迎するような内容ではない。伝えるべきかどうか迷った。
「隠さないで」
 見透かしたように、レイチェルは凛とした声で言った。
 ラウルは軽くため息をついた。嘘はつけない。手を拭きながら、あきらめたように椅子に座る。
「サイファから、おまえの記憶を消せないかと相談を受けた」
「えっ……?」
「一連の事故の記憶だ」
「やめて! それは駄目!!」
 レイチェルは取り乱したように哀訴した。ベッドから身を乗り出し、縋るようにラウルの袖を掴む。りんごがのった小皿は、今にも手から滑り落ちそうだった。

 ラウルはその小皿をそっとすくい上げ、隣の棚に置いた。そして、縋り付く小さな手に、自分の大きな手を重ねた。
「安心しろ、おまえの了承なしに、そんなことはしない」
 レイチェルは我にかえると、安堵の息をついた。
「そもそも、成人では上手くいかない可能性の方が高いからな」
 ラウルは抑揚のない声で、そう付け加えた。
 レイチェルは難しい顔でうつむいた。成人の記憶を消すのは困難である——サイファもそのことは知っているはずだ。なのに、なぜ……。忘れるくらいに焦燥していたのかもしれない。それとも、一縷の望みに託すつもりだったのだろうか。
 どちらにしろ、そこまで追い詰めたのは自分なのだ。心を閉ざし、起き上がることさえできない状態を、何日も見せつけてしまった。助けるためには記憶を消すしかない、という極端な考えに至ったとしても、彼を責めることは出来ない。全力で自分を守ろうとしてくれた、その結果なのだから——。
 彼女はラウルの腕から手を引こうとした。ラウルもそれに応じるように、彼女に重ねた手を退けた。
「忘れたくはないのか」
「忘れてはいけないもの」
 レイチェルの小さな口が、迷いなく動いた。
 ラウルは目を閉じ、小さく息をついた。
「あのとき、無理にでも、おまえをここから連れ去るべきだった」
 そうすれば、こんなつらい目に遭わせることはなかった。さらなる重荷を背負わせることはなかった。ラウルの胸に、悔恨の思いが湧き上がった。
 レイチェルは穏やかに微笑んだ。
「後悔するなんておかしいわ。ラウルは、何度、同じ状況が巡ってきても、きっと同じ選択をする。同意なしに連れていくなんてこと、ラウルにはできないもの」
 ラウルはじっと彼女を見つめた。無表情だったが、心の中はざわめいていた。
「甘く見るな。おまえは私のごく一部しか知らない」
「それで十分だわ、今のラウルを推測するには」
 レイチェルはにこやかに切り返した。
 ラウルは気色ばんだ。彼女の余裕ある言動に腹が立った。自分のことをどれだけ知っているというのだ——急に怖い顔になり、鋭く睨めつける。そして、激しさを喉元で抑えた、迫力のある低音で言った。
「ならば、おまえが間違っていると証明してやる。今からおまえを連れ去る。同意は得ない……それでもいいのか」
「ちゃんと同意を得ようとしているわね」
 レイチェルは肩をすくめて笑った。
 ラウルは肩を落としてうなだれた。顔を隠すように手で押さえる。自分の間抜けさに羞恥を覚えた。同時に、彼女には敵わないとも思った。すっかり見透かされている。やはり、自分には強引に実行することなど無理なのだ。
 サイファなら手段を選ばないのかもしれない。それが必要だと思えば、躊躇なく行動に移すだろう。それが、うらやましくもあり、憎らしくもあった。

 ——そうやって、いつもあきらめてばかりなのね、あなたは。
 脳裏にアルティナの声がよみがえった。あまりにも、今の状況にぴったりとはまる。彼女がいいたかったのは、やはりこのことなのだろうか。

「アルティナが、おまえを説得しろと言ってきた」
 ラウルは不意に話題を変えた。
 ずいぶんと唐突だったが、レイチェルには何の話なのかすぐにわかった。少し前に、病室の外でふたりが言い争うような声が聞こえていた。話の内容までは判別できなかったが、ラウルのその言葉を聞いて、付き人の件に思い当たったのだ。
