「お兄ちゃん、早く!」
「はしゃぎすぎだよ、美咲」
橘 大地(たちばな だいち)は、振り返って手招きする美咲(みさき)に目を細めながら、大きめのスポーツバッグを肩にかけてタラップを進んでいった。微かな潮風を頬に受けると、歩調を緩め、雲ひとつない青空を見上げて微笑む。
「お兄ちゃんってば!」
少しも急ごうとしない大地に、美咲は不服そうに口をとがらせた。タタタ、と軽い足どりでタラップを駆け戻ると、待ちきれないとばかりに手を引いて急かす。そのとき——。
「きゃあっ!」
後ろ向きに歩こうとしてバランスを崩したのか、彼女の体はぐらりと大きく傾いた。漆黒の髪がふわりと舞う。しかし、すんでのところで大地が抱き止め、自分の胸に引き寄せた。こわごわと顔を上げた彼女の頭に、大地はぽんと手をのせて言う。
「ほら、だからはしゃぎすぎだって」
「う、うん……」
気恥ずかしさからか、美咲は頬をほんのり染めながら、少々きまり悪そうに頷いた。しかし、すぐにニコッと笑顔を見せると、大地の隣に回り込んで手を繋ぎ、今度は二人並んで出航間近のフェリーへと歩き始めた。
美咲が橘の家に引き取られてから、一年が過ぎていた。
初めの頃はよそよそしく遠慮がちで、笑顔を見せることも少なかったが、今ではすっかり橘の家族として馴染んでいる。特に大地にはよく懐いており、まるで年の離れた兄妹のように仲良くなっていた。
今回の船旅は、二人にとって初めての旅行である。
夏休みを利用してのんびりしようと、学生である大地と美咲の二人だけで、二週間ほど小笠原へ行くことにしたのだ。当初は、橘家が所有している軽井沢の別荘を予定していたが、海がいいという美咲の要望もあり、一度行ってみたいと思っていた小笠原に変更したのだった。
「わぁ、すごい! 船なのにホテルみたい!!」
美咲は船室に入るなり感嘆の声を上げた。白いワンピースをひらめかせて中央に駆けていき、小躍りしながらくるりと振り返る。
「絨毯の上でみんなと雑魚寝だって友達が言ってたけど、全然違ってびっくり」
「この船でも2等はそうかな」
大地としては、この特等船室でも不満があった。手前に小さめのテーブルと椅子、奥にベッドが二つ、あとはユニットバスがあるくらいで、さして広くもなければ、内装もごくありきたりなものである。ルームサービスすらないという。美咲はホテルのようだと言ったが、せいぜいがビジネスホテルのツインルームといったところだろう。しかし、美咲が喜んでくれたことでひとまず安堵し、部屋の隅にスポーツバッグを下ろした。
「ちょっと、お兄ちゃん! どうして寝ちゃうの?!」
さっそくベッドに潜り込もうとした大地に、美咲は思いきり抗議の声を上げた。シーツを引っ張りながら、ぷくっと膨れ面を見せる。そのあまりにも可愛らしい怒り顔に、大地は思わずくすっと笑ってしまう。
「美咲も寝ておかないと体力が持たないよ。旅はまだ始まったばかりなのに、こんなところで疲れちゃったらもったいないだろう?」
「うん……でも……」
美咲は一応は素直に頷きつつも、もぞもぞと反論したそうな様子を見せていた。大地はそのことに気づいていたが、あえて無視して言葉を繋ぐ。
「それに、今晩はお楽しみもあるしね」
「お楽しみって?」
「それはまだ秘密」
美咲は口をとがらせた。
「じゃあ、船内を探検して、それからお昼寝じゃダメ?」
おねだりするようにそう言うと、漆黒の瞳をまっすぐに向けて、ちょこんと首を傾げて見せる。こんな顔をされては降伏せざるをえない。敵わないな、と大地は胸の内で密かに苦笑した。
「わかったよ」
「お兄ちゃん、ありがとう!」
美咲はパッと顔を輝かせると、ベッドに寝そべる大地に飛び込んで抱きついた。幸せな重みを感じながら、大地は彼女と目を見合わせ、絹糸のようななめらかな黒髪を指に絡めて慈しむ。
