遠くの光に踵を上げて

明日に咲く花 - 第8話 年上

「ユールベル、卒業おめでとう!」
 ターニャは講堂から出てきたユールベルに駆け寄り、彼女が戸惑うのも構わずに思いきりぎゅっと抱きしめた。白いワンピースの裾がふわりと舞い、金の髪が揺れ、立ち上ったほのかな甘い匂いが鼻をくすぐる。
「卒業生代表の挨拶も良かったわよ」
「あれは俺が書いたようなものだ」
 ユールベルの後ろからついてきていたレオナルドが、自慢げに胸を張って割り込んできた。普段と変わらない格好をしているユールベルとは対照的に、新調したと思われる、高級そうな仕立ての良いスーツを身に着けていた。
「それどういう意味よ」
「何を言ったらいいかわからない、ってユールベルが悩んでたから、ネタ出ししてやったんだ。まあ、文章に起こしたのはユールベルだけどな」
 腰に手を当てて鼻高々のレオナルドに、ターニャは呆れた眼差しを送った。
「卒業できるかさえ危なかったのに、よくそんな余裕があったわね」
「卒業が決まってからの話だ!!」
 レオナルドは卒業証書の入った筒を握りしめ、顔を真っ赤にして言い返した。

 今日はアカデミーの卒業式である。
 元ルームメイトで友人のユールベルを祝うために、ターニャはここへやってきたのだ。もっとも、当事者である卒業生と教師以外の立ち入りは許可されていないため、式は外からこっそり覗いていただけである。だが、取り立てて派手なことを行うわけでもないので、声を聞くだけでも十分なくらいだった。
 長くはない厳粛な式が終わると、講堂のまわりは急に賑やかになった。外に出た卒業生たちのはしゃいだ声があちこちで上がる。ターニャたちの声も、その中のひとつだった。

「ユールベル、卒業おめでとう」
 ふと、背後から落ち着いた声が聞こえ、3人は会話を中断して振り返る。
 そこにいたのは、優しく微笑む温厚そうな男性だった。
 ターニャには見覚えのない人物であり、誰だろうかと不思議に思う。ユールベルの父親にしては若すぎるし、そもそも全く似ていない。第一、このぼさぼさ髪の冴えない男が、ラグランジェ家の人間であるとも思えない。
「ありがとう」
 考え込んでいるターニャをよそに、ユールベルは素直に淡々と応じた。
 ターニャは、その男性のことが気になりつつも、さすがに本人の目の前で「誰?」などと訊くことは躊躇われた。だが、レオナルドの方は、そんな気遣いなど微塵も持ち合わせていないようだ。
「おまえユールベルとどういう関係だ」
 単刀直入に、しかもあからさまな敵意を込めて、睨みつけるような視線で問いただす。年上の人間に対して、かなり失礼な態度といえるだろう。
「やめてレオナルド、この人は……」
「僕はサイラス=フェレッティ。アカデミーの魔導全科1年担任と、魔導科学技術研究所の研究員を兼務している。ユールベルとは研究所で知り合ったんだ」
 困惑したユールベルを制止して、相手の男性は笑みを崩すことなく端的に説明をした。それでもレオナルドは納得しなかったらしく、さらに険しい顔になり食ってかかる。
「教師が生徒に手を出していいと思っているのか」
 それはあまりにも飛躍した決めつけだった。サイラスは困ったように乾いた笑いを浮かべると、ユールベルに振り向いて肩を竦める。
「何か誤解しているみたいだね、君の……彼氏?」
「彼氏じゃなくて、親戚……」
 ユールベルは無表情でぼそりと答えた。
 それまで黙って聞いていたターニャは、その言葉を耳にして思わず噴き出した。しかし、すぐに咳払いしてそれをごまかす。レオナルドは、その様子を横目で見ながら、ムッと眉をひそめて睨んだ。
 サイラスは申し訳なさそうに微笑みながら、ユールベルに振り向いて口を開く。
「ごめんね、ユールベル。友達と一緒のところに声を掛けちゃって。これからアイスクリームでもどうかなと思ったんだけど、それはまた今度にするよ」
「ええ……私の方こそ、ごめんなさい……」
 ユールベルのその声には、どこか寂しそうな響きがあった。気のせいではないだろう。彼女の場合、表情にあまり動きはなくても、声には比較的素直に感情が表れるのだ——ターニャは確信してくすりと笑う。
「ユールベルは先生と行って。私からのお祝いは、また今度ってことで」
「おまえっ! 何を言って……」
 勢いよく突っかかってきたレオナルドの口を、ターニャは両手を伸ばして無理やりふさぎ、満面の笑みを浮かべて続ける。
「今日はレオナルドを祝ってあげることにするわ。だから、こっちは気にしないでね」
「えっ……あの……」
「それじゃーねっ!!」
 戸惑うユールベルに一方的にそう告げると、大きく手を振り、レオナルドの腕を引きながら逃げるように門に向かって走っていった。講堂前に残されたユールベルとサイラスは、呆気にとられ、去りゆく二人をただ立ちつくしたまま見送っていた。

