遠くの光に踵を上げて

明日に咲く花 - 第10話 理由

 ふー……。
 手持ちの仕事が一段落したジョシュは、細く息を吐いて椅子にもたれかかった。背筋を伸ばしながら、何とはなしに奥へ続く通路に目を向ける。見えるわけでないことはわかっていたが、それでもいつも無意識に目を向けてしまうのだ。
 あいつ、どうしてるかな——。
 僅かに眉を寄せながら再び溜息をつくと、目を閉じて彼女の姿を思い浮かべた。

 アカデミーを卒業したユールベルが、正式に魔導科学技術研究所に勤務するようになったのが約一ヶ月前のことだ。同時に配属先が伝えられたが、それは誰もが驚かざるをえない異例のものだった。
 彼女の配属先は、レベルC 特別研究チーム——。
 研修のときと違うチームに配属されることは通例であり、ジョシュも覚悟はしていたが、異例なのは彼女が配属されたそのチームである。研究所でも限られたものしか入室か許可されていない、立入制限区域で研究を行う特別チームになのだ。そこでは機密事項を含む高度な研究が行われていることもあり、相応の実績を上げ、なおかつ身辺がクリーンであると判断された所員のみが配属される。新人が配属されることなど通常はありえない。誰が考えてもラグランジェ家の力が働いているとしか思えなかった。
 おそらくはサイファの仕業だろう。
 しかし、不思議と怒りは湧いてこなかった。表沙汰にはなっていないものの、研修のときに、彼女はラグランジェの名のために襲われかけたことがあった。今回の配属は、二度とそのような目に遭わせないための配慮なのだろう、とジョシュは好意的に解釈していた。完璧ではないにしろ、一般フロアと比べて安全であることには違いない。セキュリティはしっかりしているし、何より、特別チームにはレイモンドのような愚か者はいないはずである。
 問題は、ジョシュがそこに立ち入る権限を持っていないことだ。
 当然のように仕事上の接点もなくなり、一ヶ月も経つというのに、彼女とはまだ言葉を交わしたことすらない。何度か廊下を通るのを見かけたことはあるが、勤務中では、用もないのに追いかけて声をかけることなど出来はしない。もっとも、立入制限区域への入室を許可されているサイラスは、勤務中にときどき用もなく彼女の様子を見に行っているようだが……。
 せめて食堂で会えないかと、行くたびに彼女の姿を探しているが、一度も見つけたことはなかった。食堂ではなく自席で食べているのかもしれない。特別研究チームにはそうする人が多いという話を聞いたことがある。彼女もまわりに合わせている可能性はあるだろう。

