東京ラビリンス

第25話 彼の激情

「何ですか、このありえない人事は?!」
「知らん、こっちが訊きたい!」
 後からフロアに戻ってきた岩松が、のしかからんばかりの勢いで課長に詰め寄っている。
 誠一は二つの辞令を見つめたまま硬直していた。一つは警察庁への出向辞令、もう一つは警部昇進の辞令である。どちらも先ほど課長に手渡されたものだ。おそらく今の巡査部長という身分では警察庁へ出向できないため、警部に昇進させたものと考えられるが、このなりふり構わない強引な遣り口には戦慄せざるを得ない。
「いい意味でも、悪い意味でも、南野が目をつけられるとは思えないんだがなぁ。なんでいきなりこんなことになっちまったんだ。二階級特進なんて殉職じゃあるまいし」
「ちょっ、縁起でもないこと言わないでくださいよ」
 誠一はぎょっとして振り向いた。が、岩松に揶揄している様子はない。思いのほか心配そうに顔を曇らせつつ、瞳の奥をじっと探るように見つめてきた。
「おまえ、心当たりはないのか?」
「……何も」
 彼には自分の下手な嘘など通用しない——わかってはいたが、誠一にはそう答えるしかなかった。研究所で起こった事件と無関係でないのなら、たとえ上司であっても話すわけにはいかない。そもそも、簡単に話せるようなことであれば、こんな事態になっていないはずである。
 ガチャ——。
 扉を開けて騒ぎの場に入ってきたのは、仕立ての良さそうなスーツを着こなし、細い眼鏡を掛けた、怜悧な雰囲気を漂わせる男性だった。あたりは水を打ったように静まりかえる。それでも彼は意に介することなく直進し、課長の前で足を止めると、洗練された流れるような所作で深々と一礼した。
「警察庁の溝端です。南野さんを迎えに来ました」
「ああ……わざわざ……」
 課長は反応に苦慮して口ごもる。しかし、溝端はまるで関心なさそうに視線を外すと、今度は立ち尽くす誠一の方に振り向いた。眼鏡越しの無感情な瞳で見つめながら、抑揚のない声で言う。
「あなたの配属先は特殊事案対策室になりました。案内します」
「あ……えっと、まだ荷物をまとめていないので……」
「あとで構いません。直属の上司がお待ちかねです」
 有無を言わさぬ物言いに、威圧的な冷たい眼差し——とても逆らえる雰囲気ではない。誠一は仕方なく彼のあとについて歩き出した。四方八方から戸惑いの視線が浴びせられるが、誰よりも戸惑っているのは誠一自身である。けれど、逃げることも助けを求めることも出来ない以上、無理にでも腹を括るより他になかった。

「あの、お手洗いに寄ってもいいですか?」
 警察庁の最上階まで連れてこられた誠一は、廊下の少し先に男性用トイレを見つけ、前を歩く溝端におずおずと声を掛けた。彼はあからさまに非難めいた顔で振り返ったものの、さすがに生理的欲求を拒むほど横暴ではなかったようだ。
「……早く済ませてください」
「なるべく早く戻ってきます」
 誠一は小さく会釈してから男性用トイレへ駆け込むと、個室へ入って鍵を掛け、すぐさまジャケットの内ポケットから携帯電話を取り出した。これから自分に何が起こるかわからない。だから、悠人にこの現状を知らせておきたかった。音をごまかすために水を流しながら、彼の番号へ発信し、息を詰めて単調な呼び出し音を数える。
 トゥルルルル、トゥルルルル、トゥルルルル——。
 三コール目の終わりで音が途切れ、代わりに持ち主の声が聞こえた。
『はい、楠です』
「南野です。急いでいるので用件のみ伝えます。今、私に警察庁への急な出向辞令が出て……」
 声をひそめて話し出したところで、不意に頭上から大きな影が落ちてきた。ビクリと顔を上げる。そこには、扉の上にしゃがみ、冷淡にこちらを見下ろす溝端がいた。彼は無言で個室内に飛び降りると、唖然とする誠一の手から携帯電話を奪い取った。
『南野さん? どうしました?!』
 微かに悠人の声が聞こえるが、誠一に返事をする術はない。いや、大声を出せば届くかもしれない——そう思った直後、溝端はボタンを押して通話を切った。そして、ゾッとするほどの冷たい目を流し、薄い唇を開く。
「業務時間内の私用電話はご遠慮願います」
 そう言い終えると同時に、手にしていた携帯電話を真っ二つにへし折った。砕けた破片や部品がボロボロと零れ落ちていく。そして、まるで用をなさなくなったその本体を、唖然とする誠一に押しつけるようにして返した。
