「お帰りなさい、ジーク!」
マンションの扉を開けたジークの胸に、アンジェリカが声を弾ませながら飛び込んできた。ぴとりとジークに寄りかかる。
「え? ええっ?!」
ジークは頭が真っ白になり、両腕を所在なさげに浮かせたまま、玄関先で硬直した。
ここはジークの借りているマンションの部屋である。
アンジェリカには鍵を渡してあるので、いても不思議ではない。
問題はその行動である。
こんなふうに甘えるようなことはありえない。いや、ありえないとまではいわないが、普段の彼女からするとあまり考えられないことだ。いったい何があったというのだろうか。
決して嫌なわけではない。だが——。
落ち着け、俺……っ!!
ジークは沸騰しそうな思考を鎮めようと、歯を食いしばりながら頭を左右に振った。
「変な気を起こすんじゃないよ、バカ息子っ!」
明かりのついたダイニングルームから、陽気すぎる声が聞こえた。その声はすぐにケタケタという笑いに変わる。その声も、その口調も、その笑い方も、ジークが嫌というほどよく知っているものだ。
母親のレイラである。
ほっとしたような、ちょっと残念なような、複雑な気持ちが湧き上がった。
彼女にも鍵を渡してあるので、いてもおかしくはない。実際、ジークのいない間にも、特に理由もなく来ていることがよくあるのだ。
アンジェリカとは、偶然ここで鉢合わせしただけだろう。
ジークは軽く溜息をつきながら、アンジェリカを見下ろした。
彼女はジークを見上げてにこっと笑顔を浮かべた。
レイラに言われて自分をからかっていたのだろうか。あの母親ならやりかねない。彼女の肩に手を置いて離そうとする。だが——。
何か、熱い。よく見ると、顔も心持ち火照っているようだ。
「おまえ熱あるんじゃねぇか?!」
「んー……大丈夫、たぶんお酒のせいだから」
「なんだ、酒か——って、酒っ?!」
ジークの声は裏返った。どういうことなのかと混乱しながらも、にこにこしているアンジェリカの様子を窺う。確かに酔っているとも思えるような感じだ。
「ジークもこっちきて飲みなさいよ!」
追い打ちをかけるような母親の言葉。
ジークは声のするダイニングルームへと一目散に駆け込んでいった。
テーブルの上には太めの瓶とふたつのグラスが置かれていた。どちらのグラスにも薄く色づいた透明の液体が少しだけ入っている。瓶の中に入っているものから察するに、どうやら梅酒のようだ。
「……それ、アンジェリカに飲ませたのか?」
「あんたに持ってきたんだけど、アンジェリカが飲んでみたいって言うから、ちょーっとだけ飲ませてあげたのよ」
レイラは笑顔のまま、悪びれもせずにしれっと言う。
ジークはカッと頭に血を上らせた。母親の眼前に人差し指を突き付けながら、怒りに任せて大声を上げる。
「バカか! アンジェリカはまだ14歳だぞ?!」
「あんただって14歳で飲んだことあるでしょ?」
確かに、ジークもそのくらいの年齢のときに、ねだって少しだけ飲ませてもらったことはあった。だが、それとこれとでは話が違う。
「自分ちの子ならまだしも、よその子に勝手に飲ませるな!」
「あら、もうすぐウチの子になるんだからいいじゃない」
レイラは口に手を添え、うふふと小さく笑う。まったく反省の色がみえない母親を、ジークは威嚇するように睨みつけた。
「ジーク、私が飲みたいって言ったの。お母さんを怒らないで、ね?」
アンジェリカが横から遠慮がちに口を挟んだ。少しうろたえたような表情を見せている。ジークがここまで怒るとは考えていなかったのだろう。
「飲ませた大人の方が悪いんだ」
ジークはそう言って溜息をついた。ポケットに両手を突っ込み、仏頂面のままアンジェリカに振り向く。
「帰るぞ」
「ジークの家ってここでしょう?」
アンジェリカはきょとんとして小首を傾げた。冗談でもとぼけているわけでもなく、本気で言っているらしい。アルコールの影響で頭の働きが鈍っているのだろうか。
「おまえが帰るんだ」
