照明を心持ち落とした大広間で、ドレスアップした女性やスーツ姿の男性たちがあちらこちらに集まり、シャンパングラス片手に和やかに談笑している。壁にはいくつもの絵画が飾られており、それらを論評している人たちも多い。
澪は、多少の緊張を感じながらも、背筋をすっと伸ばして足を踏み入れた。淡いベージュのパーティドレスがふわりと揺れ、シャンパンゴールドのショールが華やかになびく。その後ろには、ダークスーツを着た悠人が付き従っていた。
「橘澪さんですね?」
入ってすぐ、盛装した中年の男性に声をかけられた。それがこの大きな屋敷の主であり、パーティの主催者でもある、画商の中堂徹(ちゅうどう とおる)であることはすぐにわかった。面識はなかったが、事前に彼のインタビュー記事を読んでおり、そこに掲載された写真も目にしていたのだ。
「初めまして、橘澪です。本日はお招きいただきありがとうございます」
淀みなくそう答えると、澪は唇に微笑をのせてお辞儀をした。艶やかな長い黒髪がしなやかに揺れる。
「こちらこそ、橘財閥の方に、それもこのような美しいお嬢様にお越しいただけて光栄です」
中堂はオーバーな身振りと抑揚で歓迎の意を表した。いかにも商売人らしい低姿勢な振る舞いであるが、獰猛な獣のようなぎらついた眼差しだけは隠せていない。澪は僅かに目を細めて、話題を変える。
「祖父の都合がつかなくなってしまい、本当に申し訳ありませんでした」
「いえいえ、お忙しい方と存じておりますので」
中堂は恐縮して肩をすくめると、ふと媚びるような表情を覗かせる。
「また機会があれば是非に、と橘会長にお伝えください」
「はい、必ず申し伝えておきます」
澪は愛想良く答えた。たとえ相手が気に入らなくても、それを表に出すことは許されない。中堂に悪い印象を与えないよう振る舞うことが、今日の澪に与えられた役割のひとつである。橘家の人間としての、そして怪盗ファントムとしての——。
剛三が狙いを定めた絵画が中堂家にあるということで、ちょうど招待されていたパーティに出席し、澪と悠人が屋敷を下見してくることになったのだ。定期的に開催されているこのパーティは、絵画に関心のある富裕層に、将来有望な若手画家の作品を紹介するのが主目的で、すなわち画商の中堂にとってはビジネスの一環である。剛三にも幾度となく招待状が送られていたが、面識のない相手ということもあり、これまではことごとく無視してきたらしい。にもかかわらず、怪盗ファントムの下見に都合良く利用するなど、澪は心苦しさを感じずにはいられなかった。もっとも、そんな道徳的な抗議は、いつものごとく剛三に軽く流されてしまったのだが。
中堂はドリンクを運んでいたウェイターを呼び止め、悠人にはシャンパンを、澪にはシンデレラという名のノンアルコールカクテルを持ってこさせた。ノンアルコールとはいえ、きちんとしたカクテルグラスに入っており、見た目は普通のカクテルと大差ない。その配慮が、未成年の澪には嬉しかった。味は上品なフルーツミックスジュースといった感じで、華やかな甘みの中に酸っぱさもあり、少しずつ口をつけるにはちょうど良さそうである。
「由衣、幹久、ちょっと来なさい」
少し離れたところで歓談中のグループに向かって、中堂がそう手招きをすると、すぐにその輪から二人が抜け出してこちらへやってきた。ひとりは柔らかく上品な雰囲気の女性で、もうひとりは若く活気にあふれた青年である。優美で端整な面差しが互いによく似ており、二人が血縁関係にあることは一目で察しがついた。
「紹介しよう、妻の由衣と、息子の幹久だ。こちらは橘財閥ご令嬢の澪さんと、会長秘書の楠悠人さん。今日は橘会長の代理でいらしてくださったのだよ」
「初めまして」
澪は明るくにこやかに挨拶をした。由衣も慎ましやかな笑顔で応える。
「初めまして、澪さん……お久しぶりです、悠人さん」
「高校卒業以来ですね」
これまで後ろで静かに控えていた悠人が、穏やかに口を開いた。澪は思わずドリンクをこぼしそうな勢いで振り返り、同じく寝耳に水だったらしい中堂も、あまり大きくはない目を丸くしている。
「お知り合いで?」
「ええ、由衣さんとは高校の同級生でした。二十数年ぶりの再会です」
