遠くの光に踵を上げて

第93話 結婚式

 太陽は高い位置にあり、日射しはとても強かった。
 鮮やかな青の空を、薄い雲が流れていく。少しのあいだ眺めているだけで、動いていることが認識できるくらいだ。地上は穏やかだが、上空には強めの風が吹いているのだろう。

 その空よりも濃い青色の制服が、人気のない小径を進んでいた。サイファである。ややうつむき加減で、思いつめたような難しい顔をしていた。時折、わずかに眉根を寄せたりもする。何か考えごとをしているようだった。
 ほんの十数分前、彼はジークを見舞うために病院へ行っていた。もっとも、会わずに引き返してしまったので、その目的は果たせなかった。偶然に聞いたアンジェリカの言葉が原因である。
 ——本当のこと、教えてくれる?
 何度も、何度も、その言葉を反芻し、解決策を頭から捻り出そうとする。しかし、どうしても良い方法が思い浮かばない。当然のことだろう。すでに幾度となく検討し、考え抜いているのである。今さら簡単に思いつくはずもない。
 深くため息をつく。
 いや、本当はひとつだけあるのだ。誰もが思いつく最善の方法が。
 それは、彼女の望むまま、真実を告げること——。
 おそらく、このことが頭にあるせいで、思考が停止しているのだろう。これ以上の解決方法は存在しないのだから仕方がない。
 頭では理解していても、心はそれを拒否をしている。結論を受け入れることから逃げていた。だが……。
 ——潮時、だな。
 足を止めると、ふっと息をつき、諦めたような寂しげな微笑を浮かべた。遠くを見上げ、目を細める。そのとき、空から降りてきた緩やかな風が、細い金の髪をさらさらと吹き流した。

 サイファは重厚な扉を引き、広い玄関に足を踏み入れた。非常識なほど大きな屋敷であるが、彼にとっては、生まれたときから過ごしてきた場所、住み慣れた我が家である。
 だが、このときはひどく緊張していた。
 家に入ることで湧き上がった感情だったが、根本的な原因はもちろん別のところにあった。

 重い足を騙しながら、いつもの歩調でリビングルームに向かう。
「レイチェル?」
 名前を呼びながら、柔らかな自然光が広がる部屋を見渡した。だが、彼女の姿はなかった。
 ふと、ガラス窓のひとつが半開きになっていることに気がついた。そちらに歩み寄り、庭に目を向ける。探していた人はそこにいた。
 彼女は小さな花壇にじょうろで水を遣っていた。花壇といっても、成長途中の茎と葉だけで、花もつぼみも見られない、いささか地味な状態だ。彼女が退院してから自分で作ったものである。
 例の事故ののち、彼女はアルティナの付き人を辞めた。もっとも、正式には辞任ではなく休暇ということになっている。だが、彼女に戻る意思はなかった。二ヶ月間、一度も王宮には行っていない。
 そのため、彼女には時間が有り余っていた。花壇はその時間を埋めるために作っているようなものだった。また、気持ちを落ち着けるためでもあったのだろう。何でもないように振る舞ってはいたが、自分が引き起こした惨事の重みを忘れたわけではない。
 サイファは知っていた。今でもときどき彼女が夢にうなされていることを。いくら気丈な彼女とはいえ、眠っているときは心が無防備になるのだろう。そんなとき、自分に出来ることは少ない。どうしようもなく無力だと思う。
 レイチェルは振り返ることなく、水やりを続けていた。窓際からの視線には気づいていないようだ。後ろ姿がとても無防備に見えた。
 サイファは足音を立てないよう庭に降りた。背後からそっと近づいていき、小さな彼女を包み込むように抱きしめる。金色の髪がふわりと空気をはらんだ。
「え? サイファ?」
 レイチェルは傾けていたじょうろを水平に戻した。そして、抱きすくめられたまま、わずかに首をまわして彼を見た。大きな目をぱちくりさせて尋ねる。
「どうしたの? ずいぶん早かったのね」
「ただの休憩だよ。君に会いたくなった」
 サイファは彼女にまわした腕に、ぎゅっと力を込めた。
「何か、話があるんじゃない?」
 レイチェルは優しい声で尋ねた。いつもより緩やかな口調だった。
 サイファは腕を放した。体ごと振り向いた彼女と視線を合わせ、ふっと柔らかく微笑む。
「少し、歩こうか」
「ええ」
 レイチェルは上品に頷いた。長い髪がさらりと小さく揺れた。

