その日は途切れることなく雨が降り続いていた。鉛色の雲が重々しく立ち込め、空に蓋をされたかのような圧迫感があった。
「はぁ……」
ジークは傘を差したままガラスに張り付き、あまり広くない店内を見つめてため息をついた。
彼の視線の先にあったものは、分厚く古めかしい本だった。古めかしいだけで、古本ではない。重厚さを狙った装丁なのだろう。全体をビニルでパックされていて、立ち読みできないようになっている。
「無理だよなぁ……」
ほとんど諦めたような、しかし、どこか諦めきれない口調で呟く。
ジークはこのところ毎日、これを繰り返していた。学校帰りに本屋のガラスに張り付き、30分から1時間ほど、ただじっと中を眺めてため息をつくのだ。店員は呆れたような困ったような顔でジークを睨んでいたが、当の本人はまったくそれに気がついていない。
彼の目当ては魔導の本だった。図書館にも置いていないものだ。いや、図書館にあったとしても、手元に置いておきたい類の本である。出来ることなら購入したい。だが、まだ14歳の学生である自分には、到底、手の届かない金額だった。
ジークの家は、お世辞にも裕福とはいえなかった。ずっと慎ましやかで質素な生活をしてきた。4年前に父親が他界してからは、貧乏といってもいいくらいだった。なので、こんな高い本が欲しいなどとはとても言えなかったし、言ってはならないと思った。
自分の行為が建設的でないことは、自分でもわかっていた。だが、諦めの悪い彼は、どうしてもそれをやめることが出来なかった。
「ジーク?」
背後から女の子の声が聞こえた。雨の音にも負けない、よく通る声だった。
ジークは瞬きをしながら振り返った。
「あれ? おまえ……」
自分に声を掛けてきたその少女には見覚えがあった。確か、クラスメイトのはずだ。だが、名前が出てこない。彼女に存在感がないからではない。ジークの方の問題である。彼女だけではなく、クラスの女子の名前をほとんど覚えていないのだ。大半は顔すら覚えていない。その点、彼女は顔が記憶にあっただけ、まだましとも云える。
「やっぱりジークだったのね」
彼女は上品に微笑んだ。淡いピンクの傘を斜めに差し、両足をそろえて立っている。
「何をしているの?」
「あの本を見てる」
ジークは店内の一角を指差した。
少女は覗き込む。ふたりの傘がぶつかった。
「あのえんじ色の厚い本?」
「ああ」
少女は目を凝らしてそれを見た。
「難しそうな本ね。ジークはああいう本を読むの?」
「魔導の本なんだ」
短い説明だったが、彼女が納得するには十分だった。ジークが魔導についての天才的な能力を持っており、理論についても大人顔負けの知識を持っている。そのことは、学校では皆が知るところである。当然、難しい本もたくさん読んでいるのだろう。
「やっぱりすごいなぁ」
彼女は感嘆して言った。真剣な彼の横顔をじっと見つめる。
「買わないの?」
「高くて買えねぇ」
ジークはそう答えて、何度目かのため息をついた。
彼女はしばらくジークと並んでその本を見ていたが、急に傘を閉じ、彼にそれを押し付けた。
「な、なんだよ」
「ちょっと待ってて」
彼女はにっこり微笑むと、小走りで本屋へ駆け込んでいった。
ジークは怪訝に眉をひそめた。自分の傘も閉じ、彼女のものと一緒に持つ。雨はまだ降り続いていたが、そこは軒下となっており、傘をささなくてもほとんど濡れないことに気がついたのだ。
本屋の中の彼女が視界に入った。その姿を何となく目で追う。
彼女は窓の外にいるジークに軽く手を振ると、先ほどまで眺めていた魔導の本をひょいと手に取り、軽い足取りでレジへと持っていった。
「あーー!!!」
ジークはガラスにベタリと張り付き、大声を上げた。
店員は迷惑そうな視線を彼に向けたが、仕事の手を止めることはなかった。会計を済ませ、茶色の紙袋に入れて、客である彼女に手渡す。彼女は両手でそれを受け取った。
