遠くの光に踵を上げて

番外編 歓迎会

【まえがき】最終話のあと、ジークが就職してから一ヶ月後くらいの話です。

「ジーク、私たちは君を心から歓迎する」
 エリックはジョッキを持って立ち上がり、ジークに笑顔を向けて言った。
「ありがとうございます」
 ジークは少し照れくさそうに応える。
「乾杯!」
「乾杯!!」
 エリックの音頭で、4つのジョッキが高い音を立ててぶつかり合った。ビールの泡が大きく波を打って、少しテーブルに零れ落ちた。

 ここは「隠れ家」という名で呼ばれている酒場である。
 新人として入ったジークの歓迎会ということで、同じ班の仕事仲間に連れて来られたのだ。物腰の柔らかい班長のエリック、背が高く体格の良いティム、小さく華奢だが気の強いビアンカが、その仕事仲間である。

「しかし、ジークがここに来たことがあったなんてな」
 ティムはあからさまに残念そうに言うと、ジョッキを片手に持ったまま、椅子の背もたれにもう片方の肘を掛けて、ジークに体を向けた。
「誰に連れてきてもらったんだ?」
「魔導省に知り合いの人がいるので……」
 ジークはぎこちない笑顔を浮かべながら言葉を濁した。隠さなければならないわけではないが、サイファの名前は出さない方がいいだろうと判断した。いちいち説明をするのも面倒だったし、サイファの迷惑になることもありえると思ったのだ。
「つまんねーな。ビビる新人を連れて行くのが楽しいってのに」
「ホント意地が悪いんだから……」
 ビアンカが横目でティムをじとりと睨んだ。彼女はジークの2年先輩だが、2歳年下である。魔導省では女性は少ないが、ここ数年で増えてきているという話だ。それでも多いのは事務職で、現場への配属はめずらしい。それだけの力があると認められたからだろう。実際、身のこなしや魔導の技の使い方は、アカデミーで学んできたジークから見てもかなりのものだった。
「こんな寂れたところへ何の説明もなく連れ込まれて、私、あのときすごく怖かったのよ」
「これはウチの班の伝統行事なんだよ」
 ティムは悪びれもせずにそう言うと、ジョッキのビールを呷った。
 エリックは柔和な笑顔で付け加える。
「まあ、女の子には申し訳なかったけどね」
「女の子って言わないでもらえます?」
「はいはい」
 ビアンカが口をとがらせると、エリックは笑顔で宥めるように言う。ビアンカは女の子と呼ばれることを極端に嫌っていた。エリックはよくそう言って窘められているのだが、その癖はなかなか抜けないようだ。だが、小柄で華奢な彼女を見ていると、そう言いたくなる気持ちもわからないではないとジークは思った。

