東京ラビリンス

第22話 人質

「ん……」
 顔を掠める空気は刺すように冷たいが、背中にはほんのりと温もりを感じる。あたりに漂っているのは草木の湿った匂いだろうか。そこには僅かなカビ臭さも混じっており、無意識に顔をしかめるものの、同時にどこか懐かしいような気持ちも湧き上がる。
 澪は、ぼんやりと目を開いた。
 錆びて崩れかかったドラム缶、乱雑に積まれた藁、無造作に放置されたシャベルや布きれ、塗装が剥げて変色したトタン板、腐蝕しかけた金属製のバケツ、薄汚れたガラス窓、その高窓から降りそそぐ月明かり。どうやら、ほとんど廃屋といってもいい物置小屋か何かのようだ。そして、自分は——。
「動くな!」
 耳をつんざく鋭い声に、澪はビクリと身をすくませる。
「せっかく温まった空気が逃げる」
「あ……」
 澪と男は薄汚れた一枚の毛布にくるまっていた。その毛布以外は、おそらく二人とも何も身につけていない。澪は男の膝の上で抱きかかえられていたが、密着している部分は間違いなく双方とも素肌である。
 ただひとつ、澪には手錠が嵌められている。
 その感触と痛みで、何があったのか記憶がよみがえってきた。研究所からこの男に連れ去られる途中、澪が逃げ出そうとしたことで、二人一緒にバイクごと真冬の海へ転落したのだ。それ以降のことは何も覚えていない。
「おまえ、心中でもする気だったのかよ」
「……私は、ただ逃げようとしただけ」
「バカが、結果を考えてから行動しろ」
「そっちこそ!」
 澪はカッとして後ろに振り返った。瞬間、大きく目を見張って凍りつく。
「それが、本当の色……?」
「ああ、カラコン流れちまったのか」
 至近距離で自分に向けられていたのは、まるでサファイヤのような鮮やかな青の瞳だった。高窓からの月明かりを浴びて、神秘的に、不気味に、怖いくらいの鮮烈な輝きを放っている。碧眼などそうめずらしいわけでもないのに、なぜだか身の毛がよだつほどゾクリとさせられた。
「あなた、いったい何者なの?」
「答える義務も義理もない」
「あの女の子と同じで、人間じゃない……?」
 澪は一方的に憶測を投げかける。不思議な力を使うことから考えても、女の子を知っていたことから考えても、おそらく間違いないような気がした。しかし、男は露骨にムッとして眉根を寄せた。
「それはおまえらの言い分だ」
「えっ?」
「正確なことは俺にもわからないが、もともと同じ人間だったのは事実だ。おそらく、環境の違いにより別々の進化をたどった、というところだろう。俺らの側から言わせれば、おまえらが人間じゃないとも言える」
 澪はハッと小さく息を呑み、目を伏せた。
「……ごめんなさい」
「俺も感情的になった」
 男は気持ちを整えるように呼吸をすると、静かな口調で話を続ける。
「たとえ双方にゲノムの違いがあったとしても、本質的な部分では何ら変わるところはない。外見にも特徴的な相違はない。どちらも紛れもなく『人間』といえる。それが、この国で何年か暮らしてきた中で得た結論だ」
「でも、手から光みたいなのを出してたのは、その遺伝子の違いによるものだよね?」
 澪が尋ねると、男は急に怪訝な顔になった。
「おまえは使えないのか?」
「あんなこと出来るわけないよ」
 自分たちの中には出来る人など誰ひとりいないはずだ。何年もこちらにいながら知らなかったのだろうか、と澪は不思議に思う。それに、もし澪にあのようなことが出来るのならば、とっくにその力を使って反撃していただろう。こんなところまでむざむざと連れて来られはしなかった。
 彼の眉間に、ふと深い皺が刻まれる。
「力はあるんだがな」
「え、どういうこと?」
「ああ……」
 彼は低い声で相槌を打つと、思考を巡らせながら言葉を紡いでいく。
「あれは……俺らは魔導というような呼び方をしてたが、おそらくゲノムの違いには関係ないはずだ。俺らの中でも力のない奴は大勢いたし、こっちの世界でも力を持った奴はいる。おまえたち双子のようにな」
「私と、遥?」
 澪は困惑して眉をひそめ、首を傾げた。
「でも、本当にあんなこと出来ないんだけど……私も、遥も……」
 男が嘘をついているようには見えなかったが、澪ももちろん本当のことしか言っていない。少なくともこれまで一度もやったことはないし、やろうとしたこともない。訓練すれば出来るようになるのだろうか。まるでテレビゲームのような現実味のないことが——。
 男はふと表情を険しくして考え込むと、若干低めの声で切り出す。
「橘美咲が研究していたのは、この力だ」
「えっ……」
「知らなかったのか?」
 そう尋ねられ、澪はうつむいたまま小さく頷く。美咲が何について研究しているのかも、武蔵の不思議な力がそれであることも、自分たちがその力を持っていることも、何ひとつとして知らなかった。もしそれらが真実だとすれば、自ずと一つの推論が導き出される。
 自分たちも、母親に人体実験をされていた——。
 幼い頃から頻繁に研究所に連れて行かれ、健康診断と称して検査や点滴をされていた、という事実を併せて考えると、もはやそう確信せざるを得なかった。澪としては信じたくなかったが、遥の言ったことはやはり間違っていなかったのだ。
「橘美咲の研究は、生体エネルギーに関するものだ」
 男は耳元で語り始めた。
「俺やおまえのように魔導力を持つものであれば、体内で作り出すことができるが、橘美咲はそれを人工的に生み出そうとしている。もし自在に発動させることができれば、おそらく人類最大の兵器となるだろう。原爆と同規模のものも不可能じゃない。それもいっさい汚染のないものだ。すべてを吹き飛ばして更地にしたうえで、すぐ次の目的に利用することもできる。ただ、そのエネルギーに耐えうる器を作ることができていない。器となりうるのは、今のところ、もともとその力を持っている人間だけ——つまり、俺や、あの子や、おまえら双子だ」
 澪の鼓動がドクンと打った。
 男の顔は険しさを増す。
「実験でその原理を解明しようとしているのか、手っ取り早く人間兵器を作ろうとしているのか——どちらにしてもあの子を利用しなければ進められない。あの橘美咲が、そう簡単に手放してはくれないだろうな」

