東京ラビリンス

第13話 行き詰まる二人

「やっぱ無理かなぁ」
 誠一は溜息まじりに弱気な独り言を漏らすと、蛍光ペンを持ったまま、背筋を反らして大きく伸びをした。凝り固まった体に感じる適度な刺激が心地良い。思わず欠伸も出そうになるが、自席ではまずいと思い、眉をしかめながら何とか噛み殺した。
 机の上には、下着メーカーから入手した通販購入者リストが広げられている。
 怪盗ファントムに繋がる情報として、スポーツ紙の写真や下着のことを捜査二課に報告したが、彼らはあまり重要視していないようだった。容疑者に対する裏付けのひとつとしてなら有用だが、ここからファントムの正体を割り出すのはほぼ不可能に近い、ということである。その意見には誠一も同意する。だからといって、放置しておくのももどかしく、自分ひとりで捜査することにしたのだ。
 まず、可能性がありそうな14歳から39歳までの女性を対象にしてみたが、9割方がこの範囲内であり、あまり絞り込むことは出来なかった。さらにそこから東京都内在住の者を選び出してみる。今はこの作業を進めているところであり、それなりに減りそうな手応えを感じているものの、数百人の単位では残りそうだった。
 あとは一人ずつ回ってみるしかない。本人と会えば、体型等からもっと絞り込めるはずである。
 だが、たとえある程度の目星を付けられたとしても、おそらく捜索令状は請求できず、ファントムに繋がる確実な証拠を得るのは難しいだろう。やはり決定力に欠けるのだ。おまけに、あまり考えたくはないが、通販以外に直営店での販売もあるというのだから——。
 それでも絞り込んでおくことに意味はあるだろうと、折れそうな気持ちを立て直し、再び蛍光ペンを握り直して購入者リストに向かう。が、急に香ばしい匂いが漂ってきたかと思うと、飾り気のない白いマグカップを手にした岩松が、背後からひょっこりと首を伸ばして覗き込んできた。
「手伝ってやろうか?」
「いえ、黙認してもらえるだけで有り難いです」
 目の前でファントムを取り逃がした誠一に同情しているのか、岩松をはじめとする捜査一課の同僚たちは皆、この担当外の捜査を黙認してくれていた。もちろん、それは本来の職務が忙しくないときに限られる。
「あれ、これ澪ちゃんじゃないか?」
 何気なくリストを眺めていた岩松が、そのひとつを指さして顔を近づける。そこには彼女の名前があった。下手に詮索されると立場が危うくなりかねないので、澪から情報を得たことは伏せていたが、当然ながら通販購入者である彼女の名前もリストには挙がっているのだ。
「そうみたいですね」
 誠一は愛想笑いを浮かべて曖昧に答えた。
「澪ちゃんがファントムだったりしてな。ホントよく似てるしなぁ」
「ちょっ、悪い冗談はやめてくださいよ」
 思わずギョッとして振り向くと、岩松はニッと白い歯を見せる。
「そろそろ予告時間だぞ」
 どことなく面白がるようにそう言い、彼はそばにあったリモコンでテレビをつけた。リポーターの興奮した声がフロアに響く。その場にいた同僚たちも一斉に手を止めて振り向いた。まるで野次馬のように、みんなで談笑しながら怪盗ファントムの登場を待ち構えている。
 テレビのデジタル時計が予告時刻ちょうどを告げた。
 そのとき、ライトアップされた怪盗ファントムの姿が、ブラウン管の大きな画面に映し出された。凛とした佇まい、すらりと長い手足、風になびく軽やかな黒髪——顔は仮面で隠されているものの、確かに、澪によく似ていると認めざるを得ない。
 誠一は小さく溜息をついた。嫌な思考を頭にこびりつかせたまま、音を立てないように立ち上がると、扉を開けて空調のない廊下に足を進めた。冷たい壁にもたれかかりながら、携帯電話を取り出して澪にかける。
 トゥルルルル、トゥルルルル——。
 何度か呼び出し音が鳴ったあと、留守番電話センターに繋がり、感情のない女性の声が流れてきた。誠一はゆっくりと電話を切る。別に繋がらなくても不思議ではない。ただ、自分の欲した安心が手に入れられなかっただけのこと。そう思いながらも、指先には知らぬうちに力がこもっていた。