「ねぇジーク」
 ビアンカは鳶色の目を輝かせてジークを覗き込む。
「ジークにはカノジョいるの?」
「えっ?!」
 予想外の質問に、ジークは慌てふためいた。頬を染めながら、目を伏せて言う。
「えっと……まあ……」
「なんだぁ、いるのかぁ。狙ってたのに残念ー」
 ビアンカはあからさまに落胆した様子で、盛大に溜息をついた。
「まわりは男ばっかりのはずなのに、どういうわけかいい出会いってないのよねぇ。配属されたのはこんなオッサンばかりの班だし、せっかく入ってきた新人は彼女持ちだし」
「こら、上司に向かってオッサンって何だ!!」
 ティムが横からこぶしを振り上げて抗議する。
 しかし、ビアンカは気に留めることすらせず、ジークに質問を続ける。
「ねぇ、ジークのカノジョってどんな人?」
「え……? どんなって言われても……」
 ジークは答えに詰まった。そんな抽象的なことを聞かれても、どういうふうに答えればいいのかよくわからない。そもそもアンジェリカのことを「彼女」などと言われるのは、やはり何か恥ずかしくて照れる。
「おまえ何だよ、さっきからその乙女みたいな反応は」
 ティムが眉根を寄せ、浅黒い顔をジークに突きつけた。
「なーんか幸せそうで腹立つぅ」
 ビアンカも同じような表情でジークを覗き込む。
 ジークはふたりに迫られて、顔を引きつらせながら身を引いた。何と言い逃れようか考えるが、何ひとつとして思いつかない。遮るように両手を顔の前で広げて、ただ苦笑するだけである。
「よっしゃ! 今夜はとことんジークのカノジョの話で盛り上がろうじゃねぇか」
 ティムは白い歯を見せながら、ジョッキを高々と掲げて言った。
「なんでそうなるんですか!」
「まあ仕方ないよね。観念したら?」
 事の成り行きを黙って見ていたエリックは、小さく笑って言った。
「班長までそんな……」
 ジークは最後の味方をも失い、泣きたいような気持ちになった。アンジェリカのことを言うのが嫌だというわけではなく、こういう状況に慣れていないので無性に恥ずかしいのだ。出来れば逃げ出したいくらいだ。もちろん、自分の歓迎会を逃げ出すなどということが出来るわけはない。
「じゃあ、しっつもーん!!」
 ビアンカはやたらと楽しそうに、勢いよく挙手して声を張り上げる。
「カノジョとはどこで知り合ったの?」
「えっと、アカデミーのクラスメイトです」
 ジークは素直に答えた。変な質問ではなかったので、ほっと胸を撫で下ろす。この分だったら問題なく乗り切れるかもしれないと思う。
 しかし、ビアンカはなぜか不満そうだった。口をとがらせてジークを睨む。
「普通すぎて面白くない」
「そう言われても……」
 ジークは弱った。それ以外に答えようがない。いや、答えたくないというべきだろうか。合格発表で出会ったときの詳しい状況までは、さすがに恥ずかしくて話せない。この場合の「恥ずかしい」は、自分の馬鹿さ加減が恥ずかしいということだ。
「同じ年齢だと話も合っていいよね」
 エリックはにこやかに助け舟を出した。彼にそのつもりがあったかはわからないが、少なくともジークの方は話が逸れて助かったと思った。
「学年は同じですけど年齢は違うんです」
「そうか、18歳で入学とは限らなかったな」
「っていうと、年上の彼女ってわけか……そうだな、ジークはけっこう可愛がられるタイプかもな。母性本能をくすぐる感じだしなぁ」
 ティムは腕を組み、ジークを値踏みするように見る。
 ジークは両手を横に振りながら慌てて否定する。
「いえっ、年下なんですけど」
「えっ?」
 ティムとビアンカが同時に聞き返した。
「稀に18より若くして入る人もいるみたいだからね」
 エリックは驚きもしないで冷静に言った。
 アカデミー入学は、たいていは高等学校を卒業してからなので、18歳かそれ以上だが、そうでなければならないという規定があるわけではない。ただ、それより若く入学する生徒の数は少なく、数年にひとりいるかどうかである。
「へぇ、じゃあ、私と同じくらいの年齢?」
 ビアンカが自分を指差して尋ねる。彼女はジークの2歳年下で、今現在20歳である。
「いえ、14歳です」
 ジーク以外の3人が、目を丸くしたまま凍りついたように動かなくなった。ティムにいたっては、まさにジョッキを呷ろうと口を開けたところで止まっている。沈黙がただ流れていく。
「……えーと、ちょっとよく聞こえなかったみたいだ……もういっぺん言ってくれ」
 ティムがゆっくりとジョッキを下ろしながら、引きつった顔で尋ねる。
 その様子を怪訝に思いながらも、ジークは素直に答える。
「14歳です」
「14ってオマエ何あっさり言ってんだよ!! ちくしょう、うらや……じゃねぇ! それ犯罪じゃねぇか!!」
 ティムはなぜか半泣きになりながら、机に両手をついて感情のままに叫ぶ。
「え? どうしてですか?」
 ジークはきょとんとして尋ねた。確かにアンジェリカとは年が離れているが、犯罪などと言われたことは今まで一度もなかった。言われる理由もよくわからない。
「どうしてっておまえ……」
「彼女の両親にも、特に何も言われたことはないんですけど……」
「うそっ! 公認なの?!」
 今度はビアンカが叫んだ。テーブルに細い腕をつき、興奮ぎみに怒ったように続ける。
「その両親おかしい!! 信じられないくらい非常識ね!! 顔が見てみたいわっ!!」
「こんな顔だけど」
 ビアンカのすぐ後ろから声がした。
「えっ……?!」
 ジークは声の方に振り向いた。そこにいたのは——。
「サイファさん?!」
「ふっ……副長官?!」
 ビアンカはあまりの近さに驚いたのか、存在そのものに驚いたのか、素っ頓狂な声を上げて大きくのけぞった。椅子から転げ落ち、床にしりもちをつく。その姿勢のまま、呆然としながらサイファを見上げた。彼は椅子の背もたれに腕を置き、ニコニコとしていた。
「ジークの彼女の父親って、まさか……」
「そう、私がその非常識な父親だよ」
 サイファは眩しいくらいの笑顔で言った。
 ビアンカの顔から一気に血の気が引いた。床に正座しなおして、勢いよく土下座をする。
「申しわけありませんでした!!」
「気にしてないから、頭を上げて」
 サイファは軽い調子で言った。どこか楽しんでいるようにも聞こえる。突然、ビアンカの背後から顔を出したのは、イタズラ心からだったのだろう。サイファには人をからかって楽しむようなところがあるのだ。