悠人は驚いた様子もなく平然としているが、普段からあまり感情を見せる方ではないため、偶然に出会ったのか予め知っていたのか判別がつかない。しかし、どちらにしても仕事がやりにくいのでは、と澪は少し心配になる。
一方の中堂は、心から嬉しそうに目を輝かせていた。
「なんと奇遇ですな! これも何かの御縁でしょうか」
現実として否定が許されないその問いかけに、悠人は言葉の代わりに笑顔で応じる。
「由衣と積もる話もあるでしょうし、どうぞごゆっくりなさってください。澪さんもどうぞ楽しんでいってください。また後ほどゆっくりとお話しいたしましょう」
中堂はそう言って丁寧な所作で一礼すると、息子の幹久だけを連れて、他の招待客の挨拶まわりに向かった。由衣を置いていったのは、久方ぶりの再会を果たした二人への気遣いというよりも、何とかして橘財閥と繋がりを持ちたい彼自身の野望のように思えた。
「悠人さん、回廊を歩きながら少しお話ししません?」
由衣は少女のように愛らしく首を傾げて尋ねる。その声には、先ほどまでの落ち着いたものとは違う、緊張と期待の入り交じったような響きがあった。しかし、悠人は微笑を保ったまま事務的な答えを返す。
「いえ、私はお嬢様に付き添う義務がありますので」
「私は大丈夫よ。由衣さんとお話してきてちょうだい」
まるで自分が原因であるかのような断り方に、澪は多少の腹立たしさを覚えながらも、あくまで上品な態度を崩すことなく言う。その瞬間、彼の表情に微かな困惑が見えたような気がした。
「ですが……」
「行ってきて」
「承知しました」
反論を呑み込んだ悠人を見て、澪は密かにくすりと笑った。
普段は武術の師匠と弟子という関係だが、対外的には橘の孫娘と会長秘書であり、橘財閥の人間として表に出るときは、そう振る舞うよう言いつけられている。小さな子供の頃は呼び方を変えるだけで精一杯だったが、最近では役割を演じることを楽しむようになっていた。調子に乗りすぎて、あとで悠人から逆襲されることも間々あるのだが——。
「あなたが橘財閥の会長秘書をしていたなんて驚いたわ」
緩やかなカーブを描いている白い回廊は、片側が全面ガラス窓になっており、そこから目映い陽光が溢れ込んでいた。由衣はガラス窓にそっと左手を置き、隣の悠人を優しい眼差しで見上げている。しかし、悠人は彼女に目を向けることなく、気怠そうに腰から手すりにもたれかかっていた。
師匠じゃないみたい——。
こっそり二人の後をつけて覗き見ていた澪は、これまで目にしたことのない彼の姿にドキリとした。無表情か、真顔か、笑顔か……澪が知っているのはそのくらいで、今のような隙のある表情は見たことがなかった。立ち居振る舞いも、いつもきっちりしている彼とは別人のようである。こういう素に近い自分をさらけ出せるのは、昔を知る相手だからだろうか。それとも——高鳴りゆく鼓動を感じながら、澪は息を詰めて二人を注視する。
「こちらこそ、あなたが有名画商の妻に納まっていたなんて驚いた」
「美大在学中に中堂に見初められて結婚したの」
由衣は曖昧な笑みを浮かべた。ガラス窓に置かれたすらりとした左手を、ゆっくりと握りしめていく。薬指にはめられたプラチナの指輪が、窮屈そうに食い込んで見えた。
「画家になる夢は?」
「私にそこまでの才能はなかったみたい」
おどけるように肩をすくめてそう言うと、くるりと身を翻し、悠人と同じように背中から手すりにもたれかかった。そして、どこか遠いところを眺めながら、過去に思いを馳せるように、その気持ちをなぞるように、ゆったりとした柔らかな口調で続ける。
「結婚するまでは必死に努力していたのよ。なんとしても画家になりたかった。いつか、怪盗ファントムに盗んでもらえる絵を描けるようになりたかった。そうすれば、もう一度あなたに会えるような気がして……」
「僕は怪盗ファントムじゃない」
「引退なさったのよね」
由衣はまるで事情を知っているかのように言う。
「最近、また怪盗ファントムが活動を始めたでしょう? あなたではないみたいだけれど、無関係とはとても思えなくて。だから、ここの絵画を狙ってくれることを密かに期待していたの。そうしたら、あなたにも会えるんじゃないかって」
「相変わらず意味のわからないことを言うんだな」
