「おはよう!」
ジークとリックの姿を見つけると、アンジェリカは大きく手を振りながら駆け出した。
校門をくぐろうとしていた二人は、足を止め、声のする方に振り向いた。それぞれ軽く片手を上げ、笑顔で挨拶を返す。
「おう」
「おはよう」
アンジェリカは二人の前まで来ると、もの珍しげに、まじまじとジークを見つめた。
「ジーク、スーツなんて持っていたのね」
「買ったんだよ。最後くらいはちゃんとしてぇし」
ジークはぶっきらぼうに言い返した。
スーツのことについては、母親からもリックからも、すでにさんざんからかわれていた。アンジェリカからも言われるだろうことは覚悟していた。しかし、思ったよりもあっさりした反応で、内心ほっとした。魔導省の制服を見せたときの恥ずかしさと比べれば、随分ましだと思った。
今日はアカデミーの卒業式だった。その主役はジークたちの学年である。クラスメイトは全員そろっての卒業となった。ただ、当然だが、そこには途中で自主退学したセリカは含まれていない。
卒業式での服装に決まりはなく、普段と同様、まったくの自由となっていた。ジークがスーツを選んだのは、彼の意思に他ならない。彼自身の言葉どおり、最後くらいはきちんとした格好をしたいという、けじめのような思いからだった。
「私のも新しい服なのよ。今日のために買ったの」
アンジェリカは両手を広げ、その場でくるりとまわった。短いプリーツスカートが遠心力で広がった。
彼女の服装は、黒のスーツに薄桜色のブラウスを合わせたものだった。スーツとはいっても、肩の部分にはふんわりと丸みがあり、スカートも短いプリーツという可愛らしい形のものである。ブラウスにもフリルやレースがあしらわれていた。そこには、上品でいながら、なおかつ華やかな雰囲気が漂っていた。
「すごく可愛いよ。ね、ジーク」
リックは微笑みながらそう言うと、隣のジークに同意を求める。
だが、返事はなかった。
ジークは難しい顔をして腕を組み、じっと彼女を見つめて考え込んでいた。
「スカート、それ、短すぎねぇか?」
「そう? いつもと同じくらいのはずだけど」
アンジェリカは自分のスカートの裾を確認しながら答えた。
「おまえ、今日は壇に上がるんだろ? だから……」
ジークは途中で言い淀んだ。困ったような顔をして目を伏せる。耳元はうっすらと赤みを帯びていた。
アンジェリカは疑惑の眼差しを向けた。
「……ジーク、変な想像してない?」
「ばっ……! 心配してんだよ!!」
ジークは必死になって言い返す。
「そんなことになったら、恥をかくのはおまえなんだぞ! だからっ!!」
図星を指されたせいか、狼狽して焦ったせいか、彼の顔はさらに赤みを増していた。
アンジェリカは立てた人差し指を唇にあて、斜め上を見ながら考え込んだ。ジークに指摘され、少し不安になっているようだ。だが、すぐに明るい表情に戻る。
「大丈夫よ、きっと」
「そうだよ。ジークは心配のしすぎ」
リックも笑いながら同調した。
「それより、アンジェリカ、答辞の方は大丈夫なの?」
「ええ、ありきたりのことしか言わないから、期待されても困るけれど」
彼女にしては控えめな答えだった。肩をすくめ、やはり控えめな笑みを浮かべている。
卒業式の答辞は、全学科で最も優秀な成績を修めた者に任される。それを選ぶのはアカデミーの全教師と学長である。履修内容や成績基準は各学科によって違うため、その中からひとりを選ぶことは難しい問題であり、揉めることも少なくないらしい。だが、今年は満場一致でアンジェリカに決定した。文句のつけようもないくらいに、彼女の成績が突出していたのだ。ラグランジェの名によるものではない。たとえラグランジェの名がなくとも、彼女が選ばれることは間違いないだろう。
「書いた紙を忘れた、なんてことねぇだろうな?」
ジークは眉をひそめて尋ねた。
だが、彼女の答えはあっけないものだった。
「紙には書いてないわよ」
「暗記したの?」
リックは大きく目を見開いて尋ねた。その隣で、ジークもポカンと口を開いた。
アンジェリカは人差し指を立て、口元に添えた。
「だいたいの流れは押さえてあるから、あとはその場で考えながら話していけば、何とかなるんじゃないかしら」
「なんか、俺の方が胃が痛くなってきた」
ジークは顔をしかめながら脇腹を押さえ、そこから体を斜めに傾けた。
「そこ、胃じゃないわよ」
「細かいこというなよ!」
「ジークってがさつなくせに神経質なんだから」
「がさつは余計だ!」
いつものような二人のやりとりを聞きながら、リックは優しく微笑んだ。
「ジークってさ、昔はもっと図太かったよね」
「そうだっけか」
ジークはとぼけたが、言われたことに対する自覚はあった。アカデミー入学以来、年々、臆病になっている気がする。以前はここまで神経が細くなかったと思う。だが、それは単にまわりを見ていなかっただけなのかもしれない。鈍かっただけなのかもしれない。
「あ、ラウルが来たよ」
リックの声に反応して、講堂の方に目を向ける。ちょうどラウルが裏口から入っていくところだった。彼は普段と変わらない格好をしている。いかにも彼らしい。正装などしていたら、頭でも打ったのかと心配しただろう。
腹の立つ奴だったけど、今日でさよならなんだよな——。
なぜか、そんな感傷的な気持ちが胸をよぎった。彼の姿を眺めながら、複雑な表情で、僅かに目を細める。
「そろそろ行かなきゃ」
「ええ」
リックとアンジェリカは、軽い駆け足で講堂に向かった。だが、ジークの足は止まったままだった。それに気づいたアンジェリカは、くるりと体ごと振り返った。黒髪がさらりと舞う。
「ジーク、どうしたの? 行くわよ?」
大きく瞬きをして、僅かに首を傾げてジークを見つめる。
「あ、ああ」
ジークは我にかえったように返事をすると、ゆっくりと風をきって駆け出した。
卒業式は講堂で行われる。
出席するのは、主役である卒業生、それ以外は教師たち学校関係者のみである。在校生も保護者も来賓もなく、いたって質素なものだ。アカデミーでは入学式も卒業式もこのような形式で執り行っている。それが、アカデミー創立以来の伝統だった。
入学式と同様に、学科別の成績順で立ち位置が決められる。一列目は魔導全科、二列目は医学科、三列目は工学科で、それぞれ成績の良い順に右から並ぶのだ。椅子はなく、全員が立ったままである。
最前列の最も右側がアンジェリカ、その隣にジーク、中ほどにリックがいる。
ジークは横目でちらりとアンジェリカを見た。
何かとても懐かしかった。四年前——入学式のときも、右隣にいたのはアンジェリカだった。今も小さいが、あの頃はもっと小さかった。本当に子供だった。そんな幼い少女に、自分の立つべき場所を奪われたことが、たまらなく悔しく腹立たしかった。
入学以降、その位置を奪おうと躍起になった。もちろん、正々堂々とである。だが、彼女はいつも自分の上にいた。そして、ついにただの一度も勝てないまま、この日を迎えることとなった。完敗である。
しかし、それを悔やむ気持ちはない。自分は持てる力のすべてを出し切ったつもりだ。それでも彼女には勝てなかった。その事実がすべてである。言い訳など何もない。彼女の努力と才能を、今は素直に認めている。
彼の視線に気がついたのか、アンジェリカが振り向いた。
ジークは慌てて目を逸らせた。だが、少し遅かったようだ。
「こっちを見てた?」
アンジェリカは声をひそめて尋ねた。責めている口調ではない。
「……少し」
ジークは前を向いたまま、正直にぼそりと答えた。
アンジェリカは小さくくすりと笑った。
「私、入学式のときのことを思い出していたの」
「え? 俺も……」
ジークは大きく瞬きをして振り向いた。
アンジェリカはまっすぐに彼を見上げていた。柔らかい表情だった。
二人は密やかに笑いあった。
「これより、王立アカデミー、卒業証書授与式を開式いたします」
独特の張りつめた静寂が破られ、卒業式が始まった。
まずは、卒業証書の授与である。ひとりずつ壇に上がり、筒に入った卒業証書を学長から受け取る。最初はアンジェリカ、次はジークと、これも学科ごとの成績順である。