 そこは、王宮の外れにある小さな森だった。生い茂った枝葉の隙間から、幾多の細い光が地面に降りている。風が吹くたびに、光が揺らぎ、緑のざわめきが起こった。
 その森の散歩道を、ふたりは並んで歩いた。他に人影はない。
「アンジェリカのこと?」
 レイチェルは唐突に切り出した。
「よくわかったね」
 サイファはにっこりと微笑みを向ける。彼女のこういう鋭さは今に始まったことではない。特に驚きはしなかった。おそらく、庭で抱きしめたときには、すでに見透かされていたのだろう。
「相談、なんだけどね」
 サイファはそう前置きをして語り始めた。緩慢とした足どりで歩きながら、アンジェリカが誤解していること、そして、どのように誤解しているかを、順を追って丁寧かつ明瞭に説明する。
「つまり、まだあの子は自分が長くは生きられないと思っているんだ」
「そう……」
 レイチェルは顔を曇らせた。アンジェリカが何か悩んでいることは感じていたが、まさかこのような突拍子もないこととは、そして、ここまで深刻なこととは思わなかった。
「私たちは、どうすればいいと思う?」
 サイファは前を向いたまま、険しいくらいに真剣な顔で尋ねた。
 レイチェルは深く顔をうつむけて考え込んだ。横髪が頬にかかり、顔に陰を作っている。そのまま固まったように、微動さえしない。
 しばらく沈黙が続いた。
 やがて、小さな口だけが動く。
「真実を、話すしかないんじゃないかしら」
 重々しく紡がれた言葉。その響きから、浅い考えではないとわかる。話せばどうなるか、彼女なりに熟慮したのだろう。そのうえで、そうするしかないと結論を出したのだ。
 サイファは苦しげに目を細め、無言で空を見上げた。木々の切れ間から、濃い青色が覗いている。ここから雲は見えなかった。
 レイチェルは頭を持ち上げ、彼の端整な横顔をじっと見つめた。
「サイファもそう思っているんでしょう?」
「ああ、でも、今日までずっと決心がつかなかったんだ。怖かったんだ」
 サイファは淡々と答えた。ズボンのポケットに手を入れると、ふっと笑って顔をうつむける。
「情けないね」
「私だって、怖いわ」
 レイチェルは静かに言葉を落とした。強い光をたたえた瞳を、まっすぐ彼に向ける。
 サイファは薄く微笑んだ。
 彼女の強さがうらやましかった。怖いと言っているものの、すでに覚悟を決めた目をしている。自分は決心をつけるまで幾日かかっただろうか。いや、いまだに迷いが捨てきれていない。
「レイチェル、君はそれでいいの?」
 最後の意思確認をする。答えは聞かなくてもわかる。それでも尋ねたのは、彼女のためではなく、自分のためだったのかもしれない。
「サイファさえ良ければ」
 レイチェルはしっかりと彼を見据えて言った。静かだが、芯のある声だった。そして、その内容は、彼の思ったとおりのものだった。
 わずかに残っていた心の砦が崩れた。
 サイファは彼女に手を伸ばし、薄紅色の頬をそっと包み込んだ。そして、愛おしげに微笑みかけて言う。
「腹をくくるよ」
「ええ、私も」
 レイチェルも同調し、柔らかな微笑みを返した。

 サイファは腕を組むと、険しい顔で空を仰いだ。難しい現実に向き合わなければならない。
「何をどう話すか、考えておかないとな」
「ねぇ、私が話してもいいかしら」
 レイチェルは訴えかけるような眼差しで、少し遠慮がちに言う。
 サイファ目を大きくして彼女に振り向いた。それは、一家の長としての自分の役目と思っていた。彼女が話すなどということは選択肢にさえなかった。だが、言われてみれば、確かに彼女の思いも理解できる。
「話しづらくはないか?」
「それでも、私の責任だから」
 凛とした表情、凛とした声、凛とした佇まい。彼女はすべてを受け止めているようだ。いつかこういう日が来ることを予測していたのだろうか、とサイファは思う。彼女を見つめたまま、じっと考え込み、静かに口を開く。
「わかった、任せるよ。私はいない方がいいかな」
「ええ……」
 レイチェルの瞳がわずかに揺れた。申しわけなさそうに目を伏せる。
 サイファはそんな彼女を気遣い、安心させるように微笑んだ。だが、うつむいたままの彼女に、伝わったかどうかはわからない。
「いつ、話すんだい?」
「今日にでも」
 レイチェルは短く即答した。アンジェリカが悩み続けている以上、少しでも早いに越したことはない。サイファにも異存はなかった。神妙な顔で頷く。
「わかった。私は今夜は帰らない。じっくり話すといい」
「ごめんなさい」
 レイチェルは胸の前で手を組み合わせ、心苦しそうに謝罪の言葉を口にした。このことだけでなく、これまでのすべてのことについて謝罪したかった。だが、それをどう言えばいいのか、それ以前に、言っていいのかさえわからなかった。言葉は続かなかった。
 それでも、サイファには十分に伝わった。
 彼は、彼女が何を言いたがっているのかを理解していた。彼女の口をつぐませたのは自分であることも自覚していた。たとえ二人きりのときであっても、そのことは二度と口にしない——そう約束させたのは自分なのだ。もう14年以上も前のことである。
「謝るのは私の方だ。ずっと秘密を守り続けるのはつらかっただろう」
「いいえ、サイファの判断が正しかったことは知っているから」
 強い突風が吹いた。レイチェルの細い髪が舞い上がった。ドレスの形が大きく変わった。木々のざわめきが波を打って空に抜けた。いくつかの木の葉が空からはらはらと舞い降りてきた。
 サイファは目を細め、ふっと笑った。
「そろそろ仕事に戻るよ」
 レイチェルは急に不安に襲われた。彼の笑顔がどこか寂しげだったからかもしれない。どこか諦めたような声音だったからかもしれない。彼の右手を取り、両手で包み込んだ。
「サイファ、帰ってきてね」
「ああ、あしたね」
 サイファは彼女の肩に左手を置き、柔らかい頬に、そっと触れるだけの口づけを落とした。

 魔導省の塔、その最上階の一室がサイファの個室だった。
 少し狭い部屋から、この広い部屋に移り、はや数ヶ月が経過していた。初めは広すぎると思ったこの場所も、今ではもう違和感を覚えることはなくなった。むしろ、仕事をするには理想的と感じるようになっていた。彼は部屋に、部屋は彼に馴染んでいた。
 だが今日は、この理想的な部屋でさえ、仕事が手につかなかった。
 頭の回転がやたらと鈍く、集中力が途切れてしまう。かつてこのようなことはなかった。思考の切り替えは得意なはずだった。だが、今日は切り替える余裕もないくらいに、思考領域のほとんどが他のことに占められている。
 とはいえ、今日中に終えなければならないものもある。それだけは何とか片付けた。すべて書類上の仕事だった。会議はひとつもなかった。そのことには心から安堵した。今日はまともな議論が出来る状態ではない。
 革張りの背もたれに身を預けながら、疲れたように大きく息をつく。
 椅子を180度まわし、一面のガラス窓から外を眺めた。いつのまにか、すっかり闇が空を覆っていた。眼下には家々の灯りが点在している。色も形も大きさも様々だ。その灯りのもとには、人が、家族がいるのだろう。灯りと同じように、様々な人が、様々な家族が——。
 顎を上げ、目を閉じた。わずかに目蓋が震えた。
 くるりと椅子を戻し、外界に背を向ける。机上に散らばる書類を重ね、棚の中にしまった。
 ——切り上げよう。
 心の中で踏ん切りをつけると、部屋の鍵を手に取り立ち上がった。