「お久し振りです、エリック、ティム」
 サイファは笑顔で二人に挨拶をした。
 エリックは肩をすくめて苦笑した。
「まさかサイファとジークがそういう関係だったとはな。本当に驚いたよ」
「そういえば、サイファの娘って、史上最年少でアカデミーに入学した天才少女とか話題になってたよな。あれが4年前だったのか……」
 ティムは腕を組み、天井の方に視線を向けながら呟いた。
「あの……サイファさんと班長たちはどういう知り合いなんですか?」
 ジークは遠慮がちに切り出した。同じ魔導省に勤務しているので知り合いでも不思議ではないが、単にそれだけではなく、もっと親しそうに感じられたのだ。
 サイファはふっと口もとを緩めた。
「ジークと同じだよ。魔導省に入った一年目にお世話になったんだ」
 魔導省に入った新人は、幹部候補生であっても現場に配属されることになっている。サイファも例外ではなかったらしい。ジークは少し驚いていた。サイファだけは特別扱いでそういう段階は踏んでいないのではないか——根拠はないが、何となくそんなふうに思っていたのだ。
「当時は、私は班長ではなかったけどね」
 エリックが軽い口調で付け加えた。
「マックスは司令部ですよね。元気にしていますか?」
 サイファはにっこりと微笑んで尋ねる。どうやらマックスというのが前の班長の名前らしい。
「ああ、あの人は相変わらずだよ。元気すぎるくらいだ。いまだに豪快に飲んでいるよ」
 エリックは笑いながらそう答えると、あたりを見まわしながら尋ねる。
「サイファはひとりで飲みに来たのか?」
「アルティナさんに母親の様子を見て来いと命令されまして」
 サイファは小さく肩をすくめる。
「さすがのサイファもアルティナちゃんには頭が上がらねぇな」
「まあ、王家に売り渡したんだから、そのくらいの面倒は見ないとな」
 ティムとエリックは笑いながら口々に言った。
「一生、こき使われそうな気がします」
 サイファは否定することなく冗談めかして言った。王家に売り渡した、などと不穏なことを言っているが、いったい何があったのだろうか。言葉通りの意味ではないにしろ、アルティナとサイファの間に何かがあったことは間違いなさそうだ。ジークは気にはなったが、口を挟むことはできなかった。

「サイファ、飲むの? 飲まないの?」
 女主人のフェイがカウンターから少し苛立ったような声で尋ねかけた。彼女がアルティナの母親である。気だるそうに頬杖をつき、眉根を寄せている。ずっとサイファを待っていたようだ。
「では、一杯だけいただきます」
 サイファは愛想よく答えた。それから、エリックたちと軽く挨拶を交わすと、フェイのいるカウンターの方へ向かった。

