「こんにちは。澪ちゃん、遥くん」
「あっ、師匠のお父さま……」
澪と遥はいつものように学校から帰るなり呼び出され、そろって剛三の書斎を訪れる。そこには上質なスーツを身につけた中年の男性が立っていた。悠人の父の楠警察庁長官である。後ろでゆったりと手を組み、澪たちを歓迎するかのように満面の笑みを浮かべている。しかし、澪はその笑顔を素直に受け止めることができなかった。
「もしかして、また警察のお仕事ですか?」
警備局公安課の溝端も一緒に来ているので間違いないだろう。怪盗ファントムを黙認してもらう代わりに、要請があれば公安の手助けをする、という取引がなされていることは理解している。ただ、澪としてはやはり気の進む話ではない。そんな心情を察してか、楠長官は申し訳なさそうに苦笑して肩をすくめた。
「そういう約束だからね。依頼内容は君たちにも説明するよ」
「待ってください、私は反対だと言ったはずです!」
剛三の後方に控えていた悠人が、大きく一歩踏み出して声を上げた。楠長官を睨めつけて言葉を継ぐ。
「私と篤史だけで十分です。二人を巻き込む必要はないでしょう」
「家族である以上、二人にも知る権利があろう」
ふいに横から口を挟んだのは剛三だった。さも当然だといわんばかりの顔をして、振り返りもせず執務机で両手を組み合わせている。こういうときの彼は他人の意見に耳を貸さない。それでも悠人は素直に引き下がろうとしなかった。
「大人には子供を守る義務があります」
「二人とも、もう十分に分別のつく年齢だ」
「しかし、未成年には違いありません」
表面上はあくまでも理性的に応じているが、言葉の端々に隠しきれない反抗心が滲んでおり、実際にはかなり焦っているだろうことが窺える。その表情もずいぶん張り詰めているように感じられた。
「悠人……おまえは、澪ちゃんや遥くんを信じておらんのか」
今度は、楠長官が呆れたように溜息まじりの声を落とす。長官ではなく父親としての言葉であることは、近しい人間を諭すようなその口調からも窺える。しかし、悠人は態度を硬化させる一方だった。
「私はただ二人を傷つけたくないだけです」
「真実を隠された方が傷つくのではないか?」
「あんな真実は聞かせられません」
一歩たりとも引かず毅然と言い放ち、楠長官を刺すように鋭く見据えた。その双眸には燃えるような怒りが滾っている。しかし、楠長官は顔色ひとつ変えることなく悠然と構えていた。
「二人のため、ね……」
冷ややかに目を細め、何か含みのありそうなつぶやきを落とす。悠人はムッとして眉を吊り上げた。だが、楠長官も負けじと強く睨み返す。互いに無言のまま、物言いたげな視線だけを激しくぶつけ合っていた。
「あのさ」
緊迫した空気に、遥が苛立った声で切り込んだ。
「何のことだかよくわからないけど、家族の問題っていうなら僕だって当事者だよ。当事者を置き去りにして勝手に決めないでくれる? 僕としては、こんな中途半端に聞かされて終わりっていうんじゃ承服できない」
彼の言い分には、同じ立場である澪も全面的に同意だった。首を縦に振ることで悠人に訴えかける。そこまでして隠したい真実とは何なのか——自分たち家族の問題であるならなおさら、教えないと言われても納得できるものではない。
悠人は一筋の汗を伝わせ、追いつめられたように硬い表情で目を伏せた。
澪たちは、書斎の隅にある打ち合わせ机に移動した。
席に着いているのは、怪盗ファントムの面々と公安課の溝端である。楠長官は予定があるとかで溝端に説明を任せて帰って行った。悠人は暗澹とした表情で下を向いている。いつも調子のいいことばかり言っている篤史も、気のせいかどこか滅入っているように見えた。普段と変わらないのは剛三くらいだろう。
「ご覧ください」
そう言って、溝端は一枚の写真を机の中央に置いた。そこには白い外観の建物が写っている。
「お母さまの研究所、ですね」
澪の胸にふいと嫌な予感が湧き上がる。表沙汰にはなっていないものの、この研究所には不正な資金提供を受けていたという過去がある。その件はすでに片付いているはずだが、他にも何か、というのは十二分に考えられる話だ。
「ここで、違法な実験が行われている疑いがあります」