 アンジェリカは夕食のあと、リビングルームでくつろぎながら本を読んでいた。アカデミーの勉強とは関係ないが、魔導の本である。趣味のようなものだ。
「アンジェリカ、お茶を淹れたから休まない?」
 レイチェルがトレイにティーカップを載せて入ってきた。にこやかに微笑みかける。
「ありがとう」
 アンジェリカは屈託のない笑顔を返すと、しおりを挟んで本を閉じ、すぐ隣に置いた。
 レイチェルはふたつの紅茶をテーブルに配り、アンジェリカの向かいに腰を下ろした。ソファが軽く沈む。
「どうぞ」
 きれいに指先が揃えられた手で促しながら、その紅茶をアンジェリカに勧めた。
 そして、レイチェル自身もソーサとティーカップを手に取った。熱い紅茶を少しだけ口に運ぶと、流れるような所作でソーサに戻した。
「ねぇ、アンジェリカ」
「ん?」
 アンジェリカはティーカップに口をつけたまま目線を上げた。
「お父さんのこと、好き?」
「もちろんよ。どうして?」
 紅茶を手にしたまま、不思議そうな顔で尋ね返す。母親からの質問は、随分と唐突なものだった。今までこんな質問をされたことがあっただろうかと考える。自分が記憶している限りではなかったはずだ。何かあったのだろうか。漠然とした不安が湧き上がった。
 だが、レイチェルは何も答えを示さなかった。ただ優しい微笑みを見せるだけだった。

 コンコン——。
 扉が軽快にノックされた。
 ダイニングテーブルで生徒の卒業論文を読んでいたラウルは、手を止めて立ち上がった。掛時計にちらりと目をやる。まだそれほど遅い時間ではない。患者だろうかと思う。無言で玄関へ向かい、鍵をまわして扉を開いた。
「やあ、ラウル」
 そこに立っていたのはサイファだった。いつものように軽い笑顔を浮かべながら、軽い口調でそう言い、軽く右手を上げた。左手は皺だらけの紙袋を無造作に掴んでいる。
 ラウルは眉根を寄せ、強く睨みつけた。
「何の用だ」
「入れてくれ」
 サイファは質問には答えず、自分の要求のみを口にした。
「帰れ」
 ラウルは冷たくあしらい、扉を閉めようとする。
 だが、サイファはそれを阻んだ。靴の裏で蹴りつけるようにして、扉を元の位置に戻した。顎を引き、挑戦的な鋭い視線を突きつける。
「おまえに断る権利はないんだよ」
 氷のような冷たさでそう言うと、肩をぶつけながらラウルの横を通り抜け、許可のないまま部屋へと足を踏み入れた。
 ラウルは眉をひそめ、その背中を睨みつけた。だが、もう止めはしなかった。こういうときのサイファには、何を言っても無駄である。ため息をつきながら扉を閉めた。

 サイファがここへ来るのは二度目だった。最初のときも強引に押し入った。招かれたことは一度もない。
「何の用かくらい言ったらどうだ」
 あとから入ってきたラウルが、不機嫌そうな低い声で尋ねた。少し離れたところで、立ったまま腕を組む。
 サイファは茶色の紙袋に覆われた物を、ダイニングテーブルの上にドンと置いた。そして、外側の紙袋だけを乱暴に引き破る。中から、琥珀色の液体が入ったボトルが姿を表した。かなり上等そうに見える。まだ封は切られていない。新品のようだ。
「一晩、付き合えよ」
「静かにしろ、ここには……」
 ラウルが何かを言いかけたとき、寝室から小さな影が現れた。それは、小さな女の子——ラウルの娘のルナだった。目を擦りながら、寝ぼけた様子でぼうっと立ち尽くしている。
 サイファは驚いてその女の子を見下ろした。もちろん、ラウルに娘がいることは知っていた。何度か会ったこともある。だが、親子一緒の姿を目にすることが少ないせいか、あまり実感はなく、このときはすっかり頭から抜け落ちていた。
 ——静かにしろ、ここには……。
 先ほどのラウルの言葉がよみがえる。その続きは「ルナがいる」だったのだろう。
「ラウル……?」
「起こしちゃってごめんね」
 サイファはしゃがんでルナと目線を合わせると、人なつこく微笑みかけた。そして、驚いて目を丸くしている彼女を、両腕でゆっくりと抱き上げた。思ったよりも重かった。
「おじさん、だれ?」
 ルナは少し怯えた様子で尋ねた。サイファとは何度か顔を会わせているはずだが、幼すぎたため記憶に残っていないのかもしれない。もしくは、単に寝ぼけているだけという可能性もある。どちらにしろ、たいした問題ではない。
「ラウルの友達だよ」
「赤の他人だ」
 満面の笑みで口にしたサイファの返答を、ラウルは間髪入れず横から否定した。その素早さと必死さが可笑しくて、サイファは吹き出しそうになった。
「あかのたにん?」
 ルナはラウルに振り向き、大きな目をぱちくりさせて尋ねた。
「説明してやれよ」
 サイファは明らかに面白がっていた。声がすでに笑っている。
 ラウルはムッとして睨みつけた。大またでサイファに歩み寄ると、その腕から娘を奪い取った。片手で抱きかかえたまま、暗い寝室へ連れていく。
「今度きちんと説明してやる。今日はもう寝ろ」
「はぁい」
 そんな会話が寝室から聞こえてきた。
 サイファは目を細め、表情を緩めた。父親としてのラウルが見られて、少しだけ嬉しかった。

