東京ラビリンス

第27話 二人の誓約

「はっ……っ……」
 幾分か苦しそうな、それでいて規則正しい呼吸。そのリズムと連動するように、澪の上半身は大きく上下に揺れていた。束ねていない艶やかな黒髪は振り乱れ、上気して汗ばむ頬や額に張り付いている。深くはない胸の谷間には、幾筋もの汗が流れていった。

「ごはんできたぞ」
「あ、うん」
 エプロンを着けたままの武蔵に、頭からスポーツタオルを掛けられる。
 澪はスクワットを止め、手錠を嵌められた両手でタオルを取り、滴る汗を拭いながら荒い息を整える。真冬にもかかわらず、半袖Tシャツにジャージのズボンという薄手の格好だが、暖房のよくきいた室内での運動となれば、これでもむしろ暑すぎるくらいだ。
「こういう状況でよくそんなことやる気になるな」
「じっとしてたら体がなまっちゃうんだもん」
 呆れたように見下ろす武蔵に、澪はえへへと笑って答える。
 左手首とポールを繋ぐ鎖は、当初より随分長くなっていた。短いときはちょっとした身動きすらほとんどとれなかったが、今はスクワットや腹筋ができるくらいの余裕はある。そして、そういう簡易的な筋トレが澪の日課になっていた。
「ほんと変わったヤツ」
 武蔵は半ば呆れたように独り言を落としたあと、両手の手錠はそのままで、ポールと繋がれている左手の手錠だけを外した。澪は屈託なくにっこりと微笑んで「ありがと」と礼を言い、食事の準備が整えられたダイニングテーブルへと駆けていく。椅子に座って催促するように振り返ると、武蔵は小さく息をつき、背中で結んだエプロンの紐を解きつつ歩いてきた。

「いただきまーす」
 澪は両手を合わせて元気よく声を弾ませると、手錠を掛けられたまま、器用に箸を使ってごはんやおかずを口に運ぶ。端から見れば異様な光景だろうが、澪自身は、視覚的にも動作的にもすっかり慣れてしまっていた。
 今晩のメニューは、ごはん、肉じゃが、卵焼き、ほうれん草のおひたし、味噌汁である。武蔵の作るものは和食中心で、素朴なものが多いが、どれも文句のつけようがないくらいに美味しい。橘家では洋食や中華がメインだったので、澪にはこの食事がかえって新鮮に感じられた。
「武蔵の作るごはんってほんと美味しい」
「そりゃどうも」
 幾度となく繰り返されてきたやりとり。言葉としてはやや素っ気なく感じられるものの、その弾んだ声音からも、ほころんだ表情からも、彼が気をよくしていることは十分に伝わってくる。別に機嫌をとろうとしているわけではないが、素直な気持ちを伝えて喜ばれるのはやはり嬉しい。
「もしかしてコックさんだったとか?」
「料理は昔からただの趣味だ……おっ?」
 武蔵はぴくりと眉を動かし、箸を持つ手を止めた。イヤホンから気になる情報が流れてきたのだろう。これまでも度々そういうことはあった。普段からよく片耳にイヤホンを着けており、ラジオか何かを聞いているらしいのだ。
「怪盗ファントムが予告状を出したみたいだぞ」
 彼はイヤホンを押さえながらそう言うと、澪に視線を流してフッと鼻先で笑った。
「薄情な奴らだな。まだおまえが行方不明だっていうのに」
「……それは、違うよ」
 澪はゆっくりと箸を置き、真剣な面持ちで武蔵を見据えて言う。
「私のいない間だけファントムが活動してなかったら、間違いなく私に疑惑の目が向けられる。だから、私のためにやろうと決めたんだと思う。いつか無事に帰ってくるって信じてるから……って、あれ? どうして武蔵が知ってるの??」
 彼に怪盗ファントムのことを話した覚えはない。知っているのは家族と仲間、そして公安くらいである。まさか公安と何か繋がりがあるのでは——澪が疑いの眼差しを送ると、武蔵は呆れたように指さしながら言い返す。
「おまえたち双子には魔導の力があるって言っただろう? 魔導力は一人ひとり違うんだ。それを認識できる人間からすれば、顔を隠したところで正体バレバレなんだよ」
「うそっ、何よそれ」