予感は的中していた。顔をこわばらせる澪の向かいで、溝端は無表情のまま言い添える。
「違法というには些か微妙なのですが……」
「もったいつけてないで、はっきり言ってよ」
遥も冷静ではいられないようだ。ピリピリと神経をとがらせながら、なかなか核心に触れない溝端をせっつく。それでも彼は無表情を崩すことなく、ちらりと遥を一瞥して言葉を落とす。
「子供を使った人体実験」
「…………えっ?」
「すでに、何人も死なせているようです」
「う、そ……」
澪の鼓動はドクドクと早鐘のように打っていた。何かの悪い冗談だと思いたかったが、悠人も篤史も、澪たちの視線から逃れるように、沈痛な面持ちでうつむいている。とても演技には見えない。
溝端は、ケースファイルから紙束を取り出した。
「これが秘密裏に入手した実験の記録です」
どうやら手書きの原本をコピーしたもののようだ。何かの数値や観察記録らしきものが走り書きされており、そこに貼られている少年少女の写真は、いずれも金髪碧眼などの日本人らしからぬ特徴を備えている。筆跡は母親のものによく似ていた。紙をめくっていくと、ところどころに書かれた『死亡』という文字が目に入る。疑いようのない証拠を突きつけられたようで、澪の背筋にゾクリと冷たいものが走った。
「完全に違法じゃないの? どこが微妙なわけ?」
遥はその紙の何枚かを手に取り、拾い読みしながら尋ねる。
「その実験に使われた子供たちは、姿かたちこそ人間そのものですが、遺伝子的には僅かながら相違があり、人間と定義すべきかは難しいところなのです。なので、橘美咲女史としては動物実験という認識なのかもしれません」
「そんな……」
遺伝子的にはどうだか知らないが、姿はどう見ても人間としか思えない。そんな子供たちを動物扱いして、命に関わる実験に利用するなど、あまりにも残酷な話である。しかも、それを主導したのが自分の母親だなんて——澪は唇を噛みしめる。
「そんな生き物、どこから連れてきたの?」
「それは重大な機密事項です。ご容赦ください」
遥の質問を、溝端は涼しい顔でかわす。
「我々は、研究所や所員たちを罪に問うつもりはありませんし、この事実を公表するつもりもありません。ただ、人道的観点から見過ごすことはできず、あなた方にお願いすることにしました」
そう言うと、視線だけを動かして皆を見渡した。
「現在、幼い少女がひとり、実験体として地下に監禁されていると思われます。あなた方には、研究所に侵入してその少女を救出していただきたい」
「あの……」
澪はおずおずと小さく挙手をする。
「その子を解放するように説得するとかじゃ、ダメなんですか?」
「すでに何度か試みましたが、取り合っていただけませんでした」
溝端は丁寧な口調でさらりと受け流した。机に散らばった実験の記録を掻き集めると、もう用は済んだとばかりに、速やかに枚数を確認してケースファイルにしまう。だが、澪にはまだ話を終わらせる気はなかった。
「私が説得してみます! やらせてください!!」
バンッ、と勢いよく机を叩きつけて立ち上がり、正面の溝端を見つめて懸命に訴えかける。しかし、彼はピクリとも表情を動かさなかった。眼鏡を中指でクイッと押し上げると、切れ長の目で冷ややかな視線を投げかける。
「そうこうしているうちに、助けられる命も助けられなくなります」
「一日だけ、今日一日だけでいいので時間を……」
次第に、澪の声は弱々しく消え入っていく。
溝端の言うように、その間にも囚われの少女は命を失うかもしれない。そうでなくても、苦しみ続けていることには違いないのだ。なのに、自分は身内のことばかり考えていた——机に手をついたまま、首が折れそうなほど深く頭を垂れる。長い黒髪が肩から滑り落ち、まるでカーテンのように視界を遮断した。
「話し合うのは少女を救出してからで良かろう」
剛三は宥めるように穏やかにそう諭した。机の上でゆったりと両手を組み合わせ、付け加える。
「どちらにしても罪には問われないのだからな」
「…………」