ジークは卒業証書を受け取り、元の位置に戻ってきた。正面を向いてその場所に収まると、残りの生徒に授与されるのを待つ。その間、隣のアンジェリカに何度も目を向けた。彼女は常に正面を見据えていた。その凛とした横顔は、ずっと見ていたいと思うほどきれいだった。
全員に卒業証書を授与すると、学長はそのまま壇上で祝辞を述べた。
生徒が学長と顔を会わせるのは、特別なことがなければ、入学式と卒業式くらいである。実際、ジークもそうだった。入学式以来、一度も顔を見た記憶はない。そのため、この人が学長であるという実感はなかったし、祝辞にもあまりありがたみを感じなかった。それでも真面目に耳を傾け、話の終わりには拍手を送った。
「続いて、卒業生代表による答辞」
司会の落ち着いた声が、式を粛々と進めていく。
「魔導全科、アンジェリカ=ナール=ラグランジェ」
「はい」
アンジェリカは、よく通る声で返事をした。そして、手にしていた卒業証書の筒を、隣のジークに預ける。そういう段取りになっていた。事前に司会の先生に指示されたのだ。毎年、そうしているらしい。これも伝統ということだろう。
ジークはそれを受け取りながら、「頑張れ!」の気持ちを目で送った。こぶしをぐっと握りしめて見せる。声を出すわけにはいかないので、それが精一杯だった。
アンジェリカはその思いをしっかり受け止めたようだった。僅かに緊張したような微笑みを浮かべ、小さくこくりと頷く。そして、背筋をピンと伸ばして前に向き直ると、しっかりとした足どりで壇に上がっていった。
講演台を挟んで、学長と向かい合わせになる。
ゆっくりと、深く一礼した。
小さな口を開き、澄んだ声を講堂に響かせる。
「四年前、私は、張りつめた気持ちで、この講堂に立っていました。
将来の目標など持っていませんでした。
アカデミーで学びたいという希望すらありませんでした。
ただ自分のことを認めさせたい、そんな小さな意地だけで、
ここへ来ることを選んだのだと思います。
そんな私でも、このアカデミーで学ぶことは、
純粋に楽しいと感じました。
高度な理論と実技を、仲間とともに学び、競い合える——。
それはアカデミーでしか手に入らない最高の環境です。
しかし、もちろん、楽しいことばかりではありませんでした。
強い不安に苛まれたこともありました。
傷つけられたことも、傷つけたこともありました。
アカデミーを一ヶ月にわたって欠席したこともありました。
それでも、それらの困難を乗り越え、
この場に立つことができたのは、
指導してくださった先生、ともに学んだ仲間、
そして、いつも見守ってくれていた両親、
皆の支えと助力によるものです。
この場を借りて、感謝の意を表したいと思います。
つらいことも良い経験だった、とはまだ思えません。
ただ、いつか振り返ったときにそう思えるよう、
その経験を無駄にせず、これからを生きていきたいと考えています。
私たち59名は、今日、アカデミーを卒業します。
今は、目指すべき未来の欠片を、ようやく見つけたところです。
それはまだ、遠くに見える小さな光に過ぎません。
しかし、それはとても大切な光です。
時には踵を上げて背伸びをしながら、
時には歩んできた道を振り返りながら、
その未来に向かって、着実に進んでいきたいと思います」
ジークは夢中でそれを聞いていた。瞬きも、呼吸さえも忘れるほどだった。
この四年間の思い出が呼び起こされた。次々と頭の中を駆け巡る。本当に様々なことがあった。波乱に満ちた四年間だった。つらく苦しく、そして幸せだった。
アンジェリカとクラスメイトになれたことは、奇跡みたいな偶然が積み重なった結果だ。それは、運命といってもいいかもしれない。そのくらいのことを考えても、罰は当たらないだろうと思った。彼女が10歳でアカデミーに入ることを決意しなければ、決意しても彼女の両親が許さなければ、クラスメイトになることはなかった。それ以前に、赤ん坊の頃に長老たちの手にかかって殺されていたかもしれないし、下手をすれば生まれることすらなかったかもしれない。彼女が生きていることが、すでに奇跡のようなものなのだ。
アンジェリカは壇上で一礼した。拍手が沸き起こる。だが、感傷に浸っているジークの耳には、ほとんど入ってこなかった。拍手をすることすら忘れていた。ただ、壇上の彼女を眩しそうに見つめていた。
卒業式はあたたかな余韻を残して終了した。
終始無表情だったラウルは、終了するとすぐに踵を返し、大きな足どりで裏口に向かった。他学科の担任のように、生徒と名残を惜しむことはしなかった。実に淡白な別れだった。
「おつかれさま」
講堂を出たところで、背後から声を掛けられた。その声だけで誰だか認識できた。眉根を寄せて振り返る。
そこにいたのは、案の定、サイファだった。講堂の外壁にもたれかかり、ゆったりと腕を組んで、僅かに口角を上げている。周囲には他に誰もいない。
「何をしに来た」
「娘の晴れ姿を見に来たんだよ」
サイファはすました顔で、当然のように言った。ふっと小さく笑って付け加える。
「自分に会いに来たとでも思ったか? 少し自惚れが過ぎるんじゃないか?」
「用がないなら呼び止めるな」
ラウルは低い声で唸るように凄んだ。怒りを込めた眼差しで、相手を凍りつかせんばかりに睨みつける。
だが、サイファはにこやかにそれを受け流した。
「この四年間に対する労いの言葉を、と思ってね」
組んだ腕をほどき、軽く両手を広げる。
ラウルは睨みを利かせたまま、サイファを見つめた。そのまま、静かに口を開く。
「約束は果たした」
その約束とは、アカデミーの担任としてアンジェリカを見守る、というものだった。五年ほど前に交わされたものである。約束というより、命令といった方が近いかもしれない。ラウルには強くは断れない理由がある。サイファはそれを承知で、強引に頼んできたのだ。
「ラウル、おまえは教師に向いているよ。また推薦しておこうか」
サイファは穏やかに微笑み、ゆっくりとした口調で言った。
「こんな面倒なことは二度と引き受けん」
ラウルは無愛想に却下した。特殊な事件は抜きに考えても、日々の授業やその準備、試験問題作成に採点、課題の評価など、かなりの仕事量になる。教師という職業に意義を見出している者でなければ、ただ面倒としか思えないだろう。
「そうだな。おまえには他に頼みたいこともあるからな」
「おまえの頼みも二度と聞かん」
「さあ、それはどうかな」
サイファは顎を引き、上目遣いで視線を送ると、意味ありげに口の端を上げた。
ラウルは眉をひそめて睨みつけた。サイファが何を企んでいるのか知らないが、巻き込まれるつもりはなかった。何を言ってきても拒絶するだけである。勢いよく背を向けると、そのまま足を止めずに立ち去る。
「またな、ラウル先生」
サイファは引き止めることはしなかった。からかうように笑いを含んだ声でそう声を掛けると、去り行く背中を笑顔で見送った。
ラウルは医務室へ向かった。人通りの少ない廊下を、大きな足どりで進んでいく。アカデミーの教師としての仕事はすべて終了した。これからはただの医師に戻ることになる。
「ラウル」
折れそうな細い声。それは、ユールベルが発したものだった。彼女は医務室の前で、壁にもたれかかっていた。そこでラウルを待っていたのだ。緊張のためか、表情が硬い。
ラウルはひと睨みしただけで、彼女の呼びかけには応えなかった。無言で鍵を開け、扉をガラガラと大きく開く。
「入れ」
ちらりと彼女に横目を流し、愛想なくそう言うと、扉を開いたまま医務室に入っていった。
ユールベルは彼に従い、医務室に足を進めた。後ろ手でそっと扉を閉める。そのまま、その場に立ち尽くした。うつむき加減にラウルを窺う。
「座れ」
机に向かって席についたラウルが、隣の丸椅子を顎で示しながら言った。
ユールベルは促されるままに大人しく座った。だが、彼がカルテや薬を準備しているのを目にすると、抗議の声を上げる。
「目を診てもらうために来たわけじゃないわ。話したいことがあったから」
「先に目を診せろ。しばらく来ていなかっただろう」
ユールベルが最後に診察を受けたのは、例の事故の後、母親と対峙するために病院へ行ったときだった。そこで偶然にレイチェルやラウルと話をすることになり、核心をつかれ、核心を知り、泣きじゃくった。そのあとのことである。あれから五ヶ月ほどが経過していた。恥ずかしくて、悔しくて、腹立たしくて、ずっと会う気になれなかったのだ。