悠人は煩わしげに溜息をついた。それでも由衣は懲りずに続ける。
「今日は下見にいらしたの?」
「ええ、会長が気に入っている若手画家の作品をね」
噛み合わない問いと答え。由衣の意図をわかっているのだろうが、悠人はあくまでも表向きの話をした。そして、鬱陶しそうに前髪を掻き上げると、手すりから体を離して立ち去ろうとする。その後ろ姿に、由衣は縋りつくような目を向け、両手を重ねてそっと胸元に置いた。
「もしも怪盗ファントムがここに盗みに入るのなら、ついでに、私も……盗んでもらえないかしら?」
カツン——革靴を打ち鳴らして悠人の足が止まった。ゆっくりと振り返る。そして、にっこりと満面の笑みを浮かべると、その表情とは対照的な、ぞっとするほどの冷たい声で言う。
「あなたに名画ほどの価値があるとでも?」
力が抜けたように由衣の腕が降りていく。半開きの唇からは何の言葉も紡がれない。彼女は僅かに潤んだ目を細め、遠ざかる悠人の背中を、ただ寂しげにじっと見送るだけだった。
「楠サン、ちょっと」
「どうかしました? お嬢様」
回廊の反対側から急いで大広間の前に戻り、仁王立ちで待ち構えていた澪は、悠人の腕を掴んで人通りのない通路に連れ込んだ。奥にある部屋はすべて物置か何かのようで、通り抜けることもできないため、パーティ時にわざわざここに来る人はいないだろう。
「師匠、あの態度はないんじゃないですか?」
「澪の方こそ、下手な覗き見は感心しないな」
両手を腰に当てて咎める澪に、悠人は悪びれることなく反撃する。どうやら澪が見ていたことは知っていたらしい。知っていてあんなことを言うなんて——澪はいっそう表情を険しくすると、眉間に縦皺を刻みながら、下から覗き込むようにして悠人を睨んだ。
「ねえ、由衣さんって師匠の元カノ?」
「よくわかったね」
悠人はにこやかな笑顔を保ったまま答える。その余裕の態度が、澪にはなおさら腹立たしく感じられた。
「彼女、まだ師匠のことが好きなのよ。なのにあんな冷たい言い方……」
「関係ないよ」
悠人の瞳に鈍い光が宿った。
「いい迷惑だね。二十数年ぶりに会って突然あんなことを言う彼女の方がどうかしてるだろう。もう二度とつきまとわれたくないんだよ。澪との結婚を邪魔されるようなことはごめんだ」
最後の言葉に、澪は大きく目を見開いた。
「師匠、あの……結婚って……?」
「ああ、口を滑らせてしまったな」
悠人は顔をしかめてそう言ったが、すぐに平静を取り戻して続ける。
「まあ、つまりそういうことだから、今さら由衣とどうこうなるつもりはないし、こんな大事な時期に現れて本当に迷惑しているんだ。澪ももう由衣のことなんか気にしなくていい。僕が結婚する相手は澪しかいないんだから」
「なんですかそれ……私、師匠と結婚なんて絶対にしませんから!!」
彼のあまりにも身勝手な言いように、澪はカッと頭に血を上らせて言い募った。顎を引いて上目遣いに睨みつけると、踵を返し、全力で走り去りながらギュッと目をつむる。
頭が混乱していた。
悠人の言った「そういうこと」とは、どういうことなのだろうか。二人を結婚させたがっている剛三が話を進めているのだろうか、それとも単に悠人がそうしたいと願っているだけなのだろうか。どちらしにしても、了承してもいないのに決定事項のように言うなんて、ましてやそれを言い訳として持ち出すなんて、澪には馬鹿にしているとしか思えなかった。そして何より、由衣の想いをあれほど容赦なく踏みにじったという事実が、とても信じられなく、とても許せなかった。
「きゃっ……!」
澪が細い通路から飛び出して曲がった直後、そこにいた人物と正面からぶつかった。慣れないハイヒールで足下がぐらつき、バランスを崩して廊下に倒れ込む——はずだったが、すんでのところで相手に抱き留められた。
「あ……ありがとうございます……」
「いいえ」
にっこりと紳士的に澪を立たせたその相手は、先ほど紹介された中堂家子息の幹久だった。その優しげな顔立ちとは裏腹に、意外と胸板が厚く、男らしく逞しい体つきをしている。なぜこんなところにいたのかも気になるが、それより問題は——。
「あの、もしかして、話……聞いてました?」
澪が上目遣いでおずおずと尋ねると、彼は少しきまり悪そうに肩をすくめた。
