東京ラビリンス

第49話 身内意識

「もう、ダメだってこと?」
 澪ははるか上空で渦巻く黒煙を眺めながら、自分を横抱きにしている武蔵におそるおそる尋ねた。彼も真剣な表情でその黒煙を見つめ続けている。どういうことだ、などと言っていたくらいだから、彼にもわかっていないのかもしれない。だが、汗を滴らせながら僅かに目を細めると、独り言のようにつぶやく。
「結界が復活している」
「えっ?」
 彼の言葉は思いもよらないものだった。朗報であるはずだが、なぜか表情は硬くこわばっている。
「完全じゃないが攻撃は防いでいる」
「あれ、溝端さんたちのミサイル?」
「多分な。結界に阻まれてその外側で爆発したんだろう。そうじゃなければ、このあたり一帯が爆撃されているはずだ。間違いなく大惨事になってたぜ。悠長にこんな話なんかしていられなかったろうな」
 武蔵はそう答え、苛立ち紛れの吐息を落とした。
 ミサイルが撃ち込まれれば大惨事になることくらいは澪にもわかる。遠い国の話ではあるが、ミサイルで街が破壊されて火の手の上がる映像を見た記憶があった。結界が復活しなければ、あれと同じようなことがこの国でも起こっていたのだ。
「どうして復活したの?」
「俺にもさっぱり……」
「本当に破られてたの?」
「俺を疑ってんのかよ」
「だって……」
 もともと結界は破られてなどいなかった、と考えるのが最も自然だろう。これほど距離があれば誤認しても仕方がない。だが、武蔵はあくまで強気な姿勢を崩さなかった。
「視覚だけで判断してるんじゃない。気配を感じたんだ。子供のころ同じような暴発で結界が破れたときも、うっすらとだが同じような気配を感じていた。俺が間違えているとは思えない」
 澪には彼の訴えることがよくわからず、いまだ半信半疑だった。
「そのときは、復活にどのくらいかかったの?」
「簡易的な修復だけでも数日かかったらしい。今は穴が空いてからまだほんの数分だぞ……普通に考えたらありえない……」
 ありえない何かが起こったのか、やはり武蔵の認識違いなのか——考えたところでわかりようもないだろうが、それでも気になってしまい、澪は抱きかかえられたまま思考を巡らせる。そのとき。
 ドン、ドドン、ドン、ドオォォオォォン!!
 何発も立て続けに撃ち込まれたらしく爆音が響いた。地面は大きく波打つように揺れるが、ミサイルはすべて結界で阻止しているようだ。先ほどと同じように、しかしより広範囲に、薄青色の空に黒煙のようなものが広がっている。
「っ……」
 地面が揺れたせいで澪の体も何度か大きく跳ねた。もちろん武蔵がしっかりと受け止めてくれたが、全身を強く打ちつけていた澪の体にはズキリと響く。声はどうにか堪えたものの、顔は大きくしかめてしまった。それに気付いたのか気付いていないのか、澪を横抱きにする手に優しく力がこめられた。
 揺れがおさまると、遥は守るために覆い被さっていたメルローズから体を起こした。
「武蔵、どうするの?」
「……帰ろう」
 武蔵はしばらく眉を寄せて考えたすえ、静かにそう言った。その顔には曖昧な微みが浮かんでいる。故郷の危機が去ったらしいことに安堵しつつも、やはり後ろ髪を引かれる思いはあるのだろう。澪は何も声を掛けることができなかった。

 武蔵は澪を、遥はメルローズを抱きかかえて、潜水艇を停泊させた洞窟へと戻ってきた。
 溝端たちの潜水艇はもう見当たらなかったが、自分たちの潜水艇はきちんとそこに泊まっていた。壊れたり傷ついたりということもないようだ。足を進めると、ハッチが金属音を立てて勢いよく開き、そこから大地がひょっこりと顔を出した。
「お父さま!」
「心配したぞ」
 そう言いながら、彼はハッチの縁に足をかけて飛び降り、洞窟内の岩の地面に軽やかに着地した。
「君たちはなかなか帰ってこないし、爆音がしたかと思うと地震みたいに揺れるし、正直もう駄目なんじゃないかと不安だったよ……ん? どうしたんだそれ……まさか、血か?」
「平気、たいした怪我じゃないよ」