「おい、どういうつもりなんだよ」
 アカデミーの門を出ると、レオナルドはむすっとした膨れ面を見せながら、前を歩くターニャにぶっきらぼうに尋ねた。ターニャは掴んでいた彼の手首を放すと、くるりと振り返り、その鼻先に人差し指を突きつけて言う。
「ユールベルが先生と過ごしたがってるって気づかなかったの?」
「あんな野暮ったい冴えないおっさんなんて、冗談じゃないぞ」
「大事なのは外見じゃなくて中身でしょ。いい人そうじゃない」
 嫌悪感を露わにしたレオナルドに、ターニャは反論する。
「ユールベルにはああいう穏やかで優しい人が似合ってるのよ。すごく大切にしてくれそうな感じがするし。あの二人はきっと上手くいくわ。うん、間違いない!」
 一人で盛り上がると、両手を組み合わせ、澄み渡った青空をうっとりと仰ぐ。
「なに勝手に決めつけてるんだよ」
「決めつけじゃなくて、女の勘よ」
「女の勘……おまえがね……」
 レオナルドは嘲笑まじりに口先で呟いた。
 その言葉が聞こえていたものの、彼の失礼な態度には慣れていたため、ターニャは気にすることなく受け流した。それより、他にもっと気になっていることがあるのだ。横目を彼に向け、遠慮がちにそろりと切り出す。
「ねぇ、余計なお世話かもしれないけど、いい加減ユールベルのこと諦めたら?」
「とっくに諦めてるさ。もう終わってるんだよ」
 レオナルドの答えは、拍子抜けするくらいあっさりとしていた。先ほどまで見せていた態度とは裏腹の、まるで何の未練もなさそうな口調である。ターニャは怪訝に眉をひそめて問い詰める。
「じゃあ、何でそんなにムキになるのよ」
「終わったからって、情までなくなったわけじゃない。あいつが不幸になるのは見たくない。いつか幸せになれることを願っている……それだけのことだ」
 そう語るレオナルドの眼差しは、ドキリとするくらいまっすぐで、真剣そのものだった。その言葉に嘘やごまかしはないだろう。別れた相手からこんなふうに思われるユールベルを、ターニャは少し羨ましく思う。
「だったら大人しく見守ることね。上手くいくものもいかなくなっちゃう」
「だからあんなおっさんじゃ、あいつが幸せになれないって言ってるんだ」
 レオナルドは相変わらず一方的に決めつけていた。先ほど羨ましいと思ったばかりなのに、ターニャはもうその気持ちを撤回したくなった。思いきり眉をしかめた不機嫌な顔を、グイッと背伸びして彼の鼻先に突きつける。
「そんなのわからないじゃない。ユールベルを信じて見守るの! いい?!」
「……わかったよ」
 ターニャの勢いに圧され、レオナルドは少し上体を引きながら、仕方なくといった感じでしぶしぶ返事をした。柔らかい金髪を掻き上げながら顔をそむけると、小さく溜息をつく。
「それで、どうやって祝ってくれるんだ?」
「えっ?」
 ターニャは隣のレオナルドに振り向いて、問いかけるようにぱちくりと瞬きをした。彼は、空を見上げたままポケットに両手を突っ込み、静かな声で言う。
「さっき言っただろう、祝ってくれるって」
「ああ、そっか。じゃあゴハンでも奢ってあげるわ。何が食べたい?」
 ターニャが人差し指を立てて明るく尋ねると、レオナルドは少しだけ振り向き、どこかむくれたような表情で、ターニャにじとりと視線を流した。
「貧乏人のおまえに、俺が奢られるのか?」
「あら、これでも立派に社会人やってるのよ? 今はもうそんなに貧乏でもないんだから。妙なプライドなんか捨てて、今日くらいは素直にお姉さんに奢られなさいって」
 ターニャは軽く笑いながらレオナルドの肩をぽんと叩いた。
 その瞬間、彼の表情があからさまに翳った。
「そんなに年が違わないのに、年上ぶってお姉さんなんて言うな」
 彼がなぜそんな表情でそんなことを言うのか、ターニャにはわからなかった。戸惑いを感じながらも、目を合わそうとしない彼の横顔を見つめ、小さく首を傾げて尋ねる。
「2年違えば十分でしょ?」
「3ヶ月しか違わない」
「えっ?」
 彼の言った意味が理解できず、ターニャは聞き返した。
「俺は入学したとき19歳だった」
「あ、そうなんだ……でも、3ヶ月??」
 彼がアカデミーに19歳で入学したとなると、生まれ年はターニャと一つしか変わらないことになる。そこまではいいが、3ヶ月という数字に関しては、やはりわからないままだった。しかし、続くレオナルドの言葉で、その疑問も解ける。
「おまえの生年月日はアカデミーの名簿で調べた」
「……は?」
「そんなことも知らないのか? 図書室に行けば、卒業生の氏名と生年月日が書かれた名簿がある。アカデミーの関係者なら誰でも閲覧可能だ」
 平然と答えるレオナルドの言葉を聞いているうちに、ターニャの目は大きく見開かれていった。両方のこぶしをギュッと握りしめて、眉根を寄せると、語気を強めて勢いよく責め立てる。
「そうじゃなくて! だからって何でわざわざ人の生年月日をこっそり調べてるわけ? 普通そんなことしないでしょ。何かちょっと怖いんだけど!!」
 それでもレオナルドに動揺は見られなかった。少しばかり上気したターニャをじっと見下ろし、開き直ったかのようにふてぶてしく言い返す。
「好きな女のことを調べて何が悪い」
「ああ、まあそういう理由だったらわからなくもないけど……って、あれっ?」
 ターニャはいったん納得しかけたが、何かがおかしいことに気づいて首を傾げた。ユールベルことを言っているのかと思ったが、彼女の生年月日ならば、わざわざアカデミーの名簿など見なくても知っているだろう。だとすれば、彼の言う好きな女というのは、ユールベル以外の誰かということになる。
「もしかして、もう他に好きな子いるの?」
 ターニャは瞬きをして尋ねた。
 何を言ってるんだといわんばかりの表情で、レオナルドは柔らかい金の髪を掻き上げながら、呆れたように小さく溜息をついた。それから顔を上げ、真剣な眼差しでターニャを見据えると、ゆっくりと薄い唇を開いて言う。
「おまえが好きだ。俺と付き合え」
「……へっ?」
 呆然としたターニャの口からは、間の抜けた声しか出なかった。