東京ラビリンス

第44話 捨て身の覚悟で

 楠長官の電話を受けて、澪とのデートは中止せざるを得なくなった。
 誠一はその足で警察庁に向かう。澪も長官の意向を受けて連れて行くことになった。もちろん本人が嫌がれば無理強いはしないつもりでいたが、逆に彼女の方から一緒に行きたいと頼んできたのだ。母親が攫われたのだから当然かもしれない。
 執務室に入ると、楠長官は執務机で両手を組み合わせて険しい顔をしていた。
 そして、その向かいで背筋を伸ばして立っていたのは——。
「お父さま! 無事だったんですね!!」
 後ろ姿を目にするなり、澪は長い黒髪をなびかせながら駆け寄っていった。しかし、彼は以前に見たときよりもかなりくたびれている印象を受ける。シャツの袖や背中がうっすらと汚れているのも一因だろう。その表情にも隠しきれない疲労と失意が浮かんでいた。
「美咲は守れなかったよ」
「何があったんです……?」
 電話での話を思い出したように、澪の顔が曇った。
 大地は難しい面持ちでうつむいた。代わりに、執務机の方から楠長官が答える。
「今朝のことだ。私の部下である溝端が大地君をスタンガンで気絶させ、手足を縛り上げたうえで、美咲さん、石川医師、実験体の少女を連れ出して姿をくらました」
 石川医師は、美咲の助手として初期段階から共同で研究を続けてきた人物である。米国大使館でも彼女と一緒にいたらしい。前回、公安の研究所へ連れて行かれたときには姿を見なかったが、やはり行動をともにしていたということだろう。
 楠長官は一呼吸おいて続ける。
「大地君にスタンガンを突きつける直前に言ったそうだ。『ようやくすべての準備が整いました。これからは私のやり方で国を守ります』とな。溝端の側についていると思われる人物は二名。いずれも若手の急進派といったところだ」
「急進派?」
 澪が小首を傾げて聞き返すと、彼は重々しく頷いた。
「我々は国の防衛のために生体高エネルギーを使おうと考えている。あくまで攻撃に対する防御もしくは反撃という意味でだ。だが、あやつらは攻撃されるより先に攻撃をしかけるという考えでな。特に小笠原沖の海底に棲息する生命体は脅威であり、殲滅すべきだと——一時期、溝端はそう主張していた。残りの二人もその賛同者だ。私の説得で考えをあらためたものと思っていたが、甘かったようだな」
 そう言って組んでいた手を解き、片肘をついて頭を押さえる。
「彼の父親は小笠原のフェリー事故で亡くなっている。だからこそ彼を採用してこの任務に就いてもらったのだ。あとで聞いた話だが、彼の方もフェリー事故の真相が知りたいがために、当てもなく警察庁の採用試験を受けたのだと。その熱意を買っていたのだがな……いささか度が過ぎたようだ……」
「復讐、ですかね」
 誠一は口もとに手を添えて眉を寄せる。溝端の父親の話を聞いたのは初めてだが、何の罪もない家族が亡くなったとなれば、そんな考えを持っても不思議ではないと思う。だが、大地は反感を含んだ冷ややかな視線を流し、腕を組みながら異論を唱える。
「そういう気持ちもあるのかもしれないが、遺族だからこそ恐ろしさを実感したんだろう。遺体が見つからなかった人も一部しか見つからなかった人も大勢いる。焼けただれたもの、焼き切れたもの、頭や手足の吹き飛んだものもたくさんあった。警察や政府がいくら隠蔽しようとしても、ただのフェリー事故じゃないことはわかるはずだ。あの惨劇を目の当たりにした僕としては、起こした奴らを殲滅させたい気持ちはわかる。彼以上にね。人間そっくりの人間とは別の生物という得体の知れなさが、なおのこと恐怖を煽っているんだろうな」
「お父さま……」
 澪は微かに声を震わせる。そう、彼女の半分はその得体の知れない生物なのだ。うっかり口を滑らせたのか意識して言ったのかは判然としないが、大地は微塵も動揺を見せることなく、にっこりと笑みを浮かべて細い肩を抱き寄せた。縋るようにシャツを掴んで顔を埋めた彼女に、そっと優しい囁きを落とす。
