「わあ、広ーい!」
アンジェリカは玄関に入るなり感嘆の声を上げた。部屋の真ん中まで駆けていくと、短いスカートをひらめかせながら、くるりと一回転する。
「おまえんちの方がよっぽど広いだろう」
「だって、ここは私の家じゃないもの」
ジークにはアンジェリカの思考回路がさっぱり理解できなかった。だが、彼女が笑顔を見せてくれていることが嬉しかったので、これ以上は追及しなかった。
ここは王宮に程近いマンションの一室である。ジークが借りた部屋だ。彼はまもなく魔導省に勤務することになっているが、実家から通うのでは少し遠いのだ。通えない距離ではなかった。ただ、一年目は現場での仕事になるため、事件が起これば緊急招集がかかることも少なくない。そのため、少しでも早く出てこられるように、なるべく近いところに住むようにとの指示が出たのだ。
当初はサイファが自分の家に住むように申し出てくれた。だが、それは断った。これからは上司と部下の関係になる。あまり頼りすぎるのも良くないだろうという判断だった。それに、まわりの目も気になる。サイファと親しいと知られればどうなるか、それは研究所でのアルバイトのときに経験済みだった。サイファは気にするなというだろうが、自分は気にしないでいられるほど強くはない。
「ひとりで住むには広すぎる気がするけど」
アンジェリカは他の部屋を覗きながら、独り言のように言った。このマンションは、間取りでいえば2LDKになる。しかも、リビング・ダイニングキッチンは、この間取りの平均的なマンションと比べても、かなり広いほうだ。
「最初は母親を呼ぶつもりだったんだ。ひとり残しておくのも心配だったし」
「どうしてやめたの?」
アンジェリカは瞬きをしながら振り返った。
ジークは腕を組み、渋い顔を見せた。
「俺じゃなくて、母親の方がな。まだ若いからそんな心配はいらないとか何とか、頑固に拒否しやがるんだ。まあ、気持ちもわからないわけじゃねぇし、俺も強くは言わなかったけど」
「気持ちって?」
「思い出から離れたくないんだろうな」
「あ……そうよね……」
アンジェリカは僅かに沈んだ声で相槌を打った。
その様子から、彼女が深い事情まで察してくれたのだとジークは理解した。
ジークの母親の「思い出」とは、亡き夫との日々のことだ。亡くなったのは 12年ほど前のことである。ともに過ごした日々より、いなくなってからの方が長くなろうとしていた。それでも、いや、それだからこそ、思い出の場所から離れられないのかもしれない。
「ま、ときどき遊びに来るっていうし、一人暮らしには贅沢だけど、ここでもいいかと思ってな。ここほど条件いいところはなかなかねぇんだ」
ジークは気持ちを切り替え、表情を明るくして言った。せっかくアンジェリカが来てくれたのだ。今は楽しく過ごしたいと思う。
その気持ちに応えるように、アンジェリカもにっこりと笑顔を返した。
「それで、いつ引っ越しをするの?」
「一応、もう終わってるんだけどな」
「え? 何もないじゃない」
アンジェリカはあらためて周囲を見まわした。家具はもちろん、カーテンすらない。空き部屋との違いは、電灯がついているかどうかくらいである。
「家から持ってきたのは服と本くらいで、あとのものはこれから買いに行くつもりなんだ」
「これからって、今から?」
「いや、明日あたりにでも」
ジークは窓ガラスを開けながら答えた。アンジェリカが来ているのに、今からすぐ行こうなどとは考えていない。
「今から一緒にっていうのは駄目かしら?」
「え?」
アンジェリカの思わぬ提案に驚き、ジークは窓ガラスに手を掛けたまま振り返った。彼女は口元に人差し指を当て、何か考えを巡らせるように、斜め上に視線を向けていた。
「面白そうだから興味があるんだけれど」
「いや、それだったら嬉しいけど……」
ジークはとまどいながら曖昧な返事をした。
しかし、アンジェリカはそれを聞いて、パッと表情を輝かせる。
「本当? じゃあ、これから行きましょう!」
「いいのか? せっかく遊びに来たのに買い物なんて……」
ジークは彼女が気を遣っているのではないかと思った。カーテンも布団も何もないこの状況を心配してくれた可能性は十分にある。もしそうならば、付き合わせては申しわけがない。
「私が行きたいんだからいいの! もしかして、本当は迷惑?」
アンジェリカは下からジークを覗き込み、わずかに首を傾げて尋ねた。大きな漆黒の瞳がまっすぐに彼を捉える。