「説得するつもり?」
「いや、断った」
 ラウルは素っ気なく言った。そして、一拍おいて言い添えた。
「私も付き人を続ける方がいいとは思っている。だが、アルティナに頼まれて説得したのでは、あいつの肩を持つことになるからな」
「子供みたいなことを言うのね」
 その茶々に気を取られることなく、ラウルは真剣に話を続ける。
「私は常におまえの味方でいたい。断ったのはそういう理由だ。だから、今後、私の意思で話を持つことがあるかもしれない」
 レイチェルは真面目にこくりと頷いた。
「だが、今は体を休めることだけを考えろ」
 ラウルは医者としてそう告げたあと、表情を変えずに付け加えた。
「今度、とびきり美味いりんごを持ってくる」
「ありがとう、嬉しい」
 レイチェルは顔をほころばせた。小さな花が咲いたような、可憐な笑顔だった。
 ラウルは、その愛くるしい表情に意識を絡めとられた。それは、あの頃を思い出させるものだった。拒絶しておきながら、忘れようとすれば妨害する。いつもそうだ。自覚がないだけにたちが悪い。ふぅ、と疲れたように小さく息をつく。
「今からでも遅くない。一緒に行かないか」
 どこへ、などと言わなくても通じるだろう。いったいこれで何度目なのか。自分の往生際の悪さに呆れつつ、それでも止めることができなかった。しかし、これが最後だと心に決めた。
「行ったらアルティナさんの付き人を続けられないわ」
 レイチェルは冗談めかして言った。
 だが、ラウルは真顔で返した。
「続けるつもりはないのだろう」
「…………」
 レイチェルは何も答えられなくなった。表情に陰を落とし、うつむいた。
「悪かった、追い詰めるようなことを言って」
 ラウルは低い声で言った。そして、じっと彼女を見つめると、今度は力強く語りかける。
「レイチェル、おまえがここに留まることを望むなら、私もこの国に留まり、おまえの傍らで力になる」
 レイチェルは顔を上げた。嬉しいというより、むしろ苦しかった。彼にはつらい思いばかりさせている。きっとこれからもそうだろう。なのに、彼はいつまでも味方でいようとしてくれている。その気持ちに報いることはできないのに……。せつなげに彼を見つめた。
 ラウルは彼女の瞳に吸い込まれそうになった。ほとんど無意識に手を伸ばす。大きな手のひらが、彼女の白い頬に触れた。
「ラウル?」
 レイチェルは不思議そうに瞬きをした。
「……少し熱っぽいな。休んだ方がいい」
 ラウルは事務的な口調で言った。そして、ゆっくりと手を引いていく。名残惜しげな指先が、彼女から離れた。
「無理をするな」
 そう言い残して立ち上がると、彼女の視線を振り切るように背を向け、大きな足どりで病室を出て行った。

「なに、さっきの……」
 扉を開くと、そこにはユールベルが立っていた。体の横でこぶしを握り、怒りを抑えたような怖い顔をしている。レイチェルとの会話を聞いていたのだろう。どこから聞いていたのかはわからない。だが、そんなことはどうでもよかった。
 ラウルはすぐに扉を閉めた。レイチェルに悟られたくなかった。そして、素知らぬ顔でユールベルの前を通り過ぎようとした。
 だが、ユールベルが逃すはずはなかった。彼の正面にまわり込むと、行く手を阻むように立ちはだかる。
「どうして? どういうことなの? わた、し……」
 ずいぶん混乱しているようだった。混乱というより、動揺かもしれない。顔を歪ませながら、懸命に言葉を探している。
「そう、よ……私にも、あのくらい優しくしてほしかった!!」
 激情とともに、固く握りしめた両手をラウルの胸に叩き付けた。涙があふれた。それを拭うことなく、何度も何度も叩き続ける。それでも、彼にとっては何の痛みにもならなかった。
「私がほしかったものなのにっ……!!」
「ここは病室の前だ。静かにしろ」
 ラウルの口調は冷淡だった。それが、ますますユールベルを激昂させた。