澪は崩れるようにパイプ椅子に腰を落とし、顔を両手で覆った。罪に問われないと言われて安堵すると同時に、そんな身勝手な自分を責める気持ちに苛まれる。様々な矛盾した思考が頭の中で渦巻き、こんがらかり、引っ張り合い、ぶつかり合い、次第に何も考えられなくなる。泣けるものなら泣きたい気分だったが、どうして泣きたいのかさえわからなくなっていた。
午前0時をまわる頃、澪たちは研究所に向けて出発した。
車は、悠人が運転していた。篤史は助手席でノートパソコンを膝に広げ、澪と遥は後部座席に並んで座っている。今日は怪盗ファントムとしての仕事でなく、何かに成りすます必要もないので、二人ともジーンズにパーカーとという動きやすい服装をしていた。
「もしかしたらさ」
走行音がやけに大きく聞こえる重苦しい沈黙の中に、遥はぽつりと言葉を落とした。澪がそっと不思議そうな目を向けても、彼は振り向きもせず、緩やかに流れゆく車窓をただじっと眺めている。
「僕らも、人体実験されていたのかもね」
「えっ……?」
澪は短くそう言ったきり絶句した。そして、こぼれんばかりに大きく目を見開く。
「そんな、ありえないよ!!」
思わずカッとして全否定するものの、何の根拠もなく、それ以上のことは何も言えなかった。むしろ彼の言葉に思考が蝕まれていく。幼いころ頻繁に受けていた点滴、そして過剰なまでの健康診断——それが人体実験の一環だとすれば長年の疑問に説明がつく。けれど、どうしても信じたくはない。
「ごめん」
不意の謝罪が耳を掠める。
その声は、いつもの彼らしからぬ頼りのないものだった。隣に目を向けると、膝に置かれたこぶしは固く握りしめられ、うつむいた横顔には仄暗い陰が落ちている。つられるように、澪も力なくうなだれて表情を曇らせた。
ほとんど街灯のない道路の先に、赤信号が鮮烈に輝く。
悠人は滑り込むように車を停止させた。ハンドルを握る手に力を込め、まっすぐ前方を見据えたまま口を開く。
「二人とも無理はするな。今から降りても構わない……すべての責任は、僕が取る」
強い決意を感じさせる声。
彼は、軽い気持ちでこんなことを言う人間ではない。具体的にどう責任を取るのかはわからないが、剛三や警察に楯突く覚悟で、澪と遥のことを守ろうとしているのだろう。その思いはとても嬉しかった。けれど——。
「やらせてよ。他人事じゃないんだから」
「私も、遥と同じ気持ちです」
つらくないわけではないが、逃げても後悔するだけである。本当に両親がそのような蛮行に手を染めているのなら、せめて、家族である自分たちが止めなければならない。澪は意を決すると、隣の遥と視線を合わせて小さく頷き合った。
切り立った海沿いの道路を上りきったところで、悠人は車を停めた。
ここから森側へ分岐する細道を進んでいくと、美咲の研究所にたどり着く。正面には小さいながらも駐車場があり、そこまでは車で乗り付けられるが、音で気付かれる可能性があるため、ここから徒歩で向かうことになっていた。
「今日は短時間決戦だ」
篤史は膝上のノートパソコンに目を落とすと、少女救出計画の最終確認を始めた。
澪は若干の緊張を感じて背筋を伸ばし、真剣に耳を傾ける。
「今回は正体を隠す必要はないから、このまま強引に突入して救出する。もともと警備員は雇われていないし、他の所員が帰ったことは確認した。今、研究所の中にいるのは美咲さんと大地さんだけだ。おまえたちなら難しくはないだろう。ただし気は抜くなよ。家族だけに、なおさらどう出るか予想がつかねぇからな」
「わかってる」
遥がぶっきらぼうなのは今に始まったことではない。だが、今日はいつもと違って余裕が感じられなかった。僅かながら苛立ちさえ窺える。篤史は肩越しに物言いたげな視線を送るが、そのことには触れず、本題に関することだけを淡々と口に上していく。
「合図をしたら、通常の電気系統と非常電源をすべて遮断する。しばらく復旧することはないはずだ。その間に、入り口の二重扉を爆破して侵入してくれ」
入り口の扉には複数の高度なセキュリティが施されている。おそらく篤史でも容易には破れないだろう。だからといって爆破はやりすぎのように思えるが、対案を出せない以上、おとなしくその計画に従うより他にない。
「内部はおまえらの方が詳しいだろうが、念のため確認しておく」