 澪はギョッとして、はずみで手錠の鎖をガシャリと鳴らす。
 武蔵は小さく笑いながら頬杖をついた。
「魔導を使いこなせるようになれば、自分の力を隠すことも可能だが、少なくとも今のおまえらには無理だしな。とはいえ、この国には魔導力を持つ人間は滅多にいないし、ましてや認識できる人間はほぼ皆無だろうし、まあ問題になるようなことはないだろう」
「だといいんだけど」
 そう言いつつも、澪は眉をひそめて口をとがらせる。まるで見えない発信機をくっつけているようで薄気味が悪い。認識できる人間はほとんどいないのかもしれないが、少なくとも武蔵には、隠れていても居場所が見つかってしまうということだ。別に内緒で何かをするつもりはないが、気持ちの問題である。
 武蔵はそんな思考を見透かしたかのようにフッと口もとを緩めると、箸を持ち直して食事を再開した。

 食事のあとはシャワーを浴び、それから再びポールに繋がれる。
 澪にはもう逃げるつもりはなかったが、武蔵はあくまで慎重だった。食事やシャワーなどやむを得ないとき以外は常にポールに拘束し、外したときは必ず対処可能な距離で見張っている。窓に引かれた遮光カーテンも開かれたことがない。
 それでも、当初に比べれば幾分かは譲歩されていた。
 シャワー時に扉を開けて見張られることはなくなり、磨りガラス越しに見張ってくれるようになった。ポールと左手首を繋ぐ鎖はだいぶ長くしてくれた。手錠で擦れてできた傷がひどくならないよう、傷薬が塗られ、常に清潔な包帯を巻いてくれるようになった。他にも必要なものがあればたいてい用意してくれる。そして、相変わらずひとつの布団で寝てはいるが、手を出されたことはなく、いつも朝までぐっすりと熟睡できていた。
 最初は殺されるのではないかと本気で思ったし、どんなひどい目に遭わされるかと怯えていたが、今ではそれなりに人権を尊重されているように感じている。手錠さえなければ、拉致監禁されているとは思えないくらいの待遇だ。
 しかし、ここに来てからすでに二十日が過ぎている。
 武蔵はノートパソコンを使って必死に美咲たちの行方を追っているが、残念ながら順調に事が運んでいるとはいえないようだ。状況を教えてもらったわけではない。それでも、眉間に皺を寄せて画面と睨み合う姿を見れば、おおよその察しはつく。
 澪としても心配だった。
 武蔵があの少女を無事に取り戻さない限り、澪が解放されることもないのだから——。

 今も、武蔵はダイニングテーブルの一席に座り、いかめしい顔をしてノートパソコンに向かっている。苛立ち紛れに頭を掻いたり、手を止めて考え込んだりしながら、いつもよりさらに慎重にキーボードを叩いていた。何をやっているのかはわからないが、見ている澪の方が息が詰まりそうである。
「あの、私に何か手伝えることない? パソコン以外で……」
「今はない。いずれ人質として利用させてもらうけどな」
 武蔵は顔も上げず、突き放したように答える。
 その態度に、その空気に、澪は居たたまれなさを感じて顔をそむけた。気晴らしに腹筋でも始めようかと思ったが、シャワーを浴びたあとなので、今から汗を掻くようなことはできるだけ避けたい。いっそ寝てしまおうかと布団に体を横たえかけた、そのとき——。
「くそっ!」
 唐突に発せられた怒声とともに、バンッ、と勢いよくテーブルが叩かれた。
 澪はビクリとして振り返る。
「あと少し、あともう少しだったのに……失敗した……!」
 彼は喉の奥から絞り出すような声でそう言うと、ギリギリと奥歯を食いしばり、テーブルについた両手をグッと握りしめた。その筋張ったこぶしは小刻みに震えている。
「失敗、って……?」
「この三週間の工作が水の泡になっちまったんだよ!」
 激昂して当たり散らしながら答える彼に、澪はおそるおそる質問を重ねる。
「それって、また一からやり直しってこと?」
「いや、もう二度と同じ手は通用しない」
「じゃあ……?」