「びっくりしたー」
 ずっと床に座りこんでいたビアンカは、背中と膝の砂を払いながら椅子に座った。
「ジークのカノジョの父親が副長官ってのもビックリだけど、まさかふたりが副長官の先輩だったなんて」
「少しは見直したか」
 ティムは両手を腰に当てて胸を張った。
 しかし、ビアンカは彼には目も向けず、カウンターのサイファを見ながら、頬杖をついて夢見心地でうっとりと言う。
「近くで見てもかっこよかったなぁ。握手してもらえばよかった」
「おまえ、サイファは既婚者だぞ? わかってんのか」
「わかってるわよ、そんなこと」
 ビアンカは口をとがらせる。
「いい男にはたいてい奥さんやカノジョがいるのよね」
「奥さんもカノジョもいないイイ男を教えてやろうか」
 ティムはそう言ってジョッキのビールを呷った。
「ほんと?!」
 ビアンカはパッと顔を輝かせてティムに振り向いた。
 ティムは空のジョッキを机に置いた。そして、ニッと白い歯を見せると、親指を立てて、自分の鼻先を力強く指差した。
「……ありえない」
 ビアンカはあからさまに嫌そうな顔で言った。
「っていうか、独身だったの?!」

 ある意味で盛り上がっているふたりをそのままにして、ジークはエリックに振り向いて尋ねる。
「昔のサイファさんってどんな感じだったんですか?」
「今とそんなに変わらないよ。でも、今よりも少しおぼっちゃんって感じが強かったかな。マックス……って前の班長なんだけど、マックスはやたら可愛がっていたよ」
 エリックはその当時に思いを馳せているのか、目を細めて懐かしそうに遠くを見ていた。
「仕事の方はどうだったんですか」
「あれは、才能だな」
「えっ?」
「経験や努力ではどうしようもないものがあったよ。一年目の新人にもかかわらず、難しい指示でも確実にこなすんだ。あまりにあっさりとやってのけるから、ごく簡単なことだと錯覚してしまいそうになるくらいだ。中途半端に出来る奴だと、自分をアピールするために独断で行動したり、無駄に派手なことをしたりすることが多いけれど、サイファに関してはそういうこともなかったな。机に座らせておくのはもったいないくらいだ。まあ、そっちの仕事もサイファの頭脳を必要としているんだろうけどね」
 予想していたこととはいえ、実際に一緒に仕事をしていた人から聞くと重みがある。ジークは圧倒されたような気持ちになった。
「しかし、サイファも偉くなっちまったなぁ」
 ティムはしみじみと言った。
「サイファはもともと幹部候補生だからな。自分たちとは違うよ」
 エリックは軽く言うと、ジークに振り向いた。
「ジークもサイファの後を追うのか?」
「えっ? あ……俺にはそんな……」
 ジークは腰が引けてしまった。サイファがいかにすごいかという話を聞いてしまったあとだけに、仕方がないといえる。そこまで図太くはないのだ。
 エリックはくすりと笑った。
「まあ、簡単にはいかないだろうね」
「いや、わからんぞ。何せラグランジェ本家の娘をたぶらかすようなヤツだ。それも 14歳だぞ。案外、肝が据わっているのかもしれん」
 ティムは眉をひそめて人差し指を立てた。
「た、たぶらかしてなんていません!」
 ジークは慌てて反論した。顔が紅潮する。
「ジークのことだから何にも考えてなかったんじゃないの?」
 ビアンカは笑いながら言う。
 確かに、最初の方は何も考えていなかった。ラグランジェ家のことなど、ほとんど何も知らない状態だった。だからこそ突っ走っていけたのかもしれない。

 ジークはカウンターのサイファに目を向けた。彼はフェイと談笑していた。いや、談笑というのは正しくない。笑っているのはサイファだけで、フェイは気だるそうな表情で溜息をついたりしていた。楽しそうには見えない。もっとも、フェイが楽しそうにしているのを見たことは一度もない。