「事件だ、現場へ向かえ!」
 扉越しに聞こえた、緊迫感の漲る声。
 誠一はハッとして顔を上げる。ガラスの向こうでは、慌ただしく人が動き始めていた。岩松もすでに刑事の顔になっている。それを見てすっかり現実に引き戻されると、携帯電話を内ポケットにしまいながら、急いで捜査一課のフロアに駆け戻っていった。

「悪かったな、あまり電話もできなくて」
「ううん、お仕事だもん」
 澪は屈託のない笑顔でそう応えると、普段どおり小さな丸テーブルの前に座った。誠一の家ではあるが、すでに何度も遊びに来ているので、まるで自分の家のようにくつろいでいる。誠一はそのまま台所へ向かうと、ガスコンロにヤカンをかけて、マグカップ二つの準備を始めた。
 電話もできないほど忙しかったのは、この一週間、大事件の捜査にかかりきりだったからである。
 テレビで怪盗ファントムを見ていたときに第一報があり、それからは、ほとんど家にも帰ることなく捜査に当たっていた。報道で初動捜査の遅れを大々的に指摘され、長期化するだろうと非難の声も上がっていたため、皆いつも以上に躍起になっていたように思う。その甲斐もあってか、きのう、一週間も経たずに容疑者を逮捕することができたのだ。
「あんなに早く犯人を捕まえちゃうなんてすごいね」
 この逮捕にどれだけ自分が貢献できたかはわからないが、無邪気に感嘆されるとやはり悪い気はしない。その相手が恋人であれば尚のことだ。無意識に頬が緩んでしまうが、同時に少しこそばゆくもあった。
「ファントムの方は全然だけどな」
 照れ隠しにそう言うと、澪は何ともいえない表情を浮かべた。
「そっか、全然……なんだ……」
「すまない、無理を言ったのに」
「ううん、気にしないで」
 彼女はパッと笑顔を作って声を明るくし、胸元で小さく両手を振った。せっかく情報を提供してもらったのだから、良い結果を聞かせてやりたいと思うが、あまりこちらに充てる時間もとれず、意気込んだところで簡単にいくものではない。彼女に気を遣わせてしまったことにも申し訳なく思う。
「やっぱり難しいよね」
「まあな……」
 あれだけで怪盗ファントムを突き止められる可能性はかなり低い。限りなくゼロに近いくらいだ。諦めたわけではないが、それが捜査に当たってみての率直な感触だった。戸棚からティーバッグを取り出しながら、クッションを抱える澪にちらりと横目を流す。
「今のところ、怪しいのは澪なんだよな」
「……えっ?」
「購入者リストに名前が載ってて、怪盗ファントムに近い容姿、って云ったら、澪も十分に当てはまってるだろう? 岩松さんも澪ちゃんじゃないかって言ってるし」
 そう言うと、彼女は大きく息を呑んで凍りついた。てっきり口をとがらせて怒り出すと思っていたので、思いのほか重く受け止められたことに当惑を覚える。彼女を本気で困らせるつもりはなく、軽い気持ちで言ってみただけなのだが——。
「あの、冗談だぞ?」
「えっ……」
 澪の表情が、驚きから怒りへと変化していく。
「もうっ! ひどい!!」
 感情のまま大声で喚き散らすと、膝にのせたクッションにこぶしを振り下ろした。可愛らしい口をきゅっと引き結び、うっすらと涙の溜まった瞳で、迫力があるとは言いがたい睨みをよこす。誠一はほっと息をついて安堵の笑みを浮かべた。
 澪が、怪盗ファントムであるはずがない——。
 久しぶりに彼女と会って、話して、あらためてそう確信した。この素直でまっすぐな子が、犯罪に手を染めるなど考えられない。何より、こうも騙されやすくては、刑事たちの目を欺いて盗みを働くなど、とても出来はしないだろう。疑う方がどうかしているのだ。
 だが、それはあまりにも安易な結論である。個人的な感情で刑事としての目を曇らせ、ただ自分の信じたいものを信じただけの結果にすぎない。そのことに、このときの誠一はまだ気付いていなかった。

 ヤカンがカタカタと揺れ、シューシューと白い煙を吐き始めた。