彼女が本屋から出てきたとき、ジークはガラス窓にもたれかかり、肩を落としてうなだれていた。あの本はここには一冊きりしか置いてなかったのだ。もう本屋を覗いても、その表紙を見ることは叶わない。
「そりゃ俺のじゃねぇし、おまえが買うのにとやかく言う筋合いはねぇけどよ……」
「はい」
彼女はにっこり笑って、分厚い茶色の紙袋をジークに差し出した。もちろん、中身は先ほど買った魔導書だろう。
「え?」
「あげるわ」
「は?」
ジークはいまだにきょとんとしている。
「もらって」
彼女は少しゆっくりとした口調で言った。
ジークはようやく彼女の言うことを理解した。だが、彼女の行動は理解できなかった。呆然としながら首を横に振る。
「いや、そんな高いもの、もらうわけには……」
「じゃあ捨てちゃうけど」
彼女は素っ気なくそう言うと、反対側にあった大きなゴミ箱に、袋ごと放り込もうとした。
「わーー!! 待て、待て!! 何するんだ!!」
ジークは慌てて、彼女の腕を後ろから引いて止めた。手にしていたふたつの傘が、濡れた地面にバシャリと音を立てて落ちた。しかし、それに構う余裕はなかった。彼女の手からまだ本が放れていないのを見て、ほっと安堵の息をつく。
彼女はその本を掲げて振り返り、事も無げに言った。
「だって、私、こんなの読めないんだもの」
「じゃあ何で買ったんだよ」
「ジークにプレゼントするためよ」
ジークは眉をひそめて首を傾げた。
「なんで……?」
「そうしたかったから」
彼女はにっこり微笑んで、再びそれをジークに差し出した。
ジークは家に帰ると、ぼんやりとしながら自分の部屋に寝転がった。
結局、受け取ってしまった。半ば強引に押し付けられたようなものだった。彼女がどういうつもりでこんなことをしたのかは、聞けずじまいだった。ただ「そうしたかったの」と言うだけである。わけがわからなかった。とまどうばかりだった。礼さえ言っていないことに、今になってようやく気がついた。
もらった魔導書を、何となく腹の上に載せてみる。ずっしりとした重みが伝わってきた。そう、これは自分が欲しかったものの重みである。今、確かに自分の上にあるのだ。
いくら考えたところで、結論が出るわけではない。時間を無駄遣いするだけだ。それならば、せっかくもらったこの本を読むことに時間を費やしたほうがいい。ジークは気持ちを切り替えることにした。本を手に持って起き上がると、机に向かった。
翌朝、雨は上がっていた。大気は雨で洗い流されたように新鮮だった。草花に残る水滴が、陽光をきらきらと反射している。
ジークは空に向かって大きく欠伸をした。
「おはよう、ジーク」
背後から高い声が聞こえ、少女が駆け寄ってきた。両手で鞄を持ち、にこりと微笑む。肩より少し長い赤茶色の髪が、さらりと風に揺れた。
「ああ、おはよう」
ジークはちらりと目を向け、覇気のない声で挨拶を返した。すぐにきのうの彼女だとわかったが、それ以上は何も言わなかった。本来ならきのうの礼を述べるべきところだが、このときのジークは眠くて頭がまわっていなかった。
彼女は後ろ手に鞄を持ち、並んで歩く彼に目を向けた。
「眠そうね」
「あんまり寝てねぇもん」
ジークは再び欠伸をした。大きく開けた口を隠すこともせず、思いきり酸素を取り込む。
彼女はジークの表情を窺いながら尋ねる。
「気に入った? あの本」
「そりゃ欲しかった本だからな」
ジークはようやく笑顔を見せた。睡眠不足はこの本によるものだった。読み始めるとなかなか止められず、気がつけば朝方になっていたのである。それほど、彼にとっては興味深い内容だった。
「すげぇ感謝してる」
自然とその言葉が口をついた。彼女がどういうつもりなのかを訝る気持ちは、もうすっかり忘れてしまっていた。今はただ素直に嬉しく思っている。