ラウルは洗面台で手を洗い、椅子に戻ると、正面から彼女と向かい合った。彼女の頭を抱えるように引き寄せ、後頭部に作られた包帯の結び目を解いた。そして、少しくたびれた包帯を、頭から巻き取るように外していった。
ユールベルは、彼の腕に寄りかかり、目を閉じた。
残りの包帯がはらりと落ち、隠していた左目と火傷の痕が現れた。完治しないと宣告されたものだ。この傷を意識するとき、心の底に淀んだ黒く重い気持ちが、無理やり掻きまわされるように感じる。忘れてしまえたらどれだけ楽だろうと思う。だが、それが不可能なことはわかっていた。過去ではなく、切り離すことのできない今現在の現実なのだから——。
ユールベルは目を開いた。
ラウルの顔が近かった。冷たい手で彼女の頬を押さえ、じっと覗き込んでいる。彼が見ているのは、彼女ではなく彼女の傷だ。
「ラウル」
ユールベルは小さな声で呼び掛けた。反応はなかったが、続けて質問をする。
「死にたいほどつらいと思ったことはある?」
「定義が曖昧だ。人によって基準が違いすぎる」
「あなたのことを聞いているの」
「さあな。あったかもしれないが、思い返しても仕方のないことだ」
ラウルは診察しながら淡々と答えた。一通り状態を診ると、手早く消毒して薬を塗り、頭を引き寄せて新しい包帯を巻く。そして、いつものように、頭の後ろでそれを結んだ。
ユールベルはゆっくりと彼から身を離した。息を詰めて、彼を見つめる。
「私、今日で最後にしたい」
「何をだ」
「あなたに心を煩わされることを」
「そうか」
ラウルは素っ気なくそう言うと、薬や包帯を片付け始めた。彼女には一瞥もくれない。
ユールベルは顔を曇らせ、哀願する。
「ラウル、お願い。今だけ私を見て」
ラウルはじろりと横目で睨んだ。迷惑だと云わんばかりだった。だが、彼女の思いつめた表情を目にすると、ふと動作を止めた。体ごと彼女に向き直り、真正面から強く見据える。
「言いたいことがあるなら言え」
静かな低音が冷たく響いた。
ユールベルは目をそらさなかった。小さな口を開き、緊張した硬い声で言う。
「私、はっきりとさせたいの」
ラウルは無反応だった。身じろぎもせず、彼女を見つめている。
ユールベルは、微かに震える声で言葉を繋ぐ。
「だから、教えて、あなたは私のことをどう思っているのかを」
「患者だ」
ラウルは即答した。
ユールベル眉をひそめた。そういうことを聞きたかったのではない。だが、彼の言いたいことは伝わる。これで十分だったのかもしれないが、今日はどうしても妥協したくなかった。
「私にどういう感情を持っているのかを訊いているの」
「おまえが望むような感情を抱いたことは一度もない」
ラウルはきっぱりと言った。何の躊躇いも感じられなかった。
「少しも好きじゃないってこと?」
「そうだ」
ユールベルの瞳が揺らいだ。答えはわかりきっていたが、面と向かって言われると、やはり気持ちが乱れる。
「だったら、どうしてこれほど私の面倒を見てくれるの?」
「患者だからだ」
「他の患者とは扱いが違うわ」
「サイファに頼まれている」
ユールベルは小さく息を継ぎ、折れそうな心を立て直す。
「私のことは迷惑?」
「医者としては何とも思わない。個人的には迷惑だ」
「迷惑をかけないようにすれば、私をあなたのそばに置いてもらえる?」
「その考えが迷惑だ」
ラウルは突き放すように、取り付く島のない答えを返す。
ユールベルは唇を噛んだ。それでも、怯むことなく質問を続ける。半ば意地になっていたのかもしれない。
「あなたが想っているのは、レイチェル?」
「そうだ」
「あの人にはおじさまがいるわ」
ラウルの眉が僅かに動いた。だが、無表情は崩さない。
「おまえに言われなくても知っている」
「自分に望みがあるとでも思っているの」
「思っていない」
「だったら、どうして……」
ユールベルはそこまで言いかけて口をつぐんだ。聞くまでもないことだった。理屈ではないのだろう。それは自分も同じだった。膝の上でスカートの裾をぎゅっと握りしめる。
「私では、あの人の代わりになれない?」
「代替など求めていない」
ユールベルは、はっと息を呑んだ。
冷たかった彼の声が、急に熱を帯びた。少し怒っているように、そして、むきになっているように聞こえた。冷静でいられなかったのは、レイチェルのことに触れたからだろうか。誰も彼女の代わりになどなれないと主張したかったのだろうか。
「そうよね」
ぽつりとつぶやくと、首が折れそうなくらいに深くうつむく。長い髪がカーテンのように表情を覆い隠した。
どうしようもない敗北感だった。
彼の想いの強さを思い知らされた。そして、自分の心の弱さを思い知らされた。自分はかつて、寂しさを埋めるために代替に縋ってしまった。代替を求めないと言い切った彼と比べ、あまりにも情けない。所詮その程度だと非難されても反論できない。
「わかったわ……」
彼女はゆっくりと顔を上げた。目が少し潤んでいた。
「あなたはどうするの?」
「どうもしない。何も変わらない」
ラウルの声は平静に戻っていた。いつものとおり、何の感情も感じさせない声だった。
「つらくはないの?」
「仕方のないことだ」
ユールベルは目を細めた。
「変わるのは、いけないこと?」
「変わりたいと思えば、変わればいい。変わりたくないと思えば、変わらなければいい。選ぶのは自分だ」
ラウルは迷いなく言う。
ユールベルは彼の変わらない表情を見つめた。
そろそろと細い手を伸ばす。
彼の長い横髪を掴み、自分の方に引っ張る。
自分からも顔を近づける。
彼の唇にそっと口づける。
右目から涙が零れた。
頬を滑り落ち、彼の手の上で弾けた。
うつむきながらゆっくりと顔を離し、手を放した。
「私は、変わるわ」
「そうしろ」
ラウルは相変わらず無表情のままで言った。
ユールベルは涙を拭って立ち上がった。震える声で言う。
「さようなら」
「今後も目を診せに来い。医者としての命令だ」
ラウルは僅かに顎を上げて言った。
ユールベルは少し迷ったあと、小さくこくりと頷いた。背中を向け、早足で医務室をあとにする。緩やかなウェーブを描いた金の髪と、真新しい白の包帯が、ふわりと波打つように揺れた。
ラウルは椅子から立ち上がった。窓際へ歩いていくと、クリーム色のカーテンとガラス窓を開けた。眩しい光と新鮮な空気が医務室に滑り込んだ。消毒液の匂いを掻き消していく。
遠くで若いどよめきが起こった。
それが、卒業生たちのものか別のものかはわからない。彼にとってはどちらでもいいことだった。窓枠に肩を寄せて腕を組んだ。目を細めながら青空を見上げ、小さくため息をついた。
「リック!!」
講堂の外で話をしている三人を見つけると、セリカは大きく右手を上げて駆け出した。
「卒業おめでとう!」
弾けるような笑顔でそう言うと、手にしていた花束を差し出した。柔らかな色合いのものだった。ふわりとやさしい香りが周囲に広がった。
リックは目を丸くして、花束と彼女を交互に見た。
「僕に?」
「お祝いよ」
セリカはきれいに微笑んで言った。
リックは顔をほころばせて、両手で花束を受け取った。
「ありがとう。花なんてもらったの、初めてだよ」
「なんだよ、リックだけかよ」
ジークは腕を組み、しらけた顔で言った。
「あら、欲しかったの?」
「いらねーよ!」
セリカはからかうように尋ねかけ、ジークはムッとして言い返す。ふたりは顔を会わせるたびに言い合いをしていた。主にジークがつっかかっているのだが、セリカもたまに挑発するようなことを言う。だが、それは過去の遺恨によるものではない。少なくともセリカの方には遺恨などなかった。
「もう、ふたりとも仲良くしてよ」
リックはなだめるように言った。少し困ったように、肩をすくめて苦笑する。
セリカはくすりと悪戯っぽく笑った。
「仲良くしすぎても困るでしょう?」
「うん、それはちょっと」
「心配するな。絶対に、ありえねぇから」
ジークは「絶対に」のところに思いきり力を込めた。言葉だけでなく、こぶしにも力を込めている。眉間には縦じわが刻まれていた。
あまりの必死さが、逆にコミカルに見えた。リックもセリカもそろって吹き出した。
