遠くの光に踵を上げて

明日に咲く花 - 第9話 攻防

「ターニャ、そろそろ切り上げない?」
「ごめん、私、もう少しやっていくから」
 定時が過ぎてすっかり帰る気になっている同僚のアニーに、ターニャは申し訳なさそうに両手を合わせて詫びた。そして、さらに申し訳ない顔になり、上目遣いで、言いにくそうに二日連続のお願いを切り出す。
「それでさ……もしあいつが待ってたら、もう帰ったって言ってくれない?」
「またぁ? 私は別にいいけど……でも、嫌ならちゃんと断った方がいいよ?」
 アニーは机の書類を片付けながら軽く忠告する。しかし、そんなことはもちろんターニャにもわかっていた。疲れたように薄く笑って溜息をつく。
「もう何度も断ったわよ。でも、あいつ全然あきらめてくれないんだもの」
「そんな情熱的に想われるなんて羨ましいよ。いっそ付き合っちゃえば?」
「バカ言わないでよ!」
 悪戯っぽくからかうアニーの言葉に、ターニャはむきになって反論した。思いのほか大きかった声は、しんとしたフロアに響き渡り、まわりの注目を集めてしまう。ターニャは慌てて肩を竦めて小さくなり、ごまかし笑いを浮かべながら周囲にペコペコと頭を下げた。
 アニーは首を伸ばしてターニャに顔を寄せると、声をひそめて話を続ける。
「どうしてよ? 結構カッコイイし、一途っぽいし、何よりラグランジェ家のご子息なんでしょう? 言うことないじゃない。上手くいけば玉の輿だよ? 何が不満なわけ?」
「……バカなのよ」
 少し考えたあと、ターニャはぽつりと言葉を落とした。
「えっ? でもアカデミー卒業したんでしょう?」
「成績の問題じゃなくて、人としてバカなのよ」
「ふぅん、まあ、人の好みはそれぞれだけどね」
 アニーは興味なさげにそう言うと、鞄を持って立ち上がり、「お先に」と挨拶をして帰っていった。遠ざかる彼女の足音を聞きながら、ターニャは書類に目を落としたが、胸がざわついてなかなか集中することができなかった。

 突然の告白以来、レオナルドは毎日のようにターニャの前に姿を現した。
 その度に、ターニャは毅然と断ってきた。少なくともターニャ自身はそのつもりだった。しかし、人の話を聞いているのかいないのか、それとも断り方が悪いのか、レオナルドは性懲りもなく告白を繰り返し、付き合えと偉そうに迫るのだ。
 彼のことが嫌いなわけではない。
 だが、あくまで友人の一人である。恋愛対象として見たことはなかったし、見るつもりもなかった。それ以前に、彼とは付き合うわけにはいかない理由がある——。