 ザッ、ザッ、ザッ——。
 ふいに、小屋に近づく鈍い足音が耳に届いた。
 背後の男は瞬時に全身を緊張させた。息をひそめながら、澪を抱きかかえる手に力を込め、もう一方の手で澪の口を塞ぐ。鼻まで一緒に覆われてしまったため、澪は次第に息苦しくなりもがき始めるが、彼の大きな手はビクともしない。
「武蔵、おるのか?」
「ああ……入ってきてくれ」
 しゃがれた声を聞くやいなや、男は大きく安堵の息をついてそう答え、ようやく澪の口を覆っていた手を外した。すると、立て付けの悪い扉がギギギと軋みながら開き、地味な作業着姿の老人が小屋に入ってくる。足腰はしっかりしてそうだが、頭髪はほとんど真っ白なうえ、顔には深い皺が刻まれており、剛三よりも幾分か年老いている印象を受けた。
「ほれ、着替えじゃ」
「サンキュ」
 男は邪気のない笑顔で答え、そそくさと一人毛布から抜け出していった。乱雑に地面に落とされたその毛布を、澪は手錠で繋がれたまま大慌てで掻き寄せ、裸の体を隠すべくあたふたと巻き付けていく。恨めしげに口をとがらせ横目を流しても、彼はまるで意に介していないようだ。前を隠すことなく堂々と立ち、老人から大きな手提げの紙袋を受け取っていた。
「ムサシ……って名前?」
「そ、宮本武蔵の武蔵」
 紙袋から取り出した衣類を身につけながら、軽い口調でそう答える。本当のことを知らないときであれば、素直に信じたかもしれないが、今となっては胡散臭いとしか思えない。
「本名じゃないよね」
「世を忍ぶ仮の名だ」
 そんなふざけた言いまわしで答えると、彼は続けてジーンズを穿き、ブルゾンに袖を通し、半乾きの黒い前髪を大きく掻き上げる。
「……髪、染めてる?」
 澪が遠慮がちに尋ねると、武蔵と名乗った男はニヤリとして振り向いた。その意味ありげな視線に耐えかねて、澪はぷいっと顔をそむける。そして、ほんのり染まった頬を膨らませながら、縋るように毛布を掴んで身をすくめた。
「さ、行くか」
「ちょっ、もういいでしょう?!」
 澪は体をよじって精一杯の抵抗を示すが、彼はものともせず、薄汚れた毛布ごとひょいと抱き上げた。
「何のためにわざわざ助けたと思ってんだ。おまえは人質だ」
「せめて服くらい着させて! 私の服はどうしたの?!」
「そうだ、忘れてた」
 武蔵の振り向いた方に、二人の着ていた衣類が無造作に積み上げられていた。まだ濡れているようだ。彼は横抱きにした澪を下ろすことなく片腕を伸ばし、その衣類の山に手のひらを突き出すと、日本語でも英語でもない理解不能な言葉を呟く。すると手のひらから強烈な光球が放たれ、一瞬ですべて燃え尽きたかのように灰と化した。
「ちょ……!」
 抗議は言葉にならなかった。驚きのあまり口を半開きにして唖然とする。武蔵はそんな澪をしっかりと横抱きにしたまま、あたりを警戒しつつ、作業着を身につけた老人とともに早足で小屋をあとにした。

