遠くの光に踵を上げて

明日に咲く花 - 第6話 選択

 ユールベルは図書室の返却カウンターに、古びた3冊の本を重ねて置いた。
 卒論用に借りた本の返却期限が迫っていたので、今日はこのためだけにアカデミーへ来たのだ。他に用はない。せっかくなのでサイラスの部屋へ寄っていこうかと考えるが、この時間は、まだ担当している1年生のクラスで教壇に立っているはずである。アンジェリカはいるかもしれないが、彼女と二人きりになるのは気が進まない。授業が終わるまでここで時間を潰そうと、本棚から適当に一冊を選び、窓際の席について読み始めた。
 授業時間中であるものの、図書室にはちらほらと人がいる。ユールベルと同じように卒業間際の4年生なのだろう。みな静かに黙々と本を読んでいた。ページを繰る音だけが、近くで、遠くで、遠慮がちに聞こえる。半開きになった窓からは、そっと、微かな風が滑り込んだ。

 ガラガラガラ——。
 扉を開く無遠慮な音が、静寂の空間に響き渡った。
 意識的に見ようとしたわけではないが、音につられて、ユールベルは何気なく扉の方に目を向ける。その瞬間、ハッと息を呑んで立ち上がった。何故という疑問が脳裏を掠めるものの、それを考える余裕などない。気づかれないよう慌てて顔を逸らすと、読んでいた本を本棚に返し、うつむいて足早に図書室を去ろうとする。だが——。
「……っ!!」
 すれ違い際、先ほど入ってきた男に上腕を掴まれた。
 逃げようとしたのは彼と会いたくなかったからである。だが、彼の目的は自分であるはずがないと思っていただけに、この展開に驚かずにはいられなかった。
「何をするの?! 離してっ!!」
「おまえに話がある」
 その男——ラウルは無表情でそう言うと、ユールベルの腕を掴んだまま、脇に抱えていた本を返却カウンターの上に置いた。そして、逃れようと足掻くユールベルを引きずるようにして図書室を出ていく。
 去りゆく二人の背後では、小さなざわめきが起こっていた。

「私が図書室にいるって……どうしてわかったの……」
 図書室からさほど離れていない廊下の壁に押しつけられ、ユールベルは怯みそうになりながらも、上目遣いでじっと睨み、訝るように声を低めて尋ねた。
「勘違いするな。用があって行った図書室に、たまたまおまえがいただけだ」
 ラウルは無感情に見下ろして答える。
 その冷たい言い方にムッとし、ユールベルは掴まれた腕に力をこめてそれを示す。
「だったら、これはどういうつもりなの」
「おまえが医務室に来ないからだ」
 ラウルはポケットから紙切れを取り出し、それをユールベルの前に差し出した。メモ用紙を四つ折りにしたようなもので、この状態では、書いてある内容まではわからない。
「……何?」
「この王宮医師におまえのことを頼んでおいた。医務室の場所も書いてある。私と顔を合わせたくないのならここへ行け」
 ユールベルは頭の中が真っ白になり、絶句した。
「面倒だろうが定期的に診せろ。医師としての最後の忠告だ」
 力の入らないユールベルの手に、ラウルは無理やりその紙を握らせた。そしてもう用はないとばかりに、少しの未練も見せることなく、長い焦茶色の髪を揺らせて背を向けようとする。
 とっさに、ユールベルは彼の手首を掴んで引き留めた。
 白いワンピースがふわりと風をはらみ、緩くウェーブを描いた髪が揺れ、後頭部で結んだ包帯がひらりとなびく。そして、無言のままゆっくりとうつむき、縋るように、彼を掴む手に力をこめた。
「……私のことを……見捨てるの……?」
 喉の奥から絞り出した声は小さく震えていた。
「おまえが私のところに来るというのならそれでもいい。自分で選べ」
「……どうして……そんな突き放したことを言うの……っ!」
 包帯をしていない方の目から雫がこぼれ、タイルに落下して弾けた。膝から体が崩れ落ちそうになり、両手でラウルの服を掴んでしがみつく。ラウルはそれでも無表情を崩さなかった。
「おまえはもう子供ではない。自分のことは自分で決めろ」
 その言葉はユールベルの胸に深く突き刺さった。
「みんな……みんなそう言うの……18だから子供じゃない、自立しろ、全部自分で選べって……そんなの本当は厄介払いしたいだけなんでしょう? やっと突き放せてほっとしているんでしょう? 物わかりのいいふりして、おまえのためだなんて言って……そんなのずるいわ! 卑怯よ! 嫌いだ、来るなって言われた方がまだましだわ!!」
 考えるよりも先に言葉が飛び出していた。何を言っているのか自分でもわからなくなっていた。頭の中はぐしゃぐしゃである。ただ、怖かった。我を忘れたように彼の胸を何度も叩き、溢れくるまま感情をぶつけて泣きわめく。
 ラウルは微動だにせずそれを受けていた。しかし、やがて面倒くさそうに溜息をつくと、ユールベルの細い手首を掴んで止め、その華奢な体を軽々と肩に担ぎ上げた。
「何する……のっ……!」
 ユールベルは背中側に頭を落とされ、逆さになったまま、広い背中を叩いて必死に抗議する。しかし、ラウルはまったくの無反応で、まわりの視線も気にせず、暴れるユールベルを抱えて大股で歩いていった。