 数時間が過ぎ、フロアに残っている人もだいぶ少なくなってきた。
 ターニャはきりのいいところまで仕事を片付けると、大きく腕を上げて背筋を伸ばした。あくびを噛み殺しながら、帰り支度をして立ち上がり、残っている人たちに挨拶をして研究所をあとにする。
 外はもうすっかり暗くなっていた。
 濃紺の空に数多の星がきらきらと瞬いている。夜遅くまで仕事をした帰り道、新鮮な空気を吸い込みながら星空を眺めると、体も心も少しだけリフレッシュできる。ターニャはこのひとときが好きだった。
 だが、今日は、それを楽しむ余裕はなさそうである。
 もうすぐ深夜といってもいい時間のせいか、だいぶ冷え込んでおり、ブラウスに薄手のジャケットという格好では寒さが身に沁みるのだ。ここまで遅くなるとは思わず、コートを持ってこなかったのだが、ターニャはその判断を後悔していた。
 小さく身震いして足早に帰路につこうとした、そのとき——。
「随分と卑怯な手を使ってくれたな」
「レオナルド……っ!」
 木の陰からぬっと姿を現したレオナルドに驚き、ターニャは息を呑んで後ずさった。すぐさま彼はその間を詰めると、少し怒ったような顔で、逃げるように視線を逸らしたターニャをじっと見下ろす。
「二度も同じ手が通用すると思ったのか」
「…………そうよ」
 ターニャはぽつりと言葉を落とすと、キッと強い眼差しで顔を上げる。
「私はこういう愚かで卑怯で馬鹿な人間なの。あなたの思っているような人間じゃないの。落胆した? 軽蔑した? 嫌いになればいいじゃない。早く愛想つかしなさいよ!」
 感情のまま早口で捲し立てたが、レオナルドはまともに取り合うことなく、呆れたように小さく溜息をついた。
「おまえ、本当に意地っ張りだな」
「あなたこそどこまでしつこいのよ!」
「おまえが素直にならないからだ」
「素直に嫌だって言ってるでしょう?」
 いつもと同じ言い合いの繰り返し。どうしてわかってくれないのだろうと苛立ちが募る。それはレオナルドも同じなのかもしれない。一瞬、苦々しく顔をしかめたが、それでもすぐに平静を装うと、じっとターニャを見つめて落ち着いた口調で続ける。
「おまえのことだ。どうせユールベルのことを気にしているんだろう。だけどユールベルとはとっくに終わってる。おまえが遠慮することなんて何もない」
「お、終わってるからいいってもんじゃないわよ!」
 ターニャは必死に言い返した。
 レオナルドはうんざりしたように反論する。
「俺が振ったのならともかく、俺があいつに振られたんだぞ。おまけにあいつはあの先生と仲良くやってるんだろう? いったいどこに遠慮する要素があるんだよ」
「それでも、私はユールベルの友達だから……きっとあの子は傷ついちゃう……きっと裏切られたような気持ちになると思う。あなただってユールベルを傷つけたくはないでしょう?」
 それは今まで口にしなかった本音だった。ユールベルは自分を見捨てられることを何よりも怖れている。だから、今まで自分を好きだと言っていたレオナルドが、他の人、それも友人と付き合いだしたとなれば、理性ではともかく、感情的な面では見捨てられたと感じてしまうに違いない。
 しかし、それでもレオナルドは引かなかった。
「そんな納得できない理由で、好きな女を諦めるつもりはない」
 真剣にそう言うと、さらに間を詰める。ターニャはその距離の近さに驚き、後ずさりかけたが、レオナルドは手首を掴んでそれを引き留めた。
「俺が諦めるのは、本気でおまえに嫌われたときだけだ」
「嫌いよ!」
 ターニャはカッとして間髪入れずに叫んだ。その瞬間、急に目頭が熱くなり、彼の姿が大きくぼやけて見えた。そんな自分に混乱し、やけになって大声を張り上げる。
「あなたみたいなわからずや大っ嫌いなんだから!!」
「……俺には好きって言ってるように聞こえるけどな」
「はぁっ?!!」
 レオナルドはどこまでも自己中心的だった。だが、その声にはどことなく寂しさが漂っているように感じられた。少し冷静さを取り戻したターニャの胸に、理由のわからない罪悪感が広がる。
「いい加減に素直になれよ。無理をしていたら苦しいだろう。俺も……きつい」
 ふわり、と背中をあたたかいものが覆い、ターニャは驚いて顔を上げた。それはレオナルドのジャケットだった。彼が自分の着ていたものを掛けてくれたのである。彼の体温の残るそのジャケットに、ターニャの身体はすっぽりと包まれた。
「不格好だが、こんな時間だ、誰も見ないだろう」
「レオナルド……」
 ターニャは戸惑いながら目を泳がせる。心臓を鷲掴みにされたように苦しい。彼を拒絶するつもりなら借りるべきではないのかもしれない。だが、彼の厚意を踏みにじるようなことは言えなかった。肝心なときに強気になれない自分に歯痒さを感じた、そのとき——。
「もしも本当に俺のことが嫌いだったら、そのジャケットは返さずに焼き捨てろ」
「えっ……」
「おまえがそこまでするなら、俺もキッパリと諦めてやる」
 レオナルドは真剣な面持ちで言った。そして、軽く右手を上げながらくるりと背を向け、シャツ一枚という見るからに寒そうな格好のまま、片手をポケットに突っ込んで帰っていく。ターニャは何も声を掛けることができず、闇夜にほのかに浮かぶ白い背中をただ呆然と見送った。

 焼き捨てるなんて出来るわけないじゃない——。
 狭いアパートに帰ったターニャは、ハンガーに掛けたジャケットを見つめながら、膝を抱えて心の中で毒づいた。レオナルドの貸してくれたそのジャケットは、生地も仕立ても良く、明らかに高そうなものである。貧乏だった自分がそれを焼き捨てるには勇気がいる。
 彼の勝手な押しつけに腹が立って仕方がなかった。
 なのに、あのときの彼のことを思い出すと胸がキュッと締めつけられ、顔も熱くなる。その感情の正体に、ターニャ自身もうっすらと気づきかけていた。それでも、ユールベルのことを思うと、受け入れるわけにはいかない。しかし、彼の言い分ももっともであり、間違ってはいない。
 思考は堂々巡りして結論に辿り着けない。
 灯りを落とした暗い部屋の中で、抱えた膝に顔を埋める。答えを出さなければいけないことはわかっている。けれど、一晩中考えても、何一つ決断は下せなかった。

 翌日、レオナルドは姿を見せなかった。
 その翌日も、翌々日も、ターニャの周辺は平和すぎるくらいに平和だった。彼がしつこくつきまとう以前、つまり、ほんの数週間前までの生活である。これが自分が望んだ結果なのだ。にもかかわらず、心に大きな穴が空いたような寂しさを感じた。
 愛想つかされたのかな、私——。
 嘘をついて逃げようとしたうえ、嫌いだの大嫌いだの言ったのだ。愛想を尽かされるのも当然のことだろう。最後の去り際に見た、彼のつらそうな顔が脳裏によみがえり、胸がズクリと疼く。それでも、ユールベルのことを思えばこれで良かったのだと、何度も自分に言い聞かせた。