 外はまだ暗く、夜は明けていなかった。
 澪たちのいた小屋は、枯れ木に覆われた小山を少し登ったところにあったようだ。他に建物は見当たらない。不気味なくらいの静寂があたりを包んでいる。草や小枝を踏みしめる音がやけに大きく響いた。
「ねえ、おじいさま」
 隣を歩く老人に、澪はあからさまに媚びるような声をかけた。
「私、橘財閥会長の孫なの」
「ほう」
 興味をひかれたように大きくなる目。脈ありとばかりに、老人の方に首を伸ばして畳みかける。
「ね、どうにかして私を逃がしてくださらない? 無事に逃げられたらきちんとお礼をするわ。私個人でも一千万くらいなら出せるし、祖父に頼めば三億くらいは用意してくれると思うの。孫娘の命の恩人にならそのくらい惜しくないはずよ」
 老人はフッと鼻先で小さく笑った。澪を一瞥し、ゆったりと後ろで手を組み合わせる。
「お嬢ちゃん、ワシは友人を売ったりはせんよ」
「友人? だったら悪事に手を染めるの止めなきゃ!」
「武蔵は何も間違ったことをしておらんだろう」
「うら若き乙女を拐かそうとしてるじゃない!!」
「おまえ、いいかげん黙れ」
 黙って二人の会話を聞いていた武蔵が、うんざりした口調で割り込んできた。呆れたような目つきで、腕に抱く澪をじとりと見下ろしている。確かに、犯人の目の前でこんな交渉をするなど、馬鹿げた行動としか言いようがないだろう。それでもほんの僅かでも可能性があるのなら、どんな無謀なことでも試さずにはいられなかった。
 こうなったら——。
「大声で助けを呼ぼうとか考えるなよ」
 まるで思考を見透かしたかのようなタイミングで、武蔵がそう牽制する。澪はグッと言葉を詰まらせたが、すぐに気持ちを立て直し、まっすぐ強気な視線を送って挑発する。
「私はあなたにとって大切な人質なんでしょう?」
「ああ、おまえには生きててもらわないと困る。だが——」
 武蔵はいったんそこで言葉を切ると、足を止め、凄みのある低音で静かに威嚇する。
「おまえを助けに来た奴は、全員殺す」
「なっ……」
 澪は口を半開きにして固まった。
「悲鳴を上げたら、無関係な人も含めてまわりは皆殺しだ。俺にはそれが可能だということも、今のおまえならわかるだろう。無駄な死人を出したくなければ大人しくしてろ。いいな?」
「…………」
 理性的に諭すような口調であるが、実質は脅迫以外の何物でもない。そのようなことに素直に頷く気にはなれない。だからといって逆らうことも出来はしない。不条理に耐えつつ、キュッと小さな唇を噛み締めるのが精一杯だった。

 しばらく林道を下ったところに、小型トラックが駐めてあった。
 荷物の積載部分がアルミの箱になっている、宅配業者が配達で使っていそうな車だ。それなりに手入れはされているが、かなり古びているように見える。しかし、それがかえって本物らしさを醸し出していた。
「検問はあったか?」
「いや、一度も見かけんかったな」
「念のため大通りは避けてくれ」
「わかっておる」
 二人はそんな会話を交わしながら、トラックの後方へと向かう。
 老人が荷台の扉を開くと、武蔵は澪を抱えたまま軽々と飛び乗った。そして、荷台の中ほどでそっと澪を下ろし、積まれた段ボール箱をいくつかどけて、意図的に隠していたと思われる奥の扉を開いた。その向こう側は、人ひとりが何とか立てるくらいの狭い空間になっている。いわゆる隠し部屋のようなものだろう。
「入れ」
 この状況では従うより他にない。
 澪は長い毛布を内側からつまみ上げて中に進んだ。すぐあとから彼も入って扉を閉める。微かな光さえ届かない暗闇の中、武蔵は手探りで澪を両腕に閉じ込める。薄いアルミの向こうからは、段ボール箱を引きずるような音が聞こえた。
「武蔵、良いか?」
「ああ、行ってくれ」
 老人は了解を得るとすぐに荷台から降り、運転席に乗り込んでエンジンをかける。もう取り返しの付かないところまで来てしまったのではないか、という澪の不安をよそに、トラックは小刻みに振動しつつ軽快に林道を走り出した。

