研究所の食堂で、ジョシュはいつものようにBセットを注文した。
ユールベルに会えるのではないかと期待して、このところジョシュは少し遅めに来るようになったのだが、あの転機となった出会い以降は、一度も食堂では見かけていない。彼女は正規の休憩時間より後になることが多いのだろう。それだけに、あのとき会えたことは運命のような気さえしていた。
少しだけ人波の引いた食堂をぐるりと見渡す。
おそらくいないだろうと思っていたが、その日は窓際に彼女が座っていたのを見つけた。緩やかなウェーブを描いた金の髪と、後頭部で結ばれた白い包帯——ジョシュの胸はそれだけで熱くなる。今にも走り出したい気持ちを抑えつつ、彼女の方へゆっくりと足を向けた。
しかしその瞬間、ある光景を目にして、とっさに近くの柱に身を隠した。
ユールベルの前にサイラスが座っていたのだ。
別に隠れる必要はなかった。研究所の食堂で一緒に昼食をとっているだけで、やましい現場でも何でもない。二人ともジョシュの知り合いであり、声を掛けて同席を求めればいいだけのこと、邪魔をしたくなければ黙って離れればすむだけのこと。なのに——。
ジョシュは柱の陰になった席に腰を下ろし、後ろめたさを感じつつも、二人からは見えないであろうその場所からこっそりと聞き耳を立てた。
「でも、そうはならないんじゃ……」
「前提条件が違うんだよ。限りなく絶対零度に近い温度で反応させれば、理論上は上手くいくはずなんだけど、実際に実験をするのは難しそうだね。今の研究所の設備では無理だって言われたよ」
どうやら二人は研究の話をしているらしい。食事中までこんな話をしなくても、と思うものの、そういう会話が出来る二人をジョシュはうらやましく思った。ジョシュは、サイラスとも、ユールベルとも、真面目に研究の話をしたことなどほとんどない。自分にそれだけの知識も能力もないからだろう。
しばらく研究の話が続いた。
ジョシュの手にはフォークが握られているものの、ただ握っているだけで、サラダの上で微かに揺れながらとどまっている。背後の二人が気になって、食事をするどころではなかった。
「ねえ、ユールベルって休日は何をしてるの?」
その質問にジョシュの心臓はドキリと跳ねる。
「別に……」
ユールベルはごまかすように口ごもった。ジョシュの名前は出てこない。ほっとしたような、残念なような、相対した気持ちがジョシュの心に渦巻いた。それでも、今はこれでいいのだと自分に言い聞かせる。
だが、話はこれで終わらなかった。
「じゃあさ、今度の休日、もし良かったらどこか遊びに行かない?」
「えっ……」
気楽なサイラスの言葉と、戸惑いを隠せないユールベルの声。そのとき二人がどんな表情をしているのか、気になって仕方なかったが、柱の陰から顔を出すなどという危険なことはできない。ただフォークを握りしめたまま、奥歯を食いしばり、じっとどちらかの次の言葉を待つ。
「あ、別に無理しなくていいんだけど」
「そうじゃなくて、予定があるから……」
「そっか」
彼女とは次の休日も会う約束をしている。予定とはおそらくそれのことだろう。サイラスの誘いより自分との約束を優先してくれたことに、ジョシュはほっと胸を撫で下ろした。が、それも一瞬のことである。
「じゃあ、その次の休日はどうかな?」
「ごめんなさい、その日も予定があるの……言い訳じゃなくて……」
ユールベルは申し訳なさそうに言う。
ジョシュはフォークの先を見つめて眉をひそめた。自分がユールベルと約束をしたのは次の休日だけである。いつも帰り際に次の約束を取り付けているのだが、その先の約束まではしたことがない。だから、彼女のその予定は、自分以外の誰かとの約束ということになる。もちろん、誰と休日を過ごしても彼女の自由なのだが——。
