コンコン——。
ユールベルは息を吸い込んで決意を固めると、立て付けの悪い扉をノックした。
「入れ」
すぐに、中から短い返事が聞こえた。相変わらず愛想のかけらもない声である。しかし、それさえも懐かしく感じてしまうくらい、長い間、ここを訪れていなかった。ユールベルはもう一度、深呼吸すると、ゆっくりと扉を引き開いた。
机に向かい本を読んでいたラウルは、ページを繰る手を止め、椅子を回して訪問者の方に体を向ける。そして、ユールベルの姿を認識すると、無表情のまま僅かに眉を寄せた。
「座れ」
そう言って、顎で丸椅子を指し示す。
ユールベルは引き戸を閉じて、素直に彼の前の椅子に座った。ギシ、と小さな軋み音が響く。
「おまえほど言うことを聞かない患者もいない」
「うそつき。私以外に患者なんていないくせに」
溜息まじりで落とされた言葉に、間髪入れずそう言い返したが、ラウルは何の反応も示さなかった。いつものように、無言でユールベルの頭を引き寄せると、抱え込むようにして後頭部の包帯の結び目をほどこうとする。が、いつになく手こずっているようだ。
「下手だな」
「えっ?」
「この包帯の結び方だ」
それまではユールベル自身やアンソニーが結んでいたが、最近ではジョシュが結んでいる。決して下手ということはないだろう。ただ、固く結んでほしいというお願いをきいてくれているだけだ。反論したい気持ちはあったが、今はあえて口をつぐんだ。
広い胸に両手を置いたまま、あたたかさと鼓動を感じながら目を閉じる。
ラウルはしばらく結び目と格闘して、何とかほどくと、大きく手を回しながら包帯を巻き取っていく。覆われていた部分が露わになり、外気に触れてひやりとした。すぐに彼はユールベルの肩を押して体を離すと、手を洗って戸棚から薬と包帯を取り出し、左目とそのまわりを順に診察する。
「目のまわりが少しかぶれている。これ以上ひどくなりたくないなら、こまめに医者に診せろ。私でなくても構わん」
そう言うと、手早く薬を塗り、新品の包帯を巻き付けていく。そして、再び頭を引き寄せようとするが、ユールベルはラウルの胸を押し返してそれを拒んだ。怪訝な眼差しを送るラウルに、何も答えないまま、丸椅子をゆっくり回して背中を向ける。ラウルも何も言わず、その後頭部に手を伸ばして包帯を結び始めた。
「私、これからもラウルに診てもらうわ」
「だったら真面目に通ってこい」
「ええ、そうするつもり……」
ユールベルは緊張を緩めるように小さく呼吸をして、言葉を継ぐ。
「私、もうすぐ結婚するの」
包帯を結ぶラウルの手が止まった。しばらく無言で固まったあと、再び手を動かし始める。
「本当なのか?」
「信じられない?」
ユールベルは思わず挑発的な口調で言い返した。しかし、わかっているのかいないのか、ラウルはますます神経を逆なでするようなことを言う。
「当てつけか? それとも自棄か?」
「ひどい自惚れね」
ユールベルは呆れかえった。包帯を結び終わってラウルの手が離れると、くるりと椅子を回す。緩やかなウェーブを描いた金色の髪とともに、後頭部で真新しい包帯がふわりと揺れ、再びラウルに真正面から相対した。濃色の瞳を睨みつけて言う。
「おめでとうくらい言えないの?」
「めでたいかどうかわからん」
ラウルは素っ気なく答え、包帯の残りと薬を片付け始める。
「……相手は誰だ」
「あなたは知らないと思うけど、私と同じ研究所で働いている人よ。その人はラグランジェ家の人間ではないから、私もラグランジェ家を出ることになったの。おじさまにも許可をもらったわ」
ユールベルは淡々と説明した。そして、相槌すら打たない無表情な横顔を見据えて話を続ける。
「私、ようやく見つけたの。逃げ込める場所じゃなくて、縋りたい人じゃなくて、一緒に生きていこうと思える人。なぜだかわからないけど、彼と一緒にいると、虚しい気持ちにならずに、穏やかな気持ちでいられるから」
「そうか……」
ラウルはその一言だけ落とすと、机に向かった。
ユールベルは目を細めて広い背中を見つめた。そして、音を立てないようにそっと椅子から立ち上がると、その背中に小さくお辞儀をし、まっすぐ出入り口に歩を進めて扉に手を掛けた。そのとき——。
「ユールベル」
不意に名前を呼ばれて振り返る。しかし、彼は机に向かったまま、こちらに目を向けようともしなかった。どういうつもりなのかと怪訝に眉をひそめる。長い沈黙が続いたあと、小さくラウルの口が開いた。
「幸せになれ」
瞬間、ユールベルの右目から涙が溢れそうになった。すんでのところでそれを堪えると、もう一度小さくお辞儀をし、うつむいたまま医務室を出て扉を閉めた。そして、早足でそこから離れると、胸に手を当てて深呼吸しながら顔を上げる。
ありがとう。
これまで拒絶し続けてくれて。
多分、あなたは優しかった——。
今度こそ本当に大丈夫だと、ただの患者になれると、ようやく心からそう思えた。ゆっくりと階段を下りて外に出ると、目映いばかりの鮮やかな青空を仰ぎ、白いワンピースをひらめかせながら王宮をあとにする。その足取りは、今までにないくらい軽かった。