外では大きく汽笛が鳴り、ゆっくりと船が動き出した。
結局、船内探検に時間を費やしすぎて、昼寝の時間はほとんど取れなかった。
大地は部屋に戻ってから一時間ほど眠ったが、美咲は興奮のためか一睡もできなかったらしい。それでもまだ元気いっぱいで、おなかが空いたから何か食べに行こう、と起き抜けの大地に容赦なくせがむ。
これだけはしゃいでいたら、島に着く頃には疲れ切っているかな——。
足どり軽く船内レストランへ向かう美咲の後ろ姿を見ながら、大地は苦笑しつつも優しく目を細めた。
「んー……眠くなってきた……」
予想どおりだった。
遅めの夕食を終えてから部屋に戻ると、美咲は目をトロンとさせ、吸い寄せられるようにベッドに倒れ込もうとする。しかし、大地は背後から抱き止めて、シーツに触れる寸前でそれを阻んだ。
「まだ寝ちゃダメだよ」
「どうして?」
「お楽しみがあるって言ったの忘れた?」
眠くて不機嫌になっている美咲は、口をとがらせて非難するように大地を睨んだ。今の彼女にとって、眠らせてくれない相手は誰であろうと敵である。しかし、大地はそんなことなどお構いなしに、「おいで」と言って彼女の手を引くと、半ば無理やり部屋の外へと連れ出した。
「どうです? なかなかのものでしょう、溝端さん」
「これは……妻と息子にも見せてやりたいですな」
扉を開けて外に出たところで、男性二人が夜空を仰ぎ見ながら会話していた。まだそれほど遅い時間でもないためか、甲板には他にもちらほらと人の姿が見える。おそらく、その多くが同じ目的で来ているのだろう。
大地は手すりに両手を掛けた。
夜の大海は空よりも暗くて黒く、まるで深い闇が広がっているかのようだった。じっと見ていると引きずり込まれそうな、そんな恐ろしささえ感じる。しかし、その上空には——。
「見てごらん」
眠い目をこする美咲の頭にぽんと手を置き、大地はもう一方の手で空を指し示した。言われるまま、美咲はその指を追ってぼんやりと顔を上げる。しかし、その表情はみるみるうちに輝いていった。
「わぁ……」
彼女の大きな漆黒の瞳には、たくさんの目映い輝きが映っていた。
「すごい、こんなに星があるなんて……」
「本土と違って空気がきれいだし、まわりに光もほとんどないからね」
どこまでも続く紺色の空に、無数の星が散りばめられている。数えることなどとてもできない。それは、まるでおとぎ話に出てくる天の川そのものである。隣に視線を移すと、小さな口を半開きにした美咲が、ただただじっとその星空を見つめていた。
「美咲は覚えてる? 僕たちが初めて出会った日のことを」
「うん、ここまでじゃないけど、星のきれいな夜だった」
美咲は空に目を向けたまま返事をした。
大地はふっと表情を緩め、美咲を柔らかく懐へ引き入れた。そのまま何も言わず、二人でゆったりと同じ星空を仰ぎ見る。まるで、広大な濃紺色のキャンバスに煌めく星々を、余すことなく目に焼き付けようとするかのように——。
それから、どれくらいの時間が過ぎただろう。
大地たちのまわりから人影がなくなった。声もしなくなった。耳に届くのは、船のエンジン音と波を掻き分ける音くらいである。この広い世界にたった二人きり、そんなありえない幻想さえ抱きそうになる。
大地は小さく呼吸をしてから口を開いた。
「美咲、僕はね、君を一目見たときから決めていたんだ」
そう静かに語りかける大地の胸に、美咲はふらりと背中からもたれかかった。空を映した漆黒の瞳がそっと閉じられる。彼女の耳に届いているかわからないが、それでも大地は優しく抱きしめ語りかけていく。やがて、話の終わらないうちに、彼女は大地の腕の中で小さく寝息を立て始めた。
「美咲、そろそろ起きない?」
部屋には、カーテンの隙間から目映い光が射し込んでいた。
