東京ラビリンス

第60話 二枚の婚姻届

「なんか久しぶりだね、こういうの」
 ゆったりとした時間の流れる休日の昼下がり。レースのカーテン越しに広がる柔らかな光が、居間を照らしている。
 澪は四角いチョコレートケーキにフォークを入れながら、にっこりと微笑みかけた。その美味しそうなケーキも、傍らに置かれた紅茶も、小さな丸テーブルを挟んで座っている誠一が用意してくれたものだ。彼はフォークを手にしたまま申し訳なさそうに肩をすくめる。
「ごめんな、このところちょっと忙しくて」
「ううん、私も忙しかったもん」
 彼のアパートでともに時間を過ごすのは、およそ二週間ぶりだった。
 その間、電話で話をしたのも一昨日のただ一度だけである。避けていたわけではなく単純に余裕がなかったのだ。もちろん互いに時間を見つけて何度か電話をかけていたのだが、なかなかタイミングが合わず、留守電にとりとめのないメッセージを入れるのが精々だった。
「今日はいつまでいられるんだ?」
「夜ごはんまでには帰ろうかなって」
「そうか……」
 彼のほんのり寂しそうな様子が、密かに嬉しい。
 明日は日曜なので、澪としても泊まっていきたい気持ちはあるが、今はまだそれが自由に許される立場にはない。最近は誠一の家に泊まることが増えていたものの、それは事情があって許可されたときだけである。今さらではあるが、高校生としてきちんと分別のある行動をとろうと決めたのだ。
 それは、他でもない誠一と無事に結婚するためである。
 澪も数え切れないくらいの失敗を重ねていいかげん学習してきた。ここまできて足をすくわれるような事態は避けたい。事を成し遂げるまでは慎重すぎるくらい慎重になるべきである。剛三がどこでどんな罠を仕掛けているかわからないのだから。

 会話が途切れ、二人とも黙々とケーキを口に運んだ。
 沈黙が続くことはめずらしいことではないし、それでいちいち気まずくなることもない。長い年月を一緒に過ごしてきた家族のように、会話がなくても自然体でいられるので、彼の傍はとても居心地よく感じられるのだ。
 しかし、こちらに思惑があるときは別である。
 澪はケーキを食べながら、どうやって話を切り出そうかと盛大に頭を悩ませていた。一向に考えがまとまらず緊張だけが高まっていく。最後のひとかけらをフォークにさして口に運び、まだ熱い紅茶を流し込むと、気持ちを落ち着けるべく小さくふうと息を吐いた。
 傍らに置いてあるカジュアルなトートバッグに、ちらりと視線を落とす。
 この中に婚姻届が入っている。誠一と戸籍上の夫婦になれるようにと記入したものだ。すでに剛三と悠人のふたりに証人になってもらい、大地には父親として同意の署名もしてもらった。あとは、誠一に空いた箇所を埋めてもらうだけである。
 彼に断られることはないだろうと思っているが、切り出すにはやはり勇気がいる。一度、澪の方から断ったことがあるのでなおさらだ。だから最初から素直に受けてくれれば良かったのに、という愚痴くらいは覚悟しなければならないだろう。
 いつのまにか誠一もすっかりケーキを食べ終わっており、紅茶を口に運んでいた。しかし、気のせいかその表情が少し硬いように見える。澪の緊張が無意識のうちに伝染してしまったのだろうか。それとも、澪のそわそわした態度に不安を感じているのだろうか。
 よし……っ!
 密かに気合いを入れて話を切り出す決意を固める。言わないという選択肢がない以上、先延ばしにしても追いつめられるだけである。期限までそれほど余裕はないのだから。
「あ……あのね……っ!」
 どくどくと心臓が暴れるのを感じながら、口を切る。
 誠一はティーカップを手にしたままビクリとして顔を上げた。半分ほど残っている紅茶が大きく揺れる。それをこぼさないよう慎重な手つきでテーブルに戻すと、硬い面持ちで澪を覗き込んだ。
「……どうした?」
「誠一にお願いがあるの」
 澪はそう言うと、ケーキプレートとティーカップをそそくさと端に寄せ、トートバッグから透明なクリアファイルを取り出し、中身が見えるように彼の前に置いた。
「……えっ?!」
「私と結婚してください!!!」
 彼が挟まれた婚姻届に気付いて大きく目を見開くと同時に、一息にそう言い切り、クッションごと下がって勢いよく土下座をした。長い黒髪を大きく乱したまま頭を伏せ続ける。心臓が早鐘のように激しく打ち、次第に息苦しさが増し、じわりと汗が滲むのを感じた。それでも、身じろぎもせずギュッと目をつむり返事を待つ。
「どうして……」
 思わずこぼれたような虚ろな声が、頭上から聞こえた。
 澪は伏せていた顔をおずおずと上げていく。
「あの、このまえ断ったばかりなのに勝手だとは思うけど……」
 クリアファイルに伸びている彼の手元を見つめながら、慎重に言葉を選んで理由を説明しようとする。しかし、彼は最後まで聞くことなくテーブルに手をついて立ち上がり、背を向けて寝室へ入っていった。