「澪は、僕と美咲の大切な娘だよ」
「うん……」
 まるで理想的な父娘のようなやりとりだが、彼の方には、澪が娘であるという認識は希薄なはずだ。なのに、よくもそんな白々しいことを——誠一は不快感を覚えるが、澪の前でそれを口にすることは出来ない。僅かに眉を寄せて物言いたげな視線を送っていると、それに気付いた彼は、澪の頭を抱き込んで挑発的な冷笑を浮かべる。
「何か?」
「いえ……」
 二人の短いやりとりに不穏なものを感じたのか、澪は不思議そうに顔を上げて、それぞれに問いかけるような視線を送った。誠一は何も答えられずに固まってしまうが、大地はちらりと澪を一瞥したあと、どこか遠くを見やりながら静かに口を開く。
「僕は家族を何よりも大切に思っているんだよ。溝端君があの国を滅ぼしたいのなら勝手にすればいい。どちらがどうなろうと僕の知ったことじゃない。ただ、許可なく美咲を利用することだけは許さない……絶対に」
 漆黒の瞳が、鋭くぎらりと光った。
 自分に向けられたものではないとわかっていながら、誠一はぞくりと身震いした。結局、彼が何より大切に思っているのは美咲ただ一人なのだろう。しかしながら難癖をつけたところで何も始まらない。反論はせず、楠長官の方に向き直って建設的に話を進めていく。
「行き先に心当たりはありませんか」
「防犯カメラや交通カメラの映像から割り出そうとはしているが、いかんせん人出が足りん」
 楠長官は苦々しく顔を歪めた。この件は公安の中でも最高機密事項とされているので、関わっていた人間はそう多くなく、応援を呼ぼうにも大半は他の任務に就いている。もちろん誰でもいいというわけではない。それなりの知識と経験がなければ難しいし、機密保持のため外部の人間は避けたいはずだ。しかし——。
「篤史や橘のみんなを呼びましょう」
「私もそれが最善だと思います」
 澪が提案し、誠一がすぐさまそれを後押しする。もともと同じことを考えていたのだ。篤史や悠人であれば、すでにおおよその事情を把握しているため、今さら機密だからと躊躇する必要はないし、説明する手間も時間も大幅に省けるだろう。
「公安十人より篤史一人の方が役に立つのは確かだな」
 大地がククッと笑って茶々を入れる。
 楠長官は難しい面持ちで思案を続けていた。やがて、踏ん切りをつけるように大きく吐息を落とす。
「南野君、手配を頼む」
「はい」
 誠一は返事をするなり懐から携帯電話を取り出し、その場で悠人に発信した。電話に出た彼にかいつまんで事情を説明し、皆に、特に篤史に警察庁まで来てもらいたいと要請する。少し待たされた後、剛三には抜けられない仕事があるので無理だが、篤史は今すぐに連れて行くと答えてくれた。

「禁止区域に侵入するのも楽しいけど、これだけの情報を使い放題ってのもいいもんだな」
 篤史は上機嫌でノートパソコンを覗き込みながら声を弾ませた。それでも手は止まることなく軽快にキーボードを叩いている。革張りのソファにローテーブルという、作業には不向きな環境のように思われるが、当の本人はまるで気にしていないようだ。そんな彼に、楠長官は執務机からじとりと訝るような視線を送る。
「くれぐれも目的外の使用はせぬように。トラップやバックドアも仕掛けるなよ」
「わかってるって」
 篤史はきわめて軽い調子で受け流した。彼の両隣には武蔵と悠人が密着して座り、後ろからは澪と遥と大地が覗いている。誠一は楠長官が座っている執務机の脇に立ち、その様子を眺めていたが、篤史以外はみな思い詰めた顔をしていた。もちろん篤史も事の重大さは理解していると思うが、美咲たちとの関係が希薄なため、他人事のような態度になるのは致し方ないだろう。
「今、埠頭の倉庫にいるみたいだな……ここだ」
