遠くの光に踵を上げて

番外編 自転車

【まえがき】2010年カップル・コンビ投票記念(3位 ジーク&アンジェリカ)で書きました。

「おーい、アンジェリカ!!」
 ジークは前方を歩く彼女に大声で呼びかけると、懸命に自転車をこぎ、その隣に片足をついて止まった。少し息を切らしながら問いかける。
「おまえ、今日仕事じゃなかったのか?」
「うん、早く終わったから今から帰るところ」
 アンジェリカはそう答えながら、不思議そうにジークを見まわし、きょとんと小首を傾げて尋ねる。
「ジークって自転車持ってたの?」
「いいだろう、さっき買ったんだ」
 ジークはニッと白い歯を見せて、自慢げに大きく胸を張った。昔はよく乗り回していたのだが、実家に置いてきてしまったので、あらためて買い直したのである。本当につい先ほど購入したところで、感触を確かめるために当てもなく走っていたところだった。
「ジークが自転車に乗れるなんて知らなかった」
「これでも俺は二輪整備士の息子なんだけどな」
「そうだったの?」
「あれ? 言ってなかったか?」
「うん……」
 アンジェリカの受け答えは、どこか上の空だった。その目はひたすら自転車に注がれている。自分ではなく自転車にばかり気を取られていることに、ジークは苦笑したが、それでも何かに夢中になっている彼女を見ていると自然と顔が綻んでくる。
「ジーク、いま、忙しい?」
 ようやく顔を上げたアンジェリカは、大きな漆黒の瞳で、じっとジークを見つめて尋ねた。それはジークが尋ねたかったことでもあり、気持ちは同じなのだと嬉しくなる。
「いや、暇を持て余してたところ。どこか行くか?」
「私も、自転車に乗ってみたいんだけど……」
「ああ、乗れよ」
 声を弾ませてそう言うと、ジークは後ろの荷台を親指で指し示した。いつか彼女と二人乗りできたらと思っていたので、願ったり叶ったりである。二人で風を切って走るところを想像し、早くも胸が高鳴ってきた。
 しかし、アンジェリカはなぜか首を横に振った。
「そうじゃなくて、私にそれを漕がせてほしいの」
「……えっ?」
 ジークは荷台を指した手を凍り付かせ、ぱちくりと瞬きをした。

「きゃあっ!」
 アンジェリカは悲鳴を上げ、ふらついて倒れそうになった自転車から飛び降りた。短いスカートがひらりと舞って、ふわりと戻る。持ち前の反射神経のせいか、倒れかかっても上手く着地するため、彼女自身はまだ転んでいないが、そうすぐに乗れるようにはならない。
 ここはラグランジェ本家の庭である。
 庭といってもそこらの民家のものとは違い、自転車を乗り回すのに十分な広さがあった。今まで乗ったことがないので練習したい——という彼女に、安全なところならと条件をつけたら、少し考えたあとでここを提案されたのである。確かにここなら安全ではあるのだが。
「やっぱり足のつかない自転車で練習なんて無謀だぞ」
「大丈夫よ、ペダルには足が届くんだもの!」
 ジークが自分のために買ったその自転車は、もちろんアンジェリカには合っていない。だが、サドルを一番下まで下げても、地面に足が届かないとは思わなかった。何とかつま先が掠るくらいである。ジークはやめた方がいいと忠告したが、それを素直に聞き入れる彼女ではない。頑として練習するといって譲らなかった。
 最初はジークが後ろから自転車を支えたり押したりしていたが、自分のペースでできないのがもどかしかったのか、アンジェリカはひとりで頑張るといって今に至る。お役御免となったジークは、窓際に腰掛けてアンジェリカを見守るだけだった。
「ねぇ、ジークはどのくらい練習して乗れるようになったの?」
 アンジェリカは自転車を起こしながら、ジークに振り向いて尋ねた。
 ジークは腕を組んで首をひねりながら、幼い頃の記憶を辿る。
「昔のことだからあんまり覚えてねぇけど……2日くらいだったかな」
「ジークが2日なら私は2時間で乗れるようになってみせるんだから」
「おまえどこまで負けず嫌いなんだよ……」
 こぶしを握りしめて対抗心を燃やすアンジェリカに、ジークは半ば呆れたように苦笑した。すでに1時間近く経っているため、残りはあと1時間だが、到底それだけの時間で乗れるようになるとは思えなかった。それでも、彼女が頑張っている姿を見るのは嬉しく、穏やかな昼下がりの日射しを浴びながら、まったり眺めつつ時折アドバイスを送ったりした。