 みんなの手足や衣服があちこち赤黒く汚れているのに気付いて、怪訝に覗き込んできたものの、遥は冷たいくらいにそっけない物言いで受け流した。その話題を打ち切りたい理由は想像に難くない。だが、そんなことは一時しのぎにしかならないだろう。
「美咲は?」
 当然のように、大地は焦燥して美咲の姿を探し始めた。
 彼には真実を知る権利がある。隠し立てしようという気はさらさらないが、どう伝えればいいかわからず、澪は戸惑いながら目をそむけてしまった。武蔵に意向を伺うような視線を向けられたが、むしろ自分の方が訊きたいくらいである。
 沈黙の中、遥が小さな靴音を立てて一歩前に踏み出した。抱きかかえていたメルローズをそっと地面に横たえると、その上にのせていた血塗れのシャツにくるんだものを手に取り、大地の正面に進み出ていく。
「何だ?」
 大地は眉をしかめて尋ねるが、遥は無言で包みを解いていった。中から現れたものは——。
「…………!!」
 大地はこぼれんばかりに目を見張って息をのみ、口もとを手で覆った。体はガタガタと膝が崩れそうなほど震え、顔は青ざめ、額から頬から幾筋もの汗が流れ落ちている。彼には一瞬でわかったのだろう。それが誰よりも愛している人の一部分だということが。
「な……こ、はっ……」
「メルローズの暴発に巻き込まれた」
 意味をなさない掠れた声しか発することのできない大地に、武蔵が事実を告げた。横抱きにしていた澪を慎重にその場に下ろし、ひとり足を進めると、神妙な面持ちで大地を見つめて深く一礼する。
「必ず助けると言ったのに、すまなかった」
「……っ!!」
 大地が獰猛な獣のように牙をむいた。凄まじい形相で武蔵の胸ぐらを掴み寄せると、固く握ったこぶしを狂ったように頬に叩き込む。隣にいた遥が割り込んで凶行を止めたが、そのときにはすでに何発も殴られており、武蔵の口の端からは一筋の血が滴っていた。
 それでも大地は止まらなかった。
 こぶしを掴んでいる遥の手を乱暴に振り払い、彼が持っていた美咲の腕を奪い取ると、後ろに飛び退いてぎらついた目で睨めつけた。その目を後方で横たわるメルローズへとゆっくり移していく。そして姿を捉えるやいなや、地面を蹴って猛然と彼女へ襲いかかっていった。
「……っ!」
 澪も、武蔵も、とっさに反応することが出来なかった。
 大地は歯を食いしばり、凶暴なこぶしを小さな体に勢いよく振り下ろす。すんでのところでそれを止めたのは、またしても遥だった。受け止めた両手で押し返しながら立ち上がる。大地はこぶしを引いて一歩飛び下がり、美咲の腕を片手に抱いたまま構え直した。隙あらば再び襲いかかろうとしているようだが、遥は気を緩めることなく間に立ちはだかっている。
「どけ!」
「メルローズは被害者だよ」
「そいつが美咲を殺した!!」
「自業自得じゃないの?」
「何?!」
 興奮してがなり立てる大地とは対照的に、遥は非情なまでに冷静だった。
「メルローズは非人道的な実験によって膨大な生体エネルギーを持てるようになったけど、それを抑えるだけの能力がなくて暴発を起こしやすくなってたんだ。自業自得じゃなくて何だっていうの。母さんたちがこんな実験をしなければ、死ぬようなことにはなっていなかった」
「知ったふうな口を利くなァッッ!!!」
 大地は雄叫びのような狂気の声を上げた。顎を引き、上目遣いで遥を睨めつけ鼻息を荒くする。
「美咲や僕がどんな気持ちでやっていたか知りもしないで、偉そうに……」
「どんな気持ちだろうと、メルローズを実験体にした事実は変わらない」
「そいつが美咲をこんなふうにした事実も変わらない!!」
 大地はそう叫びながら、美咲の腕を鷲掴みにして前に突き出す。そのとき、澪は焼き切れた切断面を初めてはっきりと目にし、ヒッと喉を引きつらせながら小さく悲鳴を上げた。しかし、遥は冷たい顔のまま少しも表情を動かさない。
「父さんに責める資格なんてないよ」
「邪魔するなら先に殺すまでだ」
 大地は美咲の腕を片手で抱き込み、汗を滴らせながらニィッと口の端を吊り上げた。