 怒ったの? 呆れたの? 愛想を尽かしたの?
 半開きになった寝室の扉を呆然と見つめているうちに、さまざまな憶測が頭をよぎっていく。目の奥がじわりと熱くなり視界が大きくぼやけた。もう見捨てられたのかもしれないと思うと怖くてたまらないが、たとえそうだとしてもまだ諦めるわけにはいかない。せめて、話だけでも最後まで聞いてもらわなければ——。
 目元を拭い、崩れそうな体を奮い立たせる。
 そのとき、誠一が何か難しい顔をして寝室から戻ってきた。手には折り畳まれた白い紙を持っている。先ほど座っていたクッションに再び腰を下ろすと、手にしていた紙を広げてクリアファイルの隣に置いた。
「……えっ?!」
 今度は、澪が驚きの声を上げる。
 それは婚姻届だった。書かれている内容は澪の持ってきたものとほぼ同じだ。妻の署名捺印だけが空白になっており、あとはすべて誠一の筆跡で埋められている。そして、証人欄には剛三と悠人の署名があり、親の同意として大地の署名もなされている。ひどく混乱しながらも必死に考えをめぐらせ、そろりと顔を上げた。
「賭けのこと、知ってたの?」
「賭け? 何のことだ??」
「じゃあ、どうしてこれ……」
 困惑を露わに、再び婚姻届に目を落として問いかけた。
 誠一はきまり悪そうに目を泳がせて頭に手をやる。
「このまえうちに来たときな、澪、様子がおかしかっただろう?」
「あ……うん……」
 あれは剛三と賭けをした日だった。誠一には秘密にしようと決めていたのに、感情が揺らいで思わず涙を滲ませたり、奥歯に物が挟まるような言い方をしたり、不安そうな顔をして縋るように彼を求めたり、明らかに普通とは言いがたい様子を見せてしまった。
 誠一は神妙な面持ちになり、話を続ける。
「だから、俺に言えない何かがあるんじゃないかと思って……澪を守りたい気持ちはもちろん今でもあるけど、それより澪が離れていきそうに感じて不安だった。どうしても繋ぎ止めておけるものがほしかった。一度断られはしたけど、外堀を埋めれば受け入れてくれるんじゃないかと……」
 そこで言葉を切ると、どこからか取り出した小さな白い箱を丸テーブルに置く。
「ちゃんと指輪も用意した」
「うそ……」
 澪は両手で口もとを押さえ、息を飲んだ。
 誠一は愛おしげに表情を緩める。
「橘会長にも、楠さんにも、橘大地さんにも、遥にも、ついでに武蔵にも許可はもらってきたよ」
「え……」
 遥と悠人はともかく、他の人たちはいったいどうやって説得したのだろうか。剛三も、大地も、二人の結婚には反対という立場のはずだが、この婚姻届には確かに署名をしてくれている。澪でさえもらえたのは奇跡のようなものなのに。というか——。
「もしかして、ドイツにまで行ってきたの?」
「まあ、行くしかなかったからな……澪も?」
「うん」
 澪が頷くと、誠一は気遣わしげに顔を曇らせた。
「その……会って大丈夫だったのか?」
「うん、ちゃんと気をつけてたから」
 言葉を濁しながら、安心させるように軽く微笑んで見せる。
 切り札を用意し、護身術も教わり、万全の準備をしていったつもりだったが、それでも大地にはまるで敵わなかった。彼の心変わりがなければ、同意の署名をもらえなかったかもしれないし、以前のように襲われていたかもしれない。だが、結果として犠牲を払うことなく目的を達成できたのだから、大丈夫だったと返事をしても間違いではないだろう。少し泣いたが些細なことだ。
 それよりも、気になるのは誠一の方である。
 大地は何かにつけてへなちょこ刑事などと誠一を揶揄しており、あまり良い感情を持っていないことは明白である。しかも、澪の結婚相手として親友である悠人を推しているのだ。誠一が認めてくれるよう礼を尽くして懇願しても、簡単に応じてもらえるとは思えない。
「誠一の方こそ大丈夫だった?」
「まあ……何とか……」
 そう言いながらも、彼は苦虫を噛み潰したような顔をしてうつむいた。
「ねえ、何があったの? 何を言われたの?」
「……澪は知らない方がいいだろうな」
 目を逸らせたまま口先でぼそりとつぶやいた彼を見て、何となくわかった気がした。言われたのはおそらく澪に関することだ。それも、誠一に最大限の精神的ダメージを与えられて、澪との結婚を諦めたくなるような何かを——思い浮かんだひとつの推測にカァッと顔が上気する。
「あの、お父さまが何を言ったかは知らないけど……真に受けないで……」
「……ああ」
「私は……その、誠一がいちばんだと思っているから……」
「信じてるよ」
 要領を得ないしどろもどろの釈明に、誠一は心なしか当惑した表情を浮かべていたが、最後には優しく微笑んでそう答えてくれた。澪の言いたいことが伝わったかどうかはわからないが、少なくとも気持ちは汲んでくれたのだろう。幾分かほっとしてつられるように笑顔を返した。