「おい、起きろ」
 鼓膜を震わせたその無愛想な声で、澪は目を覚ました。
 いつのまにか、立ったまま武蔵に身を預けて眠っていたようだ。トラックはすでにエンジンを切って停車している。一時間か、二時間か、どのくらい走ったのかわからない。ここがどこなのかもわからない。最初のうちは外部の音に耳を澄ませていたが、夜明け前という時間もあり、これといって手がかりらしきものは得られなかった。
「おいっ!」
「起きてるよ」
 澪はムッとしてぶっきらぼうに言い返す。彼から離れようとするが、たくましい両腕に拘束されて身じろぎもできない。文句を言おうとしたそのとき、ギィ、と音を立てて外から扉が開かれた。
「サンキュ、じいさん」
 武蔵はそう言いながら、澪を抱きすくめたまま二人一緒に荷台へ出た。
 そこには、半開きになった外扉から光が射し込んでいた。老人の顔も武蔵の顔も判別できる。が、トラック外の様子はその扉が邪魔してよく見えない。全体的に明るそうに見えるし、鳥のさえずりも聞こえるので、もう夜は明けているようだ。
「わっ……」
 ぼんやりと考えごとをしていると、いきなり武蔵の着ていたブルゾンを頭に巻き付けられた。視界が遮られて何も見えなくなる。あたふたしていると、トラックに乗せられたときと同じように、毛布にくるまれた体を武蔵に抱え上げられた。
「息苦しいかもしれないが、しばらく我慢してくれ」
 そう言って、彼はそのまま軽やかに荷台から飛び降り、坂道らしきところを大股で歩いて上っていく。足音は一つだけだ。トラックの走り去る音が聞こえたので、あの老人は武蔵を下ろして帰ったのだろう。
 数分ほど歩き、どこかの建物に入った。
 座らされるような格好で下ろされ、頭に巻き付けたブルゾンを外される。はぁっと大きく口を開けて酸素を吸い込むと、鎖で繋がれた両手を握り合わせながら、おずおずと周囲を見まわしていった。
 そこは、ただっ広い部屋だった。
 調度品はほとんど置かれておらずガランとしている。ただ、左奥にはダイニングテーブルと片付けられた台所があり、その一角だけは多少の生活感を窺うことができた。正面奥はガラス窓になっているようだが、厚手のカーテンが引かれていて外は見えない。
 武蔵はどこからかもう一つの手錠を持ってくると、細いポールに澪の左手を繋いだ。
「なっ……」
 右手と左手、左手とポールがそれぞれ手錠で繋がれている状態だ。両腕を引っ張り出されたことで、体に巻き付けてあった毛布が滑り落ちたが、武蔵はすぐにそれを拾い上げて巻き付け直した。ぞんざいではあるが、とりあえず見られたくない部分は隠されている。
「俺、シャワー浴びてくるからな」
「あっ、自分だけずるい!」
「じゃあ、おまえも一緒に入るか?」
「誰がっっ!」
 澪は噛みつかんばかりの勢いで言い返した。
 しかし、武蔵はふっと軽く笑っただけで、思い出したようにエアコンをつけると、何も言わずに部屋をあとにした。耳に届くのは静かな運転音だけである。ガシャリ——身を捩ると手錠が無機質な音を立てた。澪は現実を思い知らされたように感じ、ポールに頭をつけてぐったりとうなだれ、大きく溜息をついた。