そう言うと、篤史は後部座席の方へ身を乗り出し、二人に紙の見取り図を差し出した。澪はそれを受け取り、小さな懐中電灯で照らしながら遥と一緒に覗き込む。
「赤で印をつけたところが地下へ続く階段だ。そこの扉は玄関ほど頑丈じゃないから、鍵さえ壊せば簡単に開くと思う。あとは、その中にいる少女を保護して戻ってくるだけでいい」
「地下室のことは何もわからないの?」
遥のその疑問は、澪も少し不思議に思っていたことだった。これまでの仕事では、内部についても詳しく説明があったし、行動についても事細かに指示があった。けれど、今回は『突入して救出する』という大雑把な命令だけである。
篤史は片眉をしかめて答える。
「当初はただの物置だったところを改装したらしいが、残念ながら改装を手がけた業者は見つけられなかった。だから現在どうなっているかはわからない。ただ、それほど広い場所ではないだろうし、少女がいればすぐに見つかると思う」
「了解」
遥が真面目に答えたその隣で、澪も頷いた。作戦自体は単純で難しくなさそうだが、それを遂行する意味はとても大きい。必ず成功させなければならない。弱気になりそうな自分を奮い立たせるように、膝の上で重ねた手をぎゅっと握りしめた。
照明灯の光を受けた研究所が、鬱蒼とした中にぼんやりと白く浮かび上がる。
その入り口の扉に、遥は音を立てないよう気をつけながら、少し重みのある黒い小箱を貼り付けた。澪の待機するところまで小走りで戻ってくると、壁を背にしてヘッドセットのマイクを口もとに寄せる。
「こちらは準備完了」
『了解。じゃあ電気を落とすぜ』
イヤホンから、別場所で作業する篤史の声が聞こえた。
『いくぞ……5秒前、4、3、2、1、0』
カウントダウンが終わると同時に、研究所周辺の照明灯がいっせいに消え、あたりはすっと闇に呑み込まれた。それでも、近い範囲ならば月明かりで視認できる。遥は動じることなく、右手に持っていたリモコンのスイッチを押した。
——バアァン!!
強烈な目映い光が弾け、耳をつんざくような爆音が起こった。
爆弾を仕掛けた扉からは十分に離れていたはずだが、爆風で大きく黒髪が舞い上がり、壁からも地面からもかなりの震動が伝わってきた。薄灰色の煙が、闇夜にもくもくと上がっていく。
「行くよ!」
「うん!」
澪は気合いを入れると、先に飛び出した遥を追って駆け出した。頬を打つ風は刺すように冷たかったが、それに構う余裕もないくらい、これからのことで頭がいっぱいになっていた。
「っ……」
ビニルが溶けたような、薬品臭いような、焦げ臭いような、どこか煤けたような、何とも形容しがたい不快な匂いがあたりに漂っていた。澪は不覚にも思いきり吸い込んでしまい、咽せそうになりながら、顔をゆがめて口もとを大きく手で覆う。
しかし、目的は達せられたようだ。
爆弾を仕掛けた金属製の扉は、ぐにゃりと大きくひしゃげていた。遥はその開いた部分をくぐって中に入り、澪もあとに続く。そこには僅かな光さえなく、言葉どおり一寸先も見えない闇である。澪はポケットから細身の懐中電灯を取り出し、スイッチを入れた。
「澪、こっちを照らして」
「あ、うん」
声のした方に懐中電灯を向ける。
そこには、先ほどと同じくらい頑丈そうな扉があった。遥は手早くもうひとつの爆弾を取り付けると、澪とともに屋外に出て、今度はすぐにリモコンのスイッチを押した。内部で轟くような爆発が起こり、扉の隙間から煤けた煙が立ち上る。二人はそれが落ち着くのを待って戻ると、同じようにひしゃげた二番目の扉をくぐり、そろりと研究所内部に侵入した。
澪は懐中電灯で目的の方向を照らす。
見る限り、その廊下には誰もいないようだった。予告なくあたりが暗闇に覆われれば、部屋を出るのも簡単ではないだろう。それでも気を抜くことなく、遥とともに慎重に進んでいく。幼い頃から何度も行き来した廊下だが、照明がないだけで、何か知らないところのように感じられた。
やがて、地下へ続く階段に辿り着いた。
狭い階段だが、二人は手を取り合い一段ずつ降りていく。その行き当たりに扉があった。一応ドアノブをまわして確認してみるが、やはり鍵がかかっている。遥は、先ほどよりだいぶ小さな箱を、鍵の付近に貼り付けてセットした。
——バンッ!
