研究所の食堂で、ジョシュは今日もBセットを注文した。
昼食の載ったトレーを受け取ると、ぐるりとあたりを見まわし、混雑の中で空いている席を探す。と、窓際の席で穏やかな光に包まれているユールベルが目についた。彼女の昼休みは遅れることが多く、正規の休憩時間に来ていることはめずらしい。
さっそく彼女の方へ足を進めようとしたが、そのとき、向かいにサイラスが座っていることに気がついた。一瞬、躊躇するものの、もう以前とは違う。小さく息を吸い込んで、二人のテーブルへと進んでいった。
「サイラス、一緒にいいか?」
「あ、ジョシュ。もちろんだよ」
サイラスは人当たりのいい笑みを浮かべて、自分の隣を示す。サイラスが一人で食事をしているときに声を掛けることはあるが、ユールベルが一緒の今でも、そのときと何ら変わらない調子で答えてくれた。
ジョシュが示された席に座ると、向かいのユールベルが少し戸惑ったように目を泳がせた。
「ユールベルとは久しぶりなんじゃない?」
サイラスは明るく言う。
ユールベルとは結婚することを決めていて、すでに一緒に暮らしているのだが、まだ研究所のほとんどの人には秘密にしていた。知っているのは所長と副所長くらいだ。といっても、ジョシュが話したわけではなく、サイファの方から話がいったらしい。ユールベルがラグランジェ家を出ることになるので、その報告も兼ねて、早めに話を通しておきたいというのが彼の意向のようだ。時が来れば、所長から他の人にも話が伝わるだろう。
「そうでもないよ」
「そうなの?」
サイラスは意外そうに軽く聞き返した。ジョシュは無表情のままサラダを口に運んだが、ユールベルはまだ困ったような表情を見せている。二人の様子が気まずそうに見えたのか、サイラスは気を遣って、何気ない調子で別の話題を振ってくれた。
ぼんやりとその話を聞きながら、ジョシュは考え込んだ。
ユールベルとのことが皆に知られてしまう前に、サイラスにだけはどうしても自分の口から伝えたい。けれど、なかなかきっかけが掴めず、どうしたものかとここ一週間ほどずっと悩んでいた。もしかしたら、今が絶好の機会なのかもしれない。が、やはり、まわりに大勢の人がいる状況はいただけないだろう。できれば、二人きりのときがいいのだが、そういう機会が度々あるわけもなく——。
「ジョシュ? どうしたのぼーっとして。悩みごと?」
「ん、いや……」
すっかり手が止まっていたジョシュに、サイラスが気遣わしげに声を掛けてきた。ユールベルも不安そうに顔を曇らせている。もっとも、サイラスと違って、ユールベルにはその理由がわかっているはずだ。
「じゃあ、根を詰めすぎなんじゃない?」
「……かもな」
ジョシュはスパゲティをフォークで巻き取りながら、曖昧にそう答える。
「もうちょっと気楽にした方がいいよ」
「おまえは気楽すぎるんだよ」
そう言いながらも、彼の気楽さは正直うらやましいと思っている。サイラスくらいの気楽さがあれば、悩むことなく、簡単に結婚のことを話すことができただろう。だが、性格なのでどうしようもない。気楽にしようと頑張ったところで、気楽にできるものではないのだ。
「そうだね、僕とジョシュを足して2で割ったらちょうど良さそうだね」
サイラスは楽しそうにそんなことを言う。
確かに、そのくらいがちょうどいいのかもしれない。ジョシュがふっと表情を緩めると、ユールベルもほっとしたように小さく息をつく。彼女にも随分と心配を掛けているようだ。彼女を安心させるためにも、早くサイラスに報告しなければ、とジョシュはあらためて思った。
しかし、結局、この日も何も言えないまま終わろうとしていた。
ジョシュは欠伸を噛み殺しながら大きく伸びをすると、ぐったりと机に突っ伏した。仕事で疲れたというのもあるが、サイラスに今日も言えなかったということが、精神的に大きなダメージとなっていた。自分の不甲斐なさにはとことん呆れるしかない。
もうこのフロアにはもう誰も残っていなかった。
ユールベルもすでに帰っているだろう。せっかく二人で暮らすようになったのに、平日は帰るのが遅く、なかなか一緒に過ごす時間が持てなかった。だが、帰ったときに「おかえりなさい」と言ってくれる人の存在は、とてもありがたいものだと実感している。その小さな言葉だけで気持ちがあたたかくなれるのだ。
そんなことを考えていると、急に家が恋しくなった。
そろそろ切り上げて帰ろうと、机の上に散らばった資料やデータを片付け始める。そのとき——。
「ジョシュ、もう帰るの?」
ふいに名前を呼ばれて振り返る。そこにいたのはサイラスだった。残って仕事をしていたのか、それともアカデミー帰りなのかはわからないが、ジョシュのいるフロアに入ってくると、ニコニコしながら歩み寄ってくる。
「ああ、そろそろ帰ろうと思ってる」
そう答えながらも、ジョシュはチャンスかもしれないと思う。今なら二人きりでまわりに誰もいない。だが、どう切り出していいかわからず、挙動不審にあたふたと目を泳がせてしまう。
サイラスはジョシュの隣の席に腰を下ろした。
「もしかして悩みごと?」
「えっ?」
「昼間から何かずっと考え込んでたよね」
「…………」
まさかサイラスが気にしてくれていたとは思わなかった。ジョシュは資料の山に手を置いて下を向く。なぜ悩んでいたのか、何を悩んでいたのか、それを伝えられればすべて解決するのだ。今しかない——意を決すると、ごくりと喉を鳴らし、何の前置きもなくストレートに切り出す。
「俺、結婚するんだ」
「……えっ?」
サイラスはきょとんとして短く聞き返した。無理もない。本人でさえ信じがたい話なのだから。しかも——。
「相手は、ユールベルだ」
噛みしめるように言葉を落とす。
サイラスは絶句したまま、口を半開きにして固まった。
ジョシュもそれ以上は何も言えなかった。
長い沈黙と静寂が続く。
やがて、サイラスがわずかに掠れた声で言葉を絞り出す。
「ユールベルは、何も言ってなかったけど……」
「俺から話したかったから、言わないでくれるよう頼んでおいた。サイファさんにも許可をもらって、今はもうユールベルのあの家で一緒に暮らしてる。弟のアンソニーはサイファさんの家に引っ越したから二人きりだ」
「……そうだったんだ」
サイラスは独り言のようにつぶやくと、息をつき、それからにっこりと大きな笑顔を作って言う。
「良かったね、おめでとう」
「ああ」
ジョシュはほっと胸を撫で下ろした。
けれど、それがサイラスの本心かどうかはわからない。いつからそうなったのか、どうしてそうなったのかなど、何も聞いてこないのが気になっていた。本来の彼なら、無神経なくらい根掘り葉掘り聞いてくるところだ。ただ驚いているだけだろうか。それとも——。
「……なぁ」
「なに?」
「いや、何でもない」
彼自身が自ら言わないことなら、聞き出さない方がいいと思い直す。
自分はサイラスから思われているほどお人好しではない。多分、本当は以前から気付いていたのだろう。けれど、彼に対して、遠慮することも思いやることもなかった。自分から伝えたいというのは、せめてもの罪滅ぼしのつもりだったのかもしれない。そんなことは、ただの自己満足に過ぎないとわかっているのだが——。
「結婚祝いに何か贈るよ」
「そんな無理するなよ」
「……させてよ」
サイラスはぽつりと短い言葉を落とす。気のせいか、その声にはどことなく寂寥感が滲んでおり、ジョシュは何も返すことができなかった。現実から逃避するかのように、ギィと軋み音を立てて椅子を引き、資料を机の引き出しに片付け始める。フロアにはその小さな音だけが響いていた。
「でも、ジョシュで良かった」
沈黙を破ったのは、何かを吹っ切ったような声だった。
振り返ると、彼は普段と変わらない人当たりの良い笑みを浮かべていた。
今の自分にできることは、彼の思いを裏切らないことだけ。これからもずっとそう思ってもらえるように、ユールベルを幸せにし、そして自分も幸せになる——その決意をあらためて強くする。ひとつ、また新たに責任が増えたが、それは決して嫌なものではない。ジョシュはまっすぐに彼を見つめ、そっと微かに笑みを返した。