「何が病室よ! あの人に聞かれたくないだけじゃない!!」
「ユールベル?」
 不意に、扉の向こうから声がした。レイチェルのものだ。部屋の前でこれだけ喚いていれば、聞こえない方がおかしい。
「すまない、今、黙らせる」
 ラウルは扉越しに声を投げた。ユールベルをくるりと逆に向かせると、背後から片手で体を抱き寄せ、もう片方の手で口を塞いだ。彼女はラウルに抱き上げられるような格好になり、ほとんど宙に浮いていた。かろうじて地面に触れているつま先が、心もとなさそうに彷徨っている。
 そのまま、離れたところへ連れていこうと足を踏み出しかけた、そのとき——。
「ラウル、ユールベルとふたりきりで話をさせて」
 レイチェルが予想外のことを口走った。さすがのラウルも驚き、慌てた。
「何を言っている。こいつは危険だ。何をしでかすかわからない。ふたりきりになどできるか」
 ユールベルの胸に、締めつけられるような痛みが走った。苦しくて意識が遠のきそうだった。口を塞がれたまま、新たな涙があふれる。心の深いところから湧き上がってきたような、熱い涙だった。
「ラウル、私の頼みは聞いてくれるんでしょう?」
 レイチェルは冷静に返した。
 ラウルは返答に窮した。彼女の頼みを聞く——それは、ラウル自身が彼女に告げたことだった。つい今しがたのことである。もちろん、嘘ではなく本心だ。だが、このようなことは想定していなかった。
「ラウル、お願い」
 もう一度、畳み掛けるように頼み込む。
 ラウルはもう拒むことは出来なかった。無言で扉を開けた。そして、いまだ泣いたままのユールベルを、病室の中へ押しやった。
 レイチェルはベッドの上で穏やかに微笑んでいた。
「い、嫌……わ、わたし……」
 ユールベルはうろたえながら、ラウルのもとに戻ろうとした。だが、ラウルは手を突き出し、それを阻んだ。
「レイチェルに危害を加えるような真似をしたら、ただではおかない」
 凍りつくような冷たい声だった。だが、その瞳は激しく燃えたぎっていた。
 本気だ、とユールベルは思った。ぞくりと身震いをする。体が内側から凍りつくようだった。涙も止まった。その瞬間、悲しみよりも恐怖が勝っていた。彼に対して、ここまでの戦慄を覚えたことはなかった。
 ラウルは静かに扉を閉めた。

 閉ざされた病室の中で、ユールベルとレイチェルはふたりきりになった。
 ユールベルは、ラウルを求めるように伸ばした手を、いまだ下ろせずにいた。その先には扉しかない。縋りたい人の姿はもう見えない。
「ユールベル」
 背後から、鈴を鳴らしたような声が聞こえた。びくりとして、体をこわばらせた。だが、観念したかのように表情を引き締めると、ゆっくりと振り返った。
 レイチェルは優しい笑顔をたたえていた。化粧をしていないその顔は、大人っぽさが抜け、普段よりも若く感じた。まるで少女のようだった。肌は雪のように白く、頬にはわずかな赤みがさしている。小さな唇はほのかな薄紅色をしていた。可憐でいて、儚げ——そんな表現がふさわしかった。

 おじさまのいちばん大切な人。
 レオナルドの好きだった人。
 そして、多分、ラウルも——。
 まるで、愛されるために生まれてきたような人——。

 ユールベルは胸の少し下をぐっと押さえた。何も持っていない自分、すべてを手に入れている彼女。あまりにも違いすぎる。ずるい、と思った。
「ここに座って。ふたりで話をするのは初めてかしら」
 レイチェルは、ラウルが座っていたパイプ椅子を示した。
 ユールベルは緊張しながら足を進めた。言われるまま椅子に座る。わずかに残っていた座面の温もりに、彼女の心が小さくさざめいた。
「お母さまのお見舞いに来たの?」
「私に親はいないわ」
「そうだったわね」
 レイチェルはあっさりと同意した。
「それで、何の話?」
 ユールベルは努めて無愛想に尋ねた。それは、今の自分にできる唯一の防御だった。