階段の上に退避してからスイッチを押すと、短めの爆発音がした。ちょうどうまく鍵の部分だけ壊れたように見える。澪は近くで確認しようと先に階段を下り始めた。そのとき——。
「何者だ?!」
ぎこちなく廊下を駆ける足音とともに、緊迫した鋭い声が聞こえる。大地だ。階段の前に立つ遥の影に迷うことなく飛びかかっていく。遥はすんでのところでそれをかわした。が、大地の追撃は容赦なく、今度はしっかりと脇腹に蹴りが直撃した。
「うっ……」
「遥っ!!」
澪はよろけてうずくまる遥に懐中電灯を向け、階段を駆け上がった。
「えっ、澪? 遥?!」
懐中電灯に照らされた二人の姿を目にし、大地は大きな動揺を見せた。その隙を逃さず遥は素早く飛びかかると、うつぶせに押し倒し、半乗りになって体を押さえつける。両腕も背中側で拘束していた。
「父さんや母さんを罪には問わない。実験に使っている女の子を救出するだけ」
そう説明すると、大地の体から力が抜けたように見えた。
「公安か?」
「そうだよ」
大地もかつて怪盗ファントムとして活動していた。当時も、今と同じように公安と取引をしていたのだろう。そのあたりの事情は説明するまでもないようだ。
「母さんは?」
「逃がした」
「どこに?」
「さあね……」
もはや子供たちを実験に使っていた事実は疑いようもない。澪は顔をこわばらせた。すでに覚悟はしていたつもりだが、父親のそういう言動を目の当たりにすると、冷たい手で心臓を鷲掴みにされたように感じる。
「澪、中を見てきて」
「あ、うん」
大地を押さえつけたままの遥に言われて、澪はひとりで階段を降りていく。鍵の壊された扉は簡単に開いた。懐中電灯で中を照らしながら、おそるおそる足を踏み入れる。床には絨毯が敷かれていた。近くには戸棚と机があり、右奥には扉らしきものが見える。
ジャラ……。
不意に聞こえた金属音にビクリとする。息を詰めて、音のした方に懐中電灯を向けた。
「きゃあっ!」
耳をつんざく可愛らしい悲鳴。
そこにいたのは、まだ小さくあどけない少女だった。薄地の白いワンピースを身につけ、パイプベッドの上に座り、怯えた表情で腕をかざしている。反対側の手首には鎖のついた手枷が嵌められていた。そして、緩やかなウェーブを描く灰赤色の長髪に、それより少し濃い色の瞳——やはり、溝端に見せられた資料と同様、日本人らしからぬ特徴を備えている。
澪は近くに駆け寄った。
パイプベッドに繋がれた鎖を外そうと、力任せに引っ張ってみるがビクともしない。手首の方に鍵穴らしきものがあったので、鍵がないかあたりを探してみるが、机の上にも、机の中にも、戸棚の中にも見つけることができなかった。
少女のいたいけな体は小刻みに震え、表情は凍りついている。
こんなところに閉じ込められて、拘束されて、実験台になって——どれほどの恐怖だったかを考えると胸がズクリと痛む。早く助け出してあげたい。澪は焦りを感じつつ、少女を置いていったん地下室から飛び出し、階上にいるはずの遥に向かって叫んだ。
「女の子いたよ! でも、鎖でベッドに繋がれてて動かせない!」
「わかった。師匠に指示を仰いでくるから、澪はそこで待ってて」
研究所の中には電波が届かないので、トランシーバーを使うには屋外に出るしかない。それは、あらかじめ篤史から言われていたことである。
「父さんも来て。話を聞きたいから」
「今さら逃げるつもりはないよ」
遥は拘束を解き、手を差し伸べて大地を立ち上がらせた。そして、まるで連行するかのように、しっかりと腕を引いて入り口の方へ向かっていく。二人の姿はすぐに闇に呑まれて見えなくなった。
澪は地下室に戻った。
懐中電灯を少女の顔に向けないよう気をつけながら、足音を忍ばせて近づいていく。よく見ると、ベッドにはふかふかの布団が敷かれており、着ているワンピースもまだ新しくきれいなものである。薄地ではあったが、部屋には暖房が利いているので、それ一枚きりでも十分快適に過ごせるだろう。手枷で拘束されていることを除けば、待遇はさほど悪くない印象を受ける。だからといって、決して許されるわけではないのだが——。
今度はベッドのまわりに目を向ける。
すぐ隣にはスチール机があった。その上には、少女の写真と書類が整然と重ねられていた。剛三の書斎で見せられたものと同様、実験の記録か何かのようだ。食事内容や起床時間、就寝時間、身長体重などに加え、何かの専門的な計測結果らしきものも書かれている。澪は無意識に眉を寄せた。
「大丈夫、きっと助けてあげるからね」
少女の前で腰を屈めて目線を合わせると、優しくそう言い、ニコッと安心させるように微笑みかける。
しかし、紅い瞳は小さく震えたままだった。
「ミサキ……どこ……?」
「えっ?」
可愛らしい声でたどたどしく紡がれた言葉は、紛れもなく母親の名前である。実験を行っている研究者と被験者なのだから、面識はあるだろうが、名前を呼ぶような関係だとは思いもしなかった。
「ミサキ……こわい、たすけて……」
少女の声は、次第に涙まじりになっていった。瞳もみるみるうちに潤んでくる。ジャラ、と鎖の音をさせながら、濡れた目元を幼い手のひらで何度も擦り上げた。
澪は息を詰める。
少女には実験に利用されている自覚がないのだろうか。たとえそうであっても、この状況が異常なことくらいわかりそうなものだ。いや、拘束した張本人が美咲だと知らないだけかもしれない。いったい美咲はどのようにして少女の信頼を得たのだろうか。そもそもどのような実験を施していたのだろうか。
バチッ——!!