「良かった」
彼女は胸に手を当てながら、ほっと安堵の息をついて笑った。
「ミランダ、おはよっ!」
突然、後ろからショートカットの女子が飛び出してきた。ジークたちの前にくるりと回り込む。
「おはよう、サンドラ」
ジークの隣の少女は、にっこりと微笑んで挨拶を返した。
どうやら、隣にいる彼女の名前はミランダというらしい。ジークはようやくそれを認識した。高価な本をもらったことだし、顔と名前くらいは覚えておかなければと思った。その気になれば、覚えることは簡単である。記憶力はかなり良いといっていい。ただ、興味のないこと、必要性のないものは覚えない、そういう傾向にあるだけだ。
「めずらしい人と歩いてるのね……あ、私、邪魔だったりして」
サンドラはからかうような口調で言うと、口元に手を当て、意味ありげな表情を作って見せた。
だが、ミランダはわずかに微笑むだけで、何も言い返さなかった。
「え? もしかして……?」
サンドラは目を丸くした。じっとミランダを見たまま、大きく何度か瞬きをする。
「そっか、そうだったんだ。ジークだったんだ」
ひとり頷きながら納得すると、ミランダの向こう側のジークを横目で窺った。そして、ミランダとふたり、顔を見合わせて笑い合う。
「じゃ、先に行ってるわね。あとでちゃんと聞かせてよね!」
サンドラは元気よく手を振りながら、ミランダを残し、学校に向かって駆け出していった。
「いいのか? あいつ友達じゃねぇの?」
「いいのよ」
走り去るショートカットを指差して尋ねたジークに、ミランダは弾んだ声で答えた。
「ふーん……」
ジークは訝しげに相槌を打った。ミランダと友人の会話と態度がよくわからなかった。自分に関係がありそうだっただけに、何となく気持ちが悪い。だが、どうでもいいかと思い直す。
「ねえ、ジーク?」
「ん?」
少し甘えたようなミランダの呼びかけに、ジークは前を向いたまま気のない返事をする。
「私、数学でわからないところがあるんだけど、よかったらあとで教えてくれない?」
「え? ああ、まあいいけど」
ジークは気が進まなかったが、断ることはしなかった。高価な本をもらった以上、無下に拒むわけにもいかない。そのくらいはしなければならないだろうと思った。
「わあ、ありがとう」
ミランダは顔の前で両手を組み合わせ、大袈裟に喜んだ。
翌日以降も、ミランダは何かとジークに声を掛けてきた。そのため、行きも帰りも一緒になることが多かった。それだけではなく、次第に、休憩時間や放課後も、ともに過ごすことが増えていった。
ジークにしてみれば、勝手についてきているだけ、という認識に近かった。面倒だと思うこともあったが、そういうときは、いつも以上に素っ気ない返事をしてやり過ごした。彼女は、その応対に特に怒るわけでもなく、そのときばかりはそっとしておいた。そのような微妙で絶妙なバランスの上に、ふたりの関係が成り立っていた。
一緒にいるというだけで、いろいろと噂が立ったし、冷やかされることもあった。まわりは思春期の少年少女たちである。そういう好奇心が旺盛なのも当然のことだろう。
ジークは元来、人目を気にする性質ではなかったため、そういう雑音はどうでもいいものとして無意識に聞き流していた。一方のミランダは、むしろ噂になることを嬉しく思っている様子だった。ふたりとも釈明をしなかったので、噂は学校中に広がっていった。ジークは学校では有名な魔導の天才少年、ミランダはこのあたりでは有名な事業家の一人娘、ということも、噂を広げる一因だった。
「え? 何?」
「だから、付き合ってほしいの」
学校からの帰り道、ミランダはジークの隣を歩きながら、真剣な表情で言った。
「ああ、どこへだ?」
ジークは軽い調子で尋ねた。とぼけたわけではなく、真面目にそう思ったのだ。
「そうじゃなくて……」