「さあ、行きましょう」
「…………」
 溝端は扉を開け、何事もなかったかのように平然と促す。それでも、誠一は反論どころか声のひとつも上げられなかった。ただひたすら空恐ろしいものを感じつつ、壊れた携帯電話をポケットにしまい、促されるまま閑静なトイレをあとにした。

 誠一が通されたのは、廊下の突き当たりにある角部屋だった。
 適度な明るさのゆったりとした空間が広がり、正面には大きな執務机、右の窓際には応接用のソファが置かれている。その執務机の方には、がっしりとした逞しい体型に、威圧的な雰囲気をまとった、見るからに貫禄を感じさせる男性が座っていた。溝端の言っていた直属の上司だろうか。直接の面識はないと思うが、その顔は印刷物などで何度か目にした覚えがある。名前は、確か——。
「楠警察庁長官です」
 記憶を辿っていると、隣の溝端が前を向いたまま名を告げる。
 誠一はハッとして目を見張った。先ほど会ったばかりの悠人の顔が脳裏に浮かぶ。二人とも「楠」なのだ。今朝からの特異な状況を考えると、めずらしい名字ということもあり、偶然の一致とはなかなか考えづらい。
「南野誠一君、君のことは調べさせてもらったよ」
 楠長官は大きな執務机で両手を組み合わせると、値踏みするような目つきで不敵に微笑む。
「ずいぶん橘家と親しくしているようだね。それに、私の息子とも」
 やはり——。
 この口ぶりからすると、息子というのは悠人で間違いないだろう。二人が手を組んでいるのかはわからない。そして、楠長官が敵か味方かもまだ判然としない。今の段階で下手なことを言わない方が賢明だと思い、誠一は静かに口を引き結ぶ。
 楠長官はフッと小さく笑った。
「今朝、悠人に呼ばれて橘家に行ったのだろう? 警察の動向を探るよう頼まれたかな? いかにもあの子の考えそうなことだ。出来の悪い息子でね。何かにつけてすぐ他人を利用しようとする。まったく困ったものだよ」
 雑談のような気安い口調ではあるが、目は絡め取るように誠一を捉えている。誠一も身をこわばらせつつ負けじと強気に見つめ返す。しばらく無言で視線をぶつけ合っていたが、溝端が一礼して退出すると、楠長官は結んでいた口もとをふっと緩めた。
「まあ座りたまえ。君の席はそこだよ」
「……えっ?」
 楠長官が示したのは、彼自身の大きな執務机の脇に置かれている、ノートパソコンだけが載った簡素な机だった。その冗談のような配置に誠一は狼狽える。溝端から聞かされた配属先は、特殊事案対策室というところだ。それが、なぜ警察庁長官の部屋で席を並べることに——。
「ここが特殊事案対策室だ」
 楠長官は心を見透かしたように答えとなる言葉を落とし、説明を継ぐ。
「君を呼ぶためだけに設置した長官直属の部門でね。つまり所属は君一人なのだよ。急ごしらえの席で申し訳ないが、しばらくはそこで辛抱してほしい」
「……私を、どうするつもりですか?」
 誠一はぎこちなく顎を引き、警戒心を露わにして尋ねる。
 しかし、楠長官は面白がるようにニヤリと口の端を上げた。
「こう見えても猫の手を借りたいくらい忙しくてね。やってもらう仕事はいくらでもあるのだよ。君の刑事としての経験も無駄にはしないつもりだ。あとは……そうだな、ちょっとした世間話の相手でもしてもらおうか」
 これが言葉通りの意味でないことくらい、誠一にもわかる。要するに橘家の情報を流せと言っているのだ。もちろん二重スパイのような真似をするつもりはない。だが、逆に楠長官から情報を引き出す好機であるともいえる。悠人には無理をするなと言われていたが、捜査一課に戻れない以上、ここで自分の出来ることをやるしかないだろう。多少の危険を冒してでも——誠一は気を引き締めると、小さく一礼してから用意された席に着いた。

 電話は頻繁に鳴っていた。人の訪問も少なくない。
 訪れた人の多くは誠一に怪訝な目を向けるが、楠長官が秘書のようなものだと説明すると、みな一応は納得したように調子を合わせていた。しかし、完全に信じている人はおそらくいない。もちろん楠長官も十分承知しているだろうが、まったく気にしておらず、むしろこの状況を楽しんでいるように見えた。
 誠一は頼まれた書類をノートパソコンで作成していた。頭を悩ませるような難しいものではなく、秘書の仕事というのもおこがましい雑用レベルだ。本来の目的をカムフラージュするための作業であることはわかっている。それでも、何かしら手を動かしていられる方が、誠一としても気が紛れてありがたかった。