考え込んでいた澪の背中に、突然の衝撃が駆け抜けた。声にならない悲鳴を上げる。よろけて崩れ落ちそうになりながら、背後に振り向こうとすると、再び同じ箇所に焼けるような激痛が走った。
「ぐっ……」
こらえきれず、懐中電灯を握ったまま絨毯に倒れ込む。
「どう、し……て……」
薄れゆく意識の中で最後に見たものは、無表情で自分を見下ろす、手にスタンガンを持った母親の姿だった。いったい何が起こっているのか、このときの澪にはまだ理解することができなかった。
「おいっ!」
「ん……」
「目を開けろ!!」
体を動かそうとすると背中がズキリと痛んだ。瞼を震わせながらゆっくりと目を開く。澪を覗き込んで切羽詰まった声を上げていたのは、フルフェイスのヘルメットをかぶった男だった。シールド部分が上げられて端整な目元が覗いている。それだけで、澪にはこの男が誰なのか認識できた。
「バイク男……?」
「この子はどこにいる?!」
まだ薄目しか開けずぼんやりとしている澪に、一枚の写真を突きつけて詰問する。それは、ここに監禁されていた少女の顔写真だった。少しずつではあるが記憶がよみがえってくる。スチール机に置かれた写真と記録、小さな少女の怯えた表情、父親の諦めたような態度、自分たちがここへ来た目的、そして、ひとりここで倒れていた理由——ハッとして、弾かれたように絨毯敷きの床から飛び起きる。
ベッドの上に少女の姿はなかった。開かれた手枷だけが残っている。
「お母さま……」
姿は一瞬しか見ていないが、あれは間違いなく母親の美咲である。スタンガンを使ってまでどうして——いまだに背中が痛むのを感じながら、ゆっくりと目を伏せて考え込む。が、バイク男は容赦なく肩を掴んで詰め寄ってきた。
「橘美咲が連れて行ったんだな?!」
「た、多分……ていうか、あなた何なの?」
澪は戸惑いがちに眉をひそめて疑問をぶつける。しかし、彼の耳に届いているのかさえわからない。こちらの質問には答えようともせず、掴んだ澪の肩を揺さぶりながら、怖いくらいの勢いで続けて問いただす。
「橘美咲はどこへ行った?! 答えろっ!!」
「そんなの、私が聞きたいよ……」
悄然とした気持ちが声に表れる。バイク男はギリと奥歯を食いしばった。
「来い!!」
「あっ」
抵抗する間もなく、澪の両手首に金属製の手錠が掛けられた。そのまま腕を鷲掴みにされ、乱暴に連れ出される。引きずられるように歩く間、澪は手錠を千切ろうと力任せに引っ張ってみるが、ガシャガシャとうるさい音を立てるだけでビクともしない。逆に、手首の方が壊れてしまいそうだ。
——そうだ、師匠に連絡すれば……!