「美咲のいない世界なんて何の意味もない。だから……おまえたちをみんな殺して僕も死ぬ。もしおまえたちを殺せなかったとしても、僕に帰る意思がない以上、どのみちここで命が果てるのを待つしかないんだ。潜水艇を操縦できるのは僕だけだろう? 脅されても拷問されても僕は絶対に操縦しない。ここで一家心中だな。この因縁の地で……クッ、ククッ、アーッハッハッハッハッハッ!! もうすべて終わりだよ!!! 終わったんだ!!!!」
「お父さま……」
 洞窟内に狂ったような高笑いを響かせる大地を見て、澪はゾクリと背筋を震わせた。いつも人懐こい笑みを浮かべていた彼とはまるで別人だ。美咲がこんなことになってショックを受けるのはわかるが、まさかここまでになるとは思いもしなかった。もうどうしたらいいのかわからない。しかし——。
「う?! ぐっ……おま、え……」
 横からこっそりと近づいていた武蔵が、素早く鳩尾にこぶしを叩き込んで気絶させた。うずくまって崩れ落ちた彼の腕を捲り上げると、懐から取り出した細長いケースを開き、そこに入っていた注射器を躊躇いなく打った。
「何?」
「睡眠剤だ」
 訝るような遥の問いかけに、武蔵はケースをしまいながら答える。
「こいつに持たされてたんだよ。メルローズを眠らせるのに使えって言われてな。一応は受け取っておいたが、俺としてはあまり使う気になれなかった。本当に睡眠剤かどうか確かめようもないし」
「じゃあ、もし変な薬だったら……」
「それこそ自業自得ってやつだろう」
 その冷たい物言いに、澪は何ともいえない気持ちになり顔を曇らせた。だらりと力なく横たわる大地に目を向けるが、今のところただ眠っているだけのように見える。毒物ではないだろう。美咲が死んだ今ならともなく、注射器を用意したときにはメルローズを殺害する理由などなかったはずだ。
 遥はしゃがんで美咲の腕を再びシャツでくるみ、口を開く。
「問題は何も解決してないよ」
「潜水艇は俺が操縦する」
 遥も、澪も、目を見開いて顔を上げる。
 武蔵が潜水艇を操縦できるなんて知らなかった。気絶させただけでなく、睡眠剤まで使用して大地を眠らせたのは、はなからそのつもりだったということだろう。澪は少し安堵したが、遥はいまだ不安そうに眉根を寄せていた。
「できるの?」
「ここへ来るときにあいつが操縦するのを見ていたが、俺がむかし乗っていた潜水艇と操縦方法が似ている。海上に出るくらいなら大丈夫だろう。心配するな、おまえたちを死なせるような真似はしない」
 武蔵は断言すると、座り込んでいる澪を覗き込んだ。
「立てるか?」
 澪は頷き、差し出された彼の手を取って立ち上がる。体のあちらこちらがズキズキと痛むが、耐えられないほどではない。右足に体重を掛けたときに強い痛みが走ったが、うつむいてやり過ごすと、にっこりと大きく微笑んで顔を上げた。

「キャッ!」
 潜水艇に乗り込もうと準備をしていた澪たちに、突如まばゆい光が向けられた。目を細めて手をかざすその一瞬に、自分たちのまわりに半球状の薄い光の壁が作られた。おそらく結界だ。武蔵も驚いた様子でぐるりと見まわしている。
 あらためて光の方へ目を凝らすといくつかの人影が見えた。二つの光が下に向けられてようやく直視できるようになる。そこにいたのは、制服らしき濃青色の上下と紺のコートを着た男性四人と、青を基調にしたドレスに紺のマントを重ねた女性一人だった。両端の男性はそれぞれ懐中電灯らしきものを持っており、その内側の男性と女性は重ねた両手を前に突き出している。澪たちのまわりに結界を張ったのはこの男女二人なのだろう。
 中央の男性がひどく挑発的な声音で口を開いた。よく通るきれいな声だが、知らない言語のようで何を喋っているのかはわからない。しかし、ここが故郷である武蔵だけは理解しているようだ。相手が喋り終わると、彼は若干緊張した面持ちで澪たちに振り向いた。
「大丈夫、あの人とは知り合いだ。暴発も攻撃も俺たちの仕業だと誤解しているが、話せばわかってくれる人だから心配は要らない」
 澪たちだけに聞こえるくらいの声でそう説明したあと、一歩前に踏み出し、彼らに訴えるべく大きく声を張って話し始めた。中央の男性は時に嫌みたらしく、時に真剣に、時に冗談めいて、武蔵と幾度となく言葉のやりとりをする。その間も、両隣の男性と女性は、こちらに両手を突き出したまま警戒を続けていた。