「すみません、聞くつもりはなかったんですが」
「えっと……どのあたりから……でしょうか?」
「シショーと結婚なんてしない、というところだけですよ」
その答えを聞いて、澪は密かに安堵の息をついた。由衣が悠人の恋人だったとか、今でもまだ未練があるとか、彼女の息子には知られたくないし、知られてはならないことである。元の鞘に収まることが期待できないのなら尚更だ。
「同じですね」
「えっ?」
「うちも、父が勝手に縁談を持ってくるんです」
幹久は真面目な顔でそう言うと、光の溢れるガラス窓の方へ歩を進めた。母親譲りのすらりとした白い手を、木製の手すりに置き、薄い雲のかかった柔らかな青空を見上げて目を細める。
「僕はまだハタチになったばかりなのに……いいえ、年齢は関係ないですね。父には生意気だと言われるかもしれませんが、自分の伴侶は自分で見つけたいと、子供の頃からずっとそう思ってきました」
「私もです」
幹久も似たような境遇に置かれているのだと、そして同じような考えを持っているのだと知り、澪は急に親近感を覚えた。軽やかな足取りで彼の隣に進むと、顔を上げ、親しみを込めてニコリと微笑みかける。彼も、目を細めて優しく微笑み返した。
「僕は、どうやら見つけられたみたいです」
私も、見つけられたのかな——。
澪は胸元の小さなピンクダイヤに右手を重ね、そっと柔らかく目を閉じた。これからも誠一と過ごしていきたい、人生をともに歩んでいきたい——そう思う気持ちは、決して若気の至りなどではないと信じている。実現するには困難を伴うかもしれないが、それでも絶対に諦めるつもりはない。
「少し、歩きませんか?」
「ええ」
誘われるまま、澪は幹久と並んで光の溢れる回廊を歩き始める。そのとき、悠人が通路脇からこちらを見ていることに気づいたが、あえて素知らぬ顔をして、見せつけるように幹久と談笑しながら通り過ぎた。
「澪、まだ怒ってるの?」
「だってひどいんだもん」
ノートパソコンに向かう悠人を睨みながら、澪はベッドの上で胡座をかき、思いきりむくれて頬を膨らませていた。今日の出来事を思い返すだけで頭が沸騰しそうである。下見の報告書作りという用件さえなければ、こんなところ、すなわち悠人の部屋になど来たくもなかった。
「女心を踏みにじるなんて最低じゃない」
パーティ会場に戻ってからも、悠人の由衣に対する態度はひどいものだった。他の人がいるときは常識的に振る舞っているが、由衣と二人になると、途端に冷ややかな言葉を吐いて彼女をはねつける。いくら彼女の想いを受け入れる気がないとはいえ、いい大人のとる態度ではないだろう。
「そういう澪も、僕の男心を踏みにじったけどね」
「今は師匠の話をしているの!!」
前のめりになって語気を荒げると、そのまま、眉を寄せてじとりと彼の横顔を見つめる。
「どうしてそこまで由衣さんのこと邪険にするのかなぁ?」
そう尋ねかけても、悠人はまるきり無視してキーボードを打ち続けている。まるで触れてほしくないと言わんばかりだ。二人の間には何か余程のことがあったのだろうか。澪は回廊でのやりとりを思い起こしながら、その場でごろんと横になった。老朽化したスプリングがギシギシと濁った音を立てる。
「澪、まだ髪が乾いてないんじゃないの?」
「わざとベッドを濡らしてるんだもん。この冷たいベッドで、冷たい態度を反省すればいいのよ」
悠人はちらりと澪に視線を流し、くすっと余裕の笑みを浮かべた。完全に子供扱いされてる——澪はムッとしたが、確かに幼稚な仕返しだという自覚はあったので何も言えなかった。寝転んだまま大きな枕を抱きしめ、報告書作りを続ける悠人をじっと見つめる。
「ねえ、由衣さんとはどうして別れたの? 師匠がふったの?」
「……彼女、何かと思い込みが激しくてね」
少しの間のあと、悠人はキーボードを叩きながら静かに口を開く。
「澪も聞いていてわかっただろうけど、僕のことを怪盗ファントムだと思い込んでいて、何かにつけて決めつけたように探りを入れてきてさ」
「思い込みっていうか、それほとんど事実ですしね」
厳密にいえば怪盗ファントムは大地になるのだろうが、悠人はその影武者をやっていたのだから、彼女の推測はほぼ的を射ていることになる。とはいえ、それを認めるわけにいかないこともわかっていた。