そうひらめいたものの、直後に不可能だと悟る。自分のヘッドセットがなくなっていたのだ。おそらく、悠人たちの動きを把握するために、美咲が奪っていったのだろう。澪の顔に浮かぶ不安の色はいっそう濃くなった。
ひしゃげた扉を二つくぐって、二人は外に出る。
バイク男は神経質にあたりを覗っていた。もちろん澪の腕は掴んだままである。ふりほどいて逃げることも考えたが、どう考えても上手くいきそうもない。彼の身体能力や武術の実力は、悠人と同等かそれ以上なのだから。だからといって、おとなしく連行されるわけにもいかない。
どうにかしなきゃ——。
正面階段の先にある駐車場に目を向けると、そこに遥と大地が立っているのが見えた。澪のいるところからは距離がある。それでも声を届かせるだけの自信はあった。悟られないようにそっと息を吸い込み、渾身の声を張り上げて助けを求める。
「遥っ! お父さまっ!!」
「ばっ……!!」
バイク男は慌てて澪の口を塞いだ。だが、もう遅い。遥と大地がこちらに振り向いた。
「澪?!」
「動くな!」
口を覆っていた大きな手が外され、代わりに、頭に硬いものが押しつけられた。拳銃だ。階段を駆け上がろうとしていた二人の足が止まり、顔から一気に血の気が引いた。彼らに見せつけるように、バイク男はもう一度グリッと拳銃を押しつけ直す。
「橘美咲はどこへ行った? あの子をどこへ連れて行った?!」
澪に尋ねたときと同じ語気で問いただす。しかし、遥は怪訝な顔になり小首を傾げた。
「どういうこと?」
「お母さまが私を気絶させて女の子を連れ去ったの!」
澪は一息に説明する。
遥は大きく目を見開き、そして咎めるように隣の父親を睨みつけた。だが、大地は自嘲めいた笑みを浮かべるだけである。それがどういう意味なのかはわからなかったが、彼が美咲のために嘘をついたことは間違いなさそうだ。
「師匠」
遥はヘッドセットのマイクを引き寄せて話し始める。
「母さんは澪を気絶させたうえ、女の子を連れて逃走したらしい……そうだと思う……今バイク男に捕まってて、僕たちの目の前にいる……そう……僕にもわからない……了解」
「師匠ってあいつか」
神社での対峙を思い出したのか、バイク男は忌々しげに吐き捨てた。今一度あたりを確認すると、澪に銃を突きつけたまま腰を抱き寄せて階段を下り、茂みの方へじりじりと後ろ向きに足を進めていく。
「ど……どこへ行くの?」
「黙ってろ」
澪の質問は、凄みのある低音で撥ねつけられた。その間、遥と大地は顔を寄せて何かを話し合っていたが、やがて澪たちの方へ向き直ると、今にも飛び出さんばかりに重心を落として身構えた。
「澪! リボルバー!」
澪はその声にハッとする。即座に、突きつけられていた拳銃のリボルバーを握り、捻り上げるように銃口を空に向けさせた。手錠のままの反撃が予想外だったのか、バイク男はひどく慌てふためいている。その隙に、遥と大地はそろってバイク男に突進していった。
「くそっ!」
バイク男は焦燥を露わにしてそう言うと、澪と揉み合ったまま、気持ちを落ち着けるように深呼吸する。瞬間、二人はうっすらと青白い光に包まれた。
「?!」
遥と大地の足が止まる。得体の知れない現象を目の当たりにして、当惑と恐怖の入り混じった表情を浮かべた。しかし、互いに顔を見合わせて小さく頷くと、再び駆け出し、左右に分かれて挟み打ちにかかる。すると——。
バァン——!!
