東京ラビリンス

第33話 切れない縁

 ザー——。
 澪は窓の外から聞こえる激しい雨音で目を覚ました。すでに本降りのようだ。傘を持ってきていないことを思い出し、どうしようかとぼんやり考えながら、気怠さの残る体でもぞもぞと寝返りを打つ。そのとき、隣の誠一がいないことに気がついた。首を伸ばして仄明かりの部屋を見回すと、少し離れたところに、背を向けて立っている彼の姿を見つけた。白のTシャツとトランクスだけを身につけ、左耳に携帯電話を当てている。
「わかりました……はい……はい、失礼します」
 彼は小さく頷きながらそう応答して、電話を切った。
「誠一?」
「あ、悪い……うるさかったな」
「ううん、雨の音で目が覚めたから」
「そうか」
 誠一はふっと小さく笑って携帯電話を机に置き、再びベッドを軋ませながら潜り込んできた。二人で寝るには少し狭く、自然と寄り添う形になる。澪は間近で彼の横顔を見つめて小首を傾げた。
「お仕事の電話?」
「いや、楠さんにね。澪が来てることを連絡しておいた」
「師匠なら知ってるよ。師匠に送ってもらったんだもん」
「そうみたいだな」
 誠一は遠くを見やったまま目を細める。その何かを思い出しているような表情を見ていると、悠人とどんな話をしたのか気になってしまうが、そこまで踏み込むことは躊躇われて黙り込む。ぼんやり考え込んでいるうちに、彼はふいと表情を緩ませてこちらに視線を流してきた。
「楠さん、朝になったら戻ってくるように、迎えがいるなら電話してって言ってたよ」
「うん……」
 誠一のもとへ向かうことを許してくれたうえ、その行き帰りまで気遣ってくれる優しさに、澪はあらためて胸を衝かれて泣きそうになった。悠人のその大きな愛情に報いるために、何より受け入れてくれた誠一のために、もう二度と裏切るようなことはしないと心に決める。
「誠一……ありがと……」
 ありったけの気持ちをその声に乗せて感謝を伝えると、誠一は横目を向けたまま柔らかく微笑んだ。しかし、すぐに天井へ視線を戻して表情を硬くする。
「遥に言われてたんだ」
「えっ?」
「澪は、長いあいだ異常な状況下に置かれていたせいで、正常な判断が出来ない状態になってるかもしれない。だから、難しいかもしれないけど澪の過ちを許してほしい、不誠実な態度を取っても見捨てないでほしい、って」
 遥——。
 澪は焼けるように胸が熱くなるのを感じて目を潤ませた。遥はやはり一番の味方だった。間違っていることは厳しく叱責するが、決して見放さず、必要なときには確実に手を差し伸べてくれる。遥だけでなく悠人もそうだ。自分がいかにまわりの人たちに大事にされてきたか、そして甘えてきたか、わかっているようでわかっていなかったのかもしれない。
「覚悟はしていたつもりだった。けど、二人を見てたら自信がなくなって」
 誠一はそう言い、自嘲の笑みを浮かべる。
「そもそも、澪のような子が俺なんかと付き合っていること自体が不思議だった。まだ若いから一時の気の迷いかもしれない、いつか釣り合いの取れた人に気持ちが移るかもしれない——ずっと心のどこかでそんな不安を抱えていた。だから、とうとう来るべきときが来たと思ったんだ」
「そんな……」
 付き合い始めの頃はそんなことを言っていたが、未だに拘泥しているなんて知らなかった。私には誠一しかいない、気の迷いなんかじゃなく本気で好きなの——そう訴えたかったが、過ちを犯したあとではあまりにも白々しい。唇を引き結び、布団の中でギュッと握った手を胸元に抱き込む。
「澪を責める気持ちはなかったよ。ただ、そうはいってもつらくて苦しかった。二人の間には到底割り込めないように感じて……並んでいる姿が似合いすぎてたってのもあるけど、二人の間に何か絆らしきものが見えた気がしてね。武蔵がどんな人間かはよく知らないけど、会ってみるとそんなに悪い奴ではなさそうだったし、何より澪に対する気持ちは本物だと思った。それに……澪も……」
 誠一は苦しげに眉を寄せて言い淀んだ。気持ちを鎮めるように瞼を閉じると、今度は明確に言葉を紡ぐ。
「澪はあいつが好きだったんだ。だから、あいつに抱かれたんだろう?」
 遠慮のない直接的な問いかけに、澪は小さく息を飲んだ。