 何度目かの電話が鳴った。
 楠長官はこれまでと同じように事務的に応対したが、何かを耳にした途端、双眸に力強い光を宿してニィッと口角を上げた。それは、まるで獣が獲物を捕らえるときのような、獰猛さを剥き出しにした表情だった。
「わかった、通してくれ」
 彼はそう答えると、以後は何も取り次がないよう言い添えて電話を切った。鼻歌でも歌い出しそうなほどの上機嫌で、椅子の背もたれにゆったりと身を預けながら、肘掛けに腕を置いてどこか遠くを見つめている。
 いったいどういう来客なのだろうか。
 誠一は漠然とした緊張と不安を感じながらも、与えられた仕事をこなすためノートパソコンに向き直る。そして、書類のひとつを完成させて保存まで終えたそのとき——ダンッ、とノックもなく乱暴に扉が開かれた。そこから姿を現したのは悠人だった。肩をいからせながらズンズンと進み入り、執務机の正面まで来ると、勢いよく両手をついて楠長官を睨みつける。
「さすが、やることがえげつないですね」
「先に巻き込んだのはおまえの方だろう」
 誠一の知る限り、悠人はこれまで常に理性的だったが、今は怒りの感情を隠そうともしていない。相手が遠慮のいらない家族だからだろうか。それとも、許容範囲を超えてしまったせいだろうか。控えめに二人の様子を覗っていると、悠人は思い詰めたような顔でバッとこちらに振り向いた。
「南野さん、辞表を提出してください」
「辞表……って、えぇっ?!」
「転職先は私が責任を持って斡旋します」
「ちょっ、ちょっと待ってください!」
 誠一は狼狽え、思わずガタリと立ち上がる。
 その隣で、楠長官はククッと喉を鳴らして笑った。大きな椅子にどっしりと身を沈めたまま、正面の悠人に挑発的な眼差しを向けて言う。
「相も変わらず愚劣で自分勝手な奴だな」
「あなたにだけは言われたくありません」
 悠人は強気に睨み返した。が、長官は微塵も動じない。
「おまえは怒りのあまり目的を忘れている。澪ちゃんの行方について情報を得るには、ここに留まるのが得策だと思うがな。公安があの男に目をつけていたことは、すでにおまえも知っているのだろう?」
 途中で、急に芝居がかった厭らしい口調になった。澪のことを餌にして引き留めようとしているのだろうが、この言い方ではまるで——誠一は額にじわりと汗を滲ませる。悠人も同様の考えに至ったのか、張り詰めたその顔からすうっと血の気が失せた。
「……まさか、すでに澪の居場所を?」
「我々が知りたいのは橘美咲と少女の行方でね」
「だからあの男を泳がせているというのか?!」
 悠人が身を乗り出して詰め寄ると、長官はフッと鼻先で笑った。
 瞬間、悠人の形相が変わった。凄まじい殺気を漲らせて執務机に飛び乗り、書類を踏み散らしながら、椅子に座した長官の首に両手を掛ける。が、まだ力は入っていないようだ。長官の余裕に満ちた冷笑がそれを物語っている。
「これはいったい何のつもりだ?」
「澪の居場所を言え!!」
「殺されても言わんよ。私も、誰も」
 悠人を鋭く貫くように見据えながら、微かに笑いを含んだ声で答える。直後、一瞬だけ首筋の両手に力を込められ、ウグッと引き攣った声を漏らすが、それでも挑発的な表情が消えることはなかった。
「我々の命などとは比べものにならないくらい、重要な……この国の存亡がかかった事態になっているのだよ。脅しなどには決して屈しない。我々はみな命を懸ける覚悟で臨んでいる」
「だから澪を見捨てるというのか!!」
 激昂する悠人を、長官はさらに煽り立てる。
「人質というのは生きていなければ意味がない。目的を遂げるまで殺されはしないだろう。もっとも、あの男にどういう扱いを受けているかはわからんがな」
 もったいつけるような思わせぶりな口調。泳がせて見張っているのだとしたら、状況を知っていても不思議ではない。いったい澪はあの男に何をされているというのだろうか。何を——過去に扱った誘拐事件のいくつかが頭をよぎり、誠一は目の前が赤く染まったように感じた。
 悠人は奥歯を食いしばり、首を絞める手に徐々に力を込めていく。
「澪の居場所を言わなければ、本当にこのまま殺す……!」
「グァッ」
 長官は潰れた声を上げると、苦しげに喘ぎながら言葉を絞り出す。
「おまえは……世話になった橘財閥に、泥を……塗る気か?」