「4日ぶりだな」
 ターニャが仕事を終えてアパートへ帰ってくると、レオナルドは門の横にもたれかかって待ち構えていた。組んでいた腕をほどき、軽く右手を上げて一歩前に出る。
 ターニャはビクリとして半歩下がると、訝しげに眉をひそめた。
「どうして私の住んでるところを知ってるのよ」
「おまえが教えてくれたんだぞ」
 レオナルドはポケットから取り出した小さな紙片を掲げる。それは、以前、ターニャが渡した名刺だった。裏には自宅の連絡先を書いた記憶がある。もう1年以上前のことであり、今の今まですっかり忘れていた。
「……諦めたんじゃなかったの?」
「俺の言ったことを忘れたのか? 本気で嫌われない限り、諦めるつもりはない」
 じゃあ、なんで……と言いかけて、ターニャはその言葉を呑み込む。しかし、表情には出ていたのだろう。レオナルドは少し視線を逸らし、柔らかい前髪を掻き上げながら、微かに頬を染めてぶっきらぼうに説明する。
「ずっと風邪をひいて寝込んでいたんだ。何度も抜け出して行こうとしたんだが、母親に引きずり戻されてベッドに縛りつけられてな」
「もしかして、その風邪って……」
 あの日の夜はかなり冷え込んでいた。そんなところでコートも着ずに何時間も待ったうえ、ターニャにジャケットを貸してシャツ一枚で帰ったのだ。風邪をひいても仕方のない状況である。
「ああ、俺が勝手にやったことだ。おまえが気にすることはない」
「気になんてしないわよ」
 誇らしげに胸を張るレオナルドに、ターニャは呆れたような眼差しを送る。
「どうしようもないバカだなって思っただけ。バカなのに風邪をひくなんて、本当に何の取り柄もないじゃない」
「おまえな……」
 反論のしようがなかったのか、レオナルドは低い声でそれだけ言うと、額を押さえて小さく溜息をついた。真新しいジャケットの腕に固く皺が走る。それを目にしたターニャは、あることを思い出し、しばらく思考を巡らせてから静かに切り出す。
「少しここで待っててくれる?」
「……ああ。だが、逃げるなよ」
「そんなつもりはないわ」
 訝しげに念を押したレオナルドに、ターニャは冷たく答えると、アパートの階段を小走りで駆け上がっていった。

「はい」
 アパートから出てきたターニャは、待たせていたレオナルドに、口の部分を折り返した紙袋をそっけなく手渡した。レオナルドは不思議そうな顔で受け取り、顔の位置まで持ち上げてじっと眺める。
「何だこれ? 俺へのプレゼントか?」
「あなたのジャケットの燃えかすよ」
「何っ?!」
 レオナルドは焦って紙袋の口をバッと開き、顔を突っ込まんばかりに中を覗き込んだ。
「燃えてない……よな?」
 そう言いながら折り畳まれたジャケットをそろりと取り出し、表を眺めたり裏返しにしたりして確認する。しかし、どこも燃えてなどいない。
 結局、ターニャは燃やすことができなかったのだ。
 渡すものだけ渡したあと、素知らぬ顔でこっそり帰ろうとしたターニャを、レオナルドは手首を掴んで引き留める。ニッ、と口の端が吊り上がった。
「ようやく俺を好きだと認めたな」
 ターニャはカッと顔を真っ赤にしてあたふたとする。
「べっ、弁償しろって言われたら困るから! だから燃やさなかっただけよ!!」
「この期に及んでまだそんな意地を張るのか。まあそんなところも可愛いけどな」
「年下のくせに、年上に向かって可愛いとか言わないでっ!」
 突然、レオナルドは真剣な表情になると、ターニャの両方の手首を掴んで壁に押しつけ、ぐいと顔を近づけた。鮮やかな青い瞳で、じっと心の奥底を見透かすように覗き込む。ターニャはますます自分が熱を帯びていくのを感じた。
「なっ、何よ……」
「おまえが好きだ」
 まっすぐな言葉と眼差しに、ターニャの心臓はドキンと跳ねた。目を見開いたまま動きが止まる。その一瞬の隙に、レオナルドは掠めるようにターニャの唇に口づけた。
 な、な、な……。
「何するのよっ! は、初めてだったのにっ!!」
 ターニャはあまりのことにパニックになり、ゆでだこのように耳まで真っ赤にして、わけもわからずぼろぼろと涙を流した。手首を掴まれたままで、頬を伝う涙を拭うこともできず、浅くしゃくり上げながら震える口を開く。
「い、いつか素敵な人とロマンチックにって、ずっとずっと夢見てたのに……!」
「それならいま叶っただろう」
「どこがよ、バカーーっ!!」
 しかし、レオナルドはその暴言を受け流してニヤリと笑う。
「そうか、初めてだったのか……これから楽しみだな」
「なっ……バカっ! 変態!! 最低っ!!!」
 そう喚き立てながら抵抗するターニャを、レオナルドはものともせずぎゅっと抱きしめた。ターニャは泣きながら彼の背中を叩いていたが、次第にその手は弱まっていく。やがて完全に動きを止めると、レオナルドの胸に顔を埋めて小さく鼻をすすった。
 本当にどうしようもないくらい最低……あなたも……私も——。
 レオナルドの背中にまわした手に、ターニャは戸惑いながらもそっと力をこめた。