バイク男から放射状に強烈な白い光が走り、飛びかかる寸前だった遥と大地を一瞬で弾き飛ばした。二人は受け身をとりながらアスファルトに叩きつけられ、勢いよく転がっていく。
澪は息を詰めた。何が起こったのか理解できない。
バイク男は疲れたように吐息を落としながら、力の抜けた澪から拳銃を抜き取り、ブルゾン内側のホルダーにしまった。そして、澪の体を素早く肩に担ぎ上げると、がっちりと太腿を抱え込んで走り出す。
「ちょっ、下ろしてっ!!」
「暴れたら殺すぞ!」
広い背中を叩きながら抗議していた澪は、物騒な脅しに息を呑み、凍りついたようにすべての動きを止める。本当に殺しかねないその迫力に、おとなしくするより他になかった。男が森を駆ける間、ずっと上半身逆さで担がれたまま揺さぶられ、次第に頭に血が上ってぼうっとしてくる。
「待てっ!」
喉の奥から絞り出したような苦しげな声。
顔を上げると、息を荒くして追ってくる大地と遥が見えた。時折、肩や腕を押さえて顔を歪めている。打ちつけられた痛みはまだ残っているようだが、それでも二人は速く、澪たちとの距離は少しずつ確実に縮まりつつあった。
バイク男は舌打ちする。
それでも、澪を放り出そうとはしなかった。肩に担いだまま軽やかに振り返ると、追跡者に手のひらを突き出し、そこから大きな白い光球を打ち放つ。二人は避ける間もなく弾き飛ばされた。
「遥っ! お父さま!!」
澪は有らん限りの声で叫んだ。
けれど、彼らは苦悶の呻きを上げるだけで、体を起こすことすらできない。それどころか、澪の呼びかけに答えることさえなかった。彼らの声を聞けないまま、その姿は次第に闇に紛れて見えなくなった。
澪を荷物のように担いだまま、男は森を抜け、アスファルトの上に飛び出した。
そこは、研究所へ行くときにいつも通る、切り立った海沿いを走る道路だった。もともとあまり通行量の多くないところで、深夜ともなればほとんど車は通らない。あたりは不気味に静まりかえり、せいぜい木々の葉擦れや単調な波音が聞こえるくらいである。
近くの茂みに、大型バイクが停められていた。
その後部座席に澪を下ろすと、男は肩で大きく息をした。フルフェイスの開いた部分には玉のような汗が浮かび、長めの前髪からは雫がぽたぽたと滴り落ちる。表情にも疲労が色濃く滲んでいた。
「あなた……いったい何者なの?」
澪は眉をしかめて低い声でそう尋ねる。
だが男は何も答えなかった。無表情で前の座席に跨がり、振り返る。
「逃げるなよ」
そう牽制すると、小さな鍵で澪にかけた手錠を片方だけ外し、その手を両側から自らの体にまわしたあと、再び元通り手錠を掛けて拘束する。あっというまの出来事だった。澪は男に後ろから抱きつくような格好になっている。彼から離れることは物理的に不可能な状態だ。
「ちょっ、なによこれ!」
「落ちたくなければしっかり掴まってろ」
バイクのエンジンが唸った。
ハンドルを握って前傾姿勢になった男に引っ張られ、澪は為すすべなく広い背中に寄りかかった。その悔しさに歯噛みする。しかし、彼は無慈悲にもエンジンを吹かして走り出した。知ってか知らずか、悠人の車がある場所とは反対方面へ向かって——。
「どこへ連れて行くの? 私をどうするつもり?!」
「うるさい! 黙ってろ!!」
凍てつく風を切りながら、二人を乗せたバイクが海沿いの道路を疾走する。ヘルメットをかぶっていない長髪は、大きく吹き流されて舞い乱れ、月明かりを受けてきらきらと煌めく。
澪の不安はますます募った。
もう追っ手は振り切ったのだから、ひとりの方がよほど身軽で逃げやすいはずだ。逃げるための人質ではなく、別の目的があるのだろうか。どちらにしろ、こんな得体の知れない男と一緒にいたら、どうなるかわかったものではない。
——それなら、イチかバチか……。
監禁でもされてしまっては完全に手遅れになる。辛うじてではあるが、逃げられる可能性があるのは今だけだろう。迷っている場合ではない。澪は緊張で鼓動が速くなるのを感じながら、そろりと足を座席に引き上げて腰を浮かし、後部座席でしゃがむような格好になった。不安定な足場で、息を詰めて必死にバランスを取る。
「おい、何やってんだ! 座ってろ!!」
ひどく慌てた声だが、それでも男はバイクを止めようとしない。
澪はそっと目を閉じて息を整える。そして、決死の覚悟でありったけの勢いをつけて立ち上がると、手錠で繋がれたままの両手を、下方から彼の上腕部に叩きつけるように引き上げた。うわっ、という短い声とともに、彼の手は目論見どおりハンドルから離れる。このまま腕を引き抜けば自由になれると思った。しかし、当然のようにバイクはコントロールを失い——。
ドゴンッ!!
前輪が白いガードレールの支柱に激突した。その勢いで、二人は大きく放物線を描きながら向こう側に投げ出される。バイクも一回転してガードレールを乗り越え、崖にぶつかりながら転がり落ちていく。
下は黒い海だった。
二人の体は絡まり合ったまま、その海に吸い込まれるように落下していった。海面は小さなしぶきを上げただけで、何事もなかったかのように、再びゆったりと黒い波を打ち始める。辛うじて残された痕跡は、歪んだガードレールと道路についたタイヤ痕だけだった。