 誠一はガスコンロの火を止めると、ティーバッグを入れたマグカップに熱湯を注ぐ。そのとき、居間の丸テーブル前で座っていた澪は、唸る携帯電話をハンドバッグから取り出し、ディスプレイで相手を確認してからその電話に出た。
「はい、師匠?」
 師匠というのは、橘財閥会長秘書をしている楠悠人のことだ。澪たち兄妹にとっては、保護者代理であり、武術の師匠でもあるらしい。それだけでなく、澪のことが好きで結婚を望んでいるとも——誠一はヤカンを握りしめたまま、ティーバッグの沈んだ紅茶に視線を落とした。
「えっと、少しなら……」
 澪は、誠一の方を気にしながらも、電話の向こうの彼にそう答えた。
「三者面談? あ、はい……はい……私はいいですけど、師匠は忙しいのに……うん……」
 三者面談というのは、教師、生徒、保護者の三者で行う進路関係の面談だろう。疑っていたわけではないが、このことで彼が保護者代理なのだとようやく実感する。誠一はヤカンをガスコンロに戻し、十分に役目を果たしたティーバッグを取り出して捨てた。そして、湯気の立ち上るマグカップを両手に持って、電話中の澪がいる丸テーブルへと向かう。
「少しは自重してください!」
 澪はほんのりと頬を染めながら、口をとがらせていた。
 誠一はテーブルにマグカップを置くと、彼女のすぐ隣にクッションを引いて腰を下ろす。彼女は少し動揺したようだが、戸惑いの目をよこしただけで、逃げようとも電話を切ろうともしなかった。
『今、どこ?』
 受話器から相手の声が漏れ聞こえる。澪は困惑ぎみに眉を寄せた。
「友達の家です」
『友達、ね』
 笑いを含んだ意味ありげな声音。答えが嘘であることは見透かされているようだ。しかし、澪は謝るどころか、逆にムッとして反発心を露わにする。
「いけませんか」
『いけなくはないよ。春までは待つ約束だからね』
 待つ? いったい何を——誠一が疑問に思いつつ隣を窺うと、彼女は携帯電話を耳に当てたまま、暗く表情を沈ませていた。何かはわからないが無性に嫌な予感がする。平静を装って紅茶を口に運びつつ、聴覚に全神経を集中させた。
『あまり遅くならないうちに帰ってこいよ』
「わかっています」
 いかにも保護者然とした悠人の発言に、澪はやや反抗的な声色で答えると、すぐに通話を切ってハンドバッグに押し込んだ。そのまま下を向いて固まっていた彼女の前に、誠一はもう一つのマグカップを差し出して尋ねる。
「楠さん?」
「うん……」
 澪はマグカップに手を伸ばしながら、小さな声を落とす。
「一緒に住んでるのか?」
「そうだけど……」
「大丈夫なのか?」
 彼女に気のある男が同じ屋根の下で暮らしているとなれば、心配するのは恋人として当然のことだろう。澪には武術の心得があるため、並みの男ならまだ懸念は少ないが、悪いことに相手はその武術の師匠なのだ。もし彼に変な気でも起こされたら、逃れるのは難しいのではないかと思う。しかし、澪は心底意外だとばかりに目をぱちくりさせ、慌てて両手をふるふると振りながら答える。
「一緒の家だけど部屋は別々だし、全然大丈夫だから! 小さいときからずっと一緒に住んでるんだもん。今さらそんな……ていうか、無理やりどうこうする人じゃないよ……」
「ならいいんだけど」
 今のところ危険な事態には至っていないようだが、今後もそうだという保証はどこにもない。彼女が彼のすべてを理解しているとは限らないのだ。だが、それを言ったところで聞き入れてもらえない気がした。もう一度、紅茶を口に運んで、遠くを見やりながら小さく息をつく。
「俺たち、結婚できるのかな」
 ぽつりとそうつぶやくと、隣で紅茶を飲みかけていた澪は、大きく目を見開いてゲホッとむせた。気管に入ったらしく、肩を揺らしながら涙目で咳き込み続ける。誠一は背中をさすって覗き込んだ。
「大丈夫か?」
「う、うん……」
 明らかに動揺した声。彼女はおずおずと上目遣いで誠一を窺う。
「でも、いきなりどうしたの?」
「いきなりでもないだろう。この前、澪のそういう話が出てたし」
 この前というのは、誠一が初めて橘家に連れて行かれたときのことである。澪は何を言いたいのか察したらしく、きまりが悪そうな、困惑したような面持ちで目を伏せた。そんな彼女の頭に、誠一はぽんと軽く手を置いて言う。