ジークはその近さにドキリとして仰け反った。後頭部がガラスにぶつかり、ゴンと鈍く乾いた音がする。
「そ、そうじゃねぇよ」
思いきり狼狽しながら首を振る。
アンジェリカはにっこりと笑って、人差し指を立てた。
「荷物持ちくらいにはなるわよ?」
ジークはぱちくりと瞬きをした。そして、ふっと表情を緩めて笑う。
「ああ、じゃあ頼む」
「任せて!」
アンジェリカは右腕で力こぶを作るようなポーズをとり、弾けるような笑顔を見せた。
ふたりはそろって買い物に出かけた。家具や食器、調理器具などの生活用品が置いてある大型店である。
まず、テーブルやソファなどの大きなものを注文し、配達の手配を済ませた。ジークにはあまりこだわりはなく、予算だけを気にしながら、簡単に次々と決めていった。
だが、アンジェリカにはそれが不満らしかった。
「せっかく買い揃えるなら、雰囲気とか色調とか統一すればいいのに」
口をとがらせ、そう抗議する。
しかし、ジークは取り合わなかった。
「そんなもん気にしてたら今日中に決められないだろ。予算もオーバーするだろうしな」
「張り切っていたのに拍子抜けだわ」
アンジェリカは怒ってはいなかったが、とても残念そうにしていた。腰に手をあて、軽くため息をつく。
「それは、また今度……な」
ジークは斜め上に視線を逃がしながら、ぼそりと言った。
アンジェリカは不思議そうに彼を見上げた。
続いて、食器や簡単な調理器具を選ぶ。アンジェリカが丸ごと入るくらいの大きなカートを押しながら、あれやこれや言いつつ、そのカートに入れていく。ときどき脱線し、まったく買う予定のないもので盛り上がったりもした。たったこれだけのことなのに、ジークは楽しくて仕方なかった。彼女も同じ気持ちであってほしいと願う。
「ねぇ、ジーク」
カートを押すジークの少し先で、アンジェリカが足を止めて振り返った。
「包丁は三本でいいかしら」
「三本?! そんなにいらねぇって。一本で十分だろ」
ジークは驚いて言い返した。
だが、アンジェリカは首を傾げながら反論する。
「肉切りと菜切りと果物ナイフくらいは必要でしょう?」
「万能包丁だけでいいんだよ。本格的に料理するわけじゃねぇんだし」
ジークはそう言いながら、棚に並んでいたものの一本を取り、カートに放り込んだ。
アンジェリカは不満そうに口をとがらせたが、それ以上は言い返さなかった。ジークの家のことである以上、無関係な自分はあまり強く意見できないと思ったのだろう。ジークの隣を歩きながら考え込み、独り言のように呟く。
「私が作るときは、家から持ってくればいいのよね」
「え? ああ……」
ジークは曖昧に返事をした。横目で彼女を窺いながら、先ほどの発言を思い浮かべる。
——それって、また手料理を作ってくれるってこと、なんだよな?
そう思うと、自然に口元が緩んでいた。彼女が当たり前のようにそう考えてくれていることが嬉しかった。包丁三本をカートに突っ込みたい衝動に駆られたが、あまりにも露骨すぎるのでやめておいた。後日、買い足しておこうと心に決めた。
一通り店内をまわり、買うものを選ぶと、レジで精算を済ませた。カートに入れていたときは気がつかなかったが、いつのまにかかなりの分量になっていた。袋に詰めると、ふたりで持てるか持てないかギリギリのところである。
そのため、ジークは配達してもらおうとしたのだが、アンジェリカは持って帰ると言い張ってきかなかった。家は近いので頑張れば何とかなるというのだ。少し言い合いになったが、結局、ジークが折れた。ふたりとも両手いっぱいの荷物を抱え、帰路についた。
「あーっ! 疲れたっ!! 手がイテェ!!」
ジークは家に着くなり開口一番そう叫び、荷物を放り出したまま、部屋の中央に寝転がり、手足を放り出して大の字になった。
「無事に帰って来られて良かったわ」
アンジェリカは苦笑いしながら、冗談とも本気ともつかない感想を述べた。寝転びこそしなかったものの、ぺたりとフローリングの床に座り込んでいる。
「だから、配達してもらえば良かったんだよ」
「だって、それじゃ、何のために私がついていったか、わからないじゃない」
アンジェリカは軽く口をとがらせながら言い返した。しかし、すぐに自分の主張を引っ込め、しゅんとうなだれた。彼女にしてはめずらしいことだ。よほど後悔しているのだろう。
「ごめんなさい」
「いいよ、無事に帰って来られたんだし」
