「朝9時って何だよ……」
ジョシュは研究所の前で塀に寄り掛かりながら、大きく溜息をついてうなだれた。
今度の休日、朝9時に——。
とっさにそう言ってしまったものの、遠出するわけでもないのに、朝9時に待ち合わせなどどう考えても早すぎる。子供でもこんなに早く遊びに行きはしない。住宅街から離れた場所柄も関係しているのだろうが、実際、まわりにはほとんど人影もなく閑散としていた。
それ以前に、一方的に約束を押し付けたことが一番の問題である。いや、断る隙すら与えなかったのだから、そもそも約束にさえならないのだ。臆病ゆえにそんな態度をとってしまったのだが、彼女の目にはさぞや傲慢に映ったことだろう。もしかすると、レイモンドとたいして変わらない男だと思われたかもしれない——そのおぞましい想像を否定するように、必死にブンブンと首を横に振った。
腕時計に目を落とす。もう間もなく9時である。
ジョシュは青空を大きく仰ぎ見て、細く長く溜息をついた。彼女は来ないかもしれない。来なくても当然だと思う。それでも一応10時くらいまでは待ってみよう、そう考えたそのとき——。
「ごめんなさい、遅くなって」
ユールベルが駆け足でやってきた。少し息を切らせながらそう言う。薄手の白いワンピースがひらひらと揺れて目に眩しい。
「……来たのか?」
「どういう意味?」
「あ、いや……」
ユールベルは怪訝に小首を傾げて、ジョシュをじっと見つめている。来いと言われて来たのに、来たのかなどと問われては、確かに不安にもなるだろう。慌てて、ジョシュは少々ぎこちない笑顔で取り繕った。
しかし——。
彼女は嫌ではなかったのだろうか。嫌だったが仕方なく来たのだろうか。好きだからと言ったことに対しては、どう思っているのだろうか。次々と疑問が頭に浮かぶが、どれも口には出せなかった。
「それで、どこへ行くの?」
「……え?」
ジョシュは大きく瞬きをして、口もとを引きつらせたまま硬直した。ユールベルを誘うことで頭がいっぱいになってしまい、肝心なその後について何も考えていなかったことに、彼はこのときになってようやく気がついた。
「悪い、こんなところしか思いつかなくて……店はまだ開いてないし……」
「人の多いところは苦手だから、こういうところの方がいいわ」
そこは公園だった。広々とした芝生の奥に、大きな湖が続いている。まだ午前中のためかあまり人は多くなく、ランニングしている人、ボール遊びをしている人、散歩をしている人、木陰のベンチに座って読書をしている人が、ちらほらと目につく程度である。
二人は木陰の下に、ジョシュの上着をひいて座っていた。
ユールベルは軽く膝を抱え、ぼんやりと青い空を見上げている。緩やかなウェーブを描いた金の髪が小さく揺れ、後頭部で結ばれた白い包帯もひらひらと舞う。その横顔を見つめながら、ジョシュは出来るだけ何気ない口調で切り出した。
「卒業おめでとう」
ユールベルはふわりと髪を揺らして振り向いた。半開きの口できょとんとしたあと、少し気恥ずかしそうにうつむき、小さな声で「ありがとう」と応じる。
「首席卒業だって? なんか代表で挨拶したってサイラスから聞いた」
「私、ああいうのは苦手なのに、辞退は許してもらえなかったから……」
彼女はますます深くうつむくと、膝を引き寄せて顔を埋める。その照れたような仕草が可愛くて、ジョシュは小さく笑みをこぼした。
「サイラスとはよく会っているのか?」
「今はときどき様子を見に来てくれるだけ」
ジョシュもそれほど頻繁にサイラスと会っているわけではないが、彼はそのたびにユールベルの話をしていた。その内容から察するに、彼女がアカデミーを卒業するまでは、毎日のように会っていたようだ。今は「ときどき」ということらしいが、週に2、3回は顔を合わせているのだろう。彼の話だけが今の彼女を知る唯一の手掛かりであり、その点ではとてもありがたく感じていた。しかし、同時に、自分自身に対する不甲斐なさも感じずにはいられなかった。
サイラスには水をあけられるばかりだな——。
彼は立入制限区域に入る許可を持っており、ときどき特別研究チームの手伝いをしているようだった。今はアカデミーの教師がメインであるが、約束の4年を終えれば、おそらくは正式に特別研究チームへ配属されるのだろう。いまだに下っ端の自分とは雲泥の差である。
そんな人間には、ユールベルと会う資格はない。
まるで現実にそう諭されているかのようだった。しかし、今日彼女に会って、諦めたくないという思いをいっそう強くした。勝手に卑屈になって身を引くなんてことはしたくない。いや、もうしないと決めている。だからといって焦ることも禁物だ。レイモンドの件で傷ついているだろう彼女を、意図せず傷つけてしまう結果になりかねないのだから——。