だが、アンジェリカだけは静かに見ていた。セリカが来てからずっと静かだった。セリカのことが苦手だという気持ちは、今も変わっていないらしい。そう簡単に変わるものでもないだろう。あからさまに態度に出していないだけ、成長したのかもしれない。
彼女に話しかけようかどうしようか、セリカは迷う。だが、アンジェリカの方はそれを望んではいないだろうと考えて、やめることにした。代わりにリックの袖を軽く引っ張り、小声で耳打ちするように言う。
「ねぇ、リック。そろそろ行かない?」
「あ、そうだね」
リックは軽い調子で同意すると、ジークに向き直った。
「ジーク、あのさ」
「ああ、ふたりだけでお祝いするとか言うんだろ? 行ってこいよ」
ジークは先回りして言った。わかりきったことと言わんばかりだった。このパターンは過去にも何度かあったので、いくら鈍感なジークといえど察することができたのだろう。
「うん、ごめんね」
リックはあまり申しわけなく思ってなさそうな口調で謝った。
「じゃあ行こうか、セリカ」
「ええ」
セリカは微笑んで答えた。リックといると、自分は大切にされているのだと感じる。とても安心できる。だから、穏やかな気持ちでいられるのだと思う。
「じゃあ、またね。あとで連絡するよ」
リックはジークにそう言うと、手を振りながら、セリカと連れ立って校門を出て行く。
ジークとアンジェリカも小さく手を振って、ふたりの背中を見送った。
「俺らはどうする?」
ふたりだけになり、ジークは隣のアンジェリカに尋ねかけた。彼としてはこのまま帰るつもりはない。もうしばらく一緒にいたい。彼女も同じ気持ちであってほしいと願いつつ、返事を待つ。
アンジェリカは大きな漆黒の瞳でジークを見上げた。
「私、あの川原へ行きたいんだけど」
「ああ、あそこな」
ジークにはすぐにわかった。自分たちが共通で知っている川原は一箇所しかない。
「ええ、話したいこともあるし」
「話したいこと?」
「それは、あとでね」
アンジェリカはにっこりと微笑んで言った。
ジークは怪訝に彼女を見つめた。なぜわざわざ川原で話すのだろうか。他の人に聞かれたくない話なのだろうか。だが、表情からすると、深刻な話ではなさそうだ。気にはなったが、ここで問い詰めても喧嘩になるだけである。あとで話してくれるというのだから、大人しく川原まで待とうと思った。
「やあ」
サイファが講堂の方から歩いてきた。軽く右手を上げ、人なつこい笑顔を見せている。今日も濃青色の制服を身に着けていた。仕事を抜け出してきたのだろう。
「サイファさん」
「お父さん」
ふたりは同時に振り向いた。
「もしかして、式、見てたの?」
アンジェリカは頬を赤らめ、少し責めるように尋ねた。
だが、サイファはまるで気にすることなく平然と答える。
「アンジェリカの晴れ姿だからね」
「もう、恥ずかしいから来ないでって言ったのに!」
アンジェリカは恨めしそうに睨み、口をとがらせた。
それでも、サイファが悪びれることはなかった。にこにこと微笑みながら言う。
「ごめんね。でも、いいものが見られたよ」
アンジェリカはその言葉にピクリと反応した。スカートの後ろを両手で押さえ、顔を真っ赤にしながら眉をひそめる。
「もしかして、見えたの?」
「ん? 何の話?」
「ジークが……」
「な、何でもないですっ!!」
ジークは慌ててふたりの間に割って入った。開いた手を小刻みに振り、何事もないことをアピールする。あんな話をしていたとサイファに知られたくはない。呆れられるか冷たい目を向けられるかしそうだ。それより何より恥ずかしい。
ガシッ——。
サイファは彼の手首を掴んだ。
「えっ?」
「ジークを借りたいんだけど、いいかな?」
とまどうジークを無視して、アンジェリカに尋ねかける。ジークの手首は掴んだままである。それほど強い力ではなかった。振り切ろうとすれば振り切ることはできるだろうが、ジークにその勇気はない。
「何の用なの?」
「少し話をするだけだよ」
サイファは彼女の警戒を解くように、優しい笑顔を浮かべた。
彼の笑顔は油断ならないということを、ジークはよく知っている。アンジェリカもそのくらいのことはわかっているだろう。わかっていても、なぜかいつも押し切られてしまうのだ。
「……じゃあ、少しだけ」
アンジェリカは抵抗しても無駄だと悟ったのか、不満そうにしながらも承諾した。声が思いきり不機嫌なのは、せめてもの自己主張なのかもしれない。
「ジーク、私、先に川原に行っているわね」
ジークに向けられた声は、もう普段どおりだった。だが、表情は少しだけ心配そうである。
「ああ、わかった。あとでな」
ジークは片手をサイファに掴まれたまま、もう片方の手を上げて返事をした。安心させるために軽く笑ってみせようとしたが、引きつったぎこちない笑顔しか作れなかった。
アンジェリカが校門を出るまで見送ると、サイファはようやくジークの手を放した。
「人目につきすぎるから、歩きながら話そうか」
「あ、はい」
ジークが周囲を見まわすと、確かにこちらを見ている生徒が何人かいた。視線を集めている原因は、サイファの制服に違いない。魔導全科の生徒ならば、教室で何度も目にしているので、彼がアンジェリカの父親であることは知っているだろう。だが、ここには他学科の生徒も多い。なぜ魔導省の人間が来ているのか、と不思議に感じる人がいるのも頷ける。
ジークはサイファの半歩あとをついて歩いた。いったい何の話なのだろうか、どこへ行くつもりなのだろうか、様々な不安が募る。サイファはまだ話を切り出さない。ちらりと彼を盗み見た。端整な横顔からは、何の感情も読み取れなかった。
ふたりは校庭を横切り、アカデミーの外れにある寂れた教会近くまで来た。まわりには誰もいない。三本の大きな木だけが存在感を示している。
サイファはその木の下で足を止め、にっこり微笑んでジークに振り向いた。
「卒業、おめでとう」
「えっ?」
ジークは驚いて聞き返した。わざわざ人気のないところまで連れてこられ、まさかそんなありきたりなことを言われるとは思わなかったのだ。
サイファは別の表現でゆっくりと言い直す。
「君が無事に卒業してくれて良かったよ」
ジークはそれでようやくサイファの意図がわかった。ジークに重傷を負わせてしまったことを気にしていたのだろう。そのせいで卒業が危ぶまれたが、サイファの助力により卒業することができたのだ。
「ありがとうございます。サイファさんのおかげです」
素直に感謝を口にする。
何か少し気恥ずかしかった。入院中は一日として途切れることなく彼と顔を会わせていたが、退院してからは今日まで一度も会っていなかった。約二ヶ月ぶりである。そのためだろうか、ふたりきりで会話をすることに、緊張や照れのようなものを感じていた。
だが、サイファの態度は普段どおりだった。
「そもそも私の責任だからね。感謝されるのもおかしな話だよ」
笑いながらそう言うと、大きな木の幹に軽くもたれかかった。片手をポケットに差し入れ、ジークに視線を流し、穏やかに尋ねかける。
「就職の準備は進んでいるか?」
「はい、引っ越しはこれからですけど」
引っ越しは勤務の都合である。一年目は現場での仕事になるため、事件が起これば緊急招集がかかることも少なくない。そのため、少しでも早く出てこられるように、なるべく近くに住むようにとの指示が出たのだ。母親をひとりで置いていくのは心許無いので、一緒に連れていくつもりだが、本人にはそのつもりがないらしく、どうなるかまだわからない。
「そうか、困ったことがあったら相談してくれよ」
「はい」
ジークは歯切れよく返事をした。それから、少しはにかんで続ける。
「今度会うときは、上司と部下ですね」
ずっと不思議な感じがしていたが、言葉に出すとますます変な感じがする。あまり想像がつかない。想像しようとすると、何かくすぐったくなってくる。
サイファはにっこりと笑った。
「厳しいから覚悟しておけよ」
「殺されかけたことを思えば、何だって耐えられると思います」
ジークも笑顔になり、つられて調子よく言った。しかし、ちょっと調子に乗り過ぎたかもしれない。サイファの機嫌を損ねたのではないかと心配になる。少しびくつきながら、彼の様子を窺う。
サイファは僅かに口の端を上げた。
「さあ、どうかな。死んだ方がましだったと思うかもしれないよ」