ジークは感情を抑えた声で答えた。
「ねぇ、せっかく今まであんたを待ってたのに、もう帰しちゃうの?」
「誰のせいだと思ってんだよ」
頬杖をついて呑気なことを言うレイラを、思いきり顔をしかめて睨みつけた。
しかし、彼女はまったく懲りていないようだった。急に何かを思いついたように、パッと顔を輝かせて胸もとで手を合わせると、無邪気にはしゃいだ声を上げる。
「どうせなら泊まっていっちゃえば? 3人で一緒に寝ましょうよ。もちろん真ん中はワタシってことで」
「か・え・る!!」
ジークは青筋を立てて怒鳴りつけた。
「案外、堅物なのねぇ」
レイラは感心したのか呆れたのかわからない口調でそう言うと、背中を向けたジークに、からかうような、にやついた声を投げかける。
「送り狼になるんじゃないわよぅ」
「オクリオオカミ? なんだそれ?」
ジークはちらりと振り返り、胡散臭そうに眉をひそめて聞き返した。
それを受けたレイラは、面食らったように逆に聞き返す。
「そんなことも知らないの? 常識なさすぎよ、アンタ」
「……解説はいらねぇぞ。おまえの言う常識ってたいていロクなことじゃねぇんだ」
ジークは苦々しく言ってから、アンジェリカの方に向き直った。彼女はちょこんと首を傾げ、大きな漆黒の瞳でジークを見つめていた。いつもと違ってどこかぽやんとした雰囲気である。その無防備さゆえか、いつもよりさらに幼く見えた。やはり酔っているのだろうと思う。
「帰らなきゃダメ?」
「今日は帰れ」
ジークはしゃがんで背中を見せた。ちらりと目線を向けて促す。
「乗れよ」
「自分で歩けるわ」
アンジェリカは口をとがらせて抗議する。
「ダメだ、乗れ」
ジークが強い口調で命令すると、彼女は渋々ながらもその背中に寄りかかった。ジークは彼女の脚を抱えて立ち上がり、玄関に向かって歩いていく。
「行ってらっしゃーい」
レイラは軽い笑顔を見せながら、ひらひらと手を振って見送った。まるで責任を感じていないその態度に、ジークはますます腹が立った。思いきり眉をしかめて睨みつける。
「帰ってきたら説教だからな! 逃げんじゃねぇぞ!!」
「はーい」
レイラは軽い口調で返事をすると、梅酒の入ったグラスに口をつけた。
アンジェリカを背負ったジークは、夜の帷が降りたばかりの道を歩いていく。地平近くの空には、僅かな夕刻の名残が最後の主張をしていた。
「ねぇ、ジーク」
マンションを出て以来の沈黙を破り、アンジェリカが切り出した。
「何だ」
「怒ってる?」
「おまえじゃなくて母親にな」
ジークは前を向いたまま、ぶっきらぼうに答える。思い返すだけで腹が立ってきた。あの非常識さは何とかならないものかと思う。
「私が飲みたいって我が侭を言ったのに?」
「それでも飲ませた大人に責任があるんだよ」
「ジークはまだ私を子供扱いするのね」
アンジェリカは不満そうに言う。
「決めてるのは俺じゃなくて法律なんだよ。酒はあと2年すれば飲めるようになる。自宅で保護者と一緒にって条件付きだけどな。それまで我慢しろよ」
「ねえ、結婚したら保護者って誰になるの? 両親? 配偶者?」
「……さ、さあ……そこまで考えたことなかった……」
不意打ちのように出てきた「結婚」の言葉を聞いて、ジークは思わずうろたえてしまった。そんな質問をするということは、やはり彼女も意識してくれているのだろう。そのことは嬉しいはずだが、なぜだか動揺してしまうのだ。まだ照れがあるせいかもしれない。
しかし、彼女は平然として続ける。
「お父さんに訊いたらわかるかしら」
ジークはギクリとした。額に汗が滲む。
「……訊くのか?」
「ダメなの?」
「いや……」
ダメな理由はどこにもない。別にサイファがそれを聞いたからどうということもないだろう。二人のことは知っているし、今更ではあるのだが——。
「ジーク」
「何だ?」
柔らかい声で呼ばれ、僅かに振り返る。顔までは見えなかったが、彼女の肩にかかる黒髪が小さく揺れるのが見えた。
「大好き」