「特にこれといってないんだけど……今まであまりあなたと話したことがなかったから、何かお話できればと思って」
 レイチェルは親しみをこめた笑みを向ける。
 だが、ユールベルはそれを受け付けなかった。表情を凍らせたまま、すっと椅子から立ち上がった。
「話がないのなら帰るわ」
 レイチェルの微笑みが、寂しげに翳った。
「私、やっぱりあなたには嫌われているのね」
「……ただ苦手なだけよ」
 ユールベルは顔をそむけて、ぼそりと言った。それは、本当のことだった。子供の頃からそうだった。嫌いというほどの感情はなかったが、一緒にいるのが苦痛だった。とても居心地が悪かった。だから、いつもあからさまに避けて、話もしないようにしていた。今にして思えば、すべて自分の劣等感からきていたのかもしれない。
「お願い、少しここにいてくれないかしら」
 レイチェルは小首を傾げて、控えめにせがんだ。
 そういうふうに可愛らしく頼み込む彼女に、ユールベルは腹立たしさを覚えた。黒い気持ちが湧き上がる。
「私の質問に、答えてくれる?」
「ええ、いいわ」
 レイチェルは嬉しそうに、ぱっと表情を明るくした。
 ユールベルは、彼女を見つめながら、再びゆっくりと腰を下ろした。ギィ、と嫌な音を立てて、パイプ椅子が軋んだ。
「……あなたも、あの爆発に巻き込まれたの? 家は離れていたはずだけど」
 本当はこんなことではなく、ラウルとのことを訊くつもりだった。徹底的に問いつめようと思っていた。だが、無垢なまでの彼女の笑顔を見ていたら、つい違うことを口に上らせていた。
「巻き込まれた……んじゃないわ、私が、起こしたの」
「えっ?」
 あまにりも突飛だったため、にわかには理解できなかった。言葉のままに受け取れなかった。目を見開き、思わず尋ね返す。
 レイチェルは淡々と説明を続ける。
「魔導の実験中に起こった事故ということになっているけれど、私の魔導の力が暴発してしまったのが、本当の原因」
「あなたが……」
 ユールベルは信じられない思いだった。国の結界を損傷するほどの魔導を、彼女がひとりで発したというのだろうか。彼女にはそれほどの魔導力が備わっているようには見えなかった。
「子供の頃、魔導の訓練から逃げてばかりだったの。だから、かしら、自分の力をコントロールできないことがあるみたい。自分にこんな力があるなんて知らなくて……なんて、ただの言い訳ね。我が侭だったから、私」
 遠くに思いを馳せるような口調に、自嘲と後悔の色が入り混じっていた。
「だったら、どうしてそんなに平然としていられるの。あなたの我が侭のせいで、たくさんの人が死んだり怪我をしたりしているのに」
 ユールベルは厳しい追及をする。
「どうしてかしらね」
 レイチェルは他人事のように言った。背中の枕に体重を掛け、ぼんやりと視線をさまよわせる。
 ユールベルはその態度に苛立った。自分のしでかしたことに、何の自覚も持っていないように思えた。彼女を責めるように睨みつける。
「少しくらい心が痛まないの? どうして笑っていられるの? どうしてはしゃいでいられるの? ラウルと楽しそうに話なんかして……。何人もの人を殺しておいてすることじゃないわ」
「ラウルのこと、好きなのね」
 レイチェルは柔らかく微笑みかけた。
 思わぬ反撃に、ユールベルは顔を紅潮させた。
「違う、ラウルのことなんて好きじゃない、あんなひと大嫌いだわ!」
 身を乗り出し、躍起になって否定する。だが、むきになればなるほど、その言葉は虚しいものになっていった。
 だが、レイチェルは優しさをもって、それを受け止めた。
「わかったわ、変なことを言ってごめんなさい」
 ユールベルはスカートの裾をぎゅっと握りしめた。
「あなた、は……」
 ためらいがちに口を開き、震えるような声を絞り出した。こわばった顔でレイチェルを見つめる。そして、ひと呼吸ののち、意を決したように、いちばん知りたかったことを尋ねる。