 ——あれ、もしかして今ってチャンス?
 部屋が暖まってきた頃、澪はふとその考えに至った。
 落ち込んでいる場合ではない。外に見張りがいるわけでもなさそうなので、手錠さえなんとかすれば逃げられるはずだ。慌てて顔を上げ、左手が繋がれているポールを観察する。見たところ手首ほどの太さしかないが、金属製で継ぎ目もなく、ちょっとやそっとでは壊れそうもない。床から天井まで通っているため、壊さずに抜くことも不可能である。手錠の鎖を引きちぎることも上手くいかなかった。とはいえ、可能性としてはそれがいちばん高いだろうと思う。
 澪は決意を固め、ひとり真剣な顔で頷いた。
 ガシャガシャ、ガシャン——歯を食いしばって痛みに耐えながら、何度も全力で引きちぎろうとする。すでに痛々しく変色していた手首に、新たな傷がいくつも重ねられていく。毛布が落ちて上半身が露わになったが、そんなことに構っている余裕はない。あまりの痛さに脂汗が滲んでも、傷口から赤い血が滲んでも、手を止めようとはしなかった。

「ったく、無駄なことはやめろ」
 呆れたようにそう言いながら、武蔵が部屋に戻ってきた。半袖Tシャツにジーンズという冬らしからぬ格好だが、エアコンのきいたこの部屋ではちょうどいいくらいかもしれない。首にかけたバスタオルで無造作に髪を拭きながら、拘束されている澪の方へと足を進める。
「……っ!」
 そのとき、澪は自分の上半身が露わになっていることに気付いて息を呑んだ。しかし、手錠で拘束されたこの状態では、毛布をかけ直すことも体を隠すこともできない。昨晩からすでにさんざん見られているので、今さらではあるが、それでもやはり恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。
「む……無駄かどうか、やってみないとわからないじゃない……」
「その手錠はおもちゃじゃない。おまえよりよっぽど頑丈だ」
「…………」
 言われるまでもなく、本当はもう身をもって気付かされていた。ただ認めたくなかっただけである。絶望的な現実を突きつけられて沈む横顔を、武蔵はしゃがみ込んでじっと見つめた。
「シャワー浴びてこい」
「えっ、いいの?」
「悪臭を放たれても困るからな」
「悪臭って……」
 澪は微妙な面持ちで口をとがらせるが、武蔵は無表情のまま鍵を取り出し、ポールに繋がれていた左手の手錠を外した。ただし、両手を繋ぐ手錠はそのままである。
「下手なことは考えるなよ」
「ちょっと、毛布っ!!」
 澪は武蔵に抱き上げられた。かろうじて下半身に掛かっていた毛布は、無情にも彼に払いのけられ、今は何ひとつ身につけていない状態だ。慌てて落ちた毛布を示しながら声を上げたものの、彼は醒めた目で澪を見下ろすだけである。
「シャワーはすぐそこだからいいだろ」
「そういう問題じゃなくてっ!」
 必死の抗議も虚しく、結局、澪は素っ裸のままバスルームへ連れて行かれた。

「……ずっと見張ってるつもり?」
「おまえは油断ならないからな」
 バスルームの扉を大きく開け放ったまま、武蔵はその入り口を塞ぐように座り込んでいた。狭いバスルームなので必然的に距離は近くなる。そんなところからじっと見張られていては落ち着かない。何より、逃げるのが格段に難しくなってしまう——。
 それでも、この機会を逃すつもりはない。
 澪は不自然にならない程度に自分の体で隠しながら、シャワーの温度設定をさりげなく最高値までまわす。残酷だとは思うものの躊躇してはいられない。シャワーヘッドを手にとって堅く握りしめると、目一杯カランを捻り、武蔵の顔面に思いきり熱湯シャワーを浴びせかけた。つもりだったが——。
「えっ?!」
 彼の前にガラスでも置かれているかのように、熱湯シャワーはその手前できれいに阻まれた。アイボリーの床へ垂直に流れ落ち、もわもわと白い湯気が立ち上る。その向こうから現れたのは、凄まじい怒気を放つ青の双眸——。
 ゴトン。
 澪はシャワーヘッドを滑り落とした。立ち上がった彼に気圧されて後ずさるが、たったの二歩で壁にぶつかる。背筋にぞくりと冷たいものが走り、膝は今にも崩れそうなくらいガクガクと震え出した。
「本当に油断も隙もねぇな」
 武蔵は低く唸るようにそう言うと、ズイッと間合いを詰め、大きな手で乱暴に顎を掴み上げた。
「ぐ……」
 澪の顔は苦痛と恐怖で大きく歪み、喉の詰まるような声が漏れた。それでも彼の手は緩まない。鮮やかな青の瞳が、視界に映るすべてが、次第にぼんやりとその輪郭を失っていく。
 意識が途切れかかったそのとき、手が離された。
 澪はぐったりと壁に寄りかかり荒く呼吸をする。足もとで身を屈めた武蔵に目を落とすと、彼は温度設定を適正値に戻しながら、床に投げ出されたシャワーヘッドを拾い上げていた。自分の手で水温を確認したあと、そのシャワーを澪の頭上から浴びせかける。
「んっ?!」
 澪は思わず目をつむって下を向くが、武蔵は容赦なく強い水流で浴びせ続けた。そして、ありえないくらい大量のシャンプーをかけると、乱暴な手つきで髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜていく。みるみるうちに、澪は頭から体まで泡だらけになった。