「知るかよ!!」
 武蔵は目の前のノートパソコンを払いのけ、倒れるようにテーブルに突っ伏した。こんな彼の姿を見るのは初めてだ。まるで何もかも投げ出したかのような態度に、事態がいかに深刻であるか思い知らされる。
 澪は気が遠くなりそうだった。
 深く落ち込む彼のことも、囚われの少女のことも、もちろんそれなりに心配ではある。しかし、身勝手かもしれないが、自分の帰る目処が立たなくなったことに、他の何よりも大きな衝撃を受けていた。ここでの生活がつらいわけではない。居心地も悪くないと感じている。それでもやはり家族のもとに帰りたいし、友達と遊びたいし、学校にも行きたいし、誠一にも会いたい。事件前の穏やかな日常を取り戻したいのだ。
「……ねぇ」
 澪はおずおずと声を掛けた。しかし、武蔵はテーブルに突っ伏したままピクリともしない。それでも聞こえてはいるだろうと、そっと一呼吸してから言葉を継いでいく。
「武蔵がどういうことをやろうとしていたのかはわからないけれど、私たち家族と一緒に怪盗ファントムをやってる仲間に、コンピュータやインターネットにすごく詳しい人がいるの。天才ハッカーだって。だからね、お母さまの行方を捜しているのなら、みんなと協力すればいいんじゃないかな。武蔵が掴んだ手がかりと、篤史の能力を合わせれば、何とかなるかもしれないから」
 武蔵はゆっくりと顔を上げた。燃えるような鮮やかな青の瞳が、まっすぐに澪を射抜く。
「敵と手を組めっていうのか?」
「敵じゃないよ」
「橘剛三は、俺に三億円の賞金を懸けている」
 それは澪の初めて聞く話だったが、剛三ならやりそうなことだと思う。三億円という金額も妥当な線だろう。自分を取り戻そうと頑張ってくれていることを知り、武蔵には悪いが胸の内でこっそりと嬉しく思う。しかし、すぐに緊張を取り戻して真顔のまま話を続ける。
「それは私を連れ去ったからだよね? 無事がわかれば取り下げてもらえるよ」
「どうだかな。俺が橘美咲を追っていることは承知のはずだ。あちら側が協力するとは思えないし、俺も橘美咲の家族なんて信用できない。協力を装って罠に掛けられかねないからな」
 武蔵の顔つきはいっそう険しさを増していた。
 澪は手錠の鎖を引いて身を乗り出す。
「武蔵はあの女の子を助けたいだけなんだよね? お母さまに復讐するつもりはないんだよね? だったら、私がみんなを説得するから。武蔵を裏切らせないようにするから。だから……」
「敵を欺くにはまず味方から。おまえを騙すなんて簡単だろうぜ」
 彼の端的な言葉は的を射ていた。澪は唇を引き結び、瞼を震わせながら目を伏せる。
「お願い、私や私の信じる人たちを信じて」
「簡単だよな。おまえは信じろって言うだけだ。仲間が俺を裏切っても裏切らなくても、おまえはどのみち仲間のもとへ帰れるが、俺には命に関わる重大なリスクがある」
 彼の主張はもっともである。澪もそれなりのリスクを負わなければ信じてもらえないだろう。ひとり小さく頷いて意を決すると、あらためて武蔵の方へ向き直り、布団の上で背筋を伸ばして正座する。
「もし仲間が武蔵を裏切ったら、私は帰らない」
「今はそう言っていても土壇場で気が変わるはずだ。目の前に差し伸べられた救いの手を、自らの意志で払いのけるなんて無理だろう。それ以前に、俺が罠に掛かって殺されてるかもしれないけどな」
「約束する。絶対に武蔵を裏切らないし、裏切らせないから」
 澪はひたむきに訴え続ける。それでも、武蔵の心は動かせなかった。
「たいした覚悟だな。だが、それをどう証明する?」
「え……指切りげんまん……とかじゃ駄目だよね……」
 呆れたような冷ややかな眼差しで睨めつけられ、澪は身をすくめてうつむいた。証明と言われても難しい。必死になって考えてみるが何も思い浮かばない。沈黙が重くのしかかる。すると、武蔵がやにわに椅子を引いて立ち上がり、無言で歩を進め、正座した澪の膝先にしゃがみこんだ。瞬ぎもせず、まっすぐに見つめながら口を開く。