「……ごめんなさい」
 一方だけでも否定できれば良かったのだが、ここまできて嘘をつくわけにはいかない。彼も下手なごまかしなど望んでいないだろう。そして、何より澪自身が彼に対して正直でいたかった。
 誠一は、そっと澪に振り向いた。
「それでも澪は俺を選んでくれた、そう思っていいんだよな? 自惚れてもいいんだよな?」
 まじろぎもせず瞳を見つめ、静かながらも熱っぽく懇願するように訴えかける。彼がここまで言ってくれたことに、彼にここまで言わせてしまったことに、澪は罪悪感で心が抉られるように感じた。涙を浮かべて小さく頷き、彼のあたたかい胸元にそっと額を寄せる。
「私、もう絶対に裏切らないから……」
 誠一は何も言わず、優しくゆっくりと力を込めて抱きしめた。何ひとつ身につけていない澪の素肌に、Tシャツを通して彼の体温が伝わってくる。それだけで、大きく包み込まれるような安心感があった。
「こんなことを言うと、呆れられるかもしれないけど……」
 躊躇いがちな声が耳元に落とされる。
 澪はきょとんとして顔を上げようとするが、瞬間、肩を押されてくるりと仰向けにされた。白いシーツの上に長い黒髪がさらりと広がり、体を起こした誠一に真上から覗き込まれる。その怖いくらい真剣な眼差しに、張り詰めた表情に、戸惑いながら目をぱちくりさせた。
「澪の体に残ってるあいつの痕跡を、全部消したい」
 見つめ合った誠一の口が動く。
 痕跡というのが何を指しているのかはよくわからない。それでも、彼の瞳にともされた情欲の炎を見れば、何を求めているのかはおおよその察しがつく。
「ん……誠一の気の済むようにして……」
 澪は曖昧にはにかんだ。その唇に、誠一は触れるだけの口づけを落とし、ゆっくりと上体を起こしていった。布団が捲れ、薄明かりに照らされた澪の白い肌を、真顔でじっと食い入るように見下ろす。
「あ……の……?」
 羞恥と困惑が綯い交ぜになり、澪は頬を上気させる。
 やがて、誠一は微かな熱い吐息を落とすと、探るように指先を肌に這わせ、そっと覆い被さり胸元に顔を埋めてきた。互いに無我夢中で求め合った先刻とは違い、緩やかに、しかし確実に刻み付けるような愛撫が施される。その狂おしくもじれったい感覚に翻弄され、小さな唇から色めいた声が零れ始めるまで、さほど時間はかからなかった。

 まだ日の昇らない早朝。
 深夜から激しく降り続いていた雨は、いつのまにか雪へと変わっていた。不気味なほどの静けさの中、分厚いカーテンの引かれた書斎で、遥は執務机の前に立ち、そこに座する剛三と向かい合っていた。いつも傍に控えている秘書の悠人はいない。
「すまんな、こんな早朝に呼び出して」
「検査結果、届いたの?」
 挨拶などどうでもいいと言わんばかりに、遥は単刀直入に本題を口にした。
 剛三は渋い顔になり手元の薄いファイルに目を落とす。
「ああ……遥、おまえの推察どおりだった」
 苦渋に満ちた声でそう言うと、気乗りしない様子で重々しくそのファイルを差し出した。しかし、遥の方は何の躊躇いもなく平然とした態度で受け取り、一枚ずつ捲りながらざっと目を通していく。
「澪や師匠にも話すよね?」
「そうせざるを得ないだろう」
 剛三は椅子の背もたれに身を預けて、深く溜息を落とした。その眉間には縦皺が刻まれている。そんなめずらしく苦悩する祖父にちらりと目を向けたあと、遥は閉じたファイルを執務机に戻しながら尋ねる。
「橘の家はどうなるの?」
「どういう意味だ」
「僕は、橘の血を継いでいない」
 口調は普段どおりの落ち着いたものだったが、声には僅かながら硬さが窺えた。彼自身にも張り詰めた気配が感じられる。しかし、剛三はふっと鼻から息を抜いたかと思うと、たいしたことではないかのようにあっけらかんと言い放つ。
「黙っておればわからんだろう」
「……それでいいの?」
「後継者は、遥、おまえ以外に考えておらん」
「……そう……責任重大だね」
 遥は感情のない面持ちで考え込むようにうつむき、ぽつりと独り言のように呟いた。そんな彼を眺めて、剛三は椅子にもたれたまま微かに口の端を上げる。しかし、その表情はすぐに重苦しいものに塗り替えられた。