「澪を犠牲にして守りたいものなど何もないッ!!」
「楠さん!!」
 我にかえった誠一は、だらりと全身の力が抜けた長官から、なおも首を絞め続ける悠人を引きはがす。彼の手首を掴んだまま、長官を背に庇うように二人の間に割り込んだ。
「落ち着いてください!」
「君はどっちの味方だ?!」
 鬼気迫る表情で激しく怒鳴りつけられ、誠一は咄嗟に何も答えられなかった。額から頬に汗が伝い流れる。それでもどうにか自分の気持ちを伝えようと、彼を説得しようと、必死に考えを巡らせながら言葉を紡いでいく。
「私も……澪を救いたい気持ちは同じです。けれど、あなたの行動はやはり間違っている。このままでは無意味に殺人犯になるだけだ。そんなことは澪も望んでいない。澪を悲しませたくないと言ったのはあなたでしょう」
「…………」
 悠人は大きくうなだれ、力が抜けたようにぐったりと執務机に座り込んだ。前髪で隠れて表情までは窺えなかったが、気のせいか、その佇まいはまるで泣いているかのように見えた。誠一は掴んだ手首の重みを感じながら、憔悴した彼の姿にそっと目を細めた。

 幸い、楠長官は一時的に気を失っていただけで、すぐに意識を取り戻した。
 誠一は念のため医者を呼ぼうとしたが、長官本人に制止され、この状況をよく考えてみろと窘められた。確かに事故とするには無理がある。あとで主治医に診てもらうという彼の言葉を信じ、今は濡れタオルで首を冷やしてもらうことにした。まずは、くっきりとついた指のあとを消さなければならないだろう。
 面会の約束をキャンセルする電話を聞きながら、誠一は踏み散らかされた執務机の書類を片付ける。その合間に、ソファに座らせた悠人の様子をチラチラと覗った。もうだいぶ落ち着いてはいるようだが、その広い背中はいまだに丸められたままである。
 カチャリ、と静かに受話器が戻された。
「いろいろとすまなかったね、南野君。愚息の世話までしてもらって」
「……いえ」
 誠一は控えめに答える。首筋に濡れタオルを当てる楠長官の前に、まとめた書類を差し出すように置いた。
「南野君」
「はい」
 楠長官は視線だけを誠一に向ける。
「君もわかっていると思うが、悠人は本当に出来の悪い息子でね」
「そんなことは……」
「昔から何を考えているかわからない根暗な子で、他人とまともに接することもできなかった。そのくせ気に入ったものに対しては病的なまでに執着する。大人になってからは、常識人の仮面を被ることを覚えたようだが、本質は何ひとつ変わっていないようだ。橘会長の力を借りなければ、好きな女の子の一人も手に入れられないのだからな」
 誠一は困惑しながらも、ソファの悠人をちらりと窺った。彼は深くうなだれたまま微動だにしない。話の内容がどこまで真実なのかはわからないが、父親にここまで言われたことについては同情を覚える。それも、暴露の相手が恋敵となれば一層いたたまれない。
 楠長官は悪びれもせずに続ける。
「その点、君は立派だ。橘財閥を必要以上に怖れることなく、利用することなく、真摯に澪ちゃんと向き合っているのだからな。まあ、中学生に手を出したのは褒められることではないがね」
 最後は、軽くからかうように付言する。
 中学生に手を出したというのは正しくないが、澪と付き合っている事実は把握されているようだ。この短時間で調べ上げたのだろうか。それとも、以前から目をつけられていたのだろうか。何かあったときのために、橘家に関わる人間をあらかじめ調べていたのかもしれない。誠一は無意識に奥歯を食いしばった。
「南野君、私は君のことが気に入っているのだよ。事がすべて終われば捜査一課に戻してやってもいい。もちろん警察庁に残りたいのなら歓迎するが。どちらにしても、然るべき時が来るまでは私の元にいたまえ」
「……はい」
「君は悠人より余程大人だな」
 楠長官はすこぶる満足げに頷きながら声を弾ませる。その言葉は、憔悴している悠人の傷をさらに抉るものだった。
 楠さん、今は耐えてください——。
 背後のソファでうなだれているだろう悠人を思いながら、誠一は胸の内で祈る。警察庁に留まることを決めたのは、決して楠長官に籠絡されたからではない。澪の救出に有益な情報を得るためである。それを達成するには、可能な限り反抗的な態度を取らない方がいいと判断したのだ。
 けれど——。
 澪のことで我を忘れるほどの激情に駆られた悠人が少し羨ましく、胸の奥が微かに疼くのを自覚した。