 話の向きがどうなっているのかわからず、澪は不安に駆られて手を握る。
 その直後、相手側の全員が驚いたように目を見張り、澪たちの方へいっせいに視線を注いだ。そして中央の男性が軽く笑いながら何かを言うと、武蔵は溜息をつきながら頭を掻いて言い返す。両隣の二人の雰囲気も少し柔らかくなった気がした。
「え……何だったのかな……?」
「武蔵の子供だってことを話したのかも」
 ひどく困惑しながら声をひそめて尋ねた澪に、遥は一つの可能性を口にした。確かにそれならば皆の反応にも納得がいく。本当に武蔵がそこまで話したのだとすると、よほど彼らを信頼しているか、よほど親しい間柄ということになるだろう。
 その後も、武蔵たちの話し合いは続いた。
 やがて中央の男性がふっと小さく笑みをこぼして何かを言うと、両脇の男性と女性は手を突き出したまま目を見合わせて頷き、二人同時に声を合わせて何らかの言葉を口にする。すると、澪たちを覆っていた結界が蒸発するかのように掻き消えた。
「どうにか信じてもらえたみたいだ」
 武蔵は大きく安堵の息をついて腰に手を当てた。そして、颯爽と歩いてきた中央の男性と固く握手を交わす。懐中電灯を持っている二人はその場に留まったが、両隣にいた男性と女性は続いてこちらに向かってきた。二人とも表情は穏やかである。
 武蔵は澪たちの背中に手をまわし、前へと促した。
「一応、おまえらの親戚にあたる人たちだから紹介しておく」
「え、親戚って……?」
 混乱する澪に、遥は呆れたようにじとりと横目を流す。
「要するに武蔵の親戚ってことだよ」
「俺が父親だってこと忘れてたのか?」
「そういうわけじゃないけど……」
 武蔵にからかうように尋ねられ、澪は若干のきまり悪さを感じながら口をとがらせた。彼が父親だということを忘れていたのではなく、親戚という言葉と結びつけられなかっただけである。この異国に自分の親戚がいるなど考えもしなかったのだから仕方がない。
 武蔵は背筋を伸ばし、中央の男性を左手で示す。
「こちらはサイファ=ヴァルデ=ラグランジェ。俺たち一族の本家当主で、俺の親代わりで、仕事でも上司で、言い尽くせないほど世話になった人だ。魔導省長官という役職に就いていて、実質的にこの国の最高権力者といえる」
 先ほどまでは距離があったのでよく見えなかったが、あらためて顔を合わせて、彼が半端なく整った顔立ちをしていることがわかった。加えて、さらさらのきらびやかな金髪、宝石のように鮮やかな青の瞳——まるで少女漫画から抜け出たかのような華やかさである。武蔵ほど身長が高くなく細身であることが、彼をより上品に見せているのかもしれない。そしてとても若々しい。武蔵と同年代といわれても納得してしまうくらいだ。一国の最高権力者にはとても見えないし、それ以上に武蔵の親代わりとは信じられない。
 サイファは白い手袋を外し、優美に微笑んで手を差し出した。
 しかし、澪たち二人とも血や砂埃で手が汚れており、とても握手できるような状態ではない。当惑していると、サイファは遥の手を両手で包むように握手し、続いて澪とも同じように握手した。地位がある人とは思えないほどの親しみやすい態度は、自分たちを親戚だと認めてくれたからだろうか。澪は戸惑いを覚えつつも無意識にはにかんでいた。
 武蔵は続いて女性の方を示した。
「こちらはレイチェル=エアリ=ラグランジェ。サイファさんの妻で、この国の守護結界を管理する四大結界師の一人だ。破れた結界が即座に修復されていたのは、彼女の功績によるところが大きいらしい。今の結界は自動で破損部分を応急処置するようになっているんだと。もちろん破損の程度にもよるけどな。だから、俺らのやったことも多分無駄じゃなかったと思うぜ」
 彼女もサイファに負けず劣らず若々しく、そして可愛らしい。深みのある蒼の大きな瞳、柔らかそうな小さな唇、透き通るような白い肌、薔薇色に染まった頬、腰まで伸びた金髪、折れそうに細い腕、おまけに小柄ということもあり、まるで十代の少女のようにも見える。ただ、胸だけが不釣り合いなくらいに豊満だった。ドレスは鮮やかな青を基調にしたもので、胸元が大きく開き、腰から豪奢に広がるデザインである。その肩には紺色のマントが掛かっていた。男性の制服と思われる衣装と配色が似通っているので、もしかするとこれも制服なのかもしれない。