「……えっ?」
ジークは強張った声で聞き返した。一瞬で顔から血の気が引いた。
「まあ当分は、直接、君と関わることはないだろうけどね」
サイファは軽く流した。
だが、先ほど言ったことを否定はしなかった。冗談ではなかったのかもしれない。死んだ方がましだと思うようなこともあるのかもしれない。少なくとも厳しいというのは本当なのだろう。ジークは顔を引き締め、身を引き締める。
「早く上がってこいよ」
サイファは微かな笑みを浮かべ、挑発的に言う。
「はい」
ジークは真剣な顔で頷いた。
サイファは副長官である。彼のいる場所はとても遠い。簡単な道のりではないだろうことは想像がつく。だが、今のジークには、逃げずに進んでいこうという強い意気込みがあった。
突然、強い風が吹いた。
頭上で木々が大きく波打つようにざわめいた。
緑の木の葉がいくつか舞い上がり、ゆっくりと舞い降りてきた。
サイファは腕を組んだ。木々の緑を見上げながら、口を開く。
「アンジェリカとは仲良くやっているようだね。君が退院してから何度か遊びに行ったと聞いたよ」
「はい、うちに来たり、遊園地へ行ったりしました」
アンジェリカはいつも両親の許可をとって行動しているようだ。この二ヶ月のことも、当然、サイファの耳には入っているだろう。彼女が遊びに行くことを反対しなかったのは、自分を信頼してくれているからだろうか、とジークは都合よく考えた。
「君から見て、アンジェリカの様子はどう?」
サイファは上方を見たまま尋ねた。声にあまり抑揚がない。感情を抑制しているようだ。そうしなければならない理由があるからだろう。アンジェリカのことについて不安を感じているに違いない。
ジークも同様に不安を感じていた。だが、サイファと違って、彼はあまり感情を抑えられない。すぐに表面に出てしまうのだ。顔に暗い陰を落とし、暗い声で答える。
「特に変化はないです。悩んでる様子は見られません。でも、それは……」
「表面上、明るく装っているだけだ、と?」
サイファがジークの言葉を引き取った。
ジークはこくりと頷いた。
「一度だけ病院で本心を見せたことがあって、そのときはかなり思いつめた感じでした」
「多少は悩むこともあるかもしれないと思ったが、そこまでとはな……」
サイファは眉根を寄せて腕を組み、小さく独り言をつぶやいた。それから、ジークに視線を向けて尋ねる。
「あの子は何と言っていた?」
「本当のことを教えてほしい、自分は遺伝子の異常なんじゃないかって」
それを聞いて、サイファは僅かに首を捻り、怪訝に眉をしかめた。
ジークは伏し目がちに淡々と話を続ける。
「もちろん口止めされてたので自分は答えてません。アンジェリカはずっと誤解したままです。これからも解いてやることは出来ないんですよね。だとしたら、自分はせめてそれを忘れることのできる時間を作ってやりたいって思って、それで……」
「ちょっと待って」
サイファは左手を開き、ジークの話を遮った。やや早口で尋ねる。
「そのアンジェリカの話というのは、いつ、どこでのこと?」
「退院する数週間前です。病院の中庭で話してて……」
ジークは不思議そうに答えた。なぜサイファがそんなことを訊くのかわからなかった。しかも、彼にしてはめずらしく焦っているように見える。
「その後、アンジェリカから話は聞いてないの?」
「何の話ですか?」
ジークはますますわからなくなった。
サイファは彼の問いに答えず、顎に手を添えて考え込んだ。やがて、ひとり納得したように頷く。
「どうやら私たちは意思の疎通が出来ていなかったようだね」
「どういうことですか?」
「いずれあの子から話があるだろうから、それを聞けばわかると思うよ。悪いね、これ以上は言えないんだ。アンジェリカに口止めされているからね」
「はぁ……」
ジークはよくわからないまま、サイファに押し切られるように曖昧に返事をした。
そんな彼の様子を見て、サイファは笑いながら言う。
「そんなに不安がらなくても大丈夫だよ。事態は君にとって悪い方には転がらない。それは保証する」
それでもジークの表情は冴えなかった。サイファを疑っているわけではないが、あまりにもわからないことが多すぎて掴みどころがないのだ。これで不安を払拭できるほど楽天家ではない。
サイファはにっこりと微笑みかける。そして、元気づけるように、手の甲で軽くジークの頬に触れた。
「アンジェリカを幸せにしてやってね。いや、君も幸せになれよ」
ジークは胸の動悸が速くなった。滑らかな感触が残る頬に自分の手を運びながら、サイファの言葉を咀嚼する。深く息を吸い、ゆっくりと目線を上げる。にこやかなサイファを目にすると、ジークの顔はぱっと晴れた。
「はい!」
今度は自分の意思で、力強く肯定の返事をする。先ほどまでの靄のかかった気持ちは、一瞬でどこかへ飛んでいってしまった。自分は案外と楽天家なのかもしれない、とジークは思い直した。
「さあ、今日のところはこの辺で話を切り上げようか」
サイファはジークの肩にポンと手をのせた。ふっと笑みをもらして言う。
「あまりアンジェリカを待たせると、あとで私が怒られるからな。走って行けよ」
「はい! 全力で走って行きます!」
ジークは元気よくそう言うと、ペコリと一礼した。そして、言葉どおり全力の速さで校庭を横切っていった。走りにくいスーツと革靴だったが、魔導省の制服も似たようなものである。これで走ることに慣れておくのも悪くないと思った。
小高い丘の上で、レイチェルは青い空を見上げていた。顔はほぼ真上を向いている。長い金色の髪は、緩やかな風にさらさらと揺れ、上品にきらきらと煌めいた。
「レイチェル」
サイファは背後から声を掛けた。
レイチェルはゆっくりと振り返った。彼女にしてはめずらしく、黒のドレスを身に着けていた。手には白バラの大きな花束を抱えている。
「待たせてしまってすまない」
「私も今さっき来たところよ」
彼女の微笑みは、バラにも負けないくらい優美だった。
サイファは小径を通り、彼女の隣に足を進める。彼もまた、白バラの花束を手にしていた。
ふたりの正面には、大きな石碑と、大きな白い十字架があった。ラグランジェ家の墓である。例の事故以来、サイファは何度か訪れていたが、レイチェルは今日が初めてだった。入院していたため、葬式にすら出ていない。つまり、彼女にとっては、これが最初の追悼の儀式となる。
レイチェルは両膝をつき、白バラの花束をそっと石碑の上に置いた。そのまま両手を組み合わせ、静かに目をつむる。桜色の可憐な唇が、微かに動いた。声には出していないが、父親に祈りを捧げ、言葉を掛けているのだろう。
サイファも、腰を屈め、石碑に花束を置いた。ふたつの花束が隣り合わせに並んだ。ズボンのポケットに右手を掛けると、顔を上げ、大きな十字架を見つめた。
ルーファスとの様々な応酬が脳裏に浮かんだ。
彼のことは、今となっては恨んでいない。自分には自分の事情があったように、彼には彼の事情があった。守りたいものが違っただけだ。どちらが正しいか、その絶対的な判断は誰にも下せない。正しい、正しくないの基準など、人によって違うものだ。だから、自分は自分の信じる道を進んだ。それが非難されることであるのなら、罰を下されるというのなら、甘んじて受けよう。ただし、今はまだ——。
「私は……」
不意に耳に届いたレイチェルの声。サイファは思考の海から引き戻された。その声の方に目を向ける。
「私は何の罰も受けていない」
彼女はまっすぐに立ち、大きな十字架を見つめながら硬い声で言った。
「罰は死んでから受ければいいさ」
サイファはさらりと流した。そして、引き締めた真剣な顔を十字架に向ける。
「生きている間は、私が君を守るよ。たとえ君自身が望まなくても」
強い意志を秘めた口調でそう言い、隣の小さな手に触れた。血の気がなく冷たい。それを温めるように包み込む。自分の存在を示すように、決意を伝えるように、ぎゅっと力を込めて握りしめた。
レイチェルはゆっくりと振り向いた。無言のまま、微かに揺れる蒼の双眸で問いかける。
「君が生きて幸せになることは、アルフォンスの遺志でもあるんだよ」
サイファは優しく答え、微笑んだ。
「アルティナさんのところへ戻るつもりはない?」
それは、王妃の付き人として復帰しないか、という意味である。