「いくら違うと言ってもまるで聞く耳を持たなくてね。疑うのも確信するのも勝手にすればいいと思っていたけど、いちいち僕に言ってくるのが鬱陶しくて仕方なかった。それでも僕なりに耐えていたよ。だけど、大学も別々になったし、いい機会だと思って高校卒業で彼女とも別れたんだ」
「由衣さんは打ち明けてほしかったのよ。きっとそれだけだったんだと思う」
秘密を守り続けねばならなかった悠人も、秘密を打ち明けてもらえなかった由衣も、互いにつらかったのだろう。怪盗ファントムさえなければ、恋人としての時間を楽しく過ごせていたかもしれない。もしかしたら結婚していた可能性だってあるのだ。そう考えると、澪にはとても他人事とは思えなかった。もしも、誠一に怪盗ファントムだと疑われたとしたら——。
「やけに彼女の肩を持つね」
「そういうわけじゃなくて……ねえ、やっぱり今からでも遅くないんじゃない? やり直そうよ。師匠と結婚するなら怪盗ファントムのことを話してもいいんでしょう? 由衣さんはもう子供だって成人してるんだし、離婚にそれほど支障があるわけでもないと思うの」
ベッドから体を起こして真剣に訴える。しかし、悠人には伝わらなかったようだ。
「澪、僕を厄介払いしようとしてない?」
「そんな……私は、師匠に幸せになってもらいたいだけ」
「どうかな」
マウスを操作しながらそう言うと、椅子をまわして澪に向き直った。
「一通り書いたから確認を頼むよ」
「あ、はーい」
澪は抱きしめていた枕を戻してベッドから降り、椅子を譲ってもらってノートパソコンに向かう。そこには中堂家下見の報告書ファイルが表示されていた。怪盗ファントムの実行計画立案用である。それを作成するのは悠人の役目だが、念のため、同行した澪も内容を確認することになっていた。
「わあ、すごい。いつのまにこんなに調べてたんですか?」
報告書には、屋敷の間取りや窓の形状、錠の種類、天井の高さ、通風口の位置など、こと細かに書き記されていた。今日のパーティだけで調べたとは信じられないくらいである。
「下見に行ったんだから当然だよ」
悠人は事も無げにそう答え、隅の戸棚からドライヤーとブラシを取り出した。澪をノートパソコンに向き直らせると、まだ湿り気を帯びている少し乱れた髪を、手際よくブラシでとかしながら乾かしていく。澪はされるがままで画面を見つめながら、昔はよくこうしてもらったな、と幼いころの懐かしい思い出に浸っていた。
「ねえ師匠、ここ幹久さんの部屋よ」
ふとそのことに気付き、間取りの空白部分を指さしながら指摘する。
悠人はドライヤーを切った。
「……行ったの?」
「うん、英国風って感じのおしゃれな部屋だったよ。ベランダにはティーテーブルが置いてあって、そこで紅茶をごちそうになっちゃった。今の時期はそのベランダから月がきれいに見えるんだって。今度は月下の淡い光の下でお会いしましょう、なんて言ってたけど、さすがにちょっと格好つけすぎだよね」
澪はそう言ってクスクスと笑ったが、背後の悠人は無言のままだった。どうしたのかと不思議に思って振り返ると、彼は感情の窺えない表情で、ドライヤーを体の横に降ろして棒立ちになっていた。
「まさか、本当に彼と結婚する気じゃないだろうね?」
「えっ?!」
思わず、澪は素っ頓狂な声を上げた。
「どうしてそうなるんです? 師匠だってあのとき聞いてたんじゃないんですか? 幹久さん、結婚したい人がいるみたいなこと言ってましたよ? そんな話を聞いて、あえて彼と結婚しようだなんて思いませんから。それも、今日会ったばかりの人なのに……」
「そう、だったね」
悠人はフッと薄く笑って目を伏せた。
「もしかして、やきもち?」
「かもね」
椅子の背もたれに腕をかけて悪戯っぽく尋ねた澪に、悠人は軽い口調で応じ、ドライヤーのプラグを引き抜いて元の戸棚にしまおうとする。その広い背中を眺めながら、澪はあらためて彼のことについて考えてみた。
「師匠って、私と結婚したいみたいなこと言ってますけど、別に好きだとかそういうわけじゃないんですよね。寂しいから誰かにそばにいてほしいけど、今から探すのは面倒だし時間もないし、身近なところで手を打とうとしてるだけのことで。強いていうなら、昔からずっと一緒にいたから気楽だし、みたいな理由? 私だったら怪盗ファントムのことも秘密にしなくていいですもんね」