 レイチェルも白い手袋を外し、愛らしく微笑んで手を差し出した。
 彼女のきれいな手を見て躊躇する気持ちはあったものの、今度は素直に応じる。そのとき彼女に大きな瞳でじっと見つめられ、澪は思わずドキリとしてしまった。遥も困惑したように目を逸らしている。色気というには少し違う気もするが、引き込まれるような何かが彼女にはあった。
 武蔵はさらに紹介を続ける。
「で、こちらはジーク=セドラック。サイファさんたちの娘の旦那さんで、一族の人間じゃないけど、一応親戚ってことにはなると思う。彼も四大結界師のひとりだ。子供のころから何かと世話になってて、俺にとっては兄貴みたいな人だ」
 先ほどの二人とは違い、笑顔のひとつもなく少々とっつきにくい印象だ。気のせいかあえて無表情を装っているように見える。彼は淡々と白い手袋を取り、遥、澪と順に握手を交わした。表情とは裏腹に、その手つきはとても優しくあたたかかった。
「後ろの二人も四大結界師だが、親戚じゃないし挨拶はいいだろう。俺もそう知ってるわけじゃないしな」
 武蔵は後方で控えている男性たちに目を向けて言う。二人とも壮年といった年頃のようで、顔つきは厳めしく、逞しい体躯をしているように見える。背後を守るためにそこに残ったのだと思っていたが、もしかすると親戚ではないから遠慮していたのかもしれない。
 サイファは何か言いながら、横たわっているメルローズを覗き込みながらしゃがんだ。レイチェルとジークも彼女を見下ろし、武蔵も交えて四人で議論を始めた。もちろん澪には何を話しているのかわからない。だが、誰ひとりとして声を荒げることなく、冷静に、真剣に、相手を尊重して話し合っているようだった。
 やがて、サイファがにこやかに武蔵の肩を叩いた。彼の顔はしかめられる。
「どうしたの?」
「メルローズに魔導の制御を教えろって」
「それって教えて何とかなるものなの?」
「ある程度はな」
 教えるのは苦手なんだよ、といかにも嫌そうにぼやきながら頭を掻く。
 彼の説明によると、薬物や人為的なものを使って抑制するより、訓練で制御できるようにした方がいい、という結論に達したそうだ。メルローズの潜在能力ならそれが可能らしい。自分自身で魔導の制御が出来るようになれば、暴発も起こらなくなるという話である。もっとも今の状態では暴発の危険性が高いので、魔導の発現が強くなるこの国には置いておけず、武蔵が地上で教えるということになったようだ。
 武蔵は思い出したように真顔でサイファに声を掛け、どこかを指さした。彼が頷いて応じると、澪たちに「少し待っててくれ」と言い置き、彼と連れ立って足早にその場を離れた。声は聞こえないがかろうじて姿の見える場所で、二人は顔を近づけて内緒話をしている。レイチェルもジークも気になっていたようではあるが、途中で示し合わせたように目で追うのをやめた。
 ぼんやりうつむく澪の前に、繊細なレースをあしらった白いハンカチが差し出された。顔を上げると、そこにはにっこりと愛らしく微笑むレイチェルがいた。突然のことにきょとんとするが、彼女は血の滲んでいる顔や手の傷を示してから、あらためてそのハンカチを差し出してきた。これで拭けと言っているのだろう。けれどこんなきれいなハンカチを汚すわけには——躊躇しているうちに、優しい手つきで半ば強引に握らされてしまった。差し上げる、とジェスチャで言っているように見える。
「もらえば?」
「うん……」
 遥に言われて、戸惑いながらも彼女の厚意を受け取ることにした。両手でハンカチを持ちながらペコリと一礼する。そのハンカチを怖々と頬に当ててみると、砂とともに固まりかけの赤黒い血がついた。どうやら出血はもうほとんど止まっているようだ。乾いてこびりついた血は簡単にとれそうもないので、砂埃だけを払うつもりで手や顔をそっと拭いていく。それだけでも幾分かましになったような気がした。

「待たせたな」