レイチェルは静かに首を横に振る。
「アルティナさん、いまだに毎日のように文句を言いに来るんだよね」
サイファは可笑しそうに言った。大袈裟ではなく、本当にしつこいくらいに来ていた。いつになったらレイチェルは復帰するのか、説得はしているのか、そんなことを息巻きながら詰問するのだ。時には泣き落としで攻めてくることもある。彼女にとって、それほどレイチェルの存在は大きかったのだろう。
「ごめんなさい」
レイチェルは力なく詫びた。
彼女が拒み続ける理由を、サイファは理解していた。
いつか魔導が暴発してアルティナを巻き込んでしまうかもしれない——そんな懸念がどうしても払拭できないのだろう。アルティナは魔導はまったく使えない。いざというとき、結界などで自衛することは不可能なのだ。
「魔導の暴発なんて、普通にしていれば起こらないよ」
それはすでに何度か話したことである。過日の暴発は魔導増幅器によって起こされた特殊なものだということも、その仕組みを交えて理論的に説明をした。それで理屈はわかってくれたようだが、心までは動かせなかった。暴発時の記憶が、彼女を臆病にしているのだろう。
サイファは僅かに目を細めた。
「もし、あの規模のものが私たちの家で起こったとしたら、間違いなく隣接の王宮も巻き添えだ。悪くすれば壊滅かもしれない。つまり、君が付き人をしてようが、してなかろうが、アルティナさんの危険度にそれほど変わりはないんだよ」
レイチェルははっと息を呑み、大きく目を見開いた。ひどく動揺している様子が垣間見える。
そんな彼女を落ち着けるように、サイファは優しく言葉を繋ぐ。
「だからね、自信がないのなら、克服したらどうかな」
「克服?」
レイチェルは困惑して聞き返した。
サイファは頷いた。
「もう一度、ラウルに家庭教師を頼もうと思う」
レイチェルの息が止まった。胸に手を当て、大きく瞬きをする。
「……本気?」
それだけ言うのが精一杯のようだった。
サイファは口元を上げた。
「ああ、そもそもラウルがきちんと役目を果たしていれば、こんなことは起こらなかったかもしれないんだ。責任は取ってもらうよ。断らせはしないさ」
「でも、それは、私が魔導を嫌がっていたから……」
レイチェルは遠慮がちにラウルを擁護した。彼女にそのつもりはなかったかもしれないが、サイファには庇ったようにしか聞こえなかった。
「子供の言いなりでは家庭教師失格だよ。それも含めてラウルの責任さ」
彼は腰に手をあて、涼しい顔で断罪した。
レイチェルは複雑な表情で考え込んだ。結論の出ないまま視線を上げ、気遣わしげに尋ねる。
「サイファは、それでいいの?」
「君のことは信じてるからね」
サイファはにっこりと大きく微笑んだ。
正直にいえば、面白くない気持ちも少なからずある。それでも、ラウル以外には預ける気にならない。結局、誰よりも彼のことを信頼しているのだ。魔導力の面からいっても、レイチェルを任せられるのは、ラウルの他にはいない。いざというとき、彼女を抑え込める力がない人間には危険すぎる。彼女の強大で不安定な魔導力を指導できるのは、それ以上の魔導力の持ち主だけである。
「それで、ある程度の自信がついたら、アルティナさんの付き人に復帰してほしい」
その要望は、もちろんアルティナのためであるが、同時にレイチェルのためでもあった。家に閉じこもっているより、気の合う友人と過ごした方がいいに違いない。サイファはそう考えていた。
「……わかったわ」
レイチェルは小さな口をきゅっと結び、覚悟を決めたようにこくりと頷いた。
「そんなに思いつめた顔をしないで」
サイファは微笑んだ。
「難しいことじゃないよ。ただ、少しだけ勇気を出して」
彼女に手を伸ばし、桜色の頬を包み込むと、優しく諭すように言う。
レイチェルは澄んだ蒼の瞳で、じっとサイファの瞳を見つめた。何かを考えている様子だった。まだ不安は拭いきれていないように見える。しかし、ゆっくりと目を閉じ、一呼吸してから開くと、きれいにそれは消えていた。代わりにあったのは、凛とした迷いのない表情だった。
「ありがとう」
透き通った綺麗な声でそう言うと、少女のような愛らしい微笑みを浮かべた。
ジークは息を荒くして川辺まで駆けつけた。視界が開け、青空が大きく広がった。さらさらと水の流れる音が両耳に届いた。心が洗われるようだった。気のせいか、空気も澄んでいるように感じた。
白いガードパイプに手を掛け、川原を左右に見渡す。探していたのはアンジェリカだった。だが、誰の姿も見つけられなかった。
——何で、いないんだ?
彼女はジークより前に出たはずだ。先に行くと言っていた。遅すぎたので怒って帰ったのだろうか。いや、そこまでの時間はかかっていない。途中で追い越したのだろうか。それならば気づかないはずがない。別の道を通っているのだろうか。寄り道しているのだろうか。途中で何かあったのだろうか——。様々な状況を、矢継ぎ早に想像する。だが、正解はわからない。不安だけが膨張していく。鼓動が速く強くなっていく。
「アンジェリカーーっ!!」
ガードパイプを握りしめ、あらん限りの声で腹の底から叫んだ。
「何よ」
下方から、少し怒ったような声が聞こえた。彼女の声だ。ガードパイプから上半身を乗り出して覗き込む。
彼女は石段に座っていた。口をとがらせながら、恥ずかしそうに顔を赤らめ、睨み上げていた。
そこはジークのいたところのほぼ真下だったので、死角になっていたようだ。安堵してほっと息をつく。
「良かった」
「いきなり人の名前を絶叫しないでほしいわ」
「いなくなったかと思ったんだよ」
「逃げたりなんかしないわよ」
アンジェリカはムッとして言い返した。
ジークはガードパイプの切れ目から、川原へと続く石段を駆け下りた。急ぐあまり、足がもつれて転げ落ちそうになった。慣れない革靴だったことも影響していたのかもしれない。
「ちょっとジーク、落ち着いて! 私は逃げないって言ってるでしょう?」
「わかってるけど」
照れ笑いしながら、彼女の隣に腰を下ろした。その石段は細いため、ふたりが並んで座るには窮屈なくらいだった。必然的に身を寄せることになる。彼の右腕に、彼女の左肩が触れた。微かに日だまりの匂いがした。
「お父さんの話って何だったの?」
アンジェリカはジークに振り向き、顔を斜めにして尋ねた。
「卒業おめでとうって」
「それだけ?」
「まあだいたい……」
ジークは答えを濁した。もうひとつはアンジェリカの話だったが、それを言うわけにはいかないだろう。それ以前に、一体どういう話だったのか、ジーク自身がさっぱりといっていいほど理解できていない。
「ふーん……」
アンジェリカはどこか疑わしげにそう言ったが、それ以上の追及はしなかった。
「それより、おまえは何の話なんだよ」
「えっ?」
「話したいことがあるとか言ってただろ?」
ジークは彼女に人差し指を向けて尋ねた。そのとき、ふと先ほどのサイファとの会話を思い出す。そのうちアンジェリカから話があるだろうと彼は言っていた。何についての話か見当もつかないが、今からの話がそれなのだろうかと思う。
だが、アンジェリカはその期待を根本から裏切った。
「そうだったかしら?」
彼の視線から逃げるように空を見上げ、軽い口調で言う。
ジークはわけがわからず、眉をひそめて睨む。
「何でとぼけてんだよ。おまえが言ったんじゃねぇか。話したいことがあるって」
「あ! あのね、私、就職先が決まったの」
アンジェリカは唐突に思い出したように言った。胸元で両手を合わせてジークに振り向く。
「え? そうなのか?」
ジークはその話題に食いついた。目を大きくして彼女を見る。話を逸らそうという彼女の策略にまんまと引っかかった形である。もちろん、このときのジークはそれに気づいてなどいない。
アンジェリカはにっこりと微笑んだ。
「きのう決まったばかり」
「どこだ?」
「アカデミー」
「えっ?」
ジークは目を見開いて聞き返した。彼女の答えはとても信じられるものではなかった。彼女の言い間違いか、自分の聞き間違いか、とにかく何かの間違いではないかと思った。
アンジェリカはくすっと小さく笑って説明する。
「先生じゃないわよ。先生のお手伝い。助手みたいなものかしら。テスト問題を作ったり、採点をしたりするの」