「あなたは、ラウルのこと、好きなの?」
「ええ、好きよ」
 レイチェルはためらいなく答えた。
 ユールベルはカッとした。どうしようもなく頭にきた。無邪気な顔で、何の屈託もなく、平然と答える彼女を許せなかった。顔を隠すようにうつむき、肩を小刻みに震わせながら立ち上がった。
「……私は……やっぱり、あなたのこと、嫌いだわ」
 レイチェルは彼女を見上げ、寂しげに微笑んだ。薄紅色の唇が動き、何かを告げようとする。
 だが、ユールベルはそれを聞くことを拒絶した。片耳を塞ぎながら弾けるように駆け出し、病室を飛び出していった。

 廊下にはラウルがいた。
 彼のことをすっかり忘れていた。話はすべて聞かれたに違いない。その内容を思い返し、ユールベルはカッと顔が熱くなった。目の奥も熱くなった。左目から涙があふれ、頬を伝い落ちた。
「笑いたければ、笑えばいいわ!」
 無表情のラウルを睨みつけ、自暴自棄な叫びを上げる。
 今日は泣いてばかりだった。自分は今、ひどい顔をしているだろう。目が腫れているような気がした。こんな顔を見られたくない——ユールベルは額を掴むように押さえ、深くうつむいた。
「……なっ!!」
 立ち去ろうとした彼女の細い腕を、ラウルは無造作に掴み、引っぱり上げた。ユールベルの体は引き戻され、正面からラウルに倒れかかった。視線を上げれば、近いところに彼の顔がある。
「放して!!」
 この状況に驚き、反射的に逃れようとした。力一杯もがくが、彼に掴まれた腕はびくともしなかった。せめてもの抵抗に、顔だけはそむけた。
「ひとつ言っておく」
 感情を抑えた低い声で、ラウルが前置きした。
 ユールベルは、横目でそっと視線を戻した。
「笑っている人間が、笑わない人間より気楽に生きているなどと決めつけるな」
 ラウルはまっすぐに彼女の目線を捉えて言った。
 ユールベルは涙目で、キッと睨み返した。心の中にいろんな感情が渦巻いた。悲しくて、悔しくて、怖くて、苦しくて、頭がおかしくなりそうだった。
「放して!!」
「このまま帰すわけにはいかない。包帯を直す。来い」
 ラウルはユールベルの手首を掴んだまま歩き出した。彼女の目を覆う包帯は、ずいぶんと緩くなり、ずれかかっていた。
 ユールベルは手を引かれながら、おとなしくついて歩いた。そうするしかなかった。ラウルの手を振り払うなどということは不可能に近い。手の甲で涙の跡を拭う。もう泣いてはいなかった。だが、本当は広い背中に縋り付いて、泣きじゃくりたかった。

 厚い雲の切れ間から、太陽が顔を覗かせた。
 ずいぶん久しぶりに見た気がする。レオナルドは忘れかけていたその眩しさに目を細めた。
「レオナルド!」
 不意に、背後から自分の名を呼ばれた。訝しげに振り返る。足の下で、固くなった雪が、ジャリ、と濁った音を立てた。
 視線を向けた先にいたのは、自転車に乗った黒髪の女性だった。手を振りながら、ふらふらと走っている。どうやらこちらに向かってくるようだ。
 彼女はレオナルドの横まで来ると、ブレーキをかけて止まろうとした。だが、前輪を雪にとられたらしく、ぐらりとバランスを崩した。わっ、と焦った声を上げながらも、とっさに足をついて体勢を戻した。
 ふう、と小さく安堵の息をついた。そして、ぱっと顔を上げると、親しげな笑みを見せる。
「久しぶりっ」
「……誰だおまえは」
「はぁ?」
 思いもよらないレオナルドの返答に、彼女は素っ頓狂な声を上げた。口をとがらせると、下からじっと覗き込むようにして睨む。
「それ、本気で言ってるわけ?」
「声はどこかで聞いたことがあるような気が……あっ!」
「思い出した?」
 彼女はくすりと笑う。
「ターニャか?」
「正解」
 レオナルドは、唖然として彼女を見た。上から下まで、まじまじと視線を巡らせる。ずいぶんと雰囲気が変わっていた。髪は胸のあたりまで伸び、薄く化粧もしているようだ。そして、細身のパンツスーツを着こなしている。以前よりも大人っぽく、そして、女らしくなった気がした。