 しばらくして、ラウルがひとりで戻ってきた。ルナを寝かしつけてきたのだろう。寝室の扉をそっと閉める。
「ずいぶん喋るようになったね」
 サイファは勝手に椅子に座っていた。ダイニングテーブルに頬杖をつき、にこにこと笑顔を浮かべている。
 ラウルは立ったまま腕を組んだ。上からサイファを見下ろして命令する。
「ルナを起こさないよう静かにしろ。出来なければ帰れ」
「父親としての自覚が芽生えてきたか」
 サイファは目をそらさずにそう言うと、意味ありげに小さく笑った。
 ラウルは眉をひそめて睨みつけた。
「何が言いたい」
 唸るような低音で詰問する。
 だが、サイファはまるで動じなかった。静かな笑みを浮かべたまま、穏やかな口調で続ける。
「おまえの家族ごっこは、いつまで持つかな」
「追い出すぞ」
「グラスを二つ、頼む」
 ラウルはため息をついた。
「私は飲まない。ひとつなら出してやる」
「飲めないわけじゃないんだろう。今日くらい付き合えよ」
「理由があるなら言え」
「今日で終わるかもしれない。私の“家族ごっこ”がね」
 サイファは感情を見せず、淡々と言った。テーブルの隅に視線を落とす。そこに何かがあったわけではない。ただ、少し逃げたかっただけだろう。
 ラウルは無言で台所へ向かった。戸棚からグラスをふたつ手に取ると、大きな足どりで戻ってきた。それをボトルの横に置き、卒業論文の束を後ろの棚に片付け、サイファの向かいに座る。
「雰囲気のないグラスだな」
「贅沢を言うな。これしかない」
 グラスは生活感あふれる無骨なものだった。水やジュースを飲むためのものだろう。高級酒に相応しくないことは、誰が見ても明らかである。
 サイファはボトルを開け、ふたつのグラスに琥珀色の液体を注いだ。底から指二本分ほどの量だった。氷をもらおうと思ったが、このままでもいいかと思い直す。ひとつをラウルの前に差し出し、もうひとつは自分の前に置いた。
「何に乾杯しようか」
「乾杯などしなくていい」
 ラウルは冷ややかに撥ねつけた。
 サイファはくすりと笑い、自分のグラスを手に取った。
「ふたりの父親に乾杯、かな」
 どこか楽しげな口調でそう言うと、睨みをきかせているラウルに、掲げたグラスを小さく傾けて見せた。

 ふたつのティーカップが、ほぼ同時にテーブルに戻された。両方とも底が見えている。
「もう一杯いる?」
「私はもういいわ」
 アンジェリカは笑顔で断った。中断していた読書を再開しようと思い、隣に置いてあった本を手に取ろうとする。
「ねぇ、アンジェリカ」
「なに?」
 母親に呼びかけられ、本に手を掛けたまま顔を上げる。
 レイチェルは優しい微笑みを浮かべて言った。
「サイファから聞いたわ」
「え? 何を?」
「あなたの自分自身についての推測」
 アンジェリカは口を閉じたまま、大きく目を見開いて母親を見た。具体的な説明はなかったが、彼女が何について言っているのかは、これだけでも十分に理解できた。そう、遺伝子異常のことだ。父親にも言ったことはなかったが、おそらくラウルから聞いたのだろう。緊張のためか、頭が熱くなり、手が冷たくなった。ぎこちなく口を開く。
「間違って、いないでしょう?」
「間違っているわ」
 レイチェルは滑らかに答えた。
 だが、それでもアンジェリカは信じなかった。苦い顔で目を伏せる。母親も嘘をついているのだろうと思った。違うというのなら、本当のことを教えてほしい。出来るわけはない——心の中で毒づく。
「真実を、聞きたい?」
「えっ?」
 思いがけない発言を耳にし、アンジェリカは驚いて顔を上げた。自分の聞き違いかと思った。
 レイチェルは優しく微笑んでいた。
「あなたに聞く覚悟があれば、今、ここで話すわ」
 アンジェリカは片眉をひそめながら、身を乗り出して尋ねる。
「本当に、本当のことなの? 作り話で私を騙して納得させようとしていない?」
「本当の話よ」
 深く澄んだ蒼い瞳が、正面から彼女を捉えた。
 アンジェリカはその双眸に吸い込まれそうに感じ、少し目眩を覚えた。
 ——きっと、嘘は言っていない。
 それは直感だった。論理的な根拠は何もない。だが、信じていいと思った。信じようと決めた。
 その途端、急に怖くなった。
 うつむいてきゅっと口を結び、じっと考え込む。頬に黒髪がかかった。本の上に置いた手を、ゆっくりと握りしめる。手のひらに汗が滲んだ。
 自分は何を悩んでいるのだろう。悩むことなど何もないはずだ。ずっと知りたかったことである。その機会を逃すなど、ありえないことだ。ただ心の準備が出来ていないだけ。落ち着こう——。胸に手をあて、深呼吸をする。
「教えて」
 静かにそう言うと、緩やかに顔を上げる。そして、強い力を秘めた漆黒の瞳を、まっすぐレイチェルに向けた。