 髪も、体も、すべて武蔵の手で洗われた。
 初めのうちは怒りまかせの乱暴な手つきだったが、その荒々しさは徐々に消えていき、体を拭かれるときにはすっかり落ち着いたものになっていた。その手で服も着せられる。用意されていたのは、武蔵のものと思われる黒のTシャツ一枚きりである。しかしながら太腿くらいまで丈があり、見られたくない部分を隠す役割は、ひとまず果たしているといえるだろう。
 部屋に戻ると、再びポールに繋がれる。
 手首は広範囲にわたって傷ついており、内出血もひどく、もはや暴れる気力はなくなっていた。手錠を外されたのはTシャツに袖を通すときだけで、あとはずっと嵌められっぱなしである。バスルームでは湯が沁みてさんざんな思いをした。今となっては、おとなしく繋がれているだけでも痛みを感じる。
 武蔵は台所で食べるものを作っていた。
 炊飯と煮物の匂いに食欲が刺激され、堪え性のないおなかが、ぎゅるぎゅるとけたたましく音を立てた。澪は顔を赤らめてうつむく。武蔵には聞こえていないことを祈った。だが——。
「待ってろ、もう少しだから」
 彼はニッと唇に笑みをのせて振り返る。
 その見透かしたような態度が無性に腹立たしい。普通、気付いても気付かないふりをするものだ。放っておいてくれればいいのに——澪は頬を染めたまま口をとがらせ、上目遣いで睨みつけた。

 野菜の煮物と白飯、お茶、箸などが、ダイニングテーブルの上に並べられている。
 それを挟んで、澪と武蔵は向かい合わせに座っていた。まるで家族の食卓のようである。ただ、澪の両手を繋ぐ銀色の手錠が、その家庭的な雰囲気を台無しにしていた。
「材料がなくてたいしたものが作れなかったが、今日はこれで我慢してくれ。あしたからはもう少しまともなものを食わせてやる。まあ、財閥のお嬢様が満足するような豪勢な料理じゃないけどな」
 武蔵は箸を手に取りながら淡々とした口調で言う。
 しかし、澪は膝に両手を置いたままうつむいていた。
「手錠のままじゃ食えないなんて言うなよ」
「そうじゃなくて……」
 武蔵から向けられる追及の視線に思わず身をすくませ、さらに深く顔をうつむける。言うべきかどうか少し迷っていたが、答えを待たれる沈黙に耐えかねて、そろりと戸惑いがちに口を開く。
「何か……毒とか、変なもの入ってないかなって……」
「はぁ?」
 武蔵は裏返った声を上げると、これでもかというくらい盛大に溜息をついた。
「おまえ、本っ当にどうしようもないバカだろ。わざわざ毒なんか仕込まなくても、その気になれば、おまえくらい簡単に殺せるんだよ。そんな七面倒くさいことをやる必要がどこにあるっていうんだ」
「殺すのが目的じゃなくて……自白剤とか、惚れ薬とか……」
 澪としては真面目に考えたつもりだったが、武蔵は心底呆れたような顔をしていた。溜息をつきながら澪の皿に箸をのばすと、じゃがいもを取って自分の口に放り込む。そして、見せつけるようにモグモグと口を動かして飲み込んだ。
「これで信用したか?」
「でも……」
 ぎゅるるる、と再びおなかが高らかに鳴り響いた。よりによってこのタイミングで。あまりの恥ずかしさに、澪は顔を紅潮させて小さく身を縮こまらせる。今にも頭から蒸気が噴き出しそうになっていた。
「食え、命令だ」
 武蔵は面倒くさそうに言いつける。
 不安に思う気持ちは残っていたが、そこまで言われては仕方がない——と内心でもっともらしい言い訳をしつつ、澪は両手を繋がれたまま箸を持ち上げ、危なっかしい手つきでじゃがいもを口に運んだ。
「……おいしい」
「だろ?」
 思わず呟いてしまった一言に、武蔵は嬉しそうに目を輝かせた。その屈託のない表情が、澪の警戒心を和らげる。両手を繋がれているという慣れない状態で、何度も箸を往復させ、時間は掛かったがすべてきれいに平らげた。