「そっか、じゃあ暇なときがあったら誘ってくれる?」
「ええ……」
サイラスの声は明るいままだった。
ジョシュは口を引き結んで、フォークをサラダに突き刺した。二人が楽しそうにとりとめのない話を続けるのを聞きながら、身を隠したまま、音を立てないようひっそりとサラダを口に運んだ。
次の休日——。
昼過ぎにユールベルと待ち合わせをして、公園を散歩したあと、彼女が希望したアイスクリーム屋へ向かった。彼女の方から行きたいことやしたいことを言ってきたのは初めてで、少しずつ打ち解けてきている証左かもしれないとジョシュの気持ちは弾んだ。
アイスクリーム屋の店内に座っている客は、ほとんどが若い女性だった。あちらこちらから楽しそうなお喋りが聞こえてくる。その雰囲気には少しばかり居心地の悪さがあったものの、目の前でアイスクリームを口に運ぶ彼女を見ていると、やはり来て良かったと思わざるを得ない。
「アイスクリーム、好きなのか?」
「……多分、好き」
下を向いたまま訥々と答えるユールベルの表情には、僅かに戸惑いが浮かんでいた。しかし、それさえも、ジョシュには可愛らしく感じられて、アイスクリームをつつきながら自然と顔がほころんでいた。
アイスクリームを食べ終わって外に出ると、もうだいぶ日が傾き、地平近くの空が燃えるように赤く染まっていた。そろそろ帰らねばならない時間である。ジョシュは名残惜しさを感じつつ、彼女と並んで帰路につき、やがて研究所近くの交差路で足を止めた。そして、いつものように次の約束を取り付けようとする。
「再来週にまた会えるか?」
「……来週じゃないの?」
ユールベルは不思議そうに聞き返し、少し不安そうにジョシュを見上げた。その深森の湖のような瞳にどきりとして、ジョシュは混乱した思考のままドギマギと質問を返す。
「来週は予定があるんじゃないのか?」
「別に、ないけれど」
「ないって……だってこの前おまえ……」
そこまで言いかけて、ジョシュは慌てて口をつぐんだ。しかし、少し遅かったようである。ユールベルは怪訝な面持ちでジョシュを下から覗き込んだ。
「この前って?」
「あ、いや……食堂でサイラスと話してるのが聞こえて……」
正確には「聞いていた」だが、言い訳がましく「聞こえた」と言ってしまう。もちろん、そんなことは見透かされているだろう。盗み聞きのようなまねをしたことで、非難されるかもしれないと不安になったが、彼女はただ困惑したように目を泳がせてうつむくだけだった。後頭部で結んだ白い包帯が緩やかにひらひらと揺れている。
「あれは、あなたと会うことになるだろうと思ったから……」
「えっ?」
思わず口をついた短い声。
視線を落としたままの彼女を見つめながら、ジョシュは気持ちを落ち着けて、彼女の言葉の意味をよく考えてみる。つまり——彼女には誰かと約束があったわけではなく、自分との約束のために予定を開けておいてくれたということで——。
少しは、期待していいのか?
次第に鼓動が速さを増し、そして強くなっていく。体から飛び出さんばかりの動きがはっきりと認識できる。それでも、精一杯の平静を装うと、僅かにうわずった声で言う。
「じゃあ、来週でいいな」
ユールベルは小さく首を縦に振った。そして、ちらりと上目遣いにジョシュを窺う。視線が合うと、ジョシュは少し顔を赤らめながらぎこちなく笑いかけた。つられるように彼女も戸惑いがちに小さく笑った。
少し冷たくなった風が、彼女の長い髪と白いワンピースをふわりと揺らす。
ジョシュは彼女の方へ手を伸ばしたい衝動を抑えつつ、その手を小さく挙げ、またなと言って背を向けながら歩き出した。その足取りは軽い。薄暗くなった空を目を細めて仰ぐと、浮かれる気持ちを静めるように、大きく胸いっぱい深呼吸をした。