 昼休憩の時間になり、ジョシュはひとりで食堂に向かった。スパゲティとサラダの載ったプレートを持ち、あたりをぐるりと見まわして、残り少ない空席を見つけようとする。同時にユールベルの姿も探すが、それは習慣のようなものであり、もはやほとんど期待はしていなかった。
 しかし、その日——ついに見つけた。
 一瞬、我が目を疑ったが、見間違いであるはずがない。顔はよく見えないものの、腰近くまである緩いウェーブを描いた金の髪も、後頭部で結ばれた白い包帯も、間違いなく彼女のものである。ジョシュはそのテーブルの前に立つと、少し緊張しながら、窓際にひとりで座っている彼女に声を掛けた。
「ここ、いいか?」
 ユールベルは驚いたように顔を上げた。呆然としながらも、小さくこくりと頷く。
 ジョシュは冷静を装って席に着いた。
「元気でやってるか?」
「ええ」
「そうか、良かった」
 素っ気ないくらいの短い会話を交わすと、ジョシュはフォークを手に取り、黙々とスパゲティを食べ始めた。しかし、半分ほど口にしたところで手を止めると、そっと彼女に目を向けて尋ねる。
「おまえ、いつも姿を見ないけど、食堂には来てないのか?」
「食堂で食べているけれど、お昼休み、ずれることが多いから」
 その理由にジョシュは納得した。基本的に、特別研究チームというのは、研究のこととなると寝食を忘れるような人間が多い。彼らにとっては昼休憩など重要ではないのだろう。
「大変だな」
「食堂が空いていて助かっているわ」
「それは言えるかもな」
 ジョシュは小さく笑いながら言った。つられるように、彼女の顔も僅かに綻ぶ。それを見たジョシュの顔はほんのりと熱を帯びた。彼女に悟られないようにうつむくと、黙々と冷たいサラダを口に運ぶ。
「ごめんなさい」
「えっ?」
 不意に落とされた小さな謝罪に、ジョシュは驚いて顔を上げた。そこには、何かをこらえるような、彼女の沈鬱な表情があった。
「新人が特別研究チームなんて、異例だって聞いたわ」
「そんなこと俺は気にしてない。おまえも気にするな。謝る必要なんてないんだ」
 彼女がこういうことを気にするようになったのは、おそらく、研修のときにジョシュが冷たく当たったせいである。その理由がラグランジェ家にあることを知り、彼女は自分を責めるようになったのだ。
「おじさまには抗議したけれど、聞き入れてもらえなかった」
「おまえを守るために必要だと思ってやったことなんだろう」
 ジョシュは腹立たしくもサイファの肩を持つような発言をしてしまう。それだけ必死だった。しかし、その甲斐もなく、彼女はいまだに表情を曇らせたままうつむいていた。
「もしかして、誰かに何か言われたのか?」
 眉をひそめたジョシュの問いに、ユールベルは小さく首を横に振った。
「みんな良くしてくれるわ」
「だったら一人で気に病むな。おまえは自分に出来ることを精一杯やればいい」
 それは自身のことを棚に上げた発言だった。いつも一人で後ろ向きなことばかり考え、自分に嫌気が差し、他人に当たり散らしている。そんな人間が言ったところで、説得力などあるはずもない——。
 しかし、ユールベルはこくりと真摯に頷いた。
 そのことで、ジョシュは逆に自分の方が励まされたように感じた。単なる自己満足かもしれないが、彼女の力になれたことが嬉しかったのかもしれない。自分が認められたように思えたのかもしれない。ほっと安堵の息をつくと、再びスパゲティを口に運び始めた。

 カタン——。
 彼女より先に食べ終わったジョシュは、どうしようかと思案しながらフォークを置いた。
 このまま席を立ってさよならしては、今度いつ会えるのかわからない。この調子だと数ヶ月後ということも十分に考えられる。それに、今日のように運良く会えたとしても、こんな短い会話だけでは、自分と彼女の関係は何ひとつ変わりはしないのだ。だとしたら——。
「今度の休日、どこか行かないか?」
「……えっ?」
 意を決して切り出したジョシュの耳に、明らかに戸惑いを含んだ声が届いた。彼女は訝しげに言葉を繋ぐ。
「どうして?」
「どうしてって……」
 まさか理由を訊かれるとは思わず、今度はジョシュが戸惑った。しかし、考えてみれば随分と唐突な話であり、不審に思われても当然のことだろう。もしかすると、レイモンドとのことがあったので、この手の話には警戒しているのかもしれない。
 俺は、あいつとは違う——。
 ラグランジェの名前などに興味はない。そんなもののために彼女に近づこうとしているわけではない。ジョシュは斜め下に視線を落とすと、テーブルに載せた手をギュッと握りしめた。
「好きだからだよ」
 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、プレートを持って席を立ち、彼女の視線から逃れるように背を向ける。
「今度の休日、朝9時に研究所の前で待ってる」
 ぶっきらぼうな口調で一方的にそう告げると、彼女の返事を聞かないまま、返却口に向かってその場から足早に立ち去った。彼女がどんな顔をしているのか気になったものの、それを知るのが怖くて、食堂を出るまで後ろを振り返ることも出来なかった。