 窓には遮光カーテンが引かれているので、外の様子はわからないが、だいぶ日が高くなっているように感じた。隙間から漏れ入る光が、ここへ来たときよりかなり眩しさを増している。そろそろ昼になる頃かもしれない。

 澪は再び繋がれたポールの横に座り込んだまま、せわしなく動く武蔵を眺めていた。
 彼は食事の後片付けを慣れた手つきで済ませると、押し入れから一組の布団を取り出し、ポールに一端をくっつけるように敷き始めた。見るからに薄っぺらい煎餅布団で、あまり寝心地は良くなさそうである。それでも、昨晩からまともに休めていない体には、十分すぎるほどありがたいものだ。しかし、澪のために敷いてくれたのかと思いきや、彼自身が真っ先にその布団で横になった。
「俺はしばらく寝る。おまえも寝た方がいい」
「えっと……一緒に、ってこと……?」
「布団は一組しかない」
 その愛想のかけらもない返答にムッとしながらも、澪はガシャガシャと手錠の音をさせて頼み込む。
「じゃあ、せめてこれ外してくれない?」
「そのままでも寝られるだろう」
 考えてみれば、これから寝ようというときに、人質の拘束を解く犯人などいない。いっそ座ったまま眠ろうかとも思ったが、布団の引力には抗えず、彼の隣へそろりと足から潜り込む。両手はポールに拘束されたままなので、バンザイのような格好になっているが、座っているより随分と体が楽に感じた。
 隣の武蔵は、すでに目を閉じていた。
 その無防備な横顔を見ていると、次第に胸がざわついてくる。澪はまだ逃げることを諦めていない。手錠を外すことができたとしても、逃げるのは難しいかもしれないが、油断をさせられれば勝機はあるだろう。やるなら彼が疲れている今しかないのでは——少しの逡巡の後、若干の緊張を覚えながら隣に身を捩った。
「……ねぇ」
「何だ」
 目を閉じたまま返事をする彼に、なけなしの艶をのせて問いかける。
「このまま寝ちゃうのもつまらなくない?」
「はぁっ?」
「ほら、男と女が一つ布団の中にいるんだし……」
「面倒くさいこと言うな。俺は疲れてんだ」
 武蔵はぶっきらぼうに言い捨てて背中を向けた。微塵も興味がないと言わんばかりのその態度に、澪は本来の目的そっちのけでカチンときた。私にだって少しくらい色気はあるんだから——半ば意地になりながら、自分にできるありったけの甘い声で囁く。
「そんなこといわずに、ねぇ……しよ?」
「ったく……」
 武蔵はうんざりしたようにそう言うと、布団を跳ね上げて体を起こし、溜息をつきながら前髪を掻き上げた。そして、おもむろに澪の足首を掴んで引き寄せると、それをグイッと持ち上げて大きく左右に広げる。
「ひゃっ! ちょっ、まっ……!!」
 完全に予想外だったその展開に、澪は顔を真っ赤にしてパニックを起こした。着ているのはTシャツ一枚きりで下着はつけていない。彼の前に自分の秘所が晒されているのだ。抵抗しようと足をばたつかせるがびくともしない。ますます焦る澪を、武蔵は脚の間からじっと無表情で見下ろしていた。
「やるんだろ?」
「ま、まずこれとってよ!」
 澪はポールに繋がれた手錠をガチャガチャ動かし、大慌てで訴えかけた。
 しかし、武蔵の表情はまるで変わらない。
「別にこのままでも出来る」
「やっ、そんなのダメ!!」
「なんで?」
 澪はすでに頭が真っ白になりかけていた。それでも、彼を納得させる答えを捻り出すべく、死にもの狂いで思考を巡らせる。額にはじわじわと汗が滲んだ。やがて、彼の冷ややかな視線に追いつめられ、考えがまとまらないまま口を開く。
「わ……たし……ノーマル至上主義なの!!」
「…………くっ」
 武蔵は掴んでいた澪の足を下ろしてうつむくと、小刻みに体を震わせ始めた。
「えっ……あ、の……」
「おまえ、本当にどうしようもないバカだな」
 その声は明らかに笑いを含んでいた。頭の後ろで手を組み、澪の隣にごろんと仰向けになる。
「おまえの考えてることなんて丸わかりなんだよ。それに、手錠を外したって俺から逃げられはしない。やられ損になるだけだぞ。結果を考えてから行動しろって言っただろう」
「だって……帰りたいんだもん……」
 率直な言葉を口に上すと、堰を切ったように気持ちがあふれ出す。
「誰だってそうでしょう? 得体の知れない人に監禁されたら、どうにかして逃げ出したいって思うじゃない。逃げる方法があるなら試してみたいじゃない。バカかもしれないけど必死なんだもん。遥や師匠のところに帰りたい、学校に行きたい、遊びに行きたい……ずっと続いていた幸せな日常に戻りたい……ただそれだけなのに、こんな……」
 最後の方はほとんど涙声になっていた。鼻の奥がつんとして目頭が熱くなる。それでも、まっすぐに白い天井を見つめ、涙がこぼれないよう懸命に堪えていた。