 ラウルとサイファは向かい合ったまま、静寂の中でグラスを傾けていた。最初は文句を言っていたラウルも、今は大人しくサイファに付き合っている。ふたりとも緩いペースで飲んでいた。最初に注いだ量の半分も減っていない。
「美味いだろう? とっておきだったんだ」
 サイファはグラスを目線の高さまで持ち上げ、深みのある澄んだ琥珀色を見つめると、満足そうに口元を上げた。この液体を通してラウルを見ようと思ったが、量が少ないせいか上手くいかなかった。
 ラウルはグラスを手に持ったまま、冷めた目を向けた。
「酒に逃げるとは感心しない」
「今日だけさ」
 サイファは澄ました顔で言った。
 ラウルはグラスをテーブルに置いた。
「レイチェルにすべて押しつけてきたのか」
「違うよ、彼女の希望だ。ひとりで真実を話すとね」
 サイファはそう言うと、おもむろに頬杖をつき、じっと目の前の彼を見つめた。
「だから、今晩は帰れない。朝まで付き合ってもらうよ。それくらいはしてくれるんだろう」
 ラウルはムッとして眉をひそめた。
「何がそれくらいだ。今までさんざん利用してきただろう」
「それでもまだ足りないと思ってるんだけどね」
 サイファは無邪気なくらいの笑顔を見せると、一気にグラスの残りを飲み干した。それほど量はなかったが、それでも喉の奥がカッと熱くなった。テーブルの中央に置いてあったボトルを手に取り、自分で自分のグラスに注いだ。最初よりも少し多かった。
「飲み過ぎるな」
「それは、友としての助言か? 医者としての忠告か?」
「巻き込まれて迷惑なだけだ」
 ラウルはつれない答えを返すと、サイファの手元にあったボトルを、テーブルの中央に引き戻した。

 アンジェリカの真剣な表情を見て、レイチェルは柔らかく頷いた。暫しの時間、顔を下に向ける。そして、ゆっくりと顔を上げる。微笑みは消えていた。
 アンジェリカの緊張はさらに強くなった。それに耐えるように、小さな口をきゅっときつく結んだ。額には薄く汗が滲んでいた。胸が張り裂けそうで、もう声が出せる状態ではない。ただ無言で母親の言葉を待つ。
「アンジェリカ」
 桜色の唇がそっと開き、優しい音色で名前を呼んだ。そして、一呼吸おいて続ける。
「あなたは、ラウルの子供なのよ」
「……えっ?」
 ごく短い言葉を発したきり、アンジェリカの動きが止まった。表情も固まっている。
「あなたは、ラウルの子供なの」
 レイチェルはもういちど同じ抑揚で言った。
 アンジェリカは懸命に頭を働かせる。
「わ、私……このうちの子じゃなかった……って、こと……?」
「いいえ、そうじゃないの。あなたを産んだのは私よ」
「それって、どういう……」
 まるで謎掛けだった。少なくとも彼女はそう感じた。ますます混乱した。糸がもつれるように思考が絡まる。やがて、諦めたように思考が停止する。もしかすると、理解することを無意識のうちに拒絶していたのかもしれない。
 レイチェルは少し困ったように微笑んだ。
「あなたは、私とラウルの間の子供なの。意味はわかるわね?」
「あっ……」
 喉の奥から小さく声が漏れた。
 これが、真実。
 これが、本当のこと。
 言えなかった理由。
 私がラグランジェの他の人とは違う理由。
 でも、どうして?
 どういうこと?
 大きく開いたままの瞳から、無意識のうちに涙の粒が零れ落ちた。
「そうよね、驚くわよね」
 レイチェルは申しわけなさそうに、曖昧な微笑みを浮かべて言った。
 アンジェリカの涙は止まらなかった。
 悲しいわけではない。つらいわけではない。いや、それらもあったかもしれない。言葉では説明しようのないくらい、雑多で、複雑で、矛盾した感情が、内側から一気に湧き上がった。それは、彼女の許容量を遥かに超えていた。自分の中で処理しきれなかった分が、涙となって溢れ出しているのだろう。
 流されるままの涙は、頬を伝い、手の甲やスカートに落ちていく。
 レイチェルはただ穏やかに見守っていた。

 やがて、アンジェリカは少しずつ落ち着きを取り戻した。レイチェルから差し出されたハンカチで涙を拭い、深呼吸して息を整える。
「お父さんは、このこと……」
「知っているわ、あなたが生まれる前から」
 レイチェルの小さな口から、落ち着いた声が紡がれる。
 アンジェリカは濡れた瞳で彼女を見つめ、無言で耳を傾けた。
「サイファのおかげなのよ。今、私たちがこうしていられるのは。ラグランジェ家に真実を知られていたら、あなたが生まれることはなかったし、私も生きていなかったかもしれない」
 アンジェリカは胸を押さえて息を呑んだ。決して大袈裟な物言いではない。ラグランジェ家なら、曾祖父なら、平気でそのくらいのことはするだろうと思った。
「サイファはただの一度も私を責めず、すべてを引き受けてくれたの。何もわかっていなかったあの頃の私と、おなかの中のあなたを、身を呈して全力で守ってくれたわ」
 目頭が熱くなる。鼻の奥がつんとする。
 父親の顔を思い浮かべた。笑顔だった。そう、彼はいつだって笑顔を向けてくれていた。
 ——お父さん。
 心の中で呼びかける。再び、涙が溢れ出した。先ほどとは違い、とても熱い涙だった。
 うつむきながら、濡れた頬をハンカチで拭いた。
「でも、どうして……」
 とまどいがちにそう切り出し、ゆっくりと顔を上げる。漆黒の瞳は、不安に怯えるように小さく揺れていた。
「お母さんにとって、お父さんとの結婚は、望まないものだったの? 親が決めたから仕方なく? お父さんのこと、好きじゃなかったの……?」
 レイチェルは生まれたときから、サイファのもとへ嫁ぐことが決められていた。親どうしが決めた結婚だった。そのことは知っていた。だが、そんなことを感じさせないくらいに、ふたりはとても仲が良さそうに見えた。仲が良いと信じていた。だから、どうしても聞きたかった。
 レイチェルは優しい声できっぱりと答える。
「いいえ、ずっと大好きだったわ。もちろん、今も」
「ラウルは?」
 アンジェリカはさらに尋ねかけた。瞳の奥を探るように見つめる。
 レイチェルはわずかに目を細めた。遠くに思いを馳せるような、どこか物憂げな微笑みを浮かべた。
「ラウルも、好きだったわ」
「……今も?」
「ええ」
 迷いのない答え。とても落ち着いた声だった。
 アンジェリカは複雑な表情でうつむいた。どう反応すればいいかわからなかった。それ以前に、どう受け止めればいいかさえ、わかっていなかった。
「軽蔑されても当然だと思っているわ」
 レイチェルは、一瞬だけ、つらそうな表情を見せた。それを微笑みで包み隠す。
「でも、サイファとともに生きていくと決めたから、今は……」
「お父さんに恩があるから?」
 アンジェリカはうつむいたまま、遠慮のない率直な質問を投げかけた。
 レイチェルは小さく息を呑んだ。ゆっくりと目を閉じ、そして、ゆっくりと目を開く。
「……そう、かもしれないわね」
「ラウルは? ラウルもお母さんのことが好きだったんじゃないの?」
 今度は、顔を上げて尋ねた。問いつめるような強い口調だった。その声の厳しさに、自分自身で驚いた。感情が昂ってきたせいかもしれない。
 レイチェルの蒼い瞳が揺れた。
「申しわけなく思っているわ。結果的に裏切ってしまったから。きっと、傷つけたから……」
「ああ……」
 アンジェリカはため息まじりの声を上げ、つらそうに顔を歪めると、ソファの上に膝を立てて顔を埋めた。両手で頭を抱え込む。
 一気になだれ込んできた信じがたい事実が、心に重くのしかかる。
 でも、実感はない。自分の知っている現実と繋がらない。
 頭が混沌としていた。頭痛がする。ぎゅっと目をつむり、後頭部を押さえる手に力を込めた。