「そんなに変わった?」
「性格はそのままのようだな」
「まあね」
 レオナルドは嫌みのつもりだったが、ターニャは素直に受け取った。もっとも、その嫌みも、半分は照れ隠しのようなものだった。
「これから帰るの?」
「ああ」
「じゃあ、途中まで一緒に帰ろ。方向、同じみたいだし」
 ターニャは一方的にそう言うと、返事を待たずに自転車を降りた。それを引きながら、レオナルドと並んで歩き始める。
「こんな雪の積もっているときに、自転車なんてよく乗るな」
 レオナルドは半ば呆れたように言った。
「雪のない部分でしか乗ってないわよ」
 細い道はまだ雪や氷で覆われているが、大通りは早い段階から除雪されていた。特に、王宮に近いこのあたりは、細めの道でも除雪されていることが多い。そういう道を選んで通っているということだろう。この道も、隅の方は雪が残っているが、中央部分はきれいに除雪されている。
「ついてないのよね、ワタシ」
 ため息まじりにそう言うと、ターニャは面白くなさそうに口をとがらせた。
「練習してようやく乗れるようになったと思ったら、急に雪が積もっちゃうんだもん。しばらく乗ってないと、感覚を忘れそうだったし、仕方なくってところかな」
「今まで乗れなかったのか」
 レオナルドは驚いたように言った。自転車など、幼い頃にみんな乗れるようになるものだと思っていた。
 ターニャは少し恥ずかしそうに、頬を赤らめながら、上目遣いで彼を睨んだ。
「そうよ、悪い?」
「いや、悪くはないが、天然記念物モノだな」
「いくらなんでも、そこまでめずらしくないでしょ」
「俺はどっちも見たことがない」
 レオナルドは無遠慮に言葉を重ねる。
「なんで今さら乗ろうと思ったんだ?」
「ああ、それ? えーっと……」
 ターニャは空を見上げながら、言葉を探した。
「私ね、母親に会いに行こうと思ったの。ずっと会いたくなかった母親だけど……。そのために、自転車を練習したのよ」
「なんで自転車なんだ。他に手段はいくらでもあるだろう」
「どうしてかなぁ」
 レオナルドの率直な疑問は、彼女自身にも疑問だった。ハンドルに両腕を置いてもたれかかり、視線を落として考え込む。
「何か、克服したかったのかな。それとも、自分を試してたのかも……」
「そんなに嫌なら、会わなければいいだろう」
「逃げてばかりじゃ、何も変わらないから」
 ターニャは少し照れたように言った。
 だが、レオナルドはたいして興味なさそうだった。
「ただの自己満足じゃないのか」
「それでもいいの」
 ターニャはにっこりと笑った。
「ねぇ、レオナルドのお母さんってどんな人?」
「口うるさいだけだ。子供の頃はよくゲンコツくらった」
 レオナルドは面倒くさそうに、しかし思いのほか丁寧に答えた。
「へぇ、ちゃんと親子してるんだ…って、あ! レオナルドの家は大丈夫だったの? 例の爆発」
 ターニャは突然、思い出したように尋ねた。
「ああ、俺の家は離れてたから」
 レオナルドは前を向いたまま、素っ気なく答えた。もし、何かあったとしたら、こんなところで呑気に母親の話などしていないだろう。そのくらいわかって然るべきだと思ったが、今さらこんな質問をしてくるなど、彼女は思ったより抜けているようだ。
「そう、良かった。少し心配してたんだ」
「少しだけか」
「心配しただけ有り難がってよ」
 レオナルドのひねくれた発言にもめげず、ターニャは明るく笑って言い返した。

「そういえば、今日はユールベルと一緒じゃないのね」
 しばしの沈黙のあと、ターニャはふとそんなことを口にした。
 レオナルドの心は、その一言で掻き乱された。
「アカデミーを休んでいたんだ。……ラウルのところへ行っていたみたいだ」