 そう言って画面を指さす。誠一のところからは見えないので覗きに行こうと思ったが、踏み出すより早く、篤史は軽やかな手捌きでカシャカシャと打鍵を再開した。視線を左右にせわしなく動かして何かを探しているようだ。
「おそらく外部に協力者がいる。溝端の携帯に何度も公衆電話からの着信があるし……この男だ」
 タンッと中指でキーを弾いてそう言い、ノートパソコンの画面をくるりとこちら側に向ける。誠一は楠長官とともに早足でローテーブルに近づいていった。覗き込んだそこに映し出されていたのは、スーツを着た二十代後半くらいの男性が、街の公衆電話で話をしている画像である。近くの防犯カメラの映像だろう。画質が粗くかなり不鮮明だが、どうにか顔は判別できる。
「見覚えは?」
「ない。公安の人間ではないな」
 楠長官がそう答えると、篤史はすぐさまノートパソコンを自分の方に戻した。そのまましばらく作業に没頭していたが、やがて手を止めると、ひときわ難しい顔になって重々しく口を開く。
「確証はないが、さっきの男は海自かそれに関わりのあるヤツだと思う。海自の施設に近いところでいくつか姿を見つけた。あと、公衆電話から海自の隊員にも何度か発信している」
「なるほど、海自か……」
 楠長官の顔にも大きく翳りが落ちた。何となく話が不穏な方に向かっているのを感じ、誠一も、他の皆も、それぞれ不安を募らせた表情を浮かべている。暫しの沈黙のあと、篤史がおもむろに顔を上げて楠長官に目を向けた。
「海自の内部資料は見られないのか?」
「さすがにそれは無理だ」
「あそこは一筋縄じゃいかないしな……」
 苦虫を噛み潰したような顔でぼやくように呟き、前髪をくしゃりと掻き上げる。どうやら行き詰まってしまったようだが、誠一には何の手助けも出来そうにない。悠人も、武蔵も、ただその顔に焦燥を滲ませるだけである。しかし——。
「ねえ、これ軍艦じゃない?」
 ふいに澪がソファの背もたれに手をついて彼らの背後から身を乗り出し、画面の一点を指さした。皆は一斉に前のめりで覗き込む。そこには埠頭の映像が映し出されており、その端の方に何か黒いものが見切れていた。よく見ると、軍艦かどうかは判別できないが、確かに大きな船ではあるようだ。篤史が映像を早戻しすると、船体の半分ほどが映っているものが見つかった。
「それ、潜水艇を載せられるやつだと思う」
 遥がぽつりと呟いた言葉に、篤史は画面を見つめたまま大きく目を見開く。その軍艦で小笠原へ向かうのではないかという、おそらく全員が思い浮かべたであろう安直な想像が、遥の一言でたちまち現実味を帯びてきた。
「ヤバいな。海自ごと協力している可能性が高い」
「さすがに組織としてそんな馬鹿な真似はしないはずだ。だが、階級の高い者を含むかなりの隊員が協力していることは確かだろう。おそらく、おのれの地位も職も何もかもなげうつ覚悟で、それでもこの国を守るためと信じて、脅威を潰すべく行動を起こしているに違いない」
 楠長官はそこまで言うと、眉根を寄せた。
「愚かなことだ。相手の力量もわからないまま攻撃を仕掛けるなど無謀にも程がある。それに、かの国の存在は我々とごく一部の官僚以外にはまだ極秘なのだ。世間に露見すれば大きな混乱と騒動を招くことになる。下手をすれば国際問題にもなりかねないのだぞ」
 なにせ、人間同様の外見と知性を兼ね備えた知的生命体の国家である。日本の領海内とはいえ、このような重大な事物を隠していたとなれば、激しい非難を浴びることは避けようがない。ましてや勝手に殲滅などしてしまっては、あらゆる方面から糾弾されることは目に見えている。科学的、地学的、歴史的、いずれにおいても貴重な発見であることは疑いようがないのだ。また、人道的に許されないと考える人もかなり多く出てくるだろう。
「軍艦相手にどうするの?」
「潜水艇なら持ってるよ」
 遥の疑問に、大地は事も無げにさらりと答えた。手のひらを上に向けて説明を継ぐ。
