「何だと……?」
ラウルはカルテを整理する手を止めて振り向くと、顔いっぱいに疑念を広げ、思いきり眉をひそめて聞き返した。しかし、患者用の丸椅子に座るサイファは、対照的に満面の笑みを浮かべて答える。
「だから講師を頼みたいんだよ。ラグランジェ家の若者を集めて講座を開くんだ。題して『ラウルの恋愛コミュニケーション講座』」
「ふざけるな」
ラウルはこめかみに青筋を立てて一蹴した。
それでもサイファは少しも動じることなく、にっこりと笑顔を浮かべたままで言う。
「大真面目だよ。ラウルにも話しただろう? ラグランジェ家も一族の者以外との婚姻を認めることにしたと。通達したのはラグランジェ家の人間にだけだが、もう随分と世間に広まってしまったようでね。ラグランジェ家に入ってその力を得ようとする者が動き出しているんだ」
確かにそういう動きがあってもおかしくはない、とラウルは思う。ラグランジェの名には良くも悪くも強大な影響力がある。ある種の権力といってもいい。実力のない人間ほど手に入れたがるものだ。サイファも当然ながら想定はしていただろう。だが——。
「それでなぜ恋愛コミュニケーション講座なんだ」
ラウルは椅子を回してサイファに向き直ると、腕を組んで冷ややかに見下ろした。
サイファは両の手のひらを上に向けて答える。
「まあ平たく言えば、つまらない人間に騙されないようにってことだよ。もちろん最終的には私が調査・面談して、問題のある人間は却下するが、それでも騙された子の心には大きな傷が残る。不憫だろう? だから、それ以前に自分自身で見抜くスキルを身につけさせたいと思ってさ。あと、しつこい相手の断り方や、いざというときの身の守り方もね」
「……話はわかった」
サイファの考えていることは意外とまともだった。おかしいのはタイトルだけである。そこまで教えてやる必要があるのかとも思うが、ラグランジェ家の置かれている今の状況を考えれば仕方がないのかもしれない。
しかし、それと講師を引き受けるかどうかは別の話である。
「だが私には無理だ。他を当たれ」
「ラウルほどの適任はいないさ。長い年月を生き、多くの人と関わってきた。人の本質を見抜く能力は誰よりもあるだろう? 恋愛方面も得意なようだしね」
サイファはそう言うと、薄い唇に意味ありげな笑みを乗せ、挑戦的な視線を送る。
ラウルはピクリと眉を動かして睨み返した。
「おまえ、嫌味を言っているのか? からかっているのか?」
「どこか間違っているか?」
サイファは真顔で言う。とぼけているのか本気で言っているのか判然としない。
「引き受けてくれれば謝礼は弾むぞ」
「あいにく金には困っていない」
「では、ラウルだけのために我が家でティーパーティを開こう。レイチェルの淹れた美味しいお茶を飲ませてやるよ。何ならプリンも作らせるぞ。好きなんだろう?」
「おまえ……」
人差し指を立てて笑顔で取引を持ちかけるサイファに、ラウルは眉間に皺を寄せながら呆れたような視線を送った。しかし、危うく応じそうになるほどに心を動かされてしまった自分も、度し難い人間という意味では似たようなものだ。それをごまかすように目を逸らすと、大きく声を張って突き放すように言う。
「とにかく断る。そんなものはそこらへんの結婚詐欺師にでもやらせればいいだろう」
「結婚詐欺師?」
サイファはきょとんとして聞き返した。それから、軽く握った右手を口元に当ててじっと考え込むと、小さく頷きながら言う。
「なるほど、その発想はなかったな。さすが先生だよ。そうだな……よし、ではさっそく結婚詐欺師の手配をするとしよう」
「…………」
ラウルは面倒くさくて投げやりに思いつきで言っただけである。本気で考えていたわけではない。なのに、まさかそこに食いついてくるとは思いもしなかった。ましてや本当にそんな展開に持っていくなど想像すらしなかった。
いったい何を考えているのだろうか。
ラウルは眉をひそめて怪訝な眼差しを送るが、サイファはまるで意に介する様子もなく、すぐさま椅子から立ち上がって医務室を出て行こうとした。だが、扉に手を掛けたところで振り返って言う。
「そうそう、ユールベルだけはおまえに頼むよ。ラグランジェ家を狙っていた下衆な男に弄ばれてひどい目に遭ったらしい。だいぶ参っているみたいだから、様子を見てやってくれないか。おまえのたった一人の患者だろう?」
「精神科も心療内科も専門外だ」
ラウルは無愛想に答える。
「医師としてではなく個人としてでも何か出来ることはあるだろう。彼女が自分から心を開くのはおまえくらいだからな。とにかく頼んだぞ。講師よりは随分楽だろう」
サイファは一方的にそう言うと、引き戸をガラリと開けた。
ラウルは机に手をついて勢いよく立ち上がる。
「待て、勝手なことばかり言うな」
「私は忙しいんだ。結婚詐欺師も探さなければならないしな」
サイファは僅かに振り返り、目を細めてラウルに視線を流すと、何か裏を含んだような妖艶なまでの笑みを浮かべた。外からの小さな風に、鮮やかな金の髪がさらりと揺れる。
彼が何を考えているのかわからない。
扉が静かに閉まった。
ラウルは何も言えないまま見送り、遠ざかる足音を聞きながら、顔をしかめて椅子に腰を下ろした。机に肘をついてうなだれた頭を支える。その視界の端には、薬棚にいくつも常備してある新品の包帯が映っていた。