 ダイニングテーブルで向かいあったまま、ラウルとサイファは静かに飲み続けていた。ときどきサイファが話を振り、ラウルが面倒くさそうに答える。その繰り返しだった。
「飲まないと言ったわりには、よく飲んでるよな」
 サイファは呆れたように言った。
 ボトルの中身はもうほとんどなくなりかけていた。その八割くらいはラウルが飲んだ。だが、顔色も口調もまったく変わらず、酔っている気配はない。
「私が飲まなければ、おまえが飲むだろう。強くもないくせに」
「へぇ、気遣ってくれているのか」
 サイファは頬杖をつき、ニッと口の端を上げた。上目遣いでラウルを見る。
 だが、彼の答えはつれないものだった。
「ここで酔いつぶれられたら、私が迷惑を被るからな」
「そのつもりで来たんだよ。おまえに迷惑をかけたくて、な」
 サイファはグラスの口を爪で弾いた。高い音が小さく鳴った。
 ラウルはムッとして彼を見下ろした。
「謝れといいたいのか」
「いや、謝れと言っても謝らないだろう?」
「ああ」
 当然のようにそう答え、グラスを口に運んだ。残りを一気に流し込む。
 サイファはふっと笑った。
「おまえに迷惑をかけるのは、私の趣味だと思ってくれ」
「甘えているだけだろう」
「まあな。気兼ねなく甘えられるのは、おまえくらいだからな」
「少しは気兼ねしろ」
 ラウルはボトルを手に取り、残り少なくなっていた液体を自分のグラスに注ぎきった。
「いつまで居座るつもりだ」
 空のボトルをテーブルの隅に置きながら、ぶっきらぼうに尋ねる。
「夜が明けるまでさ」
 サイファはさらりと答える。
 ラウルは掛時計に目を向けた。
「そろそろだ」
「ああ」
 サイファは重い声で同意すると、グラスを持って立ち上がった。窓の方へ足を進め、そっとカーテンを開ける。まだ太陽は見えないが、ほんのりと空の下方が白み始めていた。
 窓枠に手を掛け、外の一点を見つめながら、間もなく訪れるであろうそのときを無言で待った。ラウルも無言だった。物音さえしない。部屋は静寂に包まれていた。
 やがて、地平の向こうから光があふれた。解き放たれたように空へ広がる。部屋へも飛び込んできた。正面からその光を受けたサイファは、眉根を寄せ、目を細めた。グラスの残りを一気に呷る。
「夢から醒める時間、かな」
 その声には寂寥感が滲んでいた。ゆっくりと部屋の中のラウルに振り返り、窓枠にもたれかかる。そして、空疎な笑みを浮かべると、静かに口を開いた。
「これまで必死に守ってきた。どんな手を使っても守り通そうと思っていた。だけど、アンジェリカには敵わなかったよ。最も手強い相手だったね」
 顔を隠すように深くうつむく。金の髪がはらりと頬にかかった。
「知らせたくはなかった。ずっと、“本当の父親”でいたかったよ」
 低く沈んだ声で、つぶやくように言った。
 ラウルはうなだれたままの彼を見つめた。肩がわずかに揺れていた。
「諦めるのが早いな」
「現実を見ているだけさ」
 サイファの声はもう平常に戻っていた。すっと背中を伸ばし、まっすぐラウルに目を向ける。背後から照らす光が、金の髪を鮮やかに煌めかせた。
 ラウルはテーブルに肘をつき、深いため息を落とした。
「この14年という年月も現実だろう」
「14年、か……」
 サイファには、それが長いのか短いのかわからなかった。アンジェリカが生まれて、ここまで成長したことを思えば、それなりに長い時間といえるだろう。だが、実感としては、あっというまだったような気がする。
 ラウルは無表情で続ける。
「家族は血で作られるわけではない、共に過ごした時間で作られていくものだ——それが、おまえの考えではないのか」
「ああ、だけど理想論だよ。アンジェリカがそれを受け入れるかはわからない」
 サイファは真面目な顔で答えた。それはあくまで自分の理想であり、アンジェリカの理想は違うものかもしれない。もし、同じ理想を持っていたとしても、その理想を現実としては受け入れられないかもしれない。理想と現実は、得てして乖離しているものだ。
 そんなことを考えながら、ふっと寂しげに表情を緩めた。
「さてと、そろそろ帰るよ」
 寄りかかっていた窓枠から体を離し、ラウルの方へ歩いていく。
「こんな時間まで悪かったな」
 そう言いながら、空のグラスをそっとテーブルに置いた。
 ラウルは立ち上がった。口を閉じたまま、無言で立ち尽くしている。何か言いたげに見えたが、サイファは何も訊かなかった。
「じゃあな」
 軽い別れの言葉を口にすると、扉の方へ颯爽と足を進めた。だが、ドアノブに手を掛けたところで、急に動きを止めた。背を向けたまま、つぶやくように言う。
「もしかしたら、今度のことで、おまえにも迷惑を掛けることになるかもしれないが……」
 そこで言葉を切った。暫しの間ののち、小さくふっと息を漏らした。
「いや、自業自得だな」
 笑いを含んだ声でひとり納得したように言うと、振り返ることなく、軽く片手を上げて出て行った。医務室の扉を開閉する音が、ラウルの耳に微かに届いた。

 頬を撫でる空気が冷たい。吸い込むとさらに冷たい。痛いくらいに染み渡っていく。
 サイファは酔いが醒めるのを感じた。
 まだ明るくなりきっていない空を見上げ、息を吐きながら目を細める。グラデーションはすでにかなり拡散していた。そろそろ人々が動き出す時間に差し掛かろうとしている。
 家へ近づくにつれ、自分の鼓動が強くなるのを感じた。
 レイチェルは起きているだろうか。さすがにこの時間まで待っていることはないだろう。帰らないと言ってあったのだ。寝ていたら起こそうかどうしようか迷う。出来れば、先にアンジェリカの様子を聞いておきたい。対応方を考えたいのだ。

 迷っているうちに、家に着いてしまった。
 眠っていたら、一度、優しく起こしてみよう。それで起きなければ、起きるまで待とう——そう結論を出し、重厚な扉に手を掛けた。そろりと音を立てないように開く。
 だが——。
「お父さん遅い! 朝帰りじゃない」
 アンジェリカがリビングルームから飛び出してきた。寝るときの格好ではない。ハイネックの黒いセーターにチェック柄のミニスカート、つまり、まったくの普段着だった。サイファの前に駆けつけると、両手を腰にあて、頬を膨らませた。少し前屈みになり、上目遣いで睨むようにして覗き込む。
 それは、幻聴でも幻覚でもない。まぎれもなく彼女はここにいる。
 想定外の展開に、サイファは驚きを隠せなかった。
「そんな言葉、どこで覚えたの」
 そのことに驚いたわけではない。だが、なぜかそんな重要度の低いことを口にしていた。そう言いながら、考える時間を稼いでいたのかもしれない。
 アンジェリカは怪訝な表情で、首を傾げた。
「お酒くさくない?」
「ああ、ラウルのところで飲んでて……」
 突然、アンジェリカは正面からサイファに飛びついた。胸に顔を埋め、背中に手をまわし、ぎゅっと力を込める。
 サイファは大きく目を見開いた。
 少し離れたところにはレイチェルが立っていた。優しい眼差しでふたりを見守っていた。

「お母さんから、本当のことを聞いたわ」
 静かな落ち着いた声。
「つらくは、なかったの?」
 サイファの胸に顔を寄せたまま、アンジェリカは囁くように問いかける。
「……少しはね」
 サイファは正直に答えた。今さら嘘をつくことに何の意味もない。彼女も本当のことが聞きたいはずだ。ずっとそれを望んでいたのだ。
「私のこと、憎くないの?」
「そんなふうに思ったことは、一度だってないよ」
 それは、嘘偽りのない事実だった。だが、信じてもらえるだろうか、と少し不安に思う。彼女の華奢な背中に両手をまわし、そっと優しく抱きしめた。
「私ね、生まれてきて本当に良かった。今は、心からそう思っているわ」
 そう言ったアンジェリカの声は少し固かった。体も少し強張っていた。大きく息を吸い込んだのが、体を通して伝わってきた。腕の中の少女に、サイファは気遣うような目を向けた。
 アンジェリカは顔を上げ、彼と視線を合わせた。にっこりと微笑む。
「だから、ありがとう。私を生かしてくれて。私とお母さんを守ってくれて」
 精一杯の感謝を込めてそう言った。サイファがいなかったら、サイファの判断が違うものだったら、自分はここにはいなかった。そのことを想像するだけでも怖い。だから、この気持ちだけは伝えたかった。
 そして、出来れば——。
「これからも、ずっと私のお父さんでいてくれる?」
「いいの?」
 サイファは思わず尋ね返した。
 そんな彼に、アンジェリカは口をとがらせ、少し怒った顔を見せる。
「訊いてるのは私なんだけど」
 サイファは柔らかく微笑んだ。愛おしげに彼女を見つめると、黒髪に手を差し入れ、梳くように滑らせる。
「ああ、もちろんだよ。これからも、ずっと私の娘でいてくれると嬉しい」
「良かった」
 アンジェリカはほっと安堵の息をつきながら笑った。笑いながら、次第に瞳を潤ませていく。慌ててうつむくと、目元を人差し指でそっと拭った。
「なんだか安心したら眠くなっちゃった」
 明るく言ったその声には、微かに涙が混じっていた。
「私、寝てくるわ。今日もジークのお見舞いに行かなくちゃいけないし」
 そう言いながら、顔を隠すようにしてサイファから離れ、階段へと駆けていく。数段上がったところで、くるりとスカートをひらめかせて振り返り、照れくさそうにはにかんで見せた。
「おやすみなさい、お父さん、お母さん」
 サイファとレイチェルは、意地っ張りな愛娘に微笑みを向けた。
「おやすみ、アンジェリカ」
「おやすみなさい」
 ふたりはそれぞれ挨拶を返し、二階へ駆け上がっていくアンジェリカを見送った。

「お帰りなさい」
「ただいま」
 玄関に残されたふたりは、いつもどおりの挨拶をして、微笑みを交わした。どちらともなく手を伸ばし、自然な流れで抱き合う。互いの温もりを確かめるように、そのまま動きを止めた。
「ずっと、起きてたの?」
 サイファは囁くような優しい声で尋ねかける。
 レイチェルは、彼の温かい胸元に頬を寄せたまま、小さく微笑んだ。
「ええ、今夜は帰ってこないって言ったんだけれど、あの子、いつまででも待つってきかなくて」
「ずいぶん待たせてしまったね」
 サイファも目を細めて微笑んだ。彼女の背中にまわした腕に、少しだけ力を込める。
 レイチェルは顔を上げ、大きな瞳を彼に向けた。
「ずっと、ラウルのところにいたの?」
「ああ、一晩中、酒を飲みながら、嫌味を言って絡んでいたよ」
「まあ」
 レイチェルは口元に指を添え、くすくすと笑った。彼女にはわかっていた。そして嬉しかった。その行動は、憎しみからくるものではなく、彼なりの甘えである——。彼もまた、ラウルに好意を持ち、慕っているのだ。子供の頃から今に至るまで、その気持ちの根本的な部分は変わっていないのだろう。
 サイファは彼女の細い髪に指を絡めた。その一本一本は薄く透き通っているように見えた。とてもきれいだが、とても頼りない。
「壊れてしまうと思っていた」
「私も、覚悟はしていたわ」
 レイチェルの声には、どことなく固さが感じられた。そのときの心情を思い出したせいだろう。
「強い子だね」
 サイファは二階の方へ視線を向けて言った。
「すぐに結論を出したわけじゃないのよ。すごく思い悩んでいたわ」
「思い悩んで出した結論なら、なおさら嬉しいよ」
 アンジェリカのことだ。あらゆる現実を思い巡らせ、あらゆる可能性を想定し、そのうえでこの結論を選び取ったのだろう。真剣に悩んだ分だけ、その結論には重みがある。
「アンジェリカには、いくら感謝してもしたりないな」
 ゆったりと熱い吐息まじりに言う。
 レイチェルは優美な微笑みを浮かべた。
「私たち三人が家族として過ごした、この14年の積み重ねがあったからだと思うわ」
 サイファは一瞬だけ目を見開き、それからふっと小さく笑った。
 レイチェルは不思議そうに小首を傾げた。
「どうしたの?」
 サイファは帰宅する少し前の会話を思い浮かべていた。
「ラウルにも同じようなことを言われたんだ」
「ラウルに?」
 レイチェルは目をぱちくりさせた。
「私は血を否定していたつもりだったが、実際のところは、誰よりも血にこだわっていたのだろう。心のどこかで血のつながりには敵わないと思っていた。信じきれなかったんだよ。情けないな、本当に」
 サイファは落ち着いた口調で、淡々と心情を吐露した。最後の部分に、軽くため息が混じった。
 レイチェルは彼を見つめたまま、ゆっくりと首を横に振った。そして、再び、彼の胸に寄りかかった。
「サイファ、これからも、ずっと私の夫でいてくれる?」
「ああ、もちろん。君がずっと妻でいてくれると嬉しい」
 それは、アンジェリカのときと同じ言いまわしだった。ふたりは顔を見合わせ、穏やかに笑い合った。
「じゃあ」
 レイチェルは体を起こし、顔の横に左手を立てて見せた。指先をまっすぐに揃え、手の甲をサイファに向けている。
「持っているんでしょう?」
 わずかに首を傾げて尋ねる。
 主語はなかったが、サイファには何のことかすぐにわかった。ズボンのポケットに右手を差し入れて探る。そして、ゆっくりと手を引き、彼女が催促したものを取り出す。それは、プラチナの指輪だった。14年前、結婚指輪としてレイチェルに贈ったものである。先日の事故のときに、ルーファスの手を通して彼の元へ戻ってきたのだ。
「知っていたの?」
「そうじゃないかと思っただけ。指輪がないことに気づいていたはずなのに、何も言わなかったから」
 サイファはふっと表情を緩めた。彼女には敵わないと思った。
「君を縛り付けてしまう気がして、迷っていたんだ」
「今なら、もう迷うこともないでしょう?」
 レイチェルは可憐に愛らしく笑った。
 その笑顔に後押しされるように、サイファは彼女の左手をとった。細く、小さく、そして透き通るように白い。
「これからもずっと、私とともに歩んでいってくれるかい?」
「はい」
 レイチェルはサイファの目を見つめ、凛とした声で答えた。迷いは微塵も感じられなかった。
 サイファはプラチナの指輪を、彼女の左手の薬指にゆっくりと嵌めた。
「結婚式みたい」
 レイチェルは無邪気にくすりと笑った。
「そのつもりだよ」
 サイファは真面目な顔で答えた。彼女の左手を柔らかく包み込むように握る。
 レイチェルは顔を上げ、深く澄んだ双眸を彼に向けた。
 ふたりは手を繋いだまま、まっすぐに見つめ合った。
 互いに小さく一歩ずつ歩み寄る。
 そして、ゆっくりと口づけを交わした。
 言葉はなくとも、ふたりはその意味をわかり合っていた。

 それは、ともに生きる決意、そして、誓い。
 14年前に交わしたものよりも、もっと強く、もっと深い——。

 朝の光がステンドグラスを通し、周囲に彩りを添えた。
 朝の鐘が王宮で打ち鳴らされ、同時に鳥の羽ばたきが空へ舞い上がった。
 それらは、まるで、この儀式を祝福しているかのようだった。
 鐘の余韻が消える。
 ふたりはそっと目を開き、互いの姿をその瞳に映した。
 そして、視線を合わせたまま、優しく微笑み合った。