 サイファはフェイに軽く右手を上げて、カウンターから立ち上がった。
 そして、ジークたちの方へ歩いてくると、にっこりとして言う。
「私はそろそろ帰ります」
「婿殿の歓迎会だぞ。おまえも付き合えよ」
「婿じゃありません!」
 ジークは焦って言い返した。冷や汗と脂汗が額に噴き出す。サイファに変に思われたり、嫌な思いをさせたりしていないかと心配になる。こんなことで気まずくなりたくはない。
 だが、ティムはまったく気にすることなく続ける。
「似たようなもんじゃねぇか。な、サイファ、どうだ?」
「すみません、今日はアルティナさんが待っていますので」
 サイファは少し申し訳なさそうにそう言うと、軽く右手を上げて隠れ家をあとにした。

 ジークは何か気になって、出て行くサイファをずっと目で追っていた。姿が見えなくなってからも、扉から目を離せずにいた。心の中にもやもやとしたものがわだかまっている。
「俺、ちょっと見送ってきます」
 そう言って立ち上がると、全力でサイファの後を追って駆け出した。
「戻って来いよ!」
 ティムの声が背後から聞こえたが、ジークは返事をすることなく外へ飛び出した。

 細く暗い階段を一段飛ばしで駆け上り、地上に出ると、ぐるりとあたりを見まわした。薄暗い中にいる濃色の人影が視界に入る。
「サイファさん!」
「どうしたんだ? ジーク」
 サイファはジークの声に振り返ると、少し驚いたように大きく瞬きをして言った。
 ジークはサイファの前で立ち止まると、息を切らせながら口を開く。
「お見送りに……」
「随分、思いつめた顔をしているけど、何かあったのか?」
「いえ……」
「悩みがあるんだったら相談に乗るよ?」
 サイファは優しい声で尋ねた。少し身を乗り出し、うつむいたジークの様子を窺おうとする。
「いえ、そういうわけじゃ……」
 ジークは思わず逃げるように視線を逸らせた。心の中が読まれそうな気がして怖かった。せっかく心配してくれているというのに、それを無下にするような行動である。そんな自分に嫌悪感が湧き上がる。
「遠慮はするな」
 サイファはそれでも優しかった。にっこりと微笑むと、ジークの頭の上に手をポンと置き、宥めるように言う。じっとジークを見つめ、その反応を待っている。
 ジークは口を閉ざしたまま深くうつむいた。自分はいったいなぜここに来たのだろうか。そうしたいという衝動に駆られたのは確かだが、その理由が自分でもわからない。サイファのすごかった話を聞いて、遠い人に思えてきて、目標を見失ったように感じた。だから、追いかけたくなったのかもしれない。こんなことをしてもサイファに近づけるわけではないのに——そんなことを考えていると、何か泣きたいような気持ちになってきた。
「俺……ダメなんです……」
 堪えきれなくなって、つい弱音を吐露してしまう。
「駄目って、何が?」
 サイファは落ち着いた口調で尋ねる。まるで子供に尋ねるかのような声音だった。
 ジークはそれに甘えるかのように感情を溢れさせる。
「サイファさんの期待には応えられそうもありません」
「そんなことないよ」
「サイファさんは知らないんです」
 むきになって言い返すジークを見て、サイファはふっと柔らかく笑みを漏らす。
「知っているよ。上がってくる報告書には目を通しているからね」
 ジークは目を見開いた。まさかサイファがそこまでしているとは思わなかった。そもそも報告書というのがよくわからない。すべての新人について報告書が作られているのだろうか。そうだとしても、それらすべてを担当外のサイファが見ているとは思えない。おそらく自分だけなのだろう。自分はサイファの口添えによって入省したのだ。仕事ぶりをチェックされる理由はある。
 サイファはくすりと笑って続ける。
「ときどき失敗はしているようだけど、頑張っていると思うよ」
 その言葉は、確かに報告書を読んでいる証拠だろう。そう、ジークは失敗したのだ。そのことがジークの自信を少なからず奪っていた。そして今日、さらに自信を喪失しかけている。その理由は——。
「でも、サイファさんは失敗なんて……」
「ああ、私は失敗をごまかすのが上手いからね」
 サイファは事もなげに笑顔で言った。そして、ふっと表情を緩めると、落ち着いた声で続ける。
「自分で納得がいっていないのなら、目指す理想に近づけるよう努力すればいい。それだけのことだ」
 それと同様の話は以前にも聞いたことがある。そのとおりだと思う。そうしなければならないと思う。だが、自分の場合は力が足りない。努力をしても報われないのだ。
「私は君のことが好きだよ」
 サイファはまっすぐにジークを見つめて優しく言う。
「だから、安心して」
「…………?」
 ジークは怪訝に表情を曇らせた。僅かに首を傾げる。サイファが何を安心しろと言っているのかわからなかった。
 その疑問に、サイファは静かな、しかしはっきりとした声で答える。
「簡単に見捨てたりしない」
 ジークの鼻の奥がつんとなった。目が熱くなるのを必死に堪えながら、小さく頷いた。