 ラウルが医務室へ向かっていることは、ユールベルにもすぐにわかった。そのことで少し頭が冷えたようだ。無駄な足掻きをすることはやめ、小さくしゃくり上げながら大人しくなった。

 ラウルは医務室の扉を開けて中に入ると、そこにユールベルを下ろし、ガラス扉のついた棚から新品の包帯と薬を取り出した。
「座れ」
 自分も席に腰を下ろしながら、突っ立っているユールベルに冷たく言う。
 何度もこの医務室で診察を受けているので、勝手がわからないわけではない。だが、今日はラウルの機嫌がいつも以上に悪く、またその原因が自分だという自覚があったので、冷静さを取り戻したユールベルは少しびくついていた。それでも、言われるままに患者用の丸椅子にそろりと腰を下ろす。
 ラウルは無言でユールベルの頭を引き寄せ、包帯の結び目をほどいた。そのくたびれた包帯を巻き取ると、傷の具合と見えない目を診察し、消毒をして、薬を塗って、ガーゼを当て、新しい包帯を巻いていく。その手際はいつもどおり丁寧かつ素早いもので、どこにも荒っぽさはなかった。
 最後に、ユールベルの頭を抱えるようにして、後頭部で包帯を結ぶ。
 このとき、いつも、ユールベルは胸がきゅっと締めつけられる。そんなはずはないとわかっているのに、大事にされているのではないかという錯覚に陥りそうになり、そんな自分を浅ましくみっともなく思うのだ。
 二人の体が離れた。
 微かに感じていた温もりがなくなり、ユールベルは急に心許なくなった。手を伸ばしたい衝動に駆られたが、握りしめたこぶしを膝に留めてじっと耐える。
「これからは自分で選べ。ここへ来るか、他の医務室へ行くかを」
 ユールベルの胸の内を知ってか知らずか、ラウルは包帯の残りと薬を片付けながら、淡々と冷ややかに言葉を落としていく。
「いくら泣いても喚いても、おまえは私にとってただの患者でしかない。望むようなことはしてやれん。いいかげんに諦めろ」
「わかっているわ、そんなこと……諦めている……諦めているわ……」
 ユールベルは眉根を寄せてうつむき、膝の上でワンピースの裾をギュッと握りしめた。白く柔らかな布に、無数の皺が放射状に走る。
 理性ではもう完全に諦めていた。
 だが、実際に会ってしまうと心が乱されてしまい、些細なことで気持ちが暴走して抑えきれなくなってしまう。そのことがわかっていたからこそ、医務室には行かず、ラウルを避けていたのだ。
「私に会うのは苦痛だろうと思い、他の選択肢を用意した。だが、患者としてのおまえが、医師としての私を選ぶのなら拒絶はしない。お膳立てはここまでだ。あとはおまえが自分で選択しろ」
「私には……選べない……」
 ユールベルは声を震わせながら固く目をつむり、小さく首を横に振った。真新しい白い包帯とともに、腰近くまである長い髪が鈍重に揺れる。
「おまえはいつまで甘え続けるつもりだ」
 いつものように感情のない声が響く。
 今のユールベルにはそれがひときわ冷たく感じられた。