「やあ、ジョシュにユールベルじゃないか。こんなところで何をやってるんだ」
ビクリとして振り返ったジョシュは、その声の主を目にし、思いきり顔をこわばらせて絶句した。ややあって我にかえると、慌てて立ち上がり、ユールベルをかばうように彼の前に立ちふさがる。
「レイモンド……おまえこそ、どういうつもりだ」
「この格好を見たらわかるだろう。ランニングだよ。研究ばかりしているひょろっこいおまえとは違って、俺はこの体をつくるために相応の努力しているのさ」
確かに彼はランニングシャツに短パンという、いかにもな格好をしていた。あまり気にしたこともなかったが、剥き出しになった彼の腕や脚は、適度に筋肉がついていてたくましく見える。だからといって、彼の言うことを鵜呑みにはできない。
「そんなこと言って、何かたくらんでるんじゃないだろうな」
「悪いが、今は他にターゲットがいるんでね」
そう言って、レイモンドはフッと笑って口もとを斜めにする。
「ジョシュ、研究所での君の態度は忘れていない。覚悟しておけよ。結果的にラグランジェ本家の次期当主に唾を吐いたことになるんだからな」
その意味が掴めず、ジョシュは眉をひそめる。しかし、ユールベルにはすぐにわかったようで、ジョシュの後ろに座ったまま、じっと上目遣いにレイモンドを睨んでいた。
「あなた……、本当におじさまに殺されるわよ」
「自由恋愛を妨害する権利が彼にあるとでも?」
「あなたは自由でも、相手にとっては不自由だわ」
「君のときのような強引な手を使うつもりはないさ。何せ相手は子供だからな。今度はじっくりと時間をかけて口説いていくつもりだ」
二人の会話を聞いているうちに、ジョシュにも話が見えてきた。
どうやらレイモンドは、ラグランジェ家当主——すなわちサイファ——の娘と結婚して、自分が次期当主に収まるつもりらしい。サイファに悪感情しか持たれていないであろう彼が、ラグランジェ家に入ることなど、ましてや次期当主として迎えられるなど、到底あり得る話ではないと誰もが思うはずだ。しかし、彼がそのつもりで行動を起こすのなら、ターゲットの娘が無事で済むかが心配である。強引な手を使わないという言葉を信じていいかわからないし、もしそうだとしても、子供ならば表面的な優しさにコロリと騙される可能性も高いだろう——とジョシュは思ったのだが、ユールベルの考えは違ったようだ。確信したような強い眼差しで断言する。
「彼女は私ほど愚かじゃない。絶対にあなたの思いどおりになんかならないわ」
「ふむ……なるほど……」
レイモンドはゆっくりと右手で顎を掴んで考え込むと、やがて一人納得したように頷き、真面目な面持ちでユールベルを見つめて自分の胸に手を当てた。
「俺にも情はある。君が泣いて謝るのなら、当主の座は諦めて君と結婚してやってもいい」
何を勘違いしたのか、それともわざとなのか、上から目線でありえないくらい勝手なことを言う。ユールベルは何とも言えない微妙な表情で言葉を失っていた。彼の身勝手さをよく知っているジョシュも、さすがに開いた口がふさがらない。
「俺としてもロリコン趣味はないんだ。あんな実年齢以上に子供っぽいガキなんて、当主の娘という肩書きさえなければ相手をする気も起きないさ。その点、君はいろいろと楽しませてくれそうだからな」
レイモンドはそう言うと、いやらしく片方の口角を吊り上げ、舐め回すようなねっとしとした視線をユールベルに絡ませる。まるで白いワンピースの中の肢体を、その目に映しているかのようだった。彼女はぞくりと身を震わせると、自分の腕を抱え、その視線から逃れるように大きく顔を背けてうつむいた。緩やかなウェーブを描いた髪がはらりと落ち、彼女の表情を隠す。
「やめろ!!」
ジョシュはあらためて二人の間に割り込むと、両腕を広げ、レイモンドの視界から必死に彼女を隠そうとした。そして、ありったけの嫌悪感を瞳に込め、斬りつけるように激しく睨む。腹立たしいと思ったことは数えきれないほどあるが、ここまで誰かを憎いと思ったのは初めてかもしれない。いっそサイファに殺されてしまえとさえ思った。
しかし、レイモンドは痛くも痒くもないようで、小馬鹿にしたように鼻先でフッと笑う。
「相変わらず姫を護る騎士か? どうせそれ以上の進展もないんだろう」
「……だったら何だ」
背後のユールベルを気にしながら、ジョシュは小さな声でぼそりと言う。
そんなジョシュを見て、嫌がらせのように、レイモンドはよりいっそう声を大きく響かせる。
「残念だったなぁ? せっかくユールベルを抱かせてやる約束をしてたのに、俺がこんなことになったせいで約束がおじゃんになって」