「言っただろう? 昔、何度もあの国に侵入して子供を攫ってきてたんだ。そのときに使っていた潜水艇と船がまだあるんだよ。もう何年も使っていないが、いつでも使えるようメンテナンスを頼んであるから大丈夫だろう」
 個人で潜水艇まで所有していたことに絶句するが、橘財閥の御曹司なら難しいことではないのかもしれない。まわりの皆は得心したような顔をしている。ただ、武蔵だけはきつく歯噛みして顔をしかめていた。メルローズたちを攫った潜水艇と聞かされれば、感情が昂ぶるのも無理はない。それでも非難の言葉を口にしないということは、これに頼るしかない現実を理解しているのだろう。
 澪は不安そうに顔を曇らせ、小首を傾げる。
「でも、軍艦には敵わないんじゃ……」
「軍艦と戦うわけじゃないよ」
 大地は苦笑すると、腕を組みながら真顔になって前を向く。
「あの国には潜水艇でしか近づけない。僕らが子供たちを攫っていたときは、防護壁の破損したところから侵入していたが、今はもう修復されていて隙はないはずだ。だから、メルローズに生体高エネルギーの暴発を起こさせ、その力で防護壁に穴を開けようとしているんだろう。つまり、潜水艇で向かったメルローズと美咲を、暴発が起こる前に奪還すればいい」
「俺も同意見だ」
 武蔵はソファで腕を組んだまま、振り返りもせずに言う。
「おまえらに無理やり魔導力の源を注入された今のメルローズなら、強固なあの結界を破るだけの能力は十分にあるはずだ。結界さえ破ってしまえば外部からの物理攻撃も可能になる。ミサイルを撃ち込んで壊滅させるのも難しくはない。だから、救出するのはそれより前でなければならない」
 彼の言葉に、大地は背後で深く頷いた。
「今のうちにみんなの意思を確認しておきたいと思う。それぞれ望みは違うだろうが、落としどころがあれば手を取り合えるはずだ。それを探るためにも何を望むのか順に言っていこう。僕自身は美咲さえ助けられればいいが、可能であれば、彼女のためにメルローズも助けたい。美咲の悲しむ顔を見るのはつらいしね。悠人、おまえは?」
「私も美咲を助けたい。石川医師とメルローズも助けるべきだろうな」
 悠人が淡々と答えると、対抗するように武蔵が声を上げる。
「俺はメルローズを助けたい。そして祖国を守りたい。俺の家族や仲間や世話になった人たちが、そこで懸命に生きてるんだ。俺たちには攻撃するつもりなんて微塵もないのに、一方的に脅威と決めつけて殲滅するだとか、絶対に許せないし阻止してみせる」
 続いて、楠長官が口を開く。
「私は攻撃をやめさせたい。現段階でこんな勝手なことをされては大問題だ。逆に、国の存亡に関わる事態になりかねない。可能であればすべて秘密裏に処理できればと思っている。少なくとも世間に露見することだけは回避したい」
 後半は隠蔽の話になっていた。国を守るにはそうせざるを得ないのかもしれない。積極的に肯定しないまでも、甘っちょろい正義感だけで否定することはできないだろう。皆も同じように考えているのか、あるいは何も考えていないのか、誰も反論するような素振りは見せなかった。
 沈黙が落ちると、大地は隣の二人に視線を流して促す。
「私は……みんなを助けたい。誰にも傷つけ合ってほしくないよ」
「僕は家族と仲間を守りたいだけ。母さんたちやメルローズを助けたいのはもちろんだけど、ここにいるみんなも大切だから、あんまり無茶なことはしてほしくないんだよね」
 澪と遥がそれぞれ希望を述べた。誠一も頷いて同調する。
「できれば、死傷者を出すことなく終わらせたい」
 澪も、自分も、他の誰も傷つくことなく美咲たちを救出でき、なおかつ非人道的な実験も終わらせることができれば理想だが、そう何もかも上手くいくとは思っていない。美咲とメルローズを無事に救出できても、少なくとも実験の方は継続されるだろう。自分も警察庁に出向のままかもしれない。ちらりと横目を流して楠長官の表情を窺うが、何か考え込んでいるようで、誠一の話を聞いているのかさえわからなかった。