大地は自分の胸元で眠る少女にそう囁くと、柔らかい頬にそっと指を滑らせた。彼女は「ん……」と小さな声を漏らし、ぼんやりとベッドから体を起こすものの、深くうつむいたまま固まったようにじっとしている。大地は少し不安になり、起き上がって美咲を覗き込んだ。
「もしかして酔った?」
「ううん、平気、眠いだけ」
美咲は小さく頭を横に振り、顔を上げてにっこりと答えた。大地はその笑顔にほっとし、彼女の頭にぽんと手を置くと、ベッドから降りてカーテンを開いた。シャッ、という軽い音とともに、白い光が溢れ込む。美咲はパァッと顔を輝かせると、素足のまま弾むように窓際に駆けつけた。
「すごい、東京じゃないみたい!」
ガラス窓に張り付いて海を眺める美咲の横顔を、大地は目を細めて見つめた。星空を映した瞳もいいが、キラキラと光る海面を映した瞳もきれいだと思う。
美咲はガラスに手をついたまま振り向いた。
「ね、甲板に出よう?」
「あとでね」
「今すぐ行きたい!」
「それは無理だよ。まずは、顔を洗って服を着替えないと」
「じゃあ、お兄ちゃんも急いで!」
美咲は待ちきれない様子でそう言うと、さらさらの黒髪をなびかせてユニットバスへと駆け込んでいった。
「あ、甲板の前に朝食だからね」
「ええっ?!」
服を脱ぎかけた美咲が、素っ頓狂な声を上げて顔を覗かせる。しかし、不満そうな表情を見せただけで、何も言わずユニットバスへ戻り、いっそう大急ぎで着替えの続きを始めた。
大地たちは、船内レストランでトーストとベーコンエッグを注文した。
窓際に席を取り、二人で向かい合って座る。テーブルも椅子も何もかもが安っぽく、レストランというより食堂といった方が相応しく思えるが、それでも清々しい陽光と微かな潮風を感じながらの食事は格別である。ひどく空腹だったこともあり、美咲と喋りながらだったが、大地はあっというまに平らげてしまった。
「じゃあお兄ちゃん、外へ行こう?」
大地のプレートが空になったことに気がつくと、美咲は急かすように促して立ち上がった。気持ちはすっかり外に向かっているようだ。しかし、彼女のプレートには、トーストもベーコンエッグもまだ半分ほど残っていた。大地は腰を上げることなく、穏やかな口調で美咲を窘める。
「ダメだよ、美咲、全部食べないと」
「もういい、早く行きたいんだもん」
美咲はテーブルに両手をついたまま、焦れったそうに言う。
「ちゃんと食べないと成長できないよ」
「そんなに大きくならなくてもいいの」
「身長だけじゃなくて、いろんなところがだよ」
「……お兄ちゃんのエッチ」
美咲は非難するようにじとりと睨み、口をとがらせた。頬はほんのりと桜色に染まっている。その様子から、彼女があらぬ誤解をしていることを悟り、大地は思わず肩を竦めて苦笑する。
「真面目に言ってるんだけどね」
「いいもん……子供のままで……」
美咲は急に声を暗く沈ませると、斜め下に視線を落とす。その様子は、拗ねているというよりも、何か深く思いつめているように見えた。大地は理由がわからず当惑したが、それでも彼女を安心させるべく優しく微笑む。
「そんな悲しいこと言わないでよ」
待ってるんだから——。
心の中でそう言葉を繋ぐと、うつむいた美咲の頬に手を伸ばした。
「わーっ! 気持ちいい!!」
美咲が朝食をきっちり食べ終わってから、二人は甲板に出た。
まだ早い時間のためか、ちらほらとしか人がいない。美咲は麦わら帽子のつばを両手で掴み、白いワンピースをひらめかせながら、弾むように軽やかに甲板を駆けていく。
「あんまりはしゃぐとパンツが見えるよ」
「お兄ちゃんのエッチ!」
先ほどと同じ言葉を、今度は屈託なく笑いながら言う。ステップを踏むように振り返ると、腰より少し短い黒髪がさらりと潮風に舞い、白いワンピースが大きく風をはらんだ。
立ち止まった美咲に歩み寄って、大地は口を開く。
「そろそろ島が見えてくる頃かな」
「えっ、どこ?」