 再び、書斎は静寂に包まれた。窓の外で雪が降りしきる音まで聞こえてくるかのようだった。

 朝になり、澪は一人で橘の家へ帰っていく。
 さすがに恋人の家に悠人を呼びつけるのは気が引け、仕事へ向かう誠一とともに家を出て、地下鉄と電車を乗り継いで帰ることにしたのだ。ちらちらと白い粉雪が舞う薄曇りの中を、誠一に持たされた紺色の傘を差して歩く。素手の指先はかじかみ、吐く息も白い。だが、その冷たい空気を胸いっぱいに吸い込むと、身も心もシャキっとしてとても心地がよかった。
 屋敷の裏口に到着し、軒先で傘の雪を落として中に入る。そこには、いかにも不機嫌そうにむすっとした武蔵が、壁に寄りかかって澪を待ち構えていた。新しいシャツの開いた胸元からは、まっさらな白い包帯が覗いている。
「さっそく朝帰りかよ」
「いけない?」
 澪は反抗的に言い返す。彼が動けるほど元気になったのは良かったが、誠一の家に行ったことを咎められる謂われはない。保護者には許可をもらったのだ。口をとがらせて男物の傘を隅に立てかけていると、武蔵はさらに嫌味たらしく追い打ちをかける。
「随分薄情だよな。重傷の俺をほっぽって彼氏のところにしけ込むとは」
 そのことに関しては反論のしようがなかった。だからといって、こんな言われ方をされては詫びる気になれない。口を固く引き結び、下を向いたまま彼の前を通り過ぎようとする。が、不意にガシッと手を掴んで引き止められた。振り向くと、鮮やかな青の瞳が射抜くように見つめていた。
「続き、帰ってからって約束したよな」
 熱を帯びた深みのある低音に、思わず胸が震える。澪は慌てて目を逸らせた。
「ごめん……私、やっぱり誠一が好きだから」
「俺のことは好きじゃないっていうのかよ」
「誠一を裏切らないって、そう決めたから」
「そんな答えじゃ、納得いかないな」
 武蔵は握りしめた澪の手を放そうとしなかった。逆に、気持ちを伝えるように力を込めてくる。どうにかしてその温もりから逃れなければと思ったが、だからといって力任せに振り払うようなことはしたくない。
「お願い、わかって……武蔵のこと嫌いになりたくないよ……」
 今にも泣き出しそうに声を震わせる。身勝手な言い分だという自覚はあるが、澪にはそう懇願するしかなかった。いっそ嫌いになってしまえば楽なのかもしれないが、それではあまりにも寂しすぎるし、そもそも完全に嫌いになることなど出来そうにない。顔を暗く沈ませてうつむくと——。
「あんまり澪をいじめないでくれる?」
 冷ややかな声を響かせ、遥が牽制するように睨みをきかせながらやってきた。しかし、武蔵は少しも悪びれることなく堂々とした態度で言い返す。
「俺は自分の気持ちに素直になれって言ってるだけだ」
 ドクリ、と澪の心臓は大きく蠢いた。それでも決して受け入れるわけにはいかない。もう二度と誠一を裏切ることはしないと決めたのだ。武蔵にどんなことを言われたとしても、自分に求める気持ちがあったとしても——。
「澪、武蔵も、話があるから来てくれる?」
 遥は踵を返しながら無感情にそう言い、目で二人を呼んだ。澪はちょこんと小首を傾げて尋ねる。
「どこへ?」
「じいさんの書斎」
 遥は端的にそれだけ答えてスタスタと歩き出した。しかし、二人がついてきていないことに気が付くと、非難するように眉を吊り上げて振り返る。澪は困惑しつつ隣の武蔵と目を見合わせたが、今は言うとおりにするしかないと思い、彼とともに早足で遥の後を追っていった。

 澪と武蔵は、遥に続いて書斎の打ち合わせ机についた。
 篤史はメルローズの面倒を見ているということで不在だが、剛三と悠人はすでに席について三人の到着を待っていた。おそらく今後のことを話し合うのだろう。メルローズを取り戻すという目的は果たしたものの、警察庁や米国大使館とのことなど問題は山積しているのだ。
 剛三は深く息をつくと、めずらしく緊張した面持ちで切り出した。
「きのう、遥からある推測を聞かされた」
 澪は眉をひそめる。予想外に出てきた遥の名前を不思議に思い、隣の彼を窺い見るが、いつものように素知らぬ顔をしているだけだった。何の話か見当がつかないということもあり、そこはかとない不安を感じて鼓動が速くなる。