「そんなふうに思ってた?」
「当たってますよね?」
澪は背もたれに腕をかけたまま身を乗り出し、戻ってきた悠人に同意を求める。
「んー、半々ってところかな」
「どこが間違ってるんです?」
じっと見つめながら小首を傾げて尋ねると、悠人は小さく微笑んで澪の肩を抱き、腰をかがめてゆっくりと顔を近づけてきた。一瞬、澪はドキリとして身を引こうとしたが、先日の車中でのことを思い出し、心持ち視線を逸らしつつも強気に言い募る。
「二度も同じ手が通用すると思ってるんですか! 私にだって、学習能力くらいありま……」
唐突に口が塞がれた。それも、手ではなく口で。
あまりのことに一瞬で思考は真っ白になった。ただ唇の温かく生々しい感触だけが強烈に知覚される。悠人は強引に舌を割り入れると、顔の角度を変えながら、澪の唇を、舌を、さらに深く貪り尽くそうとする。ようやく事態を把握して押しのけようとした手には、ほとんど力が入らなかった。
やがて、名残惜しげに唇が離れる。
澪は苦しげにハァッと空気を吸い込むと、痛いくらいの鼓動を感じながら、まぶたを震わせてそっと薄目を開いた。至近距離にある彼の顔。その瞳の奥には、まるで別人のような激しい情欲が燃えたぎっていた。熱い吐息が澪の濡れた唇に掛かる。
ゾクリ、と背筋に冷たいものが走った。
本能が警鐘を鳴らして無意識に身をこわばらせる。しかし、顔を隠すように大きくうなだれた彼が、ゆっくりと息をついて体を起こすと、そのときにはいつもの穏やかな表情に切り替わっていた。まるで何事もなかったかのように、にっこりと微笑んで言う。
「わかった? どこが間違っているのか」
「私、師匠とは結婚しませんから!!」
澪はカッと顔を真っ赤にしてそう宣言すると、弾かれたように立ち上がり、濡れた口元をぞんざいに手の甲で拭った。
「どうして?」
背後から聞こえる、どこか寂しげな声。
澪の胸に罪悪感がよみがえる。彼は自分を犠牲にしてまで橘家に尽くし、澪たちの面倒も見てくれた。そのことについては言葉にならないくらい感謝しているが、だからといって、結婚を受け入れることはどうしてもできない。理解してもらうには正直に話すしかないだろう——そう心を決めて、背を向けたまま慎重に言葉を落としていく。
「師匠のことは嫌いじゃないですけど……私、他に好きな人がいるんです」
「その人と、付き合ってるの?」
悠人の静かな問いかけに、澪は無言でこくりと頷いた。
「もしかして、ピンクダイヤの贈り主?」
「えっ?! どうしてわかったんですか?」
驚いて振り返ると、悠人は苦笑しながら肩をすくめていた。
「何となくね。小遣いで簡単に買える代物ではないし、それに、澪にとてもよく似合っていたからね」
ドレスを着てパーティに行くという話になったとき、用意されたネックレスを断り、あのピンクダイヤのペンダントを身につけたいと申し出たのだ。彼からの誕生日プレゼントなどとは言えないので、自分で買ったと嘘をついたが、やはり高校生にしては高価すぎて無理があったようだ。
「ごめんなさい……」
「じゃあ、もしその彼氏と別れたら、僕と結婚してくれるかな?」
澪が気弱な顔を見せたことで調子に乗ったのか、悠人はしたたかにもそんな提案をしてきた。強引にヒトの唇を奪っておいて謝りもしないで——さすがに澪はムッとして眉をひそめた。
「そんなの受ける必要はないですよね?」
「その人と添い遂げる自信ないんだ?」
「あります!」
間髪入れずに言い返す。挑発であることくらいわかっていたが、それでも構わない、いっそあえて乗ってやろうと思った。よく考えてみれば、澪に有利な賭けである。誠一との付き合いが続いている限り、悠人との結婚はない、ということになるのだから。
「わかりました。もし彼と別れたら師匠と結婚します。でも、絶対にそうはなりませんから」
挑むようにまっすぐ悠人を見据えて断言する。そして、硬い表情のまま一礼すると、乾きたての長い髪をなびかせ部屋をあとにした。自分の想いは誰にも邪魔させない——澪は唇を噛みしめながら、その決意を強く胸に刻みつけた。