「どう? 乗れそう?」
 不意に、背後からドレス姿のレイチェルが声を掛けてきた。彼女はにっこりと微笑みながらジークの隣に座ると、年配のメイドが運んできたプレートからティーカップを取り、ジークのすぐ横に置いてどうぞと差し出す。
「あ、どうもすみません」
 ジークは恐縮して小さく肩を竦めると、そのストレートの紅茶に口につけた。紅茶について詳しくはないが、ラグランジェ家で出される紅茶は、いつも格別に美味しいと思う。
「苦労しているみたいね」
「今日だけでは無理かなと……」
 レイチェルの問いかけに、ジークは少し申し訳なさそうに答えた。ティーカップを横に置き、ついでに上目遣いで彼女の横顔を窺う。その視線はまっすぐにアンジェリカへと注がれていた。いまだに母親とは信じがたい若さであるが、その優しい眼差しと微笑みは、娘を見守る母親そのものだった。
「ごめんなさい、あの子の我が侭に付き合わせてしまって」
 急に彼女は振り向いてそんなことを言った。
 ジークは慌てて首を横に振る。
「いえ、俺も何だかんだ云いつつ楽しんでますし」
「あなたのような人に出会えて、あの子も幸せね」
 レイチェルは口もとに手を当てて、くすりと上品に笑った。それから、膝にほっそりとした両手を重ねてのせ、優しく柔らかい表情を浮かべながら、少しだけあらたまった雰囲気で言う。
「ジークさん、これからもアンジェリカをよろしくお願いします」
 小さく頭まで下げられ、驚くやら照れくさいやら心苦しいやらで、ジークはどう反応すればいいのかわからなくなった。顔を真っ赤にしながら挙動不審に狼狽える。そんなジークを見て、レイチェルはくすくすとおかしそうに笑っていた。
「ねえ! ジークお願い! もう一度、乗ってみせて」
「お、おう! いま行く!」
 庭の奥からアンジェリカに声を掛けられ、ジークは大きく右手を上げて答える。残りの紅茶を飲み干すと、レイチェルに軽く会釈をしてから、庭に降りてアンジェリカの待つ場所へと走っていった。
 アンジェリカの望みどおり、彼女の前で自転車を走らせて見せる。彼女は近くでしゃがみこんで、漕ぎ方や体の位置などを、凝視して隈無く観察していた。どのようにしてバランスを取っているのか、何かコツを掴もうとしているのだろう。
「簡単そうなのに、どうして……」
 アンジェリカは悔しそうにそんな独り言を呟いた。

「の、乗れた……!」
 最初に宣言した2時間を少し過ぎた頃、アンジェリカは自転車を漕ぎながら大きな声を上げた。前輪が多少ふらふらしているものの、なんとか前に進めているようだ。さくさくと草を踏みしめる小さな音が軽快に聞こえる。ただ、体中に無駄な力が入っているようで、肩は張り、腕はこわばり、見るからにぎこちない姿勢をしている。窓際に腰掛けて見ていたジークは、小さく笑って声を張る。
「曲がれるかー?」
「曲が…? きゃあっ!!」
 アンジェリカが戸惑いながらハンドルをきろうとした瞬間、バランスを崩して自転車を倒してしまった。片足を地面につけてサドルにまたがり、悔しそうに顔をしかめると、誰もいない前方をキッと睨みつけて、再び地面を蹴って走り始めた。

 それからさらに1時間ほど練習を続け、空が急速に光を失い始めたその頃——。
「見て! 曲がれるようになったわ!」
 歓喜の声を上げたアンジェリカに目を向けると、右回りにぐるりと円を描くように走っていた。やはりまだふらふらしており、道なりに曲がることやUターンをすること、逆方向に曲がることなどは、できるかどうか怪しく思えた。
「まだまだ危なっかしいけど、今日の練習はここまでだな」
 ジークの前で自転車を降りたアンジェリカにそう言うと、彼女自身もわかっていたのか、沈んだ声ながらも、素直に「うん……」と頷いて自転車のスタンドを下げた。ジークの隣に戻ると、無言で腰を下ろして小さく溜息をつく。
「2時間どころか3時間でもちゃんと乗れるようにならないなんて」
「たった数時間でこれだけ乗れるようになるなんてすげぇよ」
 それは慰めでもなんでもなく、ジークの率直な感想だった。オレンジ色から紺色に塗り替えられる途中の空を眺めながら、ふっと小さく笑って言う。
「おまえ、本当に負けず嫌いだな」
「うん、でもそれだけじゃないの」
 その言葉の意味を量りかねて、ジークは問いかけるような視線を隣に送った。しかし、アンジェリカは振り向くことなく、空を見上げたまま小さく息を吸って続ける。
「私も自転車を買うわ。ちゃんと曲がれるように練習しておくから、もっと上手に乗れるようになったら、一緒に行ってくれる?」
「どこへだ?」
 相変わらず話が見えてこないジークは、少し訝しげに尋ねたが、アンジェリカはそれを払拭するような満面の笑顔で振り向いて答える。
「森の湖までサイクリング」
 きょとんとするジークに、彼女は肩を竦めて言い添える。
「歩いて行くには遠いんだけど、自転車でなら行けそうだから」
「おまえ、もしかしてそのために……?」
「いつかジークと一緒に行ってみたかったところだし、それに、ジークと並んで走れたら楽しいと思ったの」
 アンジェリカはそう言葉を継ぐと、屈託のない笑顔を見せた。
 その森の湖がどこなのかは知らないが、彼女が自分と一緒に行きたいと思い、そのために一生懸命に頑張ってくれたことが、ジークには何よりも嬉しかった。じわりと胸が熱くなるのを感じる。
「ああ、行こう、必ず」
 力をこめてそう答えると、隣の小さな手を取って優しく握りしめた。
 夜の帷が降りてくる空を、二人は並んで見上げる。
 頬を掠めていく少し冷たくなった風も、今のジークには心地よいくらいに感じられた。