 剛三はさらに表情を険しくした。
「その推測が正しいかどうかを確かめるために、知り合いの研究者に無理を言って、早急にある検査をやってもらった。これが、今朝の早くに届いたその結果報告書だ」
 そう言い、手元の薄いファイルを掲げて見せると、何も言わず悠人にすっと差し出した。彼は一瞬だけ怪訝な表情を見せたが、すぐに従順な秘書の顔になり、受け取ったファイルを開いていく。何枚かめくるうちに彼の目は大きく見開かれた。顔面はみるみるうちに血の気をなくし、ページを繰る手も微かに震え始める。
「何が、書いてあるんですか?」
 澪は胸に手を当て、上擦った声でおそるおそる尋ねた。
 悠人はファイルに目を落としたまま答える。
「これは、親子鑑定だ」
「え……誰の、です?」
 心のざわめきが次第に大きくなる。ファイルを閉じた悠人の瞳が、ゆっくりと澪を捉えた。
「澪、遥……君たち二人は、美咲とは親子関係にあるが、大地とは親子関係にない」
「…………」
 声は聞こえていたがすぐには内容を把握できなかった。言葉が頭の中をぐるぐると回る。しかし、まるで理解を拒否しているかのように、一向に思考の中に入ってこない。胸元に置いた手が自然と強く握られていく。そんな澪を目にして悠人は苦しげに眉を寄せるが、それでも役割を全うするように言葉を継ぐ。
「二人の生物学上の父親は、武蔵だ」
 私の、父親——?
 小刻みに震えながら正面の武蔵に目を向ける。彼は口を半開きにしたまま唖然とし、電池が切れたように動きを止めていた。澪と目が合うとハッと我にかえり、ダン、と机を叩きつけて隣の悠人に訴える。
「ちょっと待て! 俺には心当たりなんてないぞ!!」
「学生証をなくしたときだよ」
 答えたのは遥だった。勢いよく振り向いた武蔵にも動じることなく、冷静に言い添える。
「なくしたっていうか、母さんが抜き取ったんだと思うけど」
「いや、でも俺は……そんな記憶なんて、何も……」
 武蔵は目を泳がせながらそう言い淀み、じわりと額に汗を滲ませた。
 遥はまるで他人事のように淡々と説明を続ける。
「僕の推測だけど、異種族間の交配実験みたいなものだと思う。母さんたちは武蔵を攫って体外受精でもしたんじゃないかな。武蔵に記憶がないってことは眠らされていたのかも。別に起きている必要はないわけだし。記憶を消したって考えるよりはよっぽど現実的だよね」
 誰も何も口を挟まなかった。静まりかえった書斎に、遥の声だけが冷たく響く。
「僕と澪は生まれてからもずっと経過を観察されてきた。もしかすると、他に何らかの実験を施されていた可能性もある。僕たちの体がどうなっているのか、何も問題がないのか、母さんたちに訊かないとわからない」
 混乱したまま、澪は机に手をついて弾かれるように立ち上がる。
「わっ……私たちは、実験のためだけに生まれてきたの? 実験の道具にすぎないってこと?!」
「母さんたちからすればそういうことになるだろうね」
 遥は事も無げにさらりと肯定した。
 武蔵は顔をしかめ、前髪をぐしゃりと掴む。
「くそっ、人の命を何だと思ってやがるんだ! あのマッドサイエンティストめ!!」
 彼の言うとおり、母親だと思っていた人は狂った科学者でしかなかったのかもしれない。家族だと思っていた繋がりは実験体を繋ぎ止める檻にすぎなかったのかもしれない。美咲の凛とした微笑、大地の屈託のない声、二人の仲睦まじい姿——次々と脳裏に浮かんでは消える。すべては絵空事だったのか。澪の顔からすうっと血の気が引き、汗が滲んできた。
「落ち着くんだ、澪」
 悠人が身を乗り出して手を取ろうとする。が、澪はビクリとして反射的に一歩下がった。足がパイプ椅子にぶつかりガシャンと音を立てる。心臓はドクドクと壊れんばかりに暴れ出し、頭の中はぐちゃぐちゃに掻き混ぜられ、今にも吐きそうなくらい気持ちが悪い。胸元のセーターを引っ掴んで奥歯を食いしばる。
「私は、何のために、生まれ、て……き……」
「澪!!」
 あたりの音は遠くに聞こえ、視界も暗く狭くなっていく。直後、ぷつりと意識が途切れた。遥が崩れ落ちる体をすんでのところで抱き留め、駆け寄った悠人と武蔵が必死になって呼びかける。だが、その声が澪の意識に届くことはなかった。