「大人になれば誰もが自分で考え、悩み、自分の責任で物事を選択している。たとえ意に沿わない選択肢しかなくてもな。嫌だと駄々をこねるのは子供のやることだ。おまえは誰かに責任を押しつけ、ただ子供のように守られていたいのだろう」
「18だから急に大人になれなんて、そんなの無理よ!」
「ならば、いつになったら大人になれるというのだ」
 ユールベルはきゅっと下唇を噛んだ。自分の訴えがただの言い訳だったことに気づいたが、それをすぐに認めるほど素直ではなかった。黒く渦巻く気持ちを抱えながら、攻撃の矛先を変える。
「あの人はいまだに守られてばかりいる」
「おまえはあいつのことを何も知らない」
 具体的に名前は出さなかったが、ラウルには誰のことかわかったようで、即座に言い返してきた。ムッとしたユールベルに、片付ける手を止めてさらに語り出す。
「あいつは……つらいことがあっても自分の心に秘め、酷い仕打ちを受けても相手を責めることはなく、皆に心配かけないように笑顔を見せている。守られていることを当たり前と思わずに感謝を忘れない。そんなあいつだからこそ、私も、サイファも——」
「そんなの惚れた欲目ってだけでしょう?!」
 たまらなくなって、ユールベルは涙目で叫んだ。
「そう思いたければ思えばいい」
 ラウルは怒りもせず落ち着いた口調でそう言うと、椅子をまわしてユールベルに振り向き、正面からまっすぐにその瞳を見据えた。
「少なくとも、おまえのようにまわりを恨んでばかりの人間を、守られていることに感謝もできない人間を、私は守りたいとは思わない」
 無表情のまま、彼はきっぱりと言い放つ。
 ユールベルは大きく目を見張った。
 返す言葉が見つからなかった。
 ラウルが自分のために手を尽くしてくれたことは知っている。それなのに、感謝の気持ちを伝えるどころか、さらに多くを求めて責め立てるばかりだった。自分の境遇に甘えて恨み言をぶつけるばかりだった。
 こんな私では、愛想を尽かされるのも当然だわ——。
 彼の最も大切な存在になりえないことが怖かったのかもしれない。他人を責めることで自分の心を守ろうとしていたのかもしれない。深くうつむき、目をつむる。悔しいというより、恥ずかしいという気持ちの方が大きかった。
 変わりたいと思っているのに、変われない。
 強くなりたいと思っているのに、強くなれない。
 結局いつも甘えて、逃げて、縋ってばかり。
 でも、このままではいけない。このままでは——。
「今……は……、もう少しだけ、考える時間がほしい……」
 ユールベルはうつむいたまま、掠れる声を絞り出した。
「わかった」
 ラウルは静かにそう答えると、もう一度、四つ折りにした紙切れをユールベルに手渡した。図書室の前で渡されたものと同じもののようだ。あのとき、我を忘れたユールベルがいつのまにか落としていたのだろう。ラウルが拾っていたことすら気づいていなかった。
 ユールベルは硬い面持ちでそれを見つめると、ゆっくりと握りしめ、決意を固めるようにきゅっと口を結んで立ち上がった。