「少し、話してもいいか?」
 澪はこくんと頷いた。
 誠一は気持ちを落ち着けるように深く呼吸をし、マグカップに手を掛けると、細波が揺れる紅い水面に視線を落とした。緊張ゆえか気恥ずかしさゆえか、向かい合って話すのが何となく躊躇われ、そのまま彼女に目を向けることなく口を開く。
「澪には結婚なんてまだ現実味のない話だろうけど、俺はもうすぐ30だし、同級生や同期でも結婚した奴らがちらほら出てきてるんだ。親にも何度かそういう話題を振られたりしてな」
「うん……」
 澪はそう相槌を打ちながら、崩していた膝をゆっくりと引き寄せて抱えた。短いプリーツスカートからすらりとした脚が伸びている。真面目な話をしている今の誠一には目の毒だ。無表情のままそっと視線を逃がすと、小さく呼吸をし、落ち着いた口調で慎重に語っていく。
「だから、結婚については否応なく意識させられる。もちろん俺には澪しかいないし、今すぐってわけじゃないけど、いつか澪と結婚できればって……漠然とそんなことを思っていた。けど、そのたびに絶望的な現実がちらつきもした。俺なんかじゃ、澪の家とは到底釣り合わないし、澪の家族に反対されるだろうってな」
 澪は黙って聞いていた。その横顔は長い黒髪に隠されている。
「それが怖くて、最近はなるべく考えないようにしていた。澪はまだ若いからと自分に言い訳をして……要するに逃げてたんだな。澪の置かれた立場を聞かされて、身を引けと言われて、それであらためて気持ちを自覚したよ。俺は誰にも澪を渡したくないって」
 だからといって、どう行動すべきかはまだわからない。ただ、目をそむけることだけはしたくない。
「澪は……どうなんだ?」
「どうって、何が?」
「楠さんでもいいのか?」
 澪は迷うことなく首を横に振った。
「確かに師匠は小さいころの初恋の人だけど、今はそういうのじゃなくて、好きは好きでも家族みたいな感じで……実際ずっと家族みたいに過ごしてきたし……なのに、急にこんな話になって……私……」
 溢れくる感情を押しとどめるように、彼女は声を詰まらせた。それから小さく息をつき言葉を繋ぐ。
「結婚とかまだよくわからないけど、私だって誠一と離れたくないし、ずっとずっと一緒にいたいよ……」
 気持ちは同じだった。
 誠一は左手を伸ばして澪を抱き寄せた。体ごと自分に寄りかからせ、そっと腕の中に閉じ込める。このぬくもりを失いたくない。けれど、彼女の家族が、本当に楠悠人との結婚を望んでいるのだとしたら——。
 不意に、澪が首を伸ばして唇を重ねてきた。
 あたたかく、柔らかく、それでいて存在を訴えかけるような確かな感触。それは彼女の心そのもののようで——誠一の思考は痺れ、次第に何も考えられなくなっていく。ほどなく名残惜しげに唇が離れる。それでも、彼女は息の触れ合う距離でとどまったまま、視線を上げ、濡れた漆黒の瞳をまっすぐ誠一に向けた。
 ドクンと心臓が収縮し、体の芯が燃えたぎるように熱くなる。
 今度は、誠一の方から彼女に唇を重ねていった。ただ触れ合わせるだけでなく、衝動の赴くまま、性急に熱い舌を絡め合う。まだあまり慣れていない彼女が、ぎこちなくも懸命に応えてくれるのが愛おしい。艶やかな黒髪に差し入れた手で、彼女の頭を引き寄せ、さらに口づけを深くしていく。反対の手は、プリーツスカートから覗く太腿を彷徨いだした。指先に感じる素肌にますます情欲を煽られる。しかし、このままなだれ込むわけには——。
「……っ、は……澪……」
「やめ……な、いで……」
 誠一は時間を気にして体を離そうとしたが、彼女の吐息まじりの甘い声で、僅かに残っていた理性をすっかり崩壊させられた。彼女の華奢な体を勢いよくクッションに押し倒し、呼吸ごと唇を貪り、セーターの裾からなめらかな素肌に手を這わせ——そんな何の解決にもならない行為にただ呑み込まれていく。まるで、互いの存在を確かめ合うかのように、互いの不安を紛らわせるかのように。そして、行き詰まるこの状況を、一時でも忘れようとするかのように——。