「で、賭けって何?」
 気が緩んでいたところに、忘れていた話をいきなり蒸し返されてドキリとする。けれど、今日は最初からすべてを話すつもりで来ていた。緊張から伏し目がちになりながらも、冷静に口を開く。
「おじいさまに、橘財閥のために師匠と結婚しろって言われて」
「?!」
 誠一は声もなく息を飲んだ。訝るように顔を曇らせて、その双眸に焦燥を滲ませる。
 澪はうっすらと微苦笑を浮かべた。
「お父さまをドイツに行かせちゃったから、師匠を後継者にするために、孫娘の私と結婚させたいとかそんな話でね。橘財閥を救うために協力しろとか言うんだけど、私のことをいったい何だと思ってるんだろう。勝手すぎるよね……考え直してもらおうと必死に抵抗していたら、おじいさまの方から賭け? 勝負? を提案してきて」
 そこで一呼吸おき、上目遣いでちらりと彼を見る。
「一ヶ月後までに誠一と夫婦になれ、それができなければ師匠と結婚しろ、って」
「…………」
 誠一は唖然としたが、すぐにハッと我にかえり身を乗り出す。
「期限はいつだ?!」
「大丈夫、まだ二週間くらいあるから」
 澪がそう答えると、彼は大きく安堵の息をついて前髪を掻き上げた。テーブルの隅に追いやられていた紅茶を口に運び、気持ちを落ち着けるようにもう一息ついてから言う。
「あのとき、澪が隠していたのはこのことだったのか……」
「ごめんなさい。どうしても自分でやり遂げたかったから」
「……俺は、頼ってほしかったけどな」
 寂しさを感じさせる声でぽつりとつぶやき、曖昧に笑う。
 その言葉に、その表情に、澪はひどく胸を締め付けられてうつむいた。彼の自尊心を傷つけてしまったのかもしれない。決して彼のことを頼りないと思ったわけではなく、これだけは自分一人でやり遂げたいというわがままだったが、そうまでしてこだわる必要があったのだろうか。今になって自信がなくなってきた。

「まあ、勝手なことをしたのはお互いさまか」
 長くはない沈黙を破り、誠一がおそらく意識的に声をはずませた。
「俺がちゃんと説得して話を聞いていればよかったんだよな。そうすれば澪を一人で不安にさせることはなかったんだ。何かあったんだろうと確信に近いものを感じていたのに、話を聞くことを諦めたのは、澪を信じる気持ちが少し足りなかったのかもな……でも、これからはきちんと信頼し合えるようになりたい」
 自らの気持ちを整理するように淡々とそう語ると、澪を見つめる。
「……家族、になるんだから」
 えっ——?
 澪は口の動きだけでそう聞き返してぱちくりと瞬きをする。聞こえなかったわけではなく、その意味するところをとっさに把握できなかった。家族になる、という言葉がぐるぐると頭をめぐり、思考が上滑りするばかりで何も考えられない。
 誠一はふっと微笑むと、澪に真正面から向き合い正座する。
「澪、俺と結婚してくれるか?」
「……っ!」
 彼は白い箱からプラチナの指輪を取り出し、澪の左手薬指にはめた。
 サイズを教えた覚えはないのに、あつらえたようにぴったりだった。緩やかな波を描くようなアームに支えられた、一粒の無色透明なダイヤモンドと両脇の小さなピンクダイヤが、華やかながら繊細で気品のある輝きを放っている。誕生日にもらったピンクダイヤのペンダントともよく合うデザインだ。
 誠一と結婚して、家族になるんだ——。
 澪は呆然としたまま指輪のはめられた手を掲げた。窓からの光を受けてきらりと輝く。ふいに息もできないくらいに胸がつまり、涙があふれ、喋ることさえままならなくなる。そのまま濡れた頬を拭いもせず誠一に振り向くと、泣いているのか笑っているのかわからない顔で、言葉の代わりに精一杯の気持ちをこめて頷いた。