 サイファの帰ったあと、ジークは夜風に当たりながら、ひとりで気持ちを落ち着けた。体が冷えて肌寒さを感じるようになった頃、階段を降りて隠れ家に戻る。
「おう! ジーク、遅かったな。何やってたんだ? 帰っちまったのかと思ったぜ」
 ティムが白い歯を見せながら、手にしていたジョッキを掲げた。
「何を長々と話し込んでたんだよ」
 ジークは顔を曇らせながら目を伏せ、椅子の後ろに立ったまま口を開く。
「あの、俺、ちゃんと歓迎してもらえるように頑張ります」
「……はぁ??」
 3人は面食らったようにジークを見上げた。
「サイファさんには及ばないかもしれませんが、少しでも近づけるように努力します。だから……」
「最初から歓迎しているよ」
 エリックは軽く笑い出しながら言った。
「歓迎してなければ、歓迎会なんてやってないってば」
 ビアンカは両手で頬杖をついて、呆れたような目をジークに向ける。
「何か知らんが、思いつめるとろくなことがないぞ」
 ティムは立ち上がり、ジークの首に太い腕をまわして締め付けた。ジークは苦しさに顔をしかめながら、その腕を引きはがそうとする。
 じたばたするジークを見て、ビアンカはあははと笑った。
「ほーんとバカだよね、ジークは」
「まあ、気持ちはわかるけどね。自分も追いつけない人の背中を見ている状態だから」
 エリックは小さく笑って言った。
 ジークは瞬きをして彼に振り向く。
「前の班長……ですか?」
「そう、無茶苦茶だけど、豪快で枠にとらわれない考えの出来る人でね。努力しても自分ではそうはいかないんだ。多分ずっと追いつけない。持って生まれたものが違うんだろうね」
 エリックは微笑みを浮かべながら、どこか遠くを見やるように目を細める。そして、ジークに振り向いて言う。
「だから、お互い頑張ろう」
「……はい」
 ジークは真面目な顔で返事をした。自分に出来ることは努力することだけだ。悩んでいても始まらない。報われないからといって歩みを止めてしまえば、その時点ですべてが終わってしまうだろう。
「俺らの気持ちを疑った罰だ! 飲め!」
「ちょっと、そんな無理やり……!」
 ティムに首を抱えられたままジョッキを口もとに押しつけられると、ジークはそれを手で押しのけながら顔をそむける。そのとき、ふいに二人の力のバランスが崩れ、ジョッキが大きく揺れた。ジークの顔面に思いきりビールがかかる。
「あ……悪りぃ」
「いえ……」
 驚いて呆然としている二人をみて、エリックは吹き出した。
 つられてビアンカとティムも笑い出す。
 少し遅れて、ジークも声を上げて笑った。手の甲で濡れた顔を拭う。ビールが目にしみて、少しだけ痛かった。それでも、何かほっとしたような気持ちになっていた。