「あっちの方だよ」
手すりから身を乗り出した美咲の背後から、大地は大きく手を伸ばし、船の進行方向を指さした。しかし、そこには海と空が広がるばかりで、目を凝らしても島らしきものはどこにも見えない。
「お兄ちゃん、見える?」
「うーん、まだみたいだね」
大地はきまりが悪くなって苦笑した。腕時計に目を落として時間を確認すると、確かに少し早かったようである。船は白い波しぶきを上げながら着実に進んでいる。焦る必要は何もない。大地は小さく息をついて、絵に描いたような鮮やかな青空を見上げた。
美咲は手すりに置いた腕に頭をのせると、寂しげにぽつりと言う。
「お兄ちゃんとの旅行、これが最初で最後かな」
「まだ着いてもいないのに何を落ち込んでるの」
「だって……」
何か理由を言いかけて、彼女は口をつぐんだ。帽子のつばに隠れて見えないが、おそらく朝食のときに見せたような、暗く沈んだ表情をしているのだろう。大地は不思議に思って首を傾げた。
「美咲、きのうの夜のこと覚えてる?」
「えっ? 一緒に甲板で星を見たこと?」
「そう、そこで僕は美咲に話したよね」
「……何を?」
美咲はきょとんと顔を上げて尋ねる。とぼけているわけではなさそうだ。話の途中で眠ってしまったことは承知していたが、冒頭の少しくらいは聞いていたと思っていた。聞いてはいたが、忘れてしまったのかもしれない。
「じゃあ、美咲、あらためて聞いてくれる?」
「やめて、今はこの旅行を楽しみたいから……」
美咲は逃げるように視線を外すと、再び手すりに置いた腕に顔を埋めた。
先刻からどうも様子がおかしい。まるで、二人で過ごす時間は、これが最後であるかのような物言いを続けている。思い返してみれば、この数日の間にも何度か似たようなことがあった。
まさか——。
ふと頭をよぎったその考えに、大地は眉をひそめる。
先日、伯母が大地に持ってきた縁談を、父は「すでに婚約者は決まっている」と一蹴したのだ。大地自身もそれに同調している。しかし、婚約者が誰であるかについては、二人とも頑なに口を閉ざしていた。もし、美咲がどこかでこの話を耳に挟んだとしたら——。
大地は美咲の隣に並び、手すりに両手を置いて顔を上げた。
彼方まで澄み渡った青空を仰ぎながら、優しくも力強さを感じさせる口調で言う。
「花は大地に根ざして美しく咲き誇り、大地は美しい花によって潤いと彩りを与えられる」
前置きもなく発せられた詩のような一節に、美咲は怪訝に振り向き、瞬きもせず大地を見つめた。そして、真面目な顔で小首を傾げると、薄紅色の愛らしい唇を開く。
「それって“美咲”と“大地”は離れられないってこと?」
「よくわかったね」
大地は満面の笑みで答えた。
美咲は顔を隠すように深くうつむくと、身を翻しながら、軽く跳ねるように後ろに下がった。泣きそうなのをこらえるような、笑おうとして失敗したような、何ともいえない微妙な表情を浮かべて、後ろで手を組み合わせる。
「ずっと一緒にいてくれるの?」
「ずっと一緒にいるよ」
それでも美咲の表情は晴れなかった。瞳を揺らしてさらに問いかける。
「私を置いていなくならない?」
「美咲をひとりにはしないよ」
「もし私がいなくなったら?」
「あれ? 美咲は忘れてるのかな? もう引退したとはいえ、これでも僕は元怪盗だよ」
大地は腰に手を当て、大きく抑揚をつけながらおどけるように言った。
まわりに人はいなかったが、たとえ誰かが聞いていたとしても本気にはしないだろう。年の離れた妹と遊んでいる微笑ましい光景としか映らないはずだ。その荒唐無稽な話が真実だと知っているのは、この船ではただひとり美咲だけである。
「でも、お兄ちゃんがそう思っていても……」
そのとき、不意に突風が吹いた。
麦わら帽子が空に攫われ、慌てて美咲はすらりとした手を伸ばす。
瞬間——。
ドォン!!