 しばらくして武蔵が軽く片手を上げながら戻ってきた。サイファも一緒である。どういう話をしていたのか表情から読み取ろうとしたが、二人とも上手く装っているのか、これといった感情を見つけることができなかった。そんなにたいした話ではなかったのだろうか。だとすれば内緒にする必要はなかったはずだ。難しい顔になりながらうつむいた澪の頭に、武蔵がぽんと手を置いた。
「帰るぞ」
「え?」
「帰ろう」
 そう言うと澪と遥を両脇から抱き寄せ、ふっと小さく微笑む。その様子を、サイファとレイチェルがあたたかく見守り、ジークも少し表情を柔らかくして眺めていた。

 サイファたちに見送られながら、澪たちは潜水艇で海中に出た。
 操縦しているのは武蔵である。難関と思われた狭い海中洞窟も無事に抜け、今のところは問題なく操縦できているようだ。前列には澪と眠ったままの大地が、後列には遥と眠ったままのメルローズが、それぞれ席に着いている。美咲の腕は、遥が膝にのせて落ちないように手で押さえていた。
「……あのな」
「ん?」
 躊躇いがちに切り出された武蔵の声を聞いて、澪は顔を上げた。彼は前を向いたままだったので背中しか見えず、表情まではわからないが、それでも何となく緊張しているのが伝わってくる。
「レイチェルさんな……」
「うん」
 硬い声からも彼の張り詰めた様子が感じられた。何を言おうとしているのか見当もつかないが、ひどく言いづらそうにしている。白いハンカチを持つ澪の手に無意識に力がこもった。暫しの沈黙のあと、彼は意を決したように小さく呼吸してから言葉を継ぐ。
「彼女の魔導が、小笠原フェリー事故の原因だ」
「えっ?」
「彼女が故意に引き起こしたわけではなく、過失というわけでもない。人為的に暴発させられたと聞いている」
「…………」
 何も言葉が出てこなかった。武蔵は振り返りもせず淡々と続ける。
「もちろん小笠原のフェリーを狙ったわけじゃない。海上であんなことになっていたとは誰も知らなかった。だから、さっきサイファさんにだけこのことを伝えておいた。今回の事件がその事故に端を発するものだということも。それをレイチェルさんに伝えるかどうかは、サイファさんの判断に任せてある」
 今さら彼女に話したところで何がどうなるわけでもない。そうは思うものの、言葉にならないモヤモヤしたものが胸にわだかまる。その暴発事故の責任は彼女にないのかもしれない。武蔵の言うことが事実ならば、彼女はメルローズ同様に被害者ともいえるだろう。けれど——。
「すまない。文句の一つも言いたかったかもしれないが……」
 武蔵はまるで澪の気持ちを汲み取ったかのように前置きしてから、淡々と続ける。
「暴発事故でのこちら側の犠牲者は三人だけだったが、それでも彼女が立ち直るまでに長い時間がかかった。なのに、さらに何百人も犠牲になってただなんて俺には言えない。……まあ、おまえらにはそんな事情なんて関係ないだろうけどな」
「彼女を守りたかった?」
 遥が静かに尋ねる。操縦桿を握る武蔵の手に力が入った。
「……ああ」
「仕方ないよね」
 遥の言葉が、澪の胸にじわじわと沁み入ってきた。武蔵にとってレイチェルは大切な身内のひとりである。血縁だけの澪たちより優先するのは当然だろう。それを責めることはできない。自分にも、同じように身内を優先する気持ちがあるのだから。
「この話、お父さまにはしないで」
「……わかった」
 大地にこれ以上の刺激を与えたくなかった。フェリー事故を引き起こしたのが武蔵の親戚だと聞けば、そして武蔵が彼女を守ろうとしていたとわかれば、気が狂ったように荒れるのは目に見えている。それならば何も知らないままの方がいいだろう。ちらりと振り返ると、後ろの遥も小さく頷いて同意を示してくれた。
 これで、もう——。
 手にしていた白いハンカチに目を落とすと、レイチェルの愛らしい笑顔が脳裏に浮かんだ。まさか小笠原フェリー事故の原因がこんな人だなんて思いもしなかった。メルローズの暴発を目にしていなければとても信じられなかっただろう。非力な体からとてつもない力を放出する魔導とはいったい何なのか。澪は奥歯を噛みしめると、ハンカチごとぎゅっと両手を握り締めてうつむいた。