ミランダは苦笑いした。口元に手を添え、難しい顔で思考を巡らせる。
「私と交際してください」
少し考えたあと、やや古風な言いまわしで表現しなおした。
ジークは奇妙な表情で首を傾げた。
「交際って、何するんだ?」
「えぇっ? えっと……」
ミランダは素っ頓狂な声を上げ、なぜか顔を赤らめながら、再び言葉を詰まらせた。
「一緒に帰ったり、一緒に遊んだりするの!」
胸元で両こぶしをぐっと握りしめ、きっぱりと力を込めて言い切った。どこか必死な様子だった。
しかし、ジークはそれでも腑に落ちなかった。もう一度、首を傾げて尋ねる。
「それって、今と変わらなくねぇか?」
「うーんと、休日も一緒に遊ぶの!」
「休日か……」
ジークは腕を組み、難しい顔で考え込んだ。
「ね? いいでしょう?」
「ああ、まあ……」
半ばミランダに押し切られるような形で、ジークは曖昧に肯定の返事をした。
それから、ジークは休日にも出かけるようになった。
本音をいえば、休日まで彼女に拘束されたくはなかった。魔導の勉強もしたいし、本も読みたい。母親の手伝いもしなければならない。だが、高価な本をもらってしまったこともあり、どうにも断ることができなかったのだ。
母親のレイラは、「休みの日に遊ぶような友達が出来たのね!」とやたらはしゃいでいた。今まで休日に出かけることはほとんどなかったので、めずらしいことは確かだが、ジークには何がそんなに嬉しいのかさっぱりわからなかった。
「なんでこんなことになっちまったんだろう」
ジークはため息まじりに呟きながら、待ち合わせ場所に向かった。あれ以来、毎週、ミランダに付き合わされている。気が乗らなかったが、断らなかったのだから仕方がない。ただ、これだけの時間があれば、もっと有意義なことが出来ただろう、とつい考えてしまう。
「お待たせ」
ミランダが時間ぴったりに姿を現した。軽く跳ねるようにジークの前まで来ると、下から覗き込んでにっこりと笑う。
「ああ」
ジークはいつものように気のない返事をした。
ミランダは気にすることなく、彼の腕に自分の腕を絡ませた。
「行きましょう」
「なあ、いいかげん、コレ、やめねぇ?」
ジークは目線で、絡んだ腕を示した。彼女はいつもこうやって腕を絡ませてくるが、自分にとっては歩きづらい以外の何物でもない。彼女も歩きづらいのではないかと思う。こうやって歩くメリットが、どうしても見出せない。
「だめよ、腕くらい組まなきゃ、デートの意味がないわ」
ミランダは以前と同じ答えを返すと、さらに体を寄せてきた。
ジークはもう諦めるしかなかった。こっそりと小さくため息をついた。
ふたりは地元のショッピングセンターをまわった。それがいつものコースだった。特に何か目的があるわけではない。ミランダはときどき洋服やアクセサリ、雑貨などを買っていたが、ジークは何も買ったことはない。ただ、ミランダについてまわるだけだった。
「ジークは何か買いたいものとかないの?」
「ねぇよ」
はしゃいだミランダの問いに、ジークはぶっきらぼうに答えた。彼の興味を引くものは、魔導に関する本くらいである。それ以外に欲しいものはない。本屋以外の店を見て歩いても、とても楽しいとは思えなかった。
ミランダは小さく肩をすくめた。
「じゃあ、来週はジークの家で遊ばない?」
「あ、えーと、それはちょっと……」
ジークは急に弱々しく口ごもった。家に来てもらうこと自体は別に構わないのだが、問題は母親だった。彼女を連れて行けば、間違いなくあれこれ詮索してくるだろう。それが嫌だった。そして、彼女にとんでもないことを言い出しそうなのも怖い。母親は思いもしない言動で、いつも自分を慌てさせるのだ。
ミランダは口をとがらせた。だが、すぐにぱっと明るい顔に切り替える。
「じゃあ、遊園地は? 遊園地に行こう?」
「それも無理だ」