 ターニャと会う少し前、アカデミーの近くでユールベルを見かけた。声を掛けようと思ったが、新しい包帯を見て、声を掛けられなくなった。その巻き方や結び方は、ラウルのものだったからである。
「そっか」
 ターニャは寂しげに言った。ちらりと横目でレオナルドを盗み見る。彼はまっすぐ前を見据えていた。だが、その表情はどこか疲弊しているようだった。
「キミたち、どうなってるの?」
 ユールベルには訊けなかった不躾な質問をぶつけてみる。ずっと気になっていたことだった。レオナルドには、これだけで意味するところは通じるはずだ。返答を拒まれるかもしれないと思ったが、意外にも冷静に答えてくれた。
「どうにもなってないさ。ずっと、よくわからない状態が続いている」
「それでいいの?」
「俺の問題じゃない、ユールベルの問題だからな。……正直、どうしていいか、俺にはわからない」
 レオナルドは足元を見ながら、ため息をついた。
「ずいぶん弱気ね」
 ターニャは少し驚いていた。いつも傲慢なまでの態度をとっているレオナルドが、自分にこんな弱音を吐露するなど信じられなかった。だが、一年、二年とこんな状態が続けば、不安になるのも、疲れるのも、無理ないのかもしれない。
 レオナルドはさらに、信じがたいことを口にした。
「あいつが幸せになるのなら、俺は身を引いてもいいと思っている」
「ええっ?! 本気で言ってるの……?」
「ああ、でも、あいつはジークやらラウルやら、どう考えても無理っぽいところばかりに行くからな……今はやっぱり目を離せない」
 レオナルドは、もう一度、深くため息をついた。
「だったら、もうちょっと頑張ってみたら?」
「これ以上、頑張ったら、完全にストーカーだぞ」
「イイ男になれって言ってんの!」
 ターニャは元気づけるように明るく笑いかけた。
 レオナルドは何と返事していいかわからず、むすっとして顔をそむけた。

「俺はこっちに曲がるが……」
 十字路に差し掛かり、レオナルドは右を指差した。
「じゃあ、ここでお別れね。あ、ちょっと待って」
 ターニャはポケットを探り、小さな紙片を取り出した。
「これあげる。私の名刺。かっこいいでしょ」
 嬉しそうにえへへと笑って、レオナルドに差し出した。だが、それはどう見ても、何の変哲もないごく普通の名刺だった。左上に勤めている研究所の名前が記されている。特段、自慢するようなものでもない。
 レオナルドはそれを受け取ると、視線を落としてじっと見つめた。なぜか異様に真面目な顔をしている。ターニャが不思議そうに見ていると、彼は顔を上げて尋ねた。
「これ、勤め先だろう。連絡してもいいのか?」
「……は?」
「……ん?」
 ふたりは互いの反応が理解できなかった。思いきり怪訝な表情で、探るように顔を見合わせる。
「貸して」
 先に動いたのはターニャだった。レオナルドの指から名刺を取り上げると、ポケットからボールペンを取り出し、裏に何かを書き記した。
「連絡するならこっちにして。自宅だから」
 手書きの面を掲げ、もう一度レオナルドに手渡した。
「ああ? わかった……」
 レオナルドはどうにも腑に落ちないといった様子で、それを受け取った。最初から自宅の連絡先をくれればよかったじゃないか、と心の中で毒づいた。
「じゃあね。完全にふられたりしたら連絡ちょうだい。晩ごはんくらいおごってあげるから!」
 ターニャは自転車にまたがり、笑いながら言った。手を振りながら走り去って行く。ようやく乗れるようになったという言葉を裏付けるように、彼女の走行はふらふらして危なっかしげだった。
「おごるって……あいつ、貧乏人のくせに何を言ってるんだ……」
 レオナルドは首を傾げながら、奇妙な面持ちでつぶやいた。そして、名刺を掴んだ手をジャケットのポケットに入れると、右側の道へ足を踏み出した。
 緩やかな風が吹いた。柔らかい髪がふわりと舞い上がった。頬をかすめるその温度は、まだ暖かいとはいえなかったが、少しだけ冷たさが和らいでいた。