 暫しの間、沈黙が続いた。
 耳に届くのは、鳥のさえずりと木々のざわめきくらいである。
 二人とも身じろぎ一つせず、ただじっと息をひそめている。
 そこには、呼吸さえ許されないような、張り詰めた空気が流れていた。

「研究所に監禁されていた女の子は、俺の姪だ」
 思慮深い声が、沈黙に落とされる。
 澪は小さく息を呑んで隣に振り向いた。先ほどと同じく、武蔵は仰向けのまま頭の後ろで手を組んでいる。その声からも横顔からも感情は窺えない。ただ、青い瞳だけは、思いを馳せるように遠いところへ向けられていた。
「俺の故郷では、小さな子供が行方不明になる事件が続いていた。わかっているだけで十人は下らない。いずれも犯人からの接触は皆無だった。巷では神隠しだの何だのと言われていたが、俺たちは、外部からの侵入者の仕業だとあたりをつけていた。そんなとき……姪のメルローズも、忽然と姿を消してしまった」
 穏やかな口調だが、そこにはやるかたない思いが滲んでいた。
「俺はメルローズを捜すために故郷を出た。けれど手がかりが掴めないまま何年も過ぎ、諦めかけていたとき、ようやく掴んだ糸口が橘美咲の研究だった。残念ながら今回は救出に失敗したが、橘美咲に監禁されていたという確証は得られた」
 地下室のベッドで手枷を嵌められていた、白いワンピースを身につけた赤い瞳の少女——忘れようとしても忘れられない鮮烈な光景だ。もっとも、それを目にしたのは澪だけであり、武蔵はまだ対面も果たしていない。
「俺は必ずメルローズを救う……といっても、故郷に帰る手立てを失った俺には、あの子を両親のもとに帰してやれないかもしれない。けれど、せめて人並みの幸せくらいは与えてやりたいと思っている。実験体として一生を終えさせたくはないんだ」
 ドクン、ドクン、と澪の鼓動は大きく打ち始めた。次第に息をするのも苦しくなってくる。
 武蔵は青い双眸をゆっくりと澪に振り向け、真摯に見据えた。
「だから……ここにいてくれ。人質になってくれ」
 切実な声が深く突き刺さる。
 彼の姪である小さな少女は、一方的に日常を奪われ、人生を台無しにされ、未来さえ望めなくなっている。そして、その犯人はおそらく自分の母親であり、今もどこかで少女の監禁を続けている。なのに、自分は自分のことしか頭になくて——考えているうちに、いつしか涙が溢れて止まらなくなった。顔をそむけても嗚咽までは隠しようがない。
「泣きたいのはこっちなんだがな」
「ごめんなさい……わた、し……お母さまのせいでこんな……」
「悪いのはおまえじゃないし、連帯責任だとか言うつもりもない」
「でも……」
 武蔵は煩わしげに溜息をつき、上半身を起こした。
「罪悪感や同情で泣くのは勝手だが、俺からしたらただ鬱陶しいだけだ。おまえに泣かれても謝られても、問題は何ひとつ解決しないし、所詮はおまえの自己満足でしかない」
 返す言葉がなかった。それでも涙を止めることは出来ず、背を向けてすすり上げていると、ふと覆い被さるように上から覗き込まれた。思わずビクリと身をすくませる。自分を見下ろす武蔵は無表情で、怒っているのかどうかさえわからない。しかし——。
「悪かった」
 彼はそれだけ言うと、おもむろにTシャツの裾で澪の涙を拭い、宥めるようにぽんぽんと軽く頭を叩いた。そして、再び布団を掛けて仰向けになる。目を閉じた横顔からは何の感情も読み取れない。澪は戸惑いを感じながら、濡れた漆黒の瞳を細めてそっと彼を見つめた。