ジークは短く即答した。
「えー? どうしてぇ??」
ミランダは不服そうに聞き返した。後ろ手に荷物を持ち、少し前屈みになると、頬を膨らませてジークを覗き込む。
ジークは前を向いたまま、素っ気なく口を開いた。
「俺、そんな金、持ってねぇし」
「なんだ」
ミランダはほっとしたように、胸に手を当てて笑った。
「そのことなら気にしないで。私に任せてくれればいいわ」
「そういうわけにもいかねぇだろ。前も高い本もらったんだし……」
ジークは歯切れ悪く言い淀んだ。そのことを思い出すと、どうしても強気に出られない。
「だから気にしないでって。遊園地、私が行きたいんだもん」
「だったら他のやつ誘えよ」
「ダメ! ジークと行きたいの。いいでしょう? いいわよね!」
ミランダはジークの返事を聞かず、強引に決めてしまった。
ジークは頭を押さえてため息をついた。
翌週、ふたりは遊園地に来ていた。自宅からそう遠くはない、鄙びた遊園地である。
約束どおり、二人分の入園料はミランダが払った。出来ることなら自分の分くらい自分で払いたかったが、ないものは出せない。母親に借金することも考えたが、そうなるとまず間違いなく理由を尋ねられる。それだけは絶対に言いたくない。結局、彼女の言いなりになるしかなかった。ますます自分の立場が弱くなる気がして、ジークは気が重かった。
対照的に、ミランダの足取りは軽かった。嬉しそうにふわふわと浮かれた様子で、ジークをあちらこちらに連れまわした。アトラクションを全制覇する勢いだった。
「次はあれ、あれに乗ろう!」
彼女が指差したのは観覧車だった。それほどの大きさはない。一周するのに10分もかからないだろう。
「もう閉園近いぞ」
「これで最後にするから。ねっ?」
反論するジークの前に回りこみ、両手を合わせて片目を瞑る。強いお願いのポーズだ。弱い立場であることを自覚しているジークには、断ることはできない。
「わかったよ」
「やった!」
ミランダは小さく飛び跳ねて喜んだ。その隣で、ジークは疲れたようにため息をついた。
閉園間近のためか、人は少なくなっていた。観覧車に並んでいるのは数組のカップルだけである。その後ろにふたりは続いた。
ほとんど待つことはなかった。ゆっくりとやってきたゴンドラに乗り込み、向かい合わせに座る。中はあまり広くなく、互いに身を乗り出せば、膝がぶつかってしまいそうなくらいだ。大人の男性ふたりが向かい合わせに座るのは困難に思えた。遊園地という場所柄、その状況は想定していないのかもしれない。
「ジーク、観覧車は好き?」
ミランダは窓に手をつき、外を眺めながら尋ねた。一瞬、ガラス窓が吐息で小さく曇った。
ジークはぶっきらぼうに答える。
「乗ったのは多分、初めてだ」
「そうなの?」
ミランダは驚いたように目を大きくして振り向いた。
「遊園地もこれが二回目」
「ええっ? 嘘? 本当に?」
ジークは彼女の視線から逃れるように顔をそむけ、ガラス窓にもたれかかりながら、小さな遊園地を見下ろした。
以前に遊園地へ来たときは、両親と一緒だった。まだ手を引かれて歩くくらい小さかった頃だ。正直、あまり記憶には残っていない。ただ、なんだか無性に楽しかったような感情、そして、また来ようと父親と指きりしたことだけは覚えている。その約束は果たされなかった。今後、果たされることもない。父親はもうこの世にはいない。
「……ねぇ、ジーク」
「ん?」
めずらしくためらいがちに切り出したミランダに、ジークは思わず振り向いた。彼女はぎこちなく笑っていた。どこか無理をしているように見えた。彼女のこんな表情を目にしたのは初めてのことだった。いったい何の話だろうかと不安に思う。
「やっぱり楽しくない?」
「あ、いや……」
図星を指されたが、それを肯定するほどの図々しさはなかった。半ば無理やり連れてこられたとはいえ、ここの入園料は彼女持ちなのだ。