耳元でささやくような優しい声。
ジークの頭に一気に血が上った。耳もとが熱を帯びていく。おそらく傍目にもわかるくらい真っ赤になっているだろう。彼女に気づかれていないことを祈りつつ、顔をそむけながら視線を落とした。
「酔っ払いに言われても嬉しくねーよ」
「うそつき」
それは、責めるような口調ではなく、笑いを含んだどこか楽しそうな声だった。
「あ、空を見てみろよ。星が出てるぞ」
「ごまかしているの? 逃げているの?」
アンジェリカは口をとがらせながら身を乗り出し、急に話題を変えたジークの横顔を睨んだ。
「いいから見ろって」
ジークは足を止めた。顔をくいっと上に向けて、背中のアンジェリカに空を見るよう促す。それにつられるように、アンジェリカも視線を上げた。
「わぁ……」
その途端、彼女は感嘆の声を上げた。ジークに背負われたまま大きく顔を上げ、広い空をぐるりと見渡す。
紺色の澄んだ空に散りばめられた、小さな宝石のように煌めく星々。
満天の星空だった。
これほど素晴らしい星空は、滅多に見られるものではない。
「きれい……」
「今日は天気が良かったからな」
「ジークの家で見たときのことを思い出すわね」
「ああ、あのときか……懐かしいな……」
あのときはまだ思いもしなかった。これほど穏やかに星空を見られる日が来るなど——。
「……良かった」
「えっ?」
ジークが聞き返すと、その背後でアンジェリカは大きく息を吸った。そして、空に向かって声を張り上げる。
「またジークと一緒に見られて良かった!」
「おまえ、やっぱり酔ってるだろう……」
ジークは首をすくめ、眉をひそめながら言う。だが、その顔にはほんのりと赤みがさしていた。
アンジェリカはニコニコしながら覗き込んで言う。
「だって嬉しいんだもの。ジークは嬉しくないの?」
「そりゃ嬉しいけど……でも、これが最後ってわけじゃねぇしな」
ジークは顔を上げて目を細め、星空に願いを掛けた。
これからも、二人でこの星空を目にすることができますように——。
「ねぇ、ジーク」
「ん? 何だ?」
「願い事は流れ星にするものよ」
アンジェリカはにっこりとして、ジークの心の中を見透かしたかのように言った。
「……なんで願い事してたってわかったんだよ」
「だって、そんな顔をしていたんだもの。ね、なんてお願いしたの?」
興味津々といった様子で、好奇心に顔を輝かせながら、身を乗り出して尋ねる。
ジークは眉根を寄せながら、斜め上に視線を流した。星に願いを掛けた事実を知られただけでも恥ずかしいのに、その内容まで答えさせられるのは勘弁してほしいと思う。なんとかごまかせないだろうか——。
「アンジェリカがもう二度とこんなバカなマネしませんように」
「……それ、絶対に嘘でしょう」
アンジェリカはムッとして口をとがらせ、じとりとした視線をジークに向けた。
ごまかしは完全に失敗だった。
しかし、後悔している場合ではない。なんとかしてこの状況を切り抜けなければならないのだ。必死に思考を巡らせる。だが、必死になればなるほど、頭が真っ白になっていく。何ひとつ良い案が思い浮かばない。
観念したかのように、ジークは溜息をついて口を開いた。
「……俺と、おまえについてのことだ」
嘘ではなく本当のことだが、答えというには微妙である。肝心なことには何も触れていないのだ。さらに追及されるだろうと思ったが、彼女は何も尋ねてこなかった。ただ黙って背中に寄りかかり、首にまわす手に力を込める。
「ありがとう」
耳元に落とされた微かな声。
ジークは少し驚いて目を大きくしたが、すぐにふっと表情を緩め、無言で小さく頷いた。
きっとアンジェリカも自分と同じ気持ちでいてくれている——。
空を見上げて胸一杯に息を吸い込むと、煌く星空の下をゆっくりと歩き始めた。
ふいに星がひとつ流れる。
それは、まるで星空から二人への贈り物のようだった。
【まえがき】最終話のあと、ジークが就職してから一ヶ月半後くらいの話です。