ジョシュは目を見開き、息をのんで顔を真っ赤にした。
「やっ……約束なんてしてないだろう! おまえが勝手に……!」
「ま、せいぜい一人で頑張ることだな。アドバイスくらいならしてやるよ」
「うるさいっ!!」
ジョシュがいきり立てば立つほど、レイモンドは愉快そうに笑う。その不快な笑い声は、広い空に高らかに響いた。ひとしきり笑うと、ジョシュの肩を軽く押しのけ、腰を屈めてユールベルを覗き込みながら白い歯を見せる。
「ユールベル、その気になったら王宮を訪ねてきてくれ。間違っても、こんな出世の見込みもないような男なんて相手にするなよ」
ジョシュが反撃して押し返そうとすると、レイモンドはひょいと身軽に避けて数歩後退する。そして、ランニングのポーズをとって足踏みを始めると、じゃあなと右手を上げて、何事もなかったかのように足どり軽く湖の方へ走っていった。
ジョシュはおずおずとユールベルに振り返った。何も言わずにじっとジョシュを見上げている、感情の窺えないその瞳に怯えながら、誤解を解こうとあたふたと両手を動かしながら口を開く。
「あ……あのな、レイモンドが言った約束とか何とか、あれ、俺、そんな約束なんてしてないから。あいつが一方的に言ってきただけで、俺はそんなつもりなくて……」
必死になればなるほど、出来の悪い言い訳のようになっていく。そのみっともなさに耐えきれなくなり、思わず頭を抱えて彼女に背を向けた。
「私は……」
遠慮がちに切り出された彼女の声に、ジョシュの鼓動は大きくドクンと打った。どんな言葉をぶつけられるのか怖かった。背筋が凍り付くような冷たさと、頭から熱湯をかぶったような熱さを同時に感じ、何も考えられないほどに目眩がした。しかし——。
「私は、ジョシュのことを信じているから」
彼女は静かな声で噛みしめるようにそう言った。驚いてジョシュは振り向く。
「信じて……くれるのか?」
「あなたはそんなことを望む人じゃないもの」
「…………」
深い森の湖のような瞳で見つめながら、まっすぐそう言ってくれる彼女に、ジョシュは二の句が継げなかった。眉を寄せてうつむき、額に右手を押し当てる。一度は忘れようとした罪悪感が、急に胸の内を支配して、息が出来ないほどに苦しくなる。
「どうしたの?」
「……夢を、ときどき見るんだ」
話が見えないユールベルは、地面に手をついて身を乗り出し、不思議そうに下からじっと覗き込む。しかし、ジョシュは彼女を見ることができず、顔をそらして、額を押さえていた手で両目を覆った。ずっと隠してきたことを、あふれくる感情にのせて吐露する。
「場面はあのときの資料室で……だけど、ユールベルに跨がっているのは、レイモンドじゃなく俺で……」
「夢、でしょう?」
そう、現実ではなく夢である。だけど、それは自分自身が見せているもので——。
「何度も見るってことは、どこか俺の願望が入ってるのかもしれない」
「……もしかして、以前、私を避けていたのって、これが原因なの?」
訥々と紡がれる疑問に、ジョシュは顔を隠したまま小さく頷いた。その夢を見るようになってからは、彼女への罪悪感と、自分に対する嫌悪感とで、まともに彼女と接することが出来なくなった。いや、彼女と接していい人間ではないように感じたのだ。
「そんなことだったなんて……」
「そんなことって、おまえ……」
半ば呆れたように溜息まじりに言われ、思わずジョシュは目を覆っていた手を外し、困惑ぎみに彼女を見下ろして言い返す。しかし彼女は淡々と続ける。
「夢を見ることと実際に行動を起こすことは違うわ」
「それは、そうだけど……」
ジョシュは複雑な表情で眉を寄せた。確かに現実と夢とでは重みが違うが、夢だからといって気にならないわけではないだろう。きっと嫌な思いをしているに違いない。
「言わなければわからなかったのに」
「……嫌な話を聞かせて悪かった」
ジョシュは彼女の前に膝を折って座り、うなだれるように頭を下げる。ユールベルは無表情のまま首を横に振った。
「俺を、許してくれるか?」
「あなたは何も悪いことなんてしていない」
それが本心かどうかはわからない。しかし、彼女が自分のことを否定しないのならば、勝手に先回りして自ら身を引くようなことはしたくないし、してはならないと思う。
だから、俺は——。
芝生のうえで握りしめた手が汗ばんできた。ぐっと力を込めて握り直す。そして、しばらく考えを巡らせると、少し顔を上げ、ごくりと唾を飲み込んでから口を開く。
「じゃあ、来週も、会ってくれるか……?」
ユールベルは瞬きをしてきょとんとした。そして小さくこくりと頷く。相変わらずの無表情だったが、ジョシュがほっとして緊張を解くと、彼女の表情も少し緩んだように——わずかに微笑んだように見えた。