 篤史は面倒くさそうに溜息をつきながら、頭を掻いた。
「俺にはあんまり関係ないんだけど……といってもまあ乗りかかった船だし、美咲さんやメルローズを見捨てるわけにもいかないし、出来ることであれば手を貸すつもりだ。ハッキングや情報分析はやってて面白いしな。ただ、命を懸けるつもりまではないから、あんまり危険なことは勘弁してくれ」
 冷たいようだが、彼の立場で考えてみれば当然だろう。手伝ってくれるだけありがたいくらいだ。
 大地は考えを巡らせながら小さく頷き、口を開く。
「それでは、美咲とメルローズを暴発前に救出することを最優先にする。可能であれば石川さんも救出する。隠蔽工作の方は楠長官にお任せする……という方針でいくが異議はないか?」
 そう総括して皆に目を向ける。楠長官は深く思い悩んでいる様子で、澪や悠人は微妙な面持ちをしていたが、特に反対の声が上がることはなかった。それを大地は承諾とみなしたらしく、表情を引き締め、気合いを入れるように頷いた。
「よし、行こう」
「今から?」
 澪の呑気な言葉に出鼻を挫かれ、彼は思わず失笑する。
「のんびりしていては間に合わないからね」
 今すぐに行動を起こしたとしても間に合うかどうかわからない。そのくらい切迫した状況である。だからこそ、楠長官も次々と話を進めていく大地に何も言えないのだ。本来であれば、民間人の勝手な行動を止めなければならない立場なのに。
 大地は真顔になってソファの方に振り向いた。
「武蔵、君には一緒に来てもらう」
「来るなと言われても行くぜ」
 武蔵はムッとして、睨みをきかせながら噛みつくように答えた。行動はともにするが決して許したわけではないのだと、その態度から、その口調から、彼のやりきれない思いがひしひしと伝わってくる。しかし、大地はまるで相手にすることなく篤史へ視線を移した。
「志賀君は埠頭から支援を頼む」
「了解」
 篤史はゆったりとソファにもたれたまま、緊迫感のない声を返した。
 大地はあらためて一通りぐるりと見回してから言う。
「あとは希望者だけ来てくれ」
「私、行きます!」
「僕も」
 澪が勢いよく挙手し、続いて遥もゆるりと手を挙げる。
 誠一は口を引き結んだ。どんな危険があるかわからない異常な状況であり、二人には行ってほしくないが、母親が連れ去られている以上、引き留めることは難しいのではないかと思う。ならば、せめて自分が守らなければと手を挙げた。悠人も同じ気持ちなのか、複雑な表情を浮かべつつ同じように手を挙げた。
「おじさんはどうします?」
 大地が楠長官に水を向けると、彼は眉を寄せたまま腰に手を当てて息をついた。
「私はここに残る。状況は逐次報告してほしい」
「そんな余裕があればいいんですけどね」
 大地は飄々とした口調で茶化すようにそう答えたが、顔は笑っていなかった。すぐに呼びつけるような視線を皆に送ると、シャツの胸ポケットから携帯電話を取り出し、誰かと事務的に通話しながら執務室を退出する。楠長官以外の全員がそのあとを追った。
 白い無機質な廊下を、不揃いな靴音を響かせながら歩いて行く。
 誠一は半歩前を歩いていた澪の手を取り、元気づけるように、安心させるように、しっかりと柔らかく握り締めた。彼女はビクリとして振り返ったが、その手が誠一だとわかると安堵の笑みを浮かべる。
 澪だけは、絶対に——。
 これから何をするのかよくわかっておらず、誠一に何が出来るのかも定かでないが、いざというときは身を挺してでも彼女を守りたい。繋いだ手の柔らかな温もりを感じながら、そう決意を新たにする。
 しかし、本当に彼女を案じるのであれば、そもそも行かせるべきではなかったのだ。
 その判断が下せなかったのは認識の甘さゆえに他ならない。もっと慎重に考えるべきだった。たとえ彼女に恨まれても置いていくべきだった。この後に起こる取り返しの付かない出来事によって、誠一はそう後悔することになる。