ジークは納得した。ほっとしながら言う。
「へぇ、そんなの募集してたのか」
「お父さんの紹介なの。その先生、研究の方が忙しいから、個人的に探してたみたいで」
「サイファさんの? あれ? おまえ、そういうのに頼らないって言ってなかったか?」
アンジェリカは自分の実力以外のものに頼ることを極端に嫌っていた。そのため、ジークは不思議に思って尋ねたのだが、これではまるで彼女を責めているみたいである。
「あ、いや、悪いっていうんじゃなくてな……」
慌てて弁明しようとしたが、上手く言葉が続かなかった。自己嫌悪に陥る。彼女を傷つけていないだろうか、それだけが心配だった。
アンジェリカはふっと表情を緩めた。
「私、あの頃はちょっと肩ひじを張りすぎていたのかも」
ジークは驚いて顔を上げた。彼女は小さく笑って肩をすくめていた。どことなく恥ずかしそうにしている。強情すぎた過去の自分を思い出しているせいだろうか。
「ああ、そうだな」
ジークもふっと表情を緩めて同意した。
「あまり頼りすぎるのも問題だと思うけれど」
アンジェリカは微笑みながら言った。
ジークは眉をひそめた。
「それ、俺のことか?」
「ううん、お父さんのこと」
アンジェリカは笑いながら言った。
ジークもつられて笑った。だが、サイファの場合は、頼るというより利用しているのだと思う。アンジェリカにしてみれば、どちらもたいして違いはないのかもしれないが、ジークにはその違いが明確に見えていた。
「でも、今回は素直に感謝するわ。おかげでアカデミーで働けるんだもの」
「そういや、おまえを雇った先生って誰なんだよ」
ジークは少し身を乗り出した。
「今度の一年生の担任よ。新任だから、ジークは知らないんじゃないかしら。私も一度会っただけだけど、お父さんはいい人だって言っていたわ」
アンジェリカは明るく言った。
ジークは微妙に顔を曇らせた。アンジェリカが一緒に仕事をする相手なので、もちろん良い人である方がいいに決まっている。サイファも安心して任せられる人間だからこそ、アンジェリカに勧めたのだろう。だが、ジークとしては、サイファが認めているというのが何となく面白くなかった。それに——。
「それって、男か?」
「ええ、男性よ。30歳って聞いたわ」
年齢を聞いて、ますます顔が曇った。
「もしかして、心配?」
アンジェリカは悪戯っぽい笑みを浮かべながら、複雑な表情のジークを覗き込んだ。
「そんなんじゃねぇよ」
ジークはふてくされたようにそう言うと、頬杖をつき、少しだけ顔をそむけた。
彼女にはすっかり見透かされてしまっているようで、どうにもきまりが悪かった。器の小さな男だと思われはしないだろうかと不安になった。そもそも、そんな不安を抱えること自体が、器が小さいということの裏付けに他ならない。自分の情けなさに気持ちが深く沈んだ。
そのとき——。
腿の上に重みがかかった。
仄かな甘い匂いが鼻をくすぐった。
そして、唇の端に何かが触れた。
あたたかく、柔らかい——。
一瞬の出来事だった。何の反応もできなかった。
だが、それが何かくらいはわかる。
「おまえ……」
ジークは口元を押さえ、何ともいえない表情で、ゆっくりと振り向いた。眉根を強く寄せ、眉間に深く皺を刻んだ。顔は燃え出さんばかりに赤く、そして熱い。
だが、アンジェリカの方はいたって普通だった。無邪気なくらいの笑みを見せている。
「なんで……っ」
ジークは彼女を指さして突っかかったが、それ以上の言葉が出てこなかった。口だけを何か言いたげに動かす。顔だけでなく、頭にも血が上っていた。冷静に考えられる状態ではない。
アンジェリカはちょこんと首を傾げた。
「もしかして、嫌だった?」
「そうじゃねぇ、けど……」
ジークは言い淀む。
「ならいいじゃない」
アンジェリカは事も無げに言う。まるきり何とも思っていない口調だった。
ジークは瞬間的にカッと沸騰した。
「おまえバカか!」
思わず怒鳴りつける。だが、その勢いは続かなかった。
「何でこんな簡単に……不意打ちみたいな……ってか、おまえからなんて……」
次第にしどろもどろになっていく。言いたいことが上手く説明できない。ああ……、と苦悶の表情で頭を抱えた。
アンジェリカは澄んだ青空を見上げ、立てた人差し指を口元にあてた。
「うーんと、いつかの返事のつもりだったんだけど」
「…………?」
ジークは怪訝な顔で彼女を見た。
「忘れたの? 入院したとき、私に言ったこと」
「え? えーっと……」
彼女にそう言われてギクリとした。何だっただろうか——人差し指を頭に当て、必死に考えを巡らせる。だが、焦れば焦るほど、頭が働かなくなっていく。
「本当に忘れてるの?」
アンジェリカは眉をひそめる。
「ずっと一緒に生きていきたいって」
「あ……」
ジークは思いきり間の抜けた声を発した。ようやく思い出した。入院した翌日に言ったことだ。平たくいえばプロポーズである。
「あ、じゃないわよ」
アンジェリカはため息まじりに言った。少し顎を引き、上目遣いで不安そうに彼を窺う。
「もしかして、もう気が変わってた?」
「んなことはねぇ!! すげぇ、すげぇ嬉しい!!」
ジークは彼女の細い肩を掴み、がむしゃらに気持ちを伝える。喜んでいる表情ではなく、必死の形相だった。
「本当にいいんだよな?!」
「ええ、私はね」
アンジェリカは落ち着いた声で言った。
「でも、ジークはいいのかしら? よく考えた方がいいかもしれないわよ」
「何でだよ! もう十分すぎるくらい考えてんだ!」
ジークはカッとして言い返した。彼女に疑われたのが心外だった。自分はずっと真剣だった。まだ信じてもらえないのかと思うと、たまらなく悔しい。
アンジェリカは斜め上に視線を流すと、とぼけた顔でさらりと言う。
「私、ジークが毛嫌いしているラウルの娘なんだけど」
「……え?」
ジークは混乱した。アンジェリカはこのことを知っていたのだろうか。いや、知るはずはない。サイファは秘密にすると言っていた。では、彼女の推測なのだろうか。自分は試されているのだろうか。だとしたら、知らないふりをしなければならない。今からでは遅いか? いや、どうにかして取り繕わなければ——。
「鎌を掛けているわけじゃないわよ」
アンジェリカはにっこりとして言った。
「お父さんとお母さんから聞いたの、本当のことを」
ジークはポカンとした。きっと相当に間の抜けた顔をしていただろう。
アンジェリカは首を傾げる。
「ジークも知ってるって聞いたけど?」
「あ、ああ……」
ジークは噴き出した汗を手の甲で拭った。ようやく少し落ち着いてきた。それとともに頭も回ってきた。
「おまえ、いつからそれ……」
「ジークが退院する少し前かしら。もう少し早く言いたかったんだけど、なかなか言い出せなくて」
アンジェリカはそう言って、小さく肩をすくめた。
それから二ヶ月以上が経っている。その間も自分はずっと悩んでいた。早く言ってくれれば——ジークはそう思ったが、彼女を責める気にはなれなかった。彼女にずっと黙っていた自分に、そんな資格はない。それに、言い出しにくかった彼女の気持ちもよくわかる。
先ほどサイファと話が噛み合なかった原因もわかった。真実を知ったということをアンジェリカ自身から既に聞いている、サイファはその前提で話していたのだろう。
アンジェリカは前に向き直り、膝の上に両肘をつくと、開いた手の上に顎をのせた。
「何だか恥ずかしいわ。ずっと勝手に勘違いして、もうすぐ死んでしまうなんて悲劇のヒロインぶって。思い返すと顔から火が出そうよ」
「悲劇のヒロインにしちゃ、強情すぎたけどな」
ジークは苦笑いしながら言った。
「どうせ強情よ」
アンジェリカはむくれて、口をとがらせた。
ジークは小さく笑った。彼女のそんな表情でさえも、ただ素直に愛おしく思える。重かった心のつかえが取れたせいかもしれない。
しかし、気掛かりなことは残っている。その真実について、彼女がどう思っているのかがわからない。彼女の様子には何も変化が見られない。悩んではいないのだろうか。
サイファが知りたかったのは、おそらくこのことだったのだろう。当事者の彼の前では、たとえ悩んでいたとしても、アンジェリカがそれを見せることはない。だから、わざわざ自分に尋ねたのだ。