ジークは優しい声でそう言うと、体を起こし、その場に胡座をかいた。文句は言ったものの、彼女に対して怒ってはいない。その一生懸命な気持ちが嬉しいとさえ思う。
アンジェリカはほっとしたように表情を緩めた。
「でも、楽しかったわ。新生活の準備ってワクワクするわね」
「ああ」
ジークは店でのことを思い起こしながら、感情を込めて相槌を打つ。アンジェリカと一緒だったから楽しかったのだろう。ひとりではもっと味気なかったに違いない。
「いいなぁ」
「えっ?」
ジークが振り向くと、アンジェリカは膝を抱え、その上に頭をのせていた。
「ジークが羨ましい」
小さくため息をつき、どこか拗ねたような口調で言う。
「私も一人暮らしがしたかったけれど、許してもらえそうにないから」
「そりゃそうだろう」
ジークは当然のことと受け止めた。アンジェリカが勤務することになっているアカデミーは、彼女の家のすぐ近くだ。あえて一人暮らしをする理由などない。何よりまだ14歳である。いくら彼女が望んでも、親であれば反対してしかるべきだ。
「大人になったら許してもらえるかしら?」
アンジェリカは独り言のようにぽつりと言った。
——大人になったら、か……。
ジークは彼女の横顔をじっと見つめた。大人、つまり18歳になったら、彼女は一人暮らしをするつもりでいるのだろうか。それほどまでに一人暮らしに憧れているのだろうか。彼女の望みを叶えさせてやりたい気持ちもあるが、彼はすでに違う計画を持っていた。
「二人じゃ、ダメなのか?」
「えっ?」
アンジェリカは頭を持ち上げた。きょとんと大きく目を見開いている。
「あ、いや、今すぐっていうんじゃなくて、もうちょっとしたらだけどな」
ジークは胸の前で右手を広げた。アンジェリカはまだまだ先のことと考えているかもしれないが、ジークは出来るなら今すぐにでも結婚したいと思っていた。もちろん今はまだ無理だ。しかし、アンジェリカが16歳になれば、それが可能になる。あと1年半。ジークはそれを指折り数えている。
しかし、アンジェリカは首を傾げ、素っ気ない答えを返す。
「一人暮らしに憧れているんだから、一人じゃなければ意味がないじゃない」
「まあ、そうか……そうだよな……」
ジークは落胆を隠すように、ごまかし笑いを浮かべた。別に自分が拒絶されたわけではない。単に一人暮らしがしたいと言っているだけだ。二人で一緒に暮らすのは、彼女がその望みを叶えてからでも遅くはない。自分の計画より数年遅れることになるが、そのくらいは待てるだろう——そう自分自身に言い聞かせる。
「でも……」
うつむいて考え込むジークの耳に、アンジェリカの落ち着いた声が聞こえた。
「妥協してもいいわよ。二人で」
彼女はにっこりと微笑んでそう言うと、Vサインのように、顔の横で指を二本立てた。
ジークは大きく目を見開いて彼女を見た。口を結んだまま、何度かぱちくりと瞬きをする。彼女が何を言っているのか、とっさに理解できなかった。
しかし、やがて顔全体が一気にほころんだ。嬉しいような、照れたような笑顔を見せる。
「妥協なのかよ」
「感謝してね」
アンジェリカは悪戯っぽく笑って応じた。
ジークも笑った。
最初のうちは、彼女に意図が伝わっていないのかと思ったが、そうではなかったらしい。きちんと理解してくれていた。そして、それを承諾したととれる反応を見せてくれた。このあたりことは、近いうちにはっきりさせようと思っている。彼女に対しても、彼女の家族に対しても——。
「挨拶、行かねぇとなぁ。スーツ着て手土産とか持って行けばいいのか……?」
「普通でいいんじゃないかしら。今さらだもの」
「いや、そういうわけにはいかねぇだろ。こういうことはきっちりしとかないと」
「ジークって妙に固いところがあるわよね」
「下手なことやって失敗したくねぇんだよ」
こういうことを考えると胃が痛くなりそうだが、障害は何もないはずだ。きっと上手くいくと信じている。
そして、その先に待つのは、ふたりで作る未来——。
特別なことなんてなくてもいい。
何気ない日常があればいい。
例えば、今日のようなこんな一日。
彼女とともに過ごしていけたら、それだけで満たされるだろう。
ジークは、そんなささやかで贅沢な未来を思い描いた。
そして、彼女も同じ思いでいてくれることを願った。
いや、願わなくてもすでに同じ気持ちに違いない。
彼女の柔らかい笑顔を見て、そう確信した。
【まえがき】最終話から数日後の話です。