「重体?!」
遙人が部屋を出て行ってからどれくらい経っただろう。総司がベッドの上でひとりじっとうなだれていると、母親が駆け込んできて衝撃の事実を告げた。遙人が交通事故に遭い、意識不明の重体になっていると——。うろたえる彼女を置き去りにし、総司はタクシーを呼んで遙人が搬送された病院に向かった。
案内された病室では人工呼吸器をつけた遙人が横たわっていた。顔にはかすり傷くらいしかなく、交通事故に遭ったとは思えないほどきれいなままである。重体にはとても見えない。むしろいますぐにでも目を覚ましそうな雰囲気だ。
「助かりますよね……?」
誰にともなくそう尋ねると、遙人の母親がうわっと顔を覆って泣き出した。遙人の父親がなだめるようにその背中に手を置き、涙のにじんだ目を総司に向ける。
「脳死……だそうだ」
「えっ?」
「もう助からないんだ」
「……嘘、ですよね?」
「心臓もいずれ止まる」
何かを必死に堪えるような声。いまにも泣き出しそうな顔。口元は微かにひくついている。いつもにこやかに微笑んでいる彼のこんな表情を見たのは初めてだ。それゆえ胸に迫る。彼の言葉が嘘ではないのだと信じざるを得なかった。
「僕の、せいだ……」
震える唇から、震える声がこぼれた。
時間から考えても、事故に遭ったのはおそらく総司の家から帰る途中である。親友だと思っていた総司に告白されて動揺したのだろう。そのせいで注意散漫になり交通事故に遭ったのではないか。すべて自分のせいだ。涙が頬を伝うのを感じながらその場にくずおれる。
「総司、あんたハルに何したのよ!!」
「落ち着いて、咲子ちゃん」
いつのまにか来ていた咲子が、思いきり総司の胸ぐらを掴み上げて食いかかってきた。涙をたたえた目にはありったけの怒りがこめられている。それを取りなしたのは遙人の父親だった。興奮する咲子をどうにかなだめて手を放させると、緊張した面持ちで総司に振り向く。
「総司君、何か知っていることがあるのなら教えてくれないだろうか」
「……ハルは、僕の部屋に来ていたんですけど、口論になって……僕を殴って飛び出していきました……事故に遭ったのはそのときだと思います。だか、ら……っ……うぅ……」
遙人が安易に暴力をふるう人間でないというのは周知の事実だ。しかし、総司の頬に殴られたあとが残っているので信じるしかないだろう。本当は口論というより遙人を組み敷いたことが原因なのだが、さすがにそれは言えなかった。一時の激情に流されて失ったものはあまりにも大きい。彼を手に入れようとしたばかりに永遠に手に入らなくなってしまった。冷たい床に座りこんだままうなだれてぽたぽたと涙をこぼす。
「総司君のせいじゃないわ。どうか、自分を責めないでちょうだい」
遙人の母親が隣に膝をついて総司の丸まった背中を抱いた。しかし、慰める彼女の方も止めどなく涙を流してすすり泣いている。そのほっそりとした頼りない手からは震えが伝わってきた。
灼けつくような夏の陽射しが降りそそぐなか、遙人の葬儀が営まれた。
周囲に慕われていた人柄を示すかのように、かつての同級生や部活仲間、先生、友人など、数多くの関係者が参列し、沈痛な面持ちで早すぎる死を悼んでいた。あちらこちらから絶えずすすり泣く声が聞こえてくる。恋人だった綾音もひどく憔悴した様子で斎場に姿を現した。友人に支えられてようやく立っているといった感じだ。
棺に納められ、あふれんばかりの花々に飾られた遙人はとてもきれいだった。まるで目覚めを待つ白雪姫のようだ。もしやキスをしたら目覚めるのではないかと、冷たい頬に触れながらぼんやり顔を近づけていると、後ろから咲子に首根っこを掴まれて小声でバカと叱られた。
火葬炉で棺が焼かれているとき、激しく燃えさかる炎を見ながら自分の魂も焼かれているように感じた。焼けて骨と灰だけになった彼を見たときはショックで声も出なかった。骨上げのときは、涙で視界がぼやけたうえ箸を持つ手も震えてなかなか拾えなかった。
人間はなんてあっけないんだろう。つい数日前まで笑っていた遙人はもうどこにもいない。あの元気な声を聞くことも、あのあたたかな体温を感じることも、あのやわらかい唇に触れることも、どれだけ願ってももう二度と敵わないのだ。
「総司君」
送迎用のマイクロバスで火葬場から斎場に戻ったところで、遙人の母親がそっと声をかけてきた。そして小さなカードを総司に見せる。それは、遙人が二十歳になった日に書いた臓器移植意思表示カードだった。
「総司君も一緒に書いたのよね?」
「はい……え、提供したんですか?」
「ええ、あの子の意思を尊重してね」
彼女は目を伏せたままそう答えると、穏やかに、そしてすこし寂しげに微笑んだ。
「だからね、遙人の心臓はいまでもどこかで動いているの。どこかで生きているの。同じ空の下に遙人の心臓をもらって生きている人がいると思うと、すこし救われる気がするわ」
「そうですね……本当に」