「ジーク、私と一緒にいても、いつもちっとも楽しそうじゃないわよね」
「…………」
ジークは完全に言葉に詰まった。
ミランダは寂しそうに目を伏せた。自嘲するように、下を向いたまま微かに笑う。
「私が子供っぽいから呆れてる?」
「いや……」
「私の何がいけないのかなぁ?」
彼女の声はとても頼りなげだった。今にも泣き出しそうに聞こえる。もしかしたら、ずっと我慢して明るく振る舞っていたのかもしれない。ジークはそのとき初めてそう思った。困ったように眉をしかめる。
「いけなくはない……けど……」
「けど、何?」
「俺の方の問題っていうか……」
「お願い、はっきり言って」
ミランダは切羽詰まったように懇願する。
ジークは一呼吸してから、複雑な顔で口を開いた。
「……俺さ、正直いって、こうやっておまえと遊んだりするより、魔導の勉強したり本を読んだりしてる方が楽しいんだ」
ミランダは言葉をなくし、呆然とショックを受けた表情でジークを見た。そして、何かをこらえるように、唇を噛みしめて立ち上がる。小さなゴンドラが、それに呼応するように、緩やかに揺れた。
「悪りぃ」
ジークは申しわけなさそうに目を伏せた。彼女を傷つけてしまったのは間違いない。いったいどうしてこうなってしまったのだろうか。頭の奥にズキリと痛みが走った。
「ジーク……」
ミランダが小さく名前を呼んだ。精一杯、感情を抑えたような、低くかすれた声だった。怒っているようにも、思いつめているようにも聞こえる。
ジークはおそるおそる顔を上げた。
そのとき——。
何かに視界が遮られた。何かが唇を掠める。
一瞬、何が起こったのかわからなかったが、視界を遮っていたものがゆっくりと離れていくのを見て理解した。それはミランダだった。腰を屈めて、顔を近づけ、彼の唇にキスをしたのだ。
彼女はゆっくりと体を起こし、ゆっくりと顔を上げる。頬が真っ赤に染まっていた。だが、瞳は大きく潤み、表情は不安そうに揺れていた。
「少しくらいときめいた? どきどきした?」
震える声をごまかすように、早口で尋ねる。
「…………」
ジークは何も答えなかった。答えることができなかった。ただ口を結んだまま、困ったような顔を見せるだけだった。
ゴンドラがガタンと揺れた。頂上だった。そこから、ゆっくりと下降し始めた。
観覧車が一周した。
ミランダは弾けるように飛び降りた。ジークもそのあとに続き、重い足どりで外に出た。
ふたりはそのまま遊園地を出て、家路についた。ふたりとも無言で歩いた。並んで歩いているが、いつもと違って、ミランダは腕を組もうとしなかった。
「もうこれっきり!」
「え?」
ミランダは後ろで手を組み、背筋を伸ばしてオレンジ色の空を仰いだ。赤みがかった茶髪が、夕陽を浴びて燃えるように輝いている。
「もう私からは誘わない。ジークが遊びたくなったら、ジークから誘って」
「わかった」
ジークは普通の声で、普通に返事をした。
ミランダは笑顔を作って見せた。だが、その目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
ゆっくりと走り去る彼女の後ろ姿を、ジークは黙って見送った。何とも言いようのない複雑な感情が湧き上がる。それが何なのかはわからない。ただ、体も、心も、鉛のように重く感じた。
深くため息をついて空を見上げた。
太陽は落ち、空の光は急速に勢いをなくしていた。地平付近の最後の朱色も、まもなく濃紺色に塗り替えられるだろう。それは日々の光景。変わらない日常。だが、どれとして完全に同じものはない。今日はなぜか、この空の変わりゆく様を見届けたいと思った。
【まえがき】ジークが14歳のときの話です。最終話の余韻に浸っていたい方は、読まずにスルーすることをおすすめします。忠告はしましたからね!