「俺に抱かれるか?」
「……えっ?」
 きょとんとする澪の左頬に、包み込むように大きな手が添えられ、グイッと端整な顔が近づけられる。息が触れ合うほどの距離にたじろぐが、見えない力で拘束されたかのように動けない。
「そこまで出来るのなら信用してやるよ」
「えっと……どうして、そうなるの……?」
「相応のものを差し出せってことだ」
「じゃ、じゃあ、別のものでもいいんだよね?」
「今のおまえに他に何があるんだよ」
「…………」
 彼の理屈は正直よくわからなかったが、その眼差しは真剣そのもので、冗談ではないのだと思い知らされる。少なくとも彼に納得してもらうには、信じてもらうには、言うとおりにするしかないのだろう。恋人でもない彼に抱かれるしか——考えているうちに、目の奥がじわりと熱くなり涙が滲んできた。
「こんな……こんなのって、間違ってるよ……」
「所詮、おまえの覚悟は口先だけなんだな」
 武蔵は冷ややかにそう言い捨てると、すっと立ち上がり、躊躇いもせず背を向けて去っていく。
「待って!」
 澪はバッと顔を上げて縋るように声を張った。武蔵の足は止まり、スローモーションのように振り返る。その鉄仮面のような顔つきからは、感情を窺うことができない。気色ばんでいるようにも、呆れているようにも、興味をなくしているようにも見える。澪の心臓は、壊れてしまいそうなくらいに早鐘を打っていた。
「いいよ、その条件で」
 その声はぎこちなく微かに震えていた。それでも、潤んだ瞳のまま強気に見上げて言う。
「だから武蔵も約束して。必ず、みんなと協力するって」
「……約束する。俺も決しておまえを裏切ったりしない」
 武蔵は表情を動かすことなく静かにそう答えると、再び澪のもとへ戻ってきた。しゃがんで瞳の奥を探るように見つめたあと、澪の体をそっと仰向けに倒し、眉ひとつ動かすことなくそこに跨がる。そして、手錠で繋がれた両手を頭上に押しやりつつ、白いTシャツをまくり上げ、露わになった膨らみの片方を大きな手で覆った。
 二人の視線はまっすぐにぶつかり合う。
「撤回するなら今しかないぞ」
「撤回なんてしない」
 もうとっくに腹は括ったつもりである。それでも、早鐘のような鼓動は少しも鎮まらない。きっと武蔵にも伝わってしまっているだろう。彼は澪の片胸に手を置いたまま、覆い被さるように上体を倒し、真上からじっと顔を覗き込んできた。そのゾクリとするくらい鮮やかな青の瞳には、獲物を捕らえるように鋭く、それでいてどこか情欲に濡れた光が宿っている。
「途中でやめてもらえるなんて、甘い期待はするなよ」
「わかってる……んっ……」
 首筋に濡れた舌先が這い、胸を包む手が意志を持って動く。
 思わず甘い声が漏れそうになるのを、澪は口を引き結んで必死に堪える。目もきつく瞑ったまま開かない。誠一のものとは違う大きな手、繊細な指先、薄い唇、熱く蠢く舌——緩急のある絶え間ない刺激が、首筋から胸、脇腹、そして脚へと順に与えられていく。その度に、身体が呼応するようにひくんと跳ね、手錠の鎖がジャラリと音を立てた。
 片足に、抜けきらないジャージがわだかまる。
 彼の眼前にすべてを晒す格好になり、濡れたそこに指を挿し入れられると、いつしか堪え切れない嬌声が漏れ始めた。しつこいくらいの愛撫はもどかしい疼きを与え、身体から聞こえる淫らな水音は猛烈に羞恥を煽る。それでも容赦ない攻めは続いた。次第に頭が痺れて何も考えられなくなる。顔も身体も熱を帯び、白い肌にはじわりと汗が浮かんできた。
「はぁっ……」
 武蔵のどこか苦しげな熱い吐息が耳朶にかかり、その逞しい腕で苦しいくらいに強く抱きしめられた。互いの汗ばんだ素肌が密着する。開かれた脚の付け根に固いものを感じると、無意識に体の奥が疼き、足のつま先には引き攣れるように力が入った。澪は上気して浅い息を繰り返しながら、しがみつくように、手錠で繋がれた両手を彼の背中にまわした。