耳をつんざくような轟音とともに、硬いはずの甲板が激しく波打った。
大地の体は弾かれるように宙を舞い、視界は大きくぶれ、天も地もわからなくなった。反射的に鉄の柵のようなものを掴んでぶら下がったが、それも今にも外れそうになっている。体に容赦なくしぶきが叩きつけられた。
「美咲ーーーっ!!」
何ひとつ状況の掴めないまま、どこにいるかわからない彼女の無事を確かめるべく、あたりを見まわしながら必死に名前を叫んだ。しかし、返答はなく、姿も見当たらない。聞こえてくるのは船の悲鳴と荒れ狂う波の音だけである。
「うわっ!!」
大地の体が大きく旋回すると、とうとう掴んでいた鉄柵が外れ、遠心力で勢いよく弾き飛ばされた。叩きつけられるように海に落ちる。その痛みであやうく失神しかけたが、何とか意識を保ち、海流のうねりに揉まれながら海面に浮上して顔を出した。
そのとき、少し離れたところに白い布が浮かんでいるのが見えた。
大地はそれが美咲だと確信した。
海水を吸った服が重たく纏わりつき、思ったように体が動かせず、焦る気持ちとは裏腹になかなか進まない。それでも、何とか彼女のもとまで泳ぎ着くと、背後から小さな体を抱きかかえて起こす。
「美咲っ!」
「ゲホッ」
美咲はむせながら水を吐くと、苦しげに荒い息をしながら振り返り、うつろな目でぼんやりと大地を見た。潤んだ漆黒の瞳は、不安と恐怖に彩られている。それでも、彼女が生きていたことに、辛うじて意識があることに、大地は全身の力が抜けそうなほど安堵した。冷たい海に浮かんだまま、彼女の体をぎゅっと抱きしめる。
しかし安心できる状況ではない。
いつまでも、海の中に浮かんでいるわけにはいかないのだ。どこか陸のあるところまで泳いでいくか、通りがかりの船に助けてもらうしかない。けれども、まわりには水平線が広がるばかりで、目印になるものなど何もない。自分たちの乗ってきたあの船以外には——。
おそるおそる、轟音の鳴りやまないその方に目を向ける。
そこあったのは、海を割き天を貫く巨大な光柱により、おもちゃのようにあっけなく真っ二つに割られた船だった。片方は船首を上に向けて沈みかけ、もう片方は強烈な光によってバラバラに崩されていく。破片や人がゴミのように落ちていくのが見える。穏やかな青空と海の中で、そこだけが異空間のように地獄絵図が映し出されていた。
現実とは思えない光景。けれど、紛れもない現実。
今まで何が起こったのかさえ理解できずにいたが、離れたところから状況を見ても、やはりわからないままだった。常識では処理しきれないことが目の前で起きているのだ。大地の瞳には、光の魔神が雄叫びを上げ、怒りまかせに暴れ狂っているかのように映った。
腕の中の美咲がぶるりと震えた。
その感覚で大地ははっと我にかえる。とりあえず、出来るだけ船から離れなければならない。あの光がいつ自分たちの方に襲い来るかわからないし、そうでなくとも沈没時の渦に巻き込まれる危険もある。大地は凄惨な現場に背を向けると、美咲を抱えて必死に泳ぎ出した。
ドォン——。
縦になっていた船体が爆発し、炎と黒煙を上げながら海面に倒れ込んだ。真っ白な水しぶきとともに大きな波が起こる。それは生き物のようにうねりながら、大地たちに襲いかかった。
「美咲っ!」
大地は高波に背を向けて、美咲を庇うように頭から抱き込む。しかし、それはほとんど意味をなさないことだった。高波はいとも簡単に二人をまるごと飲み込んでしまう。激しい水流に揉まれて引き裂かれそうになった。それでも、美咲と離ればなれにならないよう、彼女を抱く腕に死にものぐるいで力を込めた。
1975年7月26日 午前8時すぎ
小笠原沖にて旅客フェリー・おがさわら号 沈没
死者 162名
行方不明者 481名
生存者 2名——。