そんなことを考えるうちに、自分がそれを聞き出してサイファに伝えなければならないような気持ちになってきた。勝手な使命感である。自分に出来ることであれば、彼の力になりたいと思ったのだ。横目で彼女を窺いつつ、思いきって率直に訊いてみる。
「それで、おまえさ……どうなんだ? その真実を聞いて」
「どうって?」
「だから、どう思うかっていうか、どうするかっていうか……、悩んだりしてねぇのかなと思って」
アンジェリカは優しく微笑んだ。
「何も変わらないわよ。お父さんはお父さん、お母さんはお母さん、ラウルは先生。誰も変わることなんて望んでいないもの。私もこのままがいい。だからずっとこのままよ。悩むこともないわ」
淀みなくいつもと変わらない口調で答える。無理をしているようには見えない。きっと本心からの言葉なのだろう。彼女の話を聞いていると、それがとても自然で当たり前のように思えてくる。何も心配することはなかった、とジークは胸を撫で下ろした。
「ジークは? 私がラウルの娘でもいいの?」
「何も変わらねぇよ。おまえはおまえだしな」
彼女と同じ言葉で説明をして、ジークははにかんだ。彼女の出自を知ったときは驚いたし、ショックも受けた。それは事実だ。だが、彼女に対する気持ちだけは、少しも変わることはなかった。そもそも入院中にあの話をしたときは、すでにラウルの娘であることを知っていた。知ったうえで彼女と生きていく決意を固めたのだ。
「よかった」
アンジェリカは胸に手をあて、安堵したような笑顔を見せた。
会話が途切れ、急に静かになった。
川を流れる水音が、やけに大きく聞こえた。
視界の端できらきらと輝く水面が眩しい。
「あのね」
アンジェリカが硬い声で沈黙を破った。その声から緊張が伝わってくる。
「私、お母さんみたいにならないから」
「……ああ」
ジークは頬杖をついたまま、静かに相槌を打った。
唐突で少し驚いたが、彼女の言いたいことは理解できた。彼女なりに心配させまいと気を遣っているのだろう。それを言わせたのは自分に違いない。呆れるくらいに心配性で嫉妬深いことを、彼女はきっと知っている。
この後どう反応すべきか悩んだ。僅かに目を伏せる。
暫しの沈黙のあと、訥々と言葉を繋いだ。
「俺、サイファさんみたいに、心、広くねぇから」
「うん」
アンジェリカは重い声を落としてうつむいた。
「そんなんなったら、俺、発狂するかも」
「うん……」
これがジークの飾らない気持ちだった。サイファのような行動をとる自信はない。受け入れる、受け入れない以前に、自分が自分でいられなくなるだろうと思う。こうやってその事態を想像するだけで、気が変になりそうなのだ。情けないことこの上ないが、彼女には正直なところを伝えておこうと思った。
不意に、立てた小指が視界に差し出された。
ジークは面食らった。まさか、と思いながら、その小指の主へと視線を滑らせる。
「ゆびきり」
アンジェリカはにっこりと微笑んで答えた。
彼女は何かというとすぐに指切りを求める。今まで何度させられたかわからない。だからといって、いくらなんでもこの場面で出てくるとは思わなかった。ジークは呆れながらため息をつく。
「こんな大事なことで指切りかよ」
「大事なことだから指切りなの!」
アンジェリカは立てた小指をしっかり見せながら、少し怒ったように力説した。
「仕方ねぇな」
ジークは渋々といった仕草で、軽く握った右手を持ち上げた。わずかに小指を出しているが、いかにもやる気なく丸まっている。
アンジェリカはそれでも嬉しそうに、彼の小指に自分の小指をしっかりと絡ませた。
「約束成立ね」
小首を傾げてくすりと笑うと、指を切った。
——ったく……。
ジークは心の中で嘆息した。彼女は子供扱いすると怒るが、こういうところはまるで子供である。それが嫌なわけではない。だが、そういう子供っぽさに付き合わされるのは、大人の男としては少し複雑な気分である。だいたい、こういうときの約束は、指切りではなく普通は——。
そこまで考えて、はっとした。彼女に振り向いて尋ねる。
「おまえ、あれ持ってるか?」
「あれ?」
「えっと、シルバーリング」
それは、ジークが誕生日プレゼントとして彼女に贈ったものである。12歳の女の子に魔除けとして贈るという古い風習に基づいたものだ。ただ、サイズが合わなかったため、彼女はネックレスにして身につけているらしい。毎日、身につけていると言っていたが、それはだいぶ前のことである。今でも身につけてくれているだろうか、と少し心配になった。
「ええ、持っているわ。サイズが合わないままだけど」
アンジェリカは襟元から指を差し入れると、ネックレスの細い鎖を引っ張り出した。その鎖に通されたシルバーリングが襟からこぼれる。太陽を反射してきらりと光った。
ジークは手を差し出した。
「ちょっと貸してくれ」
「ええ、いいけど……」
アンジェリカは怪訝にそう言うと、首から外し、ジークの手の上に鎖ごと置いた。
ジークはその指輪から鎖を外した。
「左手」
「左手?」
アンジェリカは不思議そうに尋ね返しながらも、素直に左手を差し出した。手のひらが上になっていたが、ジークはそれをひっくり返し、手の甲を上にした。
「何なの?」
「指切りより、こっちの方がそれっぽいだろ」
細い薬指に、そっと銀の指輪を滑り込ませる。彼女が言ったように、サイズは合っていない。かなり緩かった。
「今だけ、それ、嵌めててくれねぇか? ちゃんとしたのは、そのうち買うから」
ジークは目を伏せたままで言った。彼女の大きな瞳に見つめられたら、動揺してしまい、しどろもどろになりそうだと思ったのだ。しかし、結局、曖昧なことしか言っていない。自分の意図が彼女に通じているか不安になった。
アンジェリカは大きく瞬きをした。薬指の指輪をじっと見つめ、くすりと笑う。
「一緒に生きていく約束ね」
「……ああ」
ジークは彼女の肩を抱こうと、背後から手を伸ばした。だが、それが届くより早く、彼女はすっと立ち上がった。ジークは宙にさまよう手を慌てて引っ込める。逃げられたわけではなく、タイミングが悪かっただけだろうが、少しだけ気落ちした。
アンジェリカは軽いステップで石段から川原に下りた。まだ小石の上で歩くのは慣れないらしい。不安定な足元にふらつきながら振り返る。黒髪がさらりと舞い、小石がジャッと鈍い音を立てた。
「大事なこと、言い忘れていたわ」
石段のジークに届かせるように、声の音量を上げた。
にっこりと笑みを浮かべる。
後ろで手を組み、胸を張って大きく息を吸う。
そして——。
「私、ジークのこと大好きよ!」
屈託のない笑顔を弾けさせながら、彼女はありったけの声を張り上げた。澄みきった声が、澄み渡った青空に拡散した。
「なっ……」
ジークは顔を真っ赤にして狼狽した。思わず周囲を見まわす。自分から見える範囲に人影はなかった。ふぅ、と細くため息をつき、前髪を無造作に掴みながら額を押さえた。そして、下を向いたまま声を立てずに笑う。背中は少し揺れていたかもしれない。
アンジェリカは予測もつかない行動や反応をすることがよくある。ジークははいつも振り回されっぱなしだった。入学したときからずっと彼女のペースに巻き込まれてきた。それでも不思議と嫌だとは思わなかった。むしろ、そういうところが可愛いとさえ思う。彼女と一緒にいると飽きることがない。
「ねぇジーク、見て!」
ジークはまだ熱の残る顔を上げた。
彼女は左手を高々と掲げていた。太陽にかざしているらしい。手を動かすたび、光を受けたシルバーリングがきらりと煌めいた。
ジークはふっと笑みをもらし、誘われるように立ち上がった。その眩しさに目を細めながら、それでも目をそらすことなく、確かな一歩を踏み出す。
きっと彼女となら、一緒に歩いていける。
きっと彼女となら、ともに支え合っていける。
自分が守っていくなんていう自信はないけれど、
楽しいときも、つらいときも、
晴れた日も、嵐の日も、
つないだ手を離さない自信だけはあるから——。
空は奇跡のように果てしなく青かった。太陽は祝福の光を世界に遍く降り注ぐ。彼女の手にあるのは、その一部を受けて輝く夢のひとしずく。それは、ふたりの約束の形、望むべき未来への道しるべ。
ジークはこの光景を生涯忘れることはないだろうと思った。