容赦なく照りつける日射しに目を細め、ブラックスーツの下に汗をにじませながら、真夏の空を仰ぎ見る。遙人とともに灰になったように感じていた総司の心が、そのとき息を吹き返した。
翌日、病院と移植コーディネーターに尋ねてみたが提供相手は教えてくれなかった。提供された臓器が誰に移植されたかということは秘密にされる。たとえドナーの家族であっても。そういう決まりだと知っていたので駄目だろうとは思っていた。
だが、あきらめるつもりはない。
ネットで検索してみると、妹が心臓移植をしたというSNSの書き込みを見つけた。心臓移植はそれほど頻繁に行われていないはずなので、日付からいっても間違いないと思う。SNS上の名前は本名でなくニックネームだが、プロフィールや過去の書き込みから、年齢、性別、出身高校と実家のおおよその場所は推測できた。
かの地へ飛び、まずはSNSに書き込んだ当人の出身高校付近で聞き込みをする。最近、このあたりで心臓移植を受けた中高生くらいの女の子はいないかと。こういうときに女受けする容姿は便利だ。にっこりと微笑んで声をかけるだけで、たいていの女は立ち止まってくれるのだから。
ほどなくして、帰宅途中の女子高生から有用な情報を聞くことができた。中学のときに同級生だった藤沢陽菜さんではないかと。彼女はほとんど登校していなかったので交流はないが、噂で聞いたのだという。さすが田舎だけあってこういう話はあっというまに広まるようだ。
その女子高生に頼み込んで、中学時代の名簿から藤沢陽菜の住所を写させてもらった。ハルナ……ハル……名前を聞いたときから運命だと思った。彼女は確かにハルなのだ。突き進むことに迷いはないが急いては事をし損じる。もう二度とハルを失うような愚行は犯さない。今度こそ確実に手に入れるのだと静かに鼓動を高鳴らせた。
それからというもの、時間を見つけては彼女の入院先に、退院してからは住んでいる家の方に、こっそりと様子を見に行くようになった。東京からだと往復するだけで一日が終わってしまう距離だが、苦痛に感じたことはない。もちろん彼女には見つからないよう細心の注意をはらっている。
大学卒業後、朝比奈の関連会社に就職する約束になっていたが断り、彼女の家からほど近い賃貸アパートに引っ越した。大学時代に始めた株式投資などで生活に不自由しないだけの稼ぎは見込める。そうやってひとりで生計を立てつつ、密かに彼女を見守りながら効果的な出会いのタイミングを見計らっていた。
彼女が洋菓子店のアルバイトを始めて数か月が過ぎたころ、ついに客として接触した。それからは毎日のように洋菓子店に通ってケーキを買い、アルバイトの帰りにも偶然を装いつつ声をかけ、彼女に怖がられないようゆっくりと距離を詰めていく。慎重すぎるくらい慎重に、と何度も自分に言い聞かせながら。
なのに——転びかけた彼女を抱きとめて鼓動を感じた瞬間、理性を失い、何の準備もないまま好きだと告白してしまった。突然のことに彼女は驚いて返事は保留ということになる。焦って失敗した愚かな自分を責める気持ちと、またハルを失うのではないかという恐怖で、この日の夜は一睡もできなかった。
しかし翌日、どうにか色好い返事をもらうことに成功し、彼女と恋人として付き合えるようになった。そしてハルと呼ぶことも了承してもらった。彼女のアルバイトが休みの日にデートを重ね、彼女を抱きしめては鼓動を確かめる。そうやって慎重に信頼を築き、一年後、ようやく彼女と体を繋げるところまで漕ぎ着けた。
そのとき、初めて衣服を隔てずハルの心臓を感じることができた。体を繋げたときハルの心臓が歓喜しているのが伝わってきた。それに呼応するように総司の心臓も高鳴る。ハルに包まれ、ハルを包み、融け合うようにひとつになる。嬉しくてどうにかなってしまいそうだった。
もちろんそれだけで終わるつもりはなかった。準備してきた婚約指輪をはめてプロポーズする。もう二度とハルを失うようなヘマはしない。着々と二人で幸せになるレールを敷いていく。彼女は朝比奈の名におののきつつも最終的には承諾し、彼女の両親は朝比奈の名に大喜びして娘を差し出した。
自身の両親に結婚したい女性がいると報告すると、相手を気遣うような微妙な反応が返ってきたが、それでも反対はしなかった。息子がどういう目的で辺境の田舎町に移住したかは察していたようだ。そして、彼女こそが探し求めたその人であることも気付いているのだろう。
よけいなことは言わないよう二人に釘を刺したうえで、彼女を挨拶に連れて行く。約束どおり遙人のことには一切触れず、彼女が困惑するくらいにただひたすら歓迎してくれた。ハルがいなければ息子は正気を保っていられないと知っている。両親にとって彼女が頼みの綱なのだ。
何もかもが順調だった。
新居として東京の新築マンションを購入し、入社する朝比奈の関連会社も決まり、あとは婚姻届を提出して引っ越すだけである。ハルを手に入れる、ハルと生きていく、ハルと幸せになる、長いあいだ夢見てきた願いがようやく叶うと思